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夢幻神在月  作者: 堤明文
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第一話「月下の約束」



 人は誰しも、人生の何処かの時点で、自分というものを知る。

 自分はどういう立場に置かれているのか。自分には何が出来て何が出来ないのか。自分は他人の目にどう映っているのか。自分は他人とどう違うのか。自分とは何なのか――そういったことを自覚する時は、遅かれ早かれ必ずやってくる。

 筒井清次郎にとってのそれは、小学生の頃のことだった。

 当時から体の小さかった清次郎は、大人しい性格や家庭の事情もあいまって、よく同級生からいじめの標的にされていた。それは子供らしい幼稚ないじめであったけれど、子供だからこそ加減を知らないという危うさも持っていた。

 階段から転げ落ちたことがある。

 全身を泥だらけにされたこともある。

 真夏の炎天下で走り回らされた挙句に、熱中症で倒れたこともある。

 そんな事が何度かあっても、いじめは一向に終わらなかった。当人である清次郎が全く反抗せず、誰にも相談しなかったせいだろう。

 今も昔も、清次郎は非暴力主義だ。しかし子供の頃は、それが少しばかり度を越していた上に、色々と履き違えている面もあった。

 殴られても殴り返してはいけない。暴力は悪い人間のすることだ。自分は悪い人間になりたくないし、悪いことをすれば自分を育ててくれている叔母に迷惑をかけてしまう。

 教師に訴えたり登校を拒否したりしても同じこと。結局は何らかの形で叔母に皺寄せがいく。ならば黙って耐えた方がいい。自分一人が我慢すれば誰も困らない。自分は誰も傷つけたくないし誰も困らせたくないのだから、それが一番いい。

 当時の彼は、そんな風に考えていた。何もしなければ何も変わらないことくらい分かっていたが、他にどうすることも出来なかった。

 転機が訪れたのは四年生の二学期。

 夏休みが終わると同時に、一人の女の子が転校生として清次郎のクラスにやってきた。

 背が高くて、目つきが鋭くて、いつも不機嫌そうな顔をしているその子は、見た目に反してとても優しい――わけでもなかった。見た目通りに気が強くて乱暴だった。しかも口より先に手が出るタイプなので、本当に怖かった。

 とはいえ、その暴力が清次郎に対して振るわれたことは一度も無い。

彼女が暴力を振るった相手は、清次郎をいじめていた子供達だ。

 転校早々彼女は数人の男子を相手に取っ組み合いの喧嘩をして、ほぼ無傷のまま勝ってしまった。そしてその問題行動が、結果として清次郎を救った。鼻っ柱をへし折られた子供達は小動物のように大人しくなり、清次郎をいじめることも出来なくなったからだ。

 もっとも、本人は後年こう語っている。「助けようとしたわけじゃない。ムカつく奴を適当に蹴っ飛ばしただけ」と。

 照れ隠しや謙遜などではなく、本当にそうなのだろう。

 気性の荒い転校生と清次郎をいじめていた子供達の折り合いが悪くて喧嘩になり、前者が圧勝した。それがたまたま清次郎を助けるような形になった。それだけの話なのだ。

 けれど、それでもよかった。

 理由はどうあれその女の子の行動によって救われたことは確かなのだから、感謝しなければいけない。彼女がいてくれなければ、自分はずっと耐えることしか知らない子供のままだっただろう。六年近い月日が流れた今なら、それがよく分かる。

 それに、そんな義理や理屈を抜きにしても、その子には心から感謝している。清次郎にとって、その子は初めて出来た友達だったのだから。

 クラスに馴染めなかった者同士で通じ合う何かがあったのか、その子と日常的に会話するようになるまでそう時間はかからなかった。そしてだんだんと一緒に過ごす時間が多くなり、本の貸し借りなどもするようになり、気が付けば、親しいと言って差し支えないような間柄になっていた。

 その頃から、清次郎は孤独ではなくなった。

 辛く苦しかった毎日が楽しいものに変わっていった。振り返れば口許が綻んでしまうような思い出が、いくつも積み上げられていった。

だから本当に感謝しているし、その子のことは、他の誰よりも大切な友達だと思っている。

 けれど、その一方で思うのだ。心の底から、強く思う。

 出会わなければよかった、と。

 矛盾していることは承知で、歪んだ感情であることも自覚しているが、それでもそんな思いを抱かずにいられない。たとえ孤独でも、苦しくても、出会わずにいた方がずっと幸せだったという思いが、日増しに強くなっていく。

 その女の子と一緒にいる内に――

 楽しい時間を過ごす内に――

 筒井清次郎は「自分」というものの本質を、知ってしまったのだから。





 六月十九日の早朝。清次郎は自室の寝台の上で目を覚ました。

 目をこすりながら上体を起こし、愛用の眼鏡をかけ、勉強机の上にある時計に目を向ける。

 起きると決めた時間に正確に起きられる体質なため、清次郎には目覚まし時計をセットする習慣が無い。しかしこの時は、やはりその習慣を身に付けるべきかもしれないと思った。小さな置時計の針は、いつもの起床時間より三十分ほど進んでいたから。

「朝、か……」

 微かに息を吐き、呟く。

 今日もまた、朝が来た。身支度を整え、学校に向かう時間――何の変哲も無い平和な朝が来た。

 もう二度と朝を迎えることは無いと、覚悟していたのに。

「……なんだよ、あれ」

 昨夜の出来事を思い返し、愚痴るように声を洩らす。

 あれは本当に、訳が分からなかった。何故自分は死ななかったのか、あの女は何処の誰なのか、そもそも何がしたかったのか――思い返してみても、全く訳が分からない。

 訳が分からないというなら、今自分が抱いている感情もそうだ。自分は今、心の底で何を考えているのだろう。

 死ななかったことに安堵しているのか。

 死ねなかったことを残念に思っているのか。

 助けられたことに感謝しているのか。

 余計なことをしてくれたと恨んでいるのか。

 自分でも分からない。心の向きが定まらない。行くあても帰るあてもない浮浪者のような気分のまま、こうして朝を迎えている。

 けれども、途方に暮れてはいられない。自分は学生で、今日は平日なのだから、こうして生きている以上は学校に行って授業を受けなければならないのである。

 陰鬱になるほどの気だるさを押し殺し、寝間着のまま部屋を出て台所に向かう。そこではエプロン姿の叔母がフライパンで炒め物をしていた。

「おはよ、清次郎。今日は遅いね」

「……ごめん、寝坊した」

 一般的な高校生の基準に照らすなら、まだ寝坊というほどの時間ではない。朝食をゆっくり食べてから身支度を整えて出て行っても、余裕で学校に間に合う時間だ。

 しかし、清次郎の基準で言うなら完全な寝坊だった。毎朝叔母より早く起きて朝食を用意することを、小学生の頃から日課にしているのだから。

「いいのよ、あんたいつも早起きなんだから。たまにはゆっくり寝てなさいって」

 やや所在なさげにしている清次郎に、叔母はそう言って笑いかけた。

 実際の年齢より大分若く見える女性で、顔の作りも整っている。しかし聴覚に障害を負っているため、耳かけ型のデジタル補聴器を付けていた。

 彼女――佐久間由梨は筒井清次郎の保護者であり、唯一の家族だ。

 清次郎に両親はいない。十四年ほど前、海外旅行中に船舶の事故に遭い二人とも他界した、と聞かされているが、何しろ十四年も前の話だ。清次郎本人は事故のことはおろか、両親の顔さえ覚えていない。

 ともあれ、自分を引き取り母親代わりになってくれた叔母には、本当に、心の底から感謝している。二人きりの生活でも淋しくなかった、と言えば嘘になるかもしれないが、それを不満に思ったことは一度も無い。

「考えてみたら久しぶりねー、あたしがこうして朝ごはん作るのって。あ、お弁当も作っといたんだけど、そんなんでいいでしょ?」

「あ、うん、ありがと…………って……何か、佃煮がすごいことになってるんだけど……」

 まだ蓋がされていない弁当箱の中を見て、清次郎は若干引く。

彼の好物である小魚と胡桃の佃煮が、二段重ねの弁当箱の片方を丸々占拠する形で詰め込まれていたからだ。

 主食ならともかく、佃煮のような副菜をここまで大量にぶちこむ人間は普通いない。

「好きなものたくさん食べさせてあげようっていう、あたしの親心」

「いや確かにこの佃煮好きだけどさ……ちょっとやりすぎっていうか常軌を逸してるっていうか……」

「いいじゃん。あんたチビなんだし、カルシウム摂って大きくなんなさいよ」

 と、笑顔のまま言う母親代わり。彼女は料理が苦手なわけではないのだが、明け透けな性格故か、盛り付けとか分量とか栄養バランスといったものにあまり頓着しない。端的に言えば、やることなすことが非常に大雑把なのである。

