一章・二節 憶えのある動悸
「砂済君、今日はもう上がって」
「え? まだ全然時間ありますけど?」
那月を家まで送り届けた建人はその足でアルバイト先の居酒屋へ直行していた。
客足のピークが過ぎ去り溜まった食器を食洗器へ入れ込んでいた建人に、店長からそんな言葉が投げられた。
時計を見れば、やはり退勤の時間まで一時間ほど余裕がある。
「ほら。さっきすんごい数のパトカーが通り過ぎたじゃない。お客さんの話だと仏さんが出たんだって。最近物騒だから、未成年の砂済君はもう引き上げて。後は店長やっとくから」
物騒ね~、と少々アッチの気が垣間見る店長は建人へ賄い弁当を持たせて、洗い場の作業を引き継いだ。
「……半端な時間になっちまったな」
時計を片目にタイムカードを押しながら、そんな言葉が漏れる。
店を出れば日はすっかり沈み、纏わりつく様な夏の夜気が押し寄せて来る。
SNSには遺体発見現場に関する書き込みが多数あり、どうやら見つかったのは五輪高校から程近い商業地帯らしい。
あの辺りは現在建設現場があちこちであるので、事件ではなく事故だろうか。
そんな事をぼんやり考えながらスマホを取り出すと、二件のメッセージの受信していた。
その内の一件は鉄平からであった。
『まだバイトか? 商業エリアの辺りで妙な遺体が見つかったらしいぜ。何でも今話題の噂の類じゃないかって話だ』
「あいつこの手のオカルトっぽい話好きだよな」
鉄平は不良っぽい外見に反してミステリー小説やオカルトの愛好家だったりする。
話題性に富んだネタを仕入れれば、こうして建人に共有されるのだが生憎と建人はその手の興味は薄い。
メッセージにはURLが添付されており、本当であれば無視したいのだが、以前それで物理的に痛い目に合っている。
帰ってから話を合わせられる程度に適当に流し読みをしておこうと、スマホを仕舞い帰路について暫くしてだった。
「ん?」
途中コンビニで飲み物とアイスを買って帰り、自宅のアパートまで残り数分といったところで建人は妙なものに気付く。
その道は穏やかな坂道になっており、住宅街を抜けた更に向うには手付かずの森が広がる丘陵地。そこには魔女が住んでいると噂の洋館があるというが、建人の視線はそれよりもっと手前に吸い込まれていた。
県道からやや外れる様に建つ、建人たちが通う五輪高校、部活棟の屋上。その落下防止用のフェンスの上だ。
電気一つ付かない無人の校舎に君臨するように、それはいた。
「……有澤? 何してんだあんな所で?」
人並み以上に視力が良い建人は米粒程度にしか見えないその人物をしっかりと捉えていた。
けれども恋心を寄せる少女とは、何処か違う印象を受ける。
凛としながらも誰からも好かれる愛嬌が成りを潜めており、いまの那月は美しくも近寄りがたい氷の彫像の様だった。
視線も、佇まいも、息使いさえ別人のよう。
まるでよく似た誰かが、そこにいるような奇妙な感覚。
そして胸の内から湧く衝動に建人は戸惑っていた。
「――」
どうしてだろう。
安堵感と罪悪感が綯い交ぜになり、喉が詰まるようだった。
彼女の元へ今すぐ駆け出したいのに、逃げ出したいと叫ぶ自分もいる。
バクバクと喚き出す心臓が煩くて仕方がない。
答えの無い動悸に戸惑っていた建人は、いっその事学校まで行ってしまおうかと思案する。
その間も那月は何をするでもなく、眼下に広がる街並を見下ろしていた。
建人に気付いている様子はない。
当然だろう。
二人の距離は二百mは離れているのだから。
天体観測で暗い星や星雲を探し出す為に眼を鍛えた建人と一般人のそれは違うのだから。
それにしたってフェンスの上に立つなど自殺行為に等しい。
今夜は無風なので、風に煽られる心配はないがちょっと脚を踏み外しただけで命に関わる。
余計なお節介かも知れないが、やはり止めさせるべきだろう。
「――」
ただどういう訳だろう。
あの那月を見ていると、建人は酷い胸のざわつきは募るばかり。
言いようのない不安がヒタヒタと這いより、此処にいてはいけない気がしてならない。
何かを探す様な彼女の鋭い視線が、覚えのない罪を突き付けて来るのではないか。
普段はその様な事は微塵も考えないのに、どうしてだか今の那月は建人の中では異質な存在に感じられてならなかった。
ここは見なかった事にしてもう帰ろうと、逃げるように視線を切ろうとした時だった。
不意に何かに気付いた様に、那月が建人の方へ視線を向けた。
「……――ッ」
弾かれた様に建人は無意識に近くの物陰に身体を隠していた。
理由は、分からない。
自転車が倒れ、籠に入れていた弁当と飲み物が散らばる事さえ気にならなかった。
おかしい。
どうして自分は隠れているのか。
明らかに異常な発汗量と動悸に襲われ、混乱する頭は微かに痛みさえ訴え始める。
顎を伝って落ちる汗がアスファルトにシミを作り、ハッハッハッと犬の様に間隔が狭い呼気が煩い。
視界がぼやけ始め、平衡感覚が狂い始め上下左右に揺れ始める。
一体自分はどうしてしまったのか。
意識が混乱する中で、不思議と当然だという奇妙な納得感が混在していた。
一体何に?
答えに辿り着く前に、肩を揺さぶられる感覚に意識が引き戻される。
「君、大丈夫かい?」
「──え? あ、あれ?」
通りがかったであろうスーツ姿の男性が不安げな表情で建人の顔を覗き込んでいた。
気付けば視界は正常に戻っており、動悸も頭痛も収まっている。発汗はあるが気温を鑑みれば正常の範疇だろう。
「気分が悪いなら座っていなさい。不味いようなら救急車を呼ぶから」
「あ、……いえ、大丈夫みたいです。ちょっとふら付いただけです」
「そうかい? でも無理はしちゃいかんよ。今日も暑いから、熱中症でパタリなんてよくあることだ」
これで良ければ、と男性は親切にも散らばってダメになった建人の弁当の代わりに、自分の夜食のおにぎりを持たせて帰路に着いていった。
男性の念押しで五分程その場で休んでから帰る事にし、乾いた喉に先程買ったウーロン茶を流し