「てか、あんた食細いからなかなか大きくならないんじゃない? いつもテキトーなお弁当しか作らないし」

「テキトーに作ってるわけじゃないよ。塩分とか気にしてるから塩辛い物をそんなに入れないだけ。あと俺、別にチビってほどじゃないから。平均に少し足りないだけで」

「えー、チビじゃん。見た目完全に中坊だし、楓ちゃんとかといると同級生ってよりお姉ちゃんと弟みたく見えるし」

「……」

 密かに気にしていることを言われて、地味に傷つく清次郎だった。

「いや、でも……楓は身長高い方だから、それを基準に考えるのはちょっと……」

「あ、そだ。天気予報見たいからテレビつけてよ。苦しい言い訳は後で聞いてあげるから」

「……」

 大いに不満そうな顔をしながらも、清次郎は渋々居間のテレビへと向かう。スイッチを押してから数秒後、平たい液晶画面が朝のニュース番組を映し出した。

 報道されていたのは殺人事件。

 山口県の高校で、二年生の男子生徒が同級生を殺害したらしい。被害者の死因は鈍器で殴られたことによる脳挫傷。加害者の動機は現在取り調べ中。被害者と加害者の二人は、中学校からの友人同士だったという。

 昨今においては、さほど珍しくもない話だ。殺人も、未成年の犯罪も、親しい間柄の二人がある日突然被害者と加害者になることも、世の中にはありふれている。今報道されている事件も、すぐに他の多くの事件の中に埋もれて、世間から忘れ去られていく類のものに違いない。

 しかし、そんなありふれたニュースから、清次郎は目が離せなくなっていた。

「最近多いわよね、こういう事件」

 出来上がった料理を食卓に並べながら、由梨が呆れ顔で言った。

「若い子同士だから時々ケンカしたりはするんだろうし、それはまあ仕方ないのかもしれないけどさ……だからって殺すのはやりすぎよ。人が死ぬってことの意味を分かってないのかしらね、今の子って」

 それは、この手のニュースを見た者の多くが思うことだろう。

 当事者二人の間でどのような諍いがあったにせよ、殺人は許されない。人を殺すということ、人が死ぬということの意味を真剣に考えられる人間なら、決してそんな馬鹿な真似はしない。

 清次郎も、そう思う。

「ま、あんたの周りはそういう変なのいそうにないからいいわ。楓ちゃんも榊くんも……ぶっちゃけかなりアレだけど、何だかんだでいい子だし」

 そこまで言ってから、由梨は清次郎の顔色がおかしいことに気付き、不思議そうな目を向けた。

「ん? どしたの清次郎?」

「いや……」

 テレビ画面を見つめたまま、清次郎は応じる。ひどく掠れた声で。

「何でも……ないよ」

 それから食べた朝食は、何も味がしなかった。





 清次郎がこの春入学した私立相海高校は、緑豊かな丘の上に立地している。

 なだらかな坂道を上って校門をくぐり、一年四組の教室に入って自分の席についた清次郎は、その直後、一人の女子生徒と顔を見合わせた。

 というより、顔を見合わせなければならなくなった。

 何しろ相手は彼の机の前で仁王立ちし、腕を組みながら鋭い目で彼を見下ろしてきたのだから。

「えーと……」

 当然ながら、清次郎は困惑した。

 相手はどう見ても、親しげに朝の挨拶を交わそうなどという様子ではない。自分からやってきたというのに口を堅く引き結び、親の仇を見るような目をこちらに向けている。女子にしては身長の高い方で、元から吊り目気味で気の強そうな顔をしているから、今の状態ははっきり言ってすごく怖い。

 どういうことなのだろう、これは――と、清次郎は内心で呟く。

 どうして自分は、朝っぱらから幼馴染の同級生に睨みつけられているのだろうか。それも、至近距離から。

「あの……」

 相手が何も言ってこないので、困惑しつつも口を開く。しかし、上手く言葉が見つからない。

「……おはよう」

 とりあえず挨拶してみた。反応は無かった。

「……おはようございます、楓さん」

 敬語を使ってみた。それでもやはり、反応は無い。相手の少女――日比谷楓は無言を貫き通したまま、刺すような視線を清次郎に向けている。

 清次郎の困惑は、しだいに不安へと変わっていった。

 日比谷楓は怒っている。何故かは知らないが、明らかに怒っている。普段から怒ったような顔をしている少女で、実際気難しいのだが、こういう種類の怒り方をしているのは久しぶりだ。

 自分に何か落ち度があったというのだろうか。

 彼女を不快にさせるような真似をした憶えはないのだが――などと考えていると、教室の入り口から間延びした声が飛んできた。

「うぃーす」

 陽気な挨拶とともにやってきたのは、髪を明るい色に染めた細い体つきの少年だ。彼は何故か大きな紙袋を持参しており、そしてやたらと上機嫌だった。

「なあおい、見てくれよ。昨日何かおもしれーもんねえかなーと思って兄貴の部屋漁ってたらさ、すげえのが出てきたんだよ。いやマジで、これすげえって。とにかくマイナーぶりが半端ねえんだよ。こんなの知ってる奴日本にどんだけいんだよって思うわ」

 と一気にまくし立てた後、少年は持参してきた紙袋の中に手を突っ込む。

「まあ百聞は一見にしかずだ、とにかく見ろ! これが本邦初公開、自由と平等と博愛と人の話を聞かない自分大好き野郎共の国、フランスが生んだ超兵器……」

 フランス国民の大半を敵に回しかねない問題発言をかましつつ、紙袋の中身を見せつけようとした瞬間、彼ははっとした顔で動きを止めた。

 そうして二秒ほど硬直した後、清次郎と楓の顔を交互に見やり、静かに目を伏せ、人生の全てを悟ったような顔をしてから――

「……悪い。邪魔したな」

 と言ってくるりと背を向けた。

「いやいやいや! ちょっと待ってよ恭也!」

 クールに去ろうとする友人の肩を、清次郎は慌てて引っ掴む。恭也と呼ばれた少年は、賢者の面持ちのまま冷めた声を発した。

「なんだよ、俺なんかに構ってる暇はねえだろセージ。お前はお前のやるべきことをやれって」

「その無駄にかっこいい台詞は何? 何かすごい勘違いしてるよね? かなり性質の悪い勘違いしてるよね?」

「してねーよ、空気読んだだけだってば。何かあれだろ? 楓との間で青春ディスタンス的なうんたらかんたらがあったんだろ? いやいい、皆まで言うな。俺はアホだけど空気読める子だから何となくわかる。いや、いいんだよセージ。お前は男であいつは女なんだから色々あるさ。気にすんなって。そういうのも大事な青春の一ページだから」

「それが勘違いだって言ってるんだよッ! 何も無いからね! 別に何もしてないからね、俺」

 この口の軽い男に変な噂でも広められてはたまらない。馬鹿馬鹿しい誤解を解くため、清次郎は声を荒げた。

 それまで黙っていた楓が口を開いたのは、その時だ。

「セージ」

 清次郎を真っ直ぐ見つめる、一対の黒い瞳。

「今日は部活、来るよね?」

「……あ、ああ……うん、行くよ」

 突然の問いかけに戸惑いながらも、清次郎は頷く。すると、楓は何かを納得した様子で表情を緩めた。

「……ならいいよ。ごめんね、睨んで」

「えっと、あの……怒ってたんじゃないの?」

「怒ってない。ちょっと気になってただけ」

「気になってたって……何を?」

「今は言わない」

 意味不明だった。彼女が何を考えていて何を言いたいのか、まるで分からない。

 唖然とした顔で固まる清次郎をよそに楓は長い黒髪をかきあげて、恭也に視線を移す。

「……で、恭也は何持ってきたの?」

「お、おう……それはだな……って、いや待て! ちょっとタンマ!」

 そう言って掌を突き出してから、恭也は清次郎を連れて楓と距離をとる。それから、清次郎にひそひそと耳打ちした。

「おい、あいつ意味分かんねーぞ……いや、そりゃ今に始まったことじゃねえけど、今日はいつにも増して分からん……あいつがあんなに機嫌悪そうなのは、どういうあれなんだよ?」

「知らないよ……さっき顔合わせた時からあの通りだったし」

「でもあれ、絶対お前に対して怒ってるぞ。お前と何かあったんじゃねえの?」

「だから何も無いってば。俺が楓に何か嫌がらせするとでも思うの?」

「……ま、しねえわな。あいつ怒らせると怖えしよ、物理的に」

「俺の人間性的な意味で言ったんだけど……まあいいや……とにかく、楓が何で怒ってるのかは知らないし見当もつかないよ。楓は、ほら……通常の尺度で測れないところあるし」

「あー、それ言えてる……何つーかあいつ、俺らと思考回路が全然違えんだよな。地球人と火星人くらい違う気するわ」

「まあ……難しい年頃だからね」

「そうそう、俺らとタメだけど難しい年頃感が一人だけ飛び抜けてるよな。万年思春期っつーか、ゆとり教育の賜物っつーか……ぶへっ!」

 恭也に汚い悲鳴を上げさせたのは、その背に打ち込まれた肘だった。いつの間にか背後に忍び寄っていた楓による、遠慮も手加減も無い一撃である。

 倒れ伏して悶絶する恭也を、楓は眉を八の字にして見下ろす。

「なーに二人して人の悪口言ってるのさ。思いっきり聞こえてたんだけど。ガチでイラっときたんだけど」

 教室にいる時、楓はあまり喋らない。喜怒哀楽を表に出すこともあまりない。

 だから彼女は、教師や同級生の多くから物静かで感情表現の乏しい類の人間と思われている。

しかしながら、それは誤解と言うしかない。

 付き合いの長い清次郎と恭也は知っている。日比谷楓ほど気難しくて乱暴で内弁慶な女は他にいないことを。

「何で俺にだけ肘鉄かますんスか、楓さん……」

「恭也がどつきたくなるような顔してるから」

「ひでえ……」

 こうして恭也が暴行に遭うのも、言ってしまえばいつものことだ。いつものことすぎて、清次郎は恭也に同情する気も湧いてこない。

「とにかく恭也、見せるものがあるならさっさと見せてよ。もうすぐ先生来るからさ」

「お、おう……」

 楓に促され、恭也は背中をさすりながら立ち上がる。

 そしてどうにか気を取り直し、持参してきた紙袋の中身を取り出した。

「何か背骨に洒落になんねーダメージがきた気がするが…………まあいっか! さあ見て驚け! 俺が持ってきたブツはこいつだ! その内新時代を切り拓きそうなカビ臭え旧時代の遺物、その名もコリドール!」

 現れたのは、Quoridorと書かれた四角い箱だった。アルファベット表記の題名の下に、人の形をした木製の駒と細かいマス目のある黒いゲーム盤が印刷されている。

 それ自体を見るのは初めてでも、どういう類の物かは一目で分かる。

 ボードゲームの箱だ。

「うわ……」

 楓は露骨に顔をしかめた。清次郎も密かに微妙な顔をした。

「フランス生まれのボードゲームで、俺も実際やったことはないんだけどよ。ルール読んでみたらかなり面白そうなんだな、これが。よくある運ゲーじゃねえっつーか、むしろ運なんか全然絡んでこない本格派の戦略ゲーでさ……しかも一対一だけじゃなくて四人でも対戦できるみたいでよ、こりゃ俺らにぴったりだなと思って持ってきたんだ」

「うん……そろそろ持ってくる頃じゃないかと思ったよ、そんなの」

 微妙な顔をしたまま、清次郎は乾いた声を洩らす。目の前で得意気な顔をしている友人に対する呆れと諦めが滲み出た声だった。

 榊恭也は大のゲーム好きだ。それも古い物や珍しい物――レトロやマイナーといった言葉で括られる類のゲームをやりたがるという、少々変わった趣味を持っている。

 これまでも将棋盤を持ってきたり麻雀牌を持ってきたり花札を持ってきたりトレーディングカードゲームを持ってきたり二十年以上前に流行った携帯用ゲーム機を持ってきたりと、実に様々な物を学校に持ち込んでは清次郎達に相手をさせていた。

 そのくせ何をやっても大抵自分が一番弱いという、割とどうしようもない男である。

「ルールは簡単。この人型の駒を交互に一マスずつ動かしていって、先に自分の駒をゴールまで辿り着かせた方が勝ちってだけ。でも、自分の駒を動かす代わりに相手の移動を妨害……簡単に言うと、ちっこい板をマス目の間に置いて相手の通り道を塞ぐってこともできてよ、これがこのゲームを複雑にしてるんだな。まあ要するに、相手を妨害する方法と相手の妨害を潜り抜ける方法を考えながらゴールを目指すゲームってわけだ」

 既に予習は完璧らしく、恭也は無駄に目を輝かせながらコリドールというゲームの遊び方を熱く語る。その顔は実に楽しそうだ。

 説明を聞く二人は、既に死んだ魚の目をしていたが。

「つーわけでだ、今日の放課後、みんなでこれやろーぜ!」

「やだ」

 冷たい一言で恭也の申し出をはねつけ、楓は自分の席に向かう。清次郎もそれに倣い、自分の席に座った。

 もうすぐ朝のホームルームが始まる。いつまでも阿呆の相手はしていられない。

「え……? いやおい、そんな露骨に拒否んなって……これマジですげーんだってば。単純なようですげー奥が深いんだよ。そこらの運ゲーとは戦略性が段違いっていうか……」

「うん分かったから、もう帰っていいよ恭也。先生来るし」

「いやだから……ちょっと待て聞けっての! これやってみたら絶対面白えって! なあセージ、お前もこれやりたいだろ? やりたいよな?」

「いや、全然……」

 清次郎が首を横に振ると、恭也は腹心に裏切られたローマ独裁官のような顔をした。

「ほら、セージもそんなクソゲーやりたくないって言ってるよ」

「クソゲーって、勝手に決め付けんなよお前ら! コリドールはちょっとマイナーだけど面白さはガチなんだよ! 隠れた名作なんだよ!」

「恭也……わざわざそんなマイナーなのばっか厳選してこなくても……普通のでいいのに」

 清次郎は呆れ顔で溜息をついた。

「みんながやってるゲームやったって意味ねえじゃねえかよ! お前らにはチャレンジ精神ってもんがねえのか! 自らの手で新境地を開拓したいとは思わねえのか!」

「別に」

「全然」

 清次郎と楓は、どこまでもつれない。もういいから失せろよお前、とでも言いたげな顔で恭也を白眼視するばかりだ。

「なんだよちくしょー、ぜってーウケると思ったのになぁ……」

 がっくりと肩を落として去っていく恭也。

 そんな残念な男の背を見送ってから、清次郎は楓の横顔を盗み見た。

 無愛想な澄まし顔はいつもと同じ。初めて出会った時から六年間、毎日のように見てきた顔だ。

 けれど今は、少しだけ印象が違った。

 何かを懸命に押し殺しているような、張り詰めた顔に思えてならなかったのだ。





学校の部活動は、大きく分けて二種類ある。

 運動部と文化部の二種類、などという話ではない。

 これはもっと根本的な、部活動というものの在り方についての話――即ち、真面目に活動している部とそうでない部の二種類があるということだ。

 毎日毎日厳しい練習で体を鍛え、あるいは研究や創作活動に取り組み、切磋琢磨しながら輝かしい青春を謳歌する者達がいる。彼らの学校生活は、多忙ながらも充実したものだろう。

 しかしその一方で、部を称しながらも何ら活動らしい活動をしない怠け者の集団も存在する。彼らは部室という名目で空き部屋を占拠し、そこで放蕩の限りを尽くす。

 清次郎の所属する相海高校文芸部は、後者の代表例だった。

「うしっ、じゃ次はエスコリアル狩りに行こーぜ、エスコリアル」

 恭也がそう言うと、机を挟んで向かい側に座る楓が異を唱えた。

「待ってよ。あと蹄二つでリヒテナウアーが剣聖リヒテナウアーに進化するから、もっかいアカテナンゴ狩り行こ」

「えー、マジで? もう飽きたんスけど……あれ倒すの時間かかんしさぁ」

「時間かかるのは恭也が下手だからだよ。敵の攻撃食らい過ぎ。とにかくもう一回ね。分かった?」

「へいへい……」

 口を尖らせながら渋々承諾する恭也に、今度は清次郎が言う。

「てかさ恭也、ジェダ使うの止めなって。ぶっちゃけ弱いよ、そのキャラ」

「ばっ……! ジェダは弱くねえよ! ただ装甲が紙で接近戦が苦手で飛び道具の威力が低いだけだっての!」

「……弱いじゃん」

「違えよ! ジェダは何つーか、ほら……あれだ、上級者向けなんだよ、上級者向け! 極めると超強えんだよっ!」

「恭也全然上級者じゃないじゃん。ズブの素人じゃん」

 などというやり取りが、狭い部室内で繰り広げられていた。

 今その場にいるのは清次郎、楓、恭也の三名のみ。彼らは木製の細長い机を囲う形でパイプ椅子に腰かけ、持参してきた携帯ゲーム機を操作している。要するに遊んでいる。

 相海高校文芸部の部員は清次郎達一年生三人と、二年生一人、三年生一人の計五人。三年生の上坂という男子生徒は滅多に顔を出さないので、実質的には部員数四人という小集団だ。

 しかもその四人は同じ中学出身で、高校に進学する前から仲の良かった面々である。いわば気心の知れた仲間同士であり、それがそのまま文芸部を構成しているのだから、まともな創作活動などする訳がない。毎週火曜日と金曜日の放課後に部活動という名目で集合し、他愛のない雑談をしながら遊ぶだけだ。

「へいへい、どーせ俺は素人っスよ。中一の時まで格ゲーじゃ連打技しか出せなかったヘタレですよ。シューティングやっても二面くらいまでしか行けないザコですよ。人間失格っスよ」

「……いや、そこまで言ってないし」

「だからコリドールやろうって言ったんだよー。あれなら技術とか関係ねーじゃん。俺みたいなヘタレが混じってても楽しめるだろ? 小細工無用の知力バトルが堪能出来て最高だろー?」

「うん……何が何でもあれやりたいのはよく分かったよ。でもまた今度にしようね。楓が乗り気じゃないから」

「セージだって乗り気じゃないじゃん」

 清次郎にそう言ってから、楓は恭也に冷めた視線を送った。

「だいたいさー、そんなにやりたいなら同じクラスの人誘えばいいじゃん。無理に僕達にやらせなくたって」

 文芸部の部室にいる時――つまり身内だけで集まっている時、彼女は「僕」という一人称を使う。

 何故そうなのかは、本人以外誰も知らない。

「えー、だってあいつらノリ悪いんだもんよ。興味あるもんには飛びついてくるけど興味ないもんには冷たいってーか……何かこう、協調性ってもんが欠乏してる現代っ子なんだもん」

「……ここにいる二人もそんなに違わないと思うけど」

「いやセージ、お前らは違えよ! お前らはほら、俺ってもんを分かってくれてるじゃん。俺が変なもん持ってきても、何だかんだで付き合ってくれる心の広さってもんがあるじゃん」

「セージ、騙されちゃ駄目だよ。恭也、おだてて乗り気にさせる作戦に出てるから」

「うん、知ってる。見え見えだし」

「うわ、ひでえ! 人がせっかく熱い友情について語ってんのに! 何だよお前ら、いつからそんなに心が汚れちまったんだよ、ちくしょー!」

 大げさにのけぞってショックの大きさを表現する恭也。それを冷ややかに見つめる楓と、苦笑する清次郎。

 いつも部室として使っている狭い空き教室で、彼らはいつも通りのやりとりを繰り広げる。

 この場所が、この空気が、楓や恭也と一緒にいられるこの部活の時間が、清次郎は好きだった。

 ここにいると、心が安らぐ。一人で自分の部屋にいる時よりも、ずっと。

 本当にただ集まって遊んでいるだけで、傍から見れば無為で怠惰な時間を過ごしているどうしようもない集団なのかもしれないが、自分達はこんなものでいいのだと思う。

 口では何だかんだ言いつつも、結局のところ、自分達は仲が良いのだ。どこか根本的な部分で似通っているし、通じ合っている。だから馬鹿なことを言ったり子供みたいなことをやったりしながらも、和やかな空気を作れている。ここにいる時間は、本当に楽しい。

 けれど――それでも今日だけは、そんな時間を素直に楽しめずにいた。

 昨夜の出来事が、頭の中から離れなかったからだ。

「セージ、ほら、狩り行くよー。集会所来て」

 楓に呼びかけられて、我に返る。

 どうやら、少しの間ゲーム機を操作する手が止まっていたらしい。

「セージ?」

「ああ、うん……ごめん、今行く」

 ぎこちなく応じ、慌ててゲーム機を操作する清次郎。そんな彼を、楓はやや複雑な面持ちで見つめていた。

「……セージ、装備違う。それ着てると火属性攻撃防げない」

「あ、ああ……そうだね、ごめん」

 謝りつつ、清次郎は自分自身に呆れ返った。どこまで気が抜けているんだ、と。

 朝食の席で叔母と会話している時もそうだったし、授業中もそうだった。今日はどこで何をやっていても、目の前の事に集中出来ない。すぐに意識が現実を離れて、自己の内側に向かってしまう。

 気を付けようとしているのだが、どうにもならない。

「……そうかそうか、ロボハンに飽きたんだなセージ。こんなロボ使って馬倒す意味不明なクソゲーいつまでもやってられっかって感じなんだな。分かる、分かるぜその気持ち。毎日毎日同じもんやってたらマンネリしちまうもんな。本当はお前だってコリドールやりたかったんだろ? いいんだぜ、恥ずかしがらなくても」

「それは無いから安心して」

「ちくしょー」

 恭也の軽口を適当にあしらい、ゲームを再開する。けれど画面内で戦闘が始まっても、それに熱中することは出来なかった。

 やはり、どうしても考えてしまう。

 頭の中から、昨夜の出来事が離れない。

 あれは何だったのか。自分の前に現れたあの女は、いったい何者で、何がしたかったのか。

 そんな疑問の数々が、頭の中で渦を巻いていた。





昨日――六月十八日の放課後。

 学校を出た清次郎は真っ直ぐ帰宅せずに、一人で何時間も街中を歩き回った。

 かつて通っていた小学校と中学校。幼い頃に遊んだ公園。何度か調べ物をしに行った図書館。国の史跡に指定されている城跡。近年新装された駅の地下街。そういった場所を、時間の許す限り渡り歩いた。

 その日を、人生最後の日にすると決めていたからだ。

 自分は今日でこの世を去る。だから未練を残さないために、自分の生まれ育った街を目に焼き付けておこう。そうすれば幾分か心安らかに逝けるかもしれない。ただ歩き続けるだけの行為に何時間も費やしたのは、そんな思いつきからだ。

 けれど、そんなものは、所詮ただの言い訳だった。

 要するに、人生を終わらせたくなかったのだ。一分でも、一秒でも死を先延ばしにして、自分で自分を始末しなければならないという現実から目を背けようとした。死ぬのは嫌だから、出来るだけ後回しにしようとした。

 勿論時間は止まらないし、一日は永遠に続かない。やがて日は沈み、夜が来る。道を行き交っていた人々は、明日に備えるためそれぞれの家に帰っていく。

 明日という未来を持たない――明日まで生きないと誓っていた清次郎は、その決意を実行に移さなければならなくなる。

 そんな当たり前のことを痛いほど思い知り、長い煩悶の末にようやく覚悟を決めて、彼はその場所に足を運んだ。

 海へと注ぐ長い川に架け渡された橋梁の上。その時間帯に歩道を歩く者はほとんどなく、車道を走る車もまばらで、下の河原との高低差は十五メートル近くあるという、誂え向きの場所。

 そこから落ちれば死ぬだろう。そう思っていたから、恐怖を噛み殺して身を投げた。

 だが、死ねなかった。

 いや、死なせてもらえなかった。

 彼が塵のように投げ捨てた命は、見ず知らずの他人に拾い上げられていた。

「はい、お茶。お姉さんの奢りだぞー」

「……どうも」

 差し出された冷たい缶を、清次郎は複雑な面持ちのまま受け取る。女はコンクリートで固められた堤防の斜面に腰を下ろし、自分用に買った缶コーヒーの蓋を空けた。

「まずは餌付けから入って好感度アップを図っちゃったりするあたし。うん、我ながらベタベタだね。飲み物だから餌付けって言わないかもしんないけど」

 彼女は朝宮遥という名前らしい。

 自分で超絶美女などと言ってしまう女だが、確かにその容姿は美しかった。腰まで届く艶やかな髪。女性らしい曲線を描く体。すらりと長い手足。小作りな鼻と唇。薄い眉の下にある両目は切れ長で、研ぎ澄まされた刃のようだ。

 年齢は、よく分からない。おそらく二十代の前半だろうが、十代後半のようにも見えるし、二十代後半のようにも見える。あどけなさの残る少女のようでありながら成熟した大人の女性のようでもあるという、不思議な雰囲気の持ち主なのだった。

「あの……朝宮、さん……」

 ほんの一メートル先で缶コーヒーを飲んでいる女に、おずおずと問いかける。

「あなたは……俺を、助けてくれたんですか?」

「そだよ。橋から落っこちた君をキャッチしてあげたの。お姉さんの愛の力が生んだマグネットフォースで」

「……」

「あう? ツッコミなし? そんな冷めた目でスルーされると微妙に恥ずかしくなるんだけど」

「いや、その……何ていうか……」

 何というか、反応に困る。

何故この女は、初対面の――それも、ついさっき死のうとしていた相手に対して、こんな陽気に軽口を叩いているのか。その神経が理解し難い。

 いやそもそも、この状況は何なのだろうか。

 どうして自分は、自殺するつもりでやってきた場所で、自殺を阻んだ相手と二人きりで語り合う羽目になってしまっているのか。

 そんなことを考えていると、遥がこちらの顔を覗き込むように身を乗り出してきた。

「ねえ君、筒井清次郎っていうんだよね? セージ君て呼んでもいい?」

「……何で名前知ってるんですか?」

「ストーカーだから」

 などと言って笑いつつ、彼女は得意げに胸を反らす。

「ふっふっふっ、お姉さんは年季の入った凄腕のストーカーだから、セージ君のことなら何でも知ってるのだ。例えば、君の部屋のベッドの下には凌辱モノのエロ本が大量に秘蔵されてることとか……」

「秘蔵されてません」

「小学校の頃、若気の至りで好きな子の体操服を盗んじゃったこととか」

「そんな犯罪歴はありません」

「ブルマより短パン派なこととか」

「何言ってるのか全然分かりません」

 事実無根かつ下品な妄言を連発され、清次郎はその顔に疲労の色を濃くしていく――というより、真面目に受け答えする気をどんどん失っていく。

 しかしそんな彼も、次の一言で凍りついた。

「自殺未遂は、これで二度目なこととか」

「――っ!」

 目を見開いて、息を呑む。心臓が止まりかける。

 さらりと放たれた一言は、呼吸困難になるほどの衝撃を清次郎に与えていた。

「あれ? これは否定しないの?」

 薄い唇を微かに曲げ、遥は妖しく微笑む。口許とは対照的なほど笑っていない二つの瞳が、心を覗き込むように見つめてくる。

 清次郎は、心底から震え上がった。

「あなた、は……」

 口を開くが、言葉らしい言葉が出てこない。いくつもの疑問と、恐怖とも嫌悪ともつかない感情が、頭の中で混ざり合い、唇から動きを奪う。

 本当に、この女は何なのだろうか。

 何故、こちらの素性だけでなく、叔母と楓の二人しか知らない筈の過去まで知っているのか。

「……ごめんね、意地悪な言い方しちゃって」

 遥の表情が、穏やかなものに変わった。

「ほら、落ち着いて。あたし別に悪い奴じゃ……いや、けっこう悪い奴だけど……まあでも、セージ君を取って食おうとかそんなんじゃないから怖がらないで。ただちょっと、君と真面目な話をしたいだけ」

 何故だろうか――その言葉を聞いて、清次郎は幾分か落ち着きを取り戻した。

 こんな得体の知れない女に気を許してはいけないと思いつつも、自然と心が鎮まってしまう。怖れや警戒心といったものが削がれていく。

 そうさせるだけの何かが、朝宮遥という人間にはあったのだ。

「話って……何ですか?」

「じゃあ、まず質問」

 遥は笑顔のまま、遠慮なく尋ねてくる。

「セージ君はさ、死にたいの?」

 それは、これ以上ないほど単刀直入な、筒井清次郎が犯した事の本質を突く問いかけだった。

 この夜、彼は自らを殺そうとした。

 鉄橋から飛び降りて人生を終わらせるつもりだった。

 たった十五歳の少年がそんな行動に至った理由を、朝宮遥は問うている。

「別にいいよ、死にたいならそう言ってくれて。怒ったりしないから。人生色々あるもんね。青春ドラマ的な何やらかんやらとか……」

「死にたくない」

 遥の言葉を遮る形で、清次郎ははっきりと言った。

「死にたいわけじゃない……です」

 それは嘘偽りない本音であり、心の奥底から搾り出した言葉だった。

 確かに自殺を図ったが、死にたいわけではない。人生に疲れたわけでも、未来に希望が持てないわけでもない。

 仲のいい友達と過ごす学校生活がある。

 たった一人だけれど暖かい家族がいる。

 将来の夢だってある。

 恵まれていると自覚しているし、幸せだと思っている。自分を取り巻く環境や人間関係といったものに不平不満は全くなくて、むしろそれらを大切に思っているからこそ、心の底から強く願っている。

 死にたくない、生きていたい、と。

「死にたくないのに、死のうとしたの?」

 遥が再び問うてくる。

 当然だろう。自殺しようとしていたにもかかわらず、死にたくないなどと――酷く矛盾したことを口にしているのだから。

「勉強のノイローゼとかで、ふと空を飛びたい気分になっちゃったとか?」

「違います」

「ついカッっとなって誰か殺っちゃったりして、それがバレて捕まりそうだとか?」

「違います」

「じゃあ、何で?」

「それは……」

 清次郎は口ごもり、自分自身を見つめ直す。

 死にたくない――それは紛れもない本音であり、本心だ。自分自身に嘘はつけない。

 けれどその一方で、自分の中にある冷静で理性的な部分が、何度も何度も繰り返し言っているのだ。

 死ななければならない。

 筒井清次郎は、生きていてはならない。速やかに死ぬべきだ。

 どんなに死にたくなくても、自分で自分を始末しなければならない、と。

 きっとそれは、とてもおかしな考えなのだろう。口に出したところで理解が得られるとは到底思えない。

 それにそもそも、誰かに相談して解決するような問題ではないのだ。間違いなく。

 だから――

「……言わないと駄目ですか?」

 拒絶の意を露わにして、問答を打ち切ろうとした。

 遥は優しく穏やかな笑顔で、それに応じる。

「ううん、言いたくないなら別にいいよ。ただちょっと聞いてみただけだし、あたしにセージ君の心のプライバシーを侵害する権利無いもんね」

「さっきは思いっきりプライバシーを侵害する発言をしていたような……」

「それはそれ、これはこれ」

 などと言いつつ、自称ストーカーは肩を竦めた。

「まあそんなわけで、別に言ってくれなくてもいいんだけどさ……その代わり、お姉さんの要望を聞いてほしいのよね」

「要望……?」

「うん。簡単に言うと、死ぬのはもうちょっと待ってってこと」

 あっさりと、些細な頼み事をするかのように、彼女はそう言った。

「セージ君が死んじゃうと、あたしストーキングする相手がいなくなってつまんないのよね。ストーカー卒業してアーティストの仕事再開しなきゃいけなくなっちゃう」

「それは再開した方がいいんじゃ……」

「えー、やだ。めんどいし」

「……」

「それにセージ君だって、本音言うと死にたくないんでしょ?」

 その指摘は否定できない。

 死にたくないと思っている。生きていたいと思っている。

 けれどもその一方で、内なる自分が言うのだ。さっさと死ね、と。お前は生きていてはいけない、と。

 だから、苦しくてたまらない。

「でも、いい感じに常習犯化してるセージ君に、この先ずっと自殺禁止、ってのは流石に無理そうだから……」

 悩む清次郎をよそに、遥は人差し指をぴんと立てた。

「とりあえず、一週間からいってみよっか」

「は……?」

「だからね、セージ君に一週間だけ自殺禁止を命じます。これから一週間は、何が何でも生きてなきゃダメ」

 唐突におかしな提案をされて、清次郎は呆気にとられた。

 死ぬなというなら分かる。普通の大人なら誰しもそう言うのだろう。しかし、一週間だけ死ぬなとは――そんなことを言う輩がいるとは思わなかった。

「これから一生自殺禁止とか言われても、どうせ守れないだろうし守る気にもならないでしょ? 一生なんて言ったらすっごくハードル高いもんね。だからまずは、ハードルめっちゃ低くして一週間。一週間我慢するとこからいってみようって話」

「え……あ……」

 当惑する清次郎に、遥は問いかける。

 試すように。心の内側を探ろうとするかのように。

「どう? 一週間我慢できる? できない?」

「で……でき、ます……」

 清次郎は頷いた。半ば反射的にだが、頷いてしまった。

 何故なら、死にたくないから。自殺を試みてはいても、本当は、生きていたいと願っているから。

「うん、いい返事」

 清次郎の返答を聞いて、遥は満足げに笑った。

「じゃ、約束ね。ほら……手ぇ出して」

 遥は清次郎の方に右手を伸ばす。清次郎も促されるまま右手を上げる。そして、二人の小指が絡み合う。

 幼い子供がするような方法で、朝宮遥と筒井清次郎は奇妙な約束を交わした。

「約束したからね。ちゃんと守んなきゃダメだぞー。お姉さんわりとヤンデレ気味のストーカーだからねー。約束破ったらマジギレしちゃうぞー。あの世とか来世までついてって嫌がらせするぞー」

「は……はぁ……」

 笑顔のままそんなことを言われても、どう反応したらいいのか分からない。

 この朝宮遥という女は、どこまでも陽気で、信じられないくらいふざけていて、果てしなく理解不能だった。

「さて、と……じゃあ今日はこの辺にしとこっか。良い子はうちに帰る時間だしね」

 そう言って、遥は腰を上げる。そしてひらひらと手を振りながら、堤防の斜面を登っていった。

「またねーセージ君。あたしとの約束、忘れちゃダメだよー」

 人生最後の日は、最後の日にならなかった。

 奇妙な女との奇妙な出会いがあって、奇妙な約束をさせられた。

 その体験をどう受け止めて、どうしていけばいいのか――――日付が変わった後も、清次郎はその答えを見つけられずにいた。





「お待たせー。いやーごめんごめん、委員会の集まりに顔出してたら遅くなっちゃった」

 時計の針が午後四時半を過ぎた頃、一人の女子生徒が文芸部の部室に入ってきた。色素の薄い肌と緩やかに波打つ栗色の髪が特徴的な、どこか西洋人めいた容貌の少女である。

 彼女の名前は芹沢真奈美。

 清次郎達三人より一学年上の二年生で、文芸部の部長を務めている。

「……って、どしたの筒井? 教室でおしっこ漏らした小学生みたいな顔しちゃって」

「してませんよ、そんな顔……ていうより、もう色々と酷すぎる例えですね」

 清次郎がげんなりした顔で応じると、真奈美は自分の肩掛け鞄を空いているパイプ椅子の上に置きながら楽しそうに笑った。

「えー、そう? つっちーの顔のしょんぼり具合をわりと的確に表現してたと思うんだけど」

 ほとんど冗談でしかないその指摘を、清次郎は笑って聞き流すことが出来なかった。

 実の所、自分が今ひどい顔をしていたという自覚はあったから。

「今日のセージは朝からそんな感じだよ。無闇やたらとテンション低い」

「でもセージの場合、それがデフォなんでもう気にならない域に達してね? むしろテンション高い時の方が珍しいっつーか、逆に気味悪くなってくんだけど」

「あ、それ言えてる。明るく元気で生き生きしてる筒井とか逆にキモいよねー。マジ引くわー」

「……」

 先輩一人と同輩二人が言いたい放題言っている。物凄く反論したかったが、下手なことを言うと余計にいじられそうなので止めておいた。

 何はともあれ、笑い話になってくれたようで結構だ。本気で心配されたら、それこそ対応に困ってしまう。

「あ、そうだ。急な話で悪いんだけど、今度うちで文集作ることになったから」

 談笑が一段落すると、真奈美はそう切り出した。

「文集?」

 清次郎達三人が、声を揃えて鸚鵡返しする。

「いや、ほら……うちってさ、一応文芸部じゃない? 創作活動なんか全然してないけど、名目上はそういうことになってるじゃない? だからさ、たまにはみんなで何か書いて発表しなさいって高崎先生に言われちゃったのよ。ほんとに何もしないでいると部としての体裁っていうか世間体っていうか、そういうのがあまり良くないからさ。で……あたしと先生で色々話し合った結果、とりあえずみんなの創作物集めた文集作って、それを秋の文化祭で配布するって方向でまとまったわけ」

「うわ……先生余計なこと考え過ぎ。変な気回し過ぎ」

 楓が露骨に嫌そうな顔をした。帰ろうとした瞬間に山積みの書類を渡された会社員のような顔だ。

そんな彼女を、清次郎は苦笑しつつ宥める。

「まあまあ……別に文集作るくらいならいいじゃない。秋まではまだ大分間があるんだし」

「そうよ。夏休みだって挟むんだから何か書いてくるくらい出来るでしょ? あんた達暇なんだし」

「暇じゃないよ先輩、僕達だって勉強とかで毎日忙しいんだよ?」

 と、ゲーム機をいじりながら主張する楓。これには真奈美も呆れ果てた顔で応じるしかない。

「昼間から余裕でロボハンやってる奴がよく言うわね……てか、あんたらが暇そうにしてない時なんか見たことない気がすんだけど」

「……すみません」

「うん……いいんだよつっちー。そんな申し訳なさそうな顔しなくても。あたしそこの二人に対して言ってるから。清々しいくらい無視してくれちゃってるけどさ」

 ゲーム機を鞄に仕舞うという殊勝な態度を見せたのは清次郎だけで、楓と恭也は平然とした面持ちのまま狩りの準備を進めている。基本的にこの二人は、己が暇人であることを恥じ入るような心など欠片ほども持っていない。

 しかし文集の話には興味をそそられたのか、恭也がゲームをやりながら真奈美に尋ねた。

「その文集に載せるやつって、わりと長めのでも大丈夫スか?」

「え……? あー……頁数多くなると印刷代高くついちゃうけど……まあ平気か。いざとなったら先生がお金はどうにかしてくれるみたいだし」

「ジャンルは何でもいいんスよね?」

「そりゃ書き物なら何でもいいよ。詩でも小説でも読書感想文みたいなのでも……」

「うしっ、じゃあ俺は小説でも書いてくるっス。中編くらいの長さのやつを」

 自信満々な様子で胸を張る恭也に、真奈美は二足歩行する犬を見るような目を向けた。

「あら、意外と乗り気じゃん榊……てっきりあんたが一番めんどくさがると思ったけど」

 それは清次郎も同感だった。

 楓もかなりの面倒臭がりだが、この手の課題を一番嫌がるのは恭也なのだ。何しろ、中学の頃は夏休みの宿題を何一つこなさずに堂々と二学期を迎えていたような男である。流石に現在はいくらか改善されたものの、怠け者な性分は変わっていない。

 だからてっきり、嫌がる彼をどうにかして説得するという作業が待っていると思ったのだが、意外にも本人はやる気を見せていた。

「フッ……舐めてもらっちゃ困りますよ先輩。こう見えても俺、文章力だけはわりと自信あるっス。小学校の頃先生に、“お前の書いてくる作文は独創的すぎて、俺にはとても解読出来ない”って評されたくらいっスから」

「それ単にダメ出しされてるだけな気がするけど……まあいいわ、自信あるなら書いてきてよ」

「おう! 渾身の力作でみんなの度肝を抜いてやるぜ!」

 意味もなく親指を立てて自信満々に請け負う恭也だったが、真奈美はその姿に不安しか抱けなかった。

 この榊恭也という色々な意味でフリーダムな男が書く小説にまともな出来を期待していいのか、というより小説と定義出来るだけの物を期日までに仕上げられるのか、という不安がどうしても拭えない。

 とはいえ、せっかくやる気になっているところに水をさすのも気が引ける。まあ多分どうにかなるだろう。どうにもならなかったら、その時に考えるしかない――という風に自分自身を無理矢理納得させて、彼女は恭也から清次郎に視線を移した。

「つっちーは? どんなの書きたい?」

 問われた清次郎は、少しの間考えてから、答える。

「えっと、そうですね…………じゃあ、この前読んだ本の感想というか、エッセイみたいなのでも書こうかなって……」

「この前読んだ本って?」

「栄西の生涯とか思想について書かれた本なんですけど……」

「えーさい?」

「臨済宗の開祖の明庵栄西です」

「…………えっと……お坊さん?」

 真奈美は物理学の講義を聞く五歳児のような顔をした。

「ええ、平安時代の末期から鎌倉時代の初期にかけて、禅の教えを日本中に広めたことで有名な人です。お茶を飲む習慣を広めたことでも知られてますね。この前読んだ本はその人について書かれた本なんですけど、宗教家としての面だけじゃなくて社会事業家としての面についても詳しく書かれていたので、そのあたりは本当に勉強になりました。ただ、一部の格言や公案の解釈については俺のそれと若干異なるところもあったので、そのあたりを重点的に論じていこうかと……って、何でそんな、可哀想な人見るような目でこっち見てるんですか?」

「いや、まあ、その……つっちーの目指してる方向性があたしの予想の斜め上をいってたから、すごくリアクションに困ったっていうか……まあいいや、うん、がんばって」

 どうやら、こいつもこいつで一筋縄ではいかないみたいだ――などと内心で思いつつ、真奈美は残る一人に目を向けた。

「さてと、じゃあカエは……」

「僕も何か書かなきゃダメなの?」

「当たり前じゃん……って言いたいとこだけど、あんたはもう載せる作品あるからいっか。あの書き溜めてたポエムの中から何点か選んでくれればそれでいいよ」

 そう言われた瞬間、それまで澄ました顔でゲーム機をいじっていた楓が、まるで銃口を突き付けられたかのようにびくっと震えた。

「ポエム?」

 清次郎と恭也が、目を丸くして声を重ねる。

「あれ? 二人とも知らない? カエがノートとかに書き溜めてるやつ」

「せ……せせせせせせ先輩、き、急に何言ってるのかな? 頭に蛆でも涌いてるんじゃないかな? 保健室行った方がいいんじゃないかな? うん、僕が付き添ってあげるから保健室行こうよ。今すぐ」

 頬をひきつらせながら苦笑するという普段あまり見せない表情で、楓は真奈美に詰め寄る。

 彼女はその眼差しで訴えていた。

 ちょっと話があるから表に出ろこの野郎、と。

「あー、そっかぁ、筒井達には秘密にしてたんだぁ……考えてみればそうよねぇ、あたしに知られた時もテンパりまくってたし」

「だ、だ、だから何言ってるのさ! ぜ、全然意味分かんないんだけど! 何も思い当たる節ないんだけど!」

 楓は全力で否定するものの、目に見えてうろたえているせいで説得力がまるでない。むしろそのうろたえぶりが、余計に彼女を追い詰めることになった。

「楓、ポエムなんか書いたりしてるんスか?」

「そうよー、あたし前にカエんちに遊び行った時に見つけちゃったの。カエが厳重に封印してた恥ずか……素晴らしい作品集を」

「ち、ちちち違う違う違う! 違うから! そんなの無いから! 全部先輩の妄想だから!」

 ついに椅子から立ち上がるほど狼狽した楓に、真奈美はこの上なく嗜虐的な笑みを向ける。

「あらあら、そんなに照れなくてもいいのに。あたし、カエのポエムわりと好きよ。思春期の迷走感がそこはかとなく滲み出てるとことか」

「う、うるさいうるさい! 黙れ黙れ黙れ! そ、それ以上言ったら殺す! 絶対殺すから!」

 脅しのつもりでそう言い放つ楓だったが、残念ながらそれで身を竦めたのは清次郎だけだった。

 他の二人はなおも暢気に楓の著作を話題にし続ける。

「ちなみに、楓のポエムってどんな感じなんスか?」

「んー、そうね……森とか湖とかの風景をモチーフにした抒情詩が多い感じかな。あたしが最初に見たのは“微風”って題されたやつなんだけど――」

「うああああああああああああ! 殺す! 絶対殺す! ぶっ殺してやる!」

 悲痛な叫びと共に、楓の怒りが爆発した。実力行使に出ることを決意した彼女は、自分の鞄からハードカバーの分厚い本を引っ張り出し、その背表紙で真奈美の脳天を殴打しようとする。

 ちなみに、本の背表紙は立派な凶器だ。力の入れ具合と当たり所によっては、本当に人が死ぬ。

「か、楓楓楓! ちょっと落ち着いて! それ死ぬ! ほんとに死ぬから!」

 清次郎は楓の暴走を止めようとしたが、駄目だった。





 その後の顛末を簡単に表すとこうだ。

 真奈美が身の危険を感じて逃げた。

 殺意を燃やす楓が真奈美を追った。

 放っておくと洒落にならなそうなので、清次郎と恭也が楓を追った。

 そういう流れで部室から飛び出した四名は、校舎内を舞台にした追いかけっこを散々繰り広げた挙句、教師にそれを見咎められ、全員揃って説教されるという小学生レベルの失態を演じたのである。

 彼らの青春に思い出したくもない一ページが記された瞬間だった。

「あのー……カエー、カエちゃーん……ちょっとほら、顔怖いよ? あたしが悪かったから機嫌直してよー、ね?」

 部活の時間が過ぎた後の帰り道。四人は学校から市街地へと続くなだらかな坂を下っていたのだが、その中で一人だけ、他三人と若干の距離を開けて歩く者がいた。

 それは誰か――言うまでもない。楓だ。

「……許さない。絶対許さない。もう先輩なんか、絶対うちに入れてあげないから」

 隠していた趣味を暴露されたのがよほど恥ずかしかったのか、楓はその鋭い目にありったけの怨念を込めて前を歩く真奈美を睨みつけている。しかも目の端には小さな雫が浮かんでいて、声も少し震えている。

 一言で言うなら、今にも泣きそうだ。

 流石に悪いことをしたと思った真奈美は、苦笑いを浮かべつつどうにか楓を宥めようとしていた。

「あはは……だからごめんってばー……さっきはあたしも悪ノリしすぎたって反省してるからさ、ね? あ、そうだ。何か奢ってあげるよ。ほら、何だっけ、カエが好きだって言ってたあの……」

「一人で甘い物食べてデブってればいいんだ。この白豚エセ外人」

「うわぁ……カエちゃんきついや……」

 怒りが臨界点を超えた楓は、いつにも増して毒舌だった。

「ほ、ほら、違うんだよ楓……先輩は別に楓のポエムをネタにして笑ってたわけじゃなくて、楓のポエマーとしての才能を高く評価してたからこそ……」

「ポエマー言うな、バカセージ」

「す、すいません……」

 真奈美を擁護しようとした清次郎も、楓の一睨みで沈黙する。一度機嫌を損ねてしまった楓を宥めるのは容易ではない。

「……こうなったら、もうバラしてやる。先輩が中二の時、親と喧嘩して家出したけど雨が降っただけですぐ戻ってきたこととか」

 楓の口からそんな言葉が飛び出ると、真奈美の苦笑はよりいっそう引きつった。

「い、いや、あの、カエちゃん……マジでごめんね……土下座でも何でもするからさ、もうそのくらいで……」

「小六の時、塾の先生に告白したけどフラれて大泣きしてたこととか」

「やめて! マジやめて! そこあたし的に一番の黒歴史だから! 永遠に封印しときたい記憶だから!」

 楓と真奈美の間柄は先輩後輩というよりも姉妹のそれに近い。お互いのことは大体何でも知っている。よって、このような方法で仕返しすることなど楓にとっては造作も無いのだった。

 このままでは、芹沢真奈美の黒歴史が全て暴露されてしまうまで数分とかからないだろう。

 そんな苦境から救うためか、恭也が無理に作った笑顔で真奈美に尋ねた。話題を変えようとしたのだ。

「あ……そ、そういや先輩は文集に何載せるつもりなんスか?」

「うえっ! あ、あたし……?」

 何故か真奈美は声を上擦らせ、驚いた顔をした。

「あたしは……ほら、あれよ。つっちーと被っちゃうけど、その……ちょっとしたエッセイみたいなのでも書こうかなー、って……」

 そこまで言ったところで、はっと息を呑む。すると彼女は唐突に、文集の話とは全く関係ないようなことを言い出した。

「そうだ! そうそう、これ言い忘れてた。あたしさ、今度日帰りで鎌倉行きたいって思ってるのよね」

「鎌倉……」

「鎌倉スか……」

 清次郎と恭也は、目を丸くした顔を並べる。

「行けばいいじゃん」

 楓は、相変わらず冷たい。

「うん……まあ、そうなんだけどさ……ここのみんなで一緒に行かないって話」

 楓の突き放した物言いに若干たじろぎながらも、真奈美はめげずに話を続ける。

「あたしが文集に載せようとしてるのが、ちょっと鎌倉に関係あってさ。取材なんていうほど大したもんじゃないけど、一応行っときたいのよ。それにさ、あたし実は鎌倉って行ったことないのよね。小学校の遠足の時は風邪ひいて行きそびれちゃったし……この際だから色々見て回りたいなー、って」

 どうやら文集の話と無関係でもなかったようだ。文集に載せる作品が鎌倉に関係するというのは、清次郎には今一つぴんとこなかったが。

「ほら、つっちーも仏教好きでしょ仏教。鎌倉ならお寺たくさんあるよ。八幡宮とか」

「え、ええ……いいですよね鎌倉は。また行きたいなって思ってたんです」

 自分は仏教の一部の宗派に関心を抱いているのであって、仏教なら何でもいいわけじゃありません。あと八幡宮は寺じゃなくて神社です。鎌倉行きたいって割に鎌倉のことろくに知らないみたいですね先輩――などと内心で思ってしまった清次郎だが、それを口には出さなかった。

 せっかく真奈美が皆で遠出しようと提案してくれているのだから、あまり無粋なことを言うべきではない。それに今は楓の機嫌を直すためにも、どうにかして話を盛り上げるべきところなのだ。

「鎌倉行くなら俺は大仏のあるとこ行きたいっスね。あの辺の土産屋って結構面白えもん置いてあるし」

「どうせあれでしょ? 何故かお土産屋さんで売ってる木刀とかヌンチャクとか衝動買いしちゃうクチでしょ、榊は。買うのは別にいいけどその場で振り回したりしないでよね、恥ずかしいから」

「しねえってば、そんなこと! もう小学生じゃねーんだから!」

「まるで以前はやってたような物言いね……」

「やってましたよ恭也は。中学の修学旅行でも。同じ班だった人達の生温かい視線が今でも記憶に残ってます」

「うわっ……榊、やっぱあんたは来なくていいわ。連れてくと面倒そうだし」

「いやちょっとひでえよそれ! 何で俺だけそんな扱いなんスか!」

 そんな具合に冗談を交わした後、真奈美の視線は再び楓へと向いた。

「まー……てなわけでさ、今度一緒に鎌倉観光しようよカエ。さっきのお詫びにお昼代くらいなら奢ってあげるからさ」

「……電車代も出してくれるなら、行く」

 楓はそっぽを向きながら、ぼそりと呟く。真奈美は安堵の溜息をつきつつ苦笑した。

「あーはいはい、わかったわよ。電車代でも何でも払ってあげるから、一緒に行こ。だからもう機嫌直してよ、ね?」

「……むぅ」

 真奈美の白い手が楓の頭をそっと撫でる。身長は真奈美の方が低いものの、そうしていると幼い娘をあやす母親のようにも見えるのだった。

 そうこうしている内に四人の足はなだらかな坂道を下りきり、信号機のあるT字路まできていた。四人で一緒に帰る時、真奈美とはいつもそこで別れる。

「まあ再来週が期末試験だから、行くのはその後でってことで……細かいことは今度の部活の時に決めよっか。そんじゃまたねー」

 笑顔で軽く手を振ってから、真奈美は自宅の方向に歩いていく。

 清次郎達三人はいつも通り、駅前の住宅地へと続く横断歩道を渡った。

「うーん……」

 と、そこで、恭也が急に難しい顔で唸り始めた。

「どうしたの?」

「今ふと思ったんだけどよ……先輩、みんなで鎌倉行こうって言ってるじゃん? ひょっとして、そのみんなの中に上坂先輩も入ってんじゃね……?」

「あ……」

「げっ……」

 しまったという風に声を上げる清次郎と、顔をしかめる楓。ある男の存在を今まで失念していたことに、二人は気付いた。

「いやでも、上坂先輩って受験生だし、誘われても断るんじゃ……」

「いやセージ、あの人をそういう基準で判断しちゃ駄目だと思うぞ。まあ必ず来るとも言い切れねえけど、来ないとも言い切れねえような……」

「確かに、読めないね……あの人だけは……」

 恭也の指摘に、清次郎は同意せざるをえない。

 楓は非常に険悪な顔で、心底から嫌そうに言った。

「あの人の長話を半日聞かされ続けるとか本気で気が滅入るんだけど。何の罰ゲームって感じなんだけど」

「すげえ同感だわ。ぶっちゃけ俺もあの人苦手なんだよな……目つき怖えし話長えし……」

「ま、まあでも悪い人じゃないし……俺達、上坂先輩とは知り合って間もないから……ほら、その……慣れれば案外どうってことないかも……」

「セージ、それ本気で言ってる?」

「……ごめん、ちょっと無理した」

 件の人物をフォローしようとした清次郎だったが、楓に睨まれてすぐに前言を撤回した。

「いやまあ、俺だってあの人が嫌いなわけじゃねーんだよ? 上坂先輩ってすげーなーって感心してたりもするんだよ、実際。けど何つーか、なあ……」

「悪い人じゃないけど、ウザい人だよね」

「……」

 恭也が言いにくそうにしていることを、楓ははっきりと言う。清次郎はそれを否定出来ない。

 彼らの二学年上の先輩であり文芸部の幽霊部員である三年生、上坂慶吾は、誰もが認めるほどうざったくて、余程の忍耐力がなければ付き合えない男なのだ。

「ま、いっか……今更ウダウダ言ってもしょうがねえし、なるようになるわな……んなわけで、そんじゃまたなー」

 駅前の交差点で恭也は清次郎達と別れ、自宅の方向に歩いていく。

 彼の姿が見えなくなると、楓は釘を刺すように言った。

「先に言っとくけど、上坂先輩も来るようだったら僕は鎌倉行かないからね」

「了解……まあ、来ないことを祈っとこう。先輩達には悪いけど」

 そこで一旦会話が途切れた。駅前の商店街から住宅地に続く細い道を、清次郎と楓の二人は無言で進む。

 幼馴染の少女と肩を並べて歩きながら、清次郎は奇妙な感慨に浸っていた。

 ほんの一日前、自らの手で人生を終わらせようとしていた自分。そんな自分が今日、何事も無かったかのように平凡な一日を過ごした。

 学校に行って授業を受けて、文芸部の部室で友人達とじゃれあって、いつもと変わらない一日を過ごした。

 そのことに、違和感のようなものを覚えてしまう。あるいは、自虐というべきものだろうか。

 どうして普通にしていられるのか。

 文集に載せるエッセイを書くことを引き受けて、鎌倉に行く約束もして、これから先もずっと生きていくかのように振舞っていられるのか。

 死ぬつもりだったくせに。

「……」

 朝宮遥との約束は一週間。ひとまずその間は生きるつもりでいる。

 けれど、その一週間が過ぎたら――自分はどうするのだろうか。どうすればいいのだろうか。

 清次郎は自問する。下を向いて歩きながら、答えの出ない自問を続ける。

 そして、会話が途切れてから五分ほども経った時。隣を歩いていた楓が突然立ち止まったことに気付いた。

「楓……?」

 何事かと思い振り返る清次郎。そんな彼の怪訝な顔を、楓は歩道の真ん中に立ったまま真剣な顔で見据えていた。

「ねえ、セージ……」

 硬質な声が、静かに零れる。

「昨日、どこに行ってたの?」

 何の前置きもなく放たれた、率直な問いかけ。それは鉄槌の一撃のような重さで、清次郎の心を激しく揺さぶった。

 怪訝な顔が驚愕の顔に変わる。心臓の鼓動が急速に早まっていく。

 この時になって、清次郎はようやく理解した。朝のホームルームの前、楓が見せていた不審な態度の意味を。

「見たよ……昨日の放課後、家と反対の方向に歩いていくの」

 見られていた。

 そう、彼女に見られていたのだ。

 自分が、自分自身を殺しに行くところを。

「そ、それは……」

 弁明しようとしても、口から言葉が出てきてくれない。

 本当のことを話すわけにはいかない。話せば間違いなく、彼女は激怒する。かといって、彼女を騙せるような嘘も咄嗟には思いつかない。

 どうすることも出来ずに、清次郎は苦い顔で目を伏せた。

「……おかしいと思ってた。ここ最近、ずっと思い詰めた顔してたから」

 痛ましげな目をして、楓は呟く。嘆くように。

「今日だって、何かおかしいよ……ぼんやりしてること多いし、いつもより口数少ないし」

 何もかも見抜かれていたことを、清次郎は思い知る。

 そして同時に、当然か、とも思った。

 楓相手に隠し事など最初から無理だったのだ。彼女は筒井清次郎という人間をよく知っている。

 その脆さと危うさを、誰よりもよく知っている。

「また……」

 一旦言葉を切り、息を吸い込んで、楓は俯く清次郎に言った。

「また、あの時みたいなこと……したりしないよね……?」

 かつて清次郎が犯した過ち。

 一度目の自殺未遂。

 恭介も真奈美も知らないそれを、楓は知っている。

 彼女がいなかったなら――彼女が寸前で阻止してくれなかったなら、清次郎は今頃生きていない。

 そのことを思い出し、清次郎は奥歯を噛み締めた。

 胸の奥で渦巻く様々な感情を抑え込んで、どうにか言葉を紡ぐ。

「……しないよ。絶対に、しない」

 顔を上げ、楓と目を合わせる。重い空気を振り払うため、無理に作った笑顔で続けた。

「き……昨日はほら、あれだよ。朝から何か気分が悪かったからさ、学校終わった後病院で診てもらったんだ。まあ、ただの風邪だったんだけどさ……今日もちょっと熱があるみたいで、いまいち調子出なかったんだよね。はは……」

 ようやく口から出た嘘は、自分でも呆れてしまうくらい嘘臭かった。

「だったら部活に出ないでさっさと帰れって話だよね、みんなにうつしたら悪いし……いやでも、大した風邪じゃないから大丈夫だよ。明日には治ってると思うし……」

 下手な嘘を強引に押し通そうとする清次郎に、楓は鋭い目を向けてきた。彼女は明らかに疑っている様子だった。

 それでも一応納得してくれたのか、あるいは納得するふりをしてくれたのか、彼女はやがて表情を和らげ、穏やかな声で言った。

「……そっか。うん、そうだよね……僕の考えすぎだった。ごめんねセージ、変な勘違いしちゃって」

「はは……」

「でもさ、セージが紛らわしいのだっていけないんだよ。普段から陰気なオーラ漂わせまくってるんだから」

「陰気って……そんなに暗いかな、俺……」

「暗いよ。もう、びっくりするほど暗い。見るからにひ弱なインドア系だし内気だしコミュ力低いし友達少ないしマザコンだし」

「最後の以外は別に否定しないけど、楓に言われたくは…………すみません、何でもないです」

 ギロリと睨まれて、清次郎はすぐさま反論を止めた。

 楓はこほんと、わざとらしく咳払いする。

「とにかくっ」

 清次郎を指差して、言う。

「セージはいろいろダメすぎて、たまに見てられなくなるんだから……あんまり、心配させないでね」

 その言葉は、紛れもない彼女の本音で――彼女が今日、一番伝えたかった言葉だったのだろう。

「急にいなくなったりしたら、やだよ」

「うん……心配かけて、ごめん」

 清次郎は心から謝罪した。

 楓の優しさに感謝しながら。

 心配をかけてしまったことと、嘘をついてしまったことに、胸の痛みを覚えながら。

「わかればよろしい」

 楓は笑った。柔らかで温かい、春の日射しのような微笑みだった。

「じゃあ、また明日ね。今日はしっかり寝て風邪治しなよ、セージ」

 明るい声でそう言って、彼女は自分の家の方向に歩いていった。

 その背中を見送って、清次郎は再び歩き出す。たった今楓に言われたことを、頭の中で反芻しながら。

 自分は本当に馬鹿だと思う。どうして今の今まで、彼女があんなに怒っていた理由が分からなかったのか。思い当たる節など、それこそ一つしかないというのに。

 そういえば、と思い出す。二年前、“一度目”が失敗に終わった時も、今と同じようなことを言われた。あの時は、もっと過激で容赦のない口調だったが。

「いろいろダメすぎて、たまに見てられなくなる……か」

 まさに彼女の言う通りなのだろう。返す言葉も無い。

 自分はよく誤解される。

 生真面目だとか、常識人だとか、よく出来た子だとか、そんな風に評されがちだ。付き合いの浅い人間の目には、そう見えるらしい。

 だがそれは誤解だ。とんでもない誤解なのだ。

 自分ほど非常識で不出来な人間は他にいない。もっとはっきり言ってしまえば、最低の屑だ。人として大切なものが致命的に欠けている。手の施しようがないくらい捻れていて、歪なのだ、心の形が。

 そんな筒井清次郎の駄目さ加減を、日比谷楓は誰よりもよく知っている。

 それなのに彼女は、六年前からずっと友達でいてくれている。自分のような奴が傍にいることを許してくれている。

 気難しい彼女はすぐに怒鳴ったり睨んだり文句を言ったりするけれども、時折優しく笑ってくれるのだ。さっきのように。

 彼女の笑顔を見ると、少しだけ心が軽くなる。

 笑っている時の彼女は、とても眩しい。

 だから――

 そう、だからこそ――

 筒井清次郎は死ななければならない。生きていてはいけない。

 強く、深く、狂おしいほど、そう思ってしまうのだ。



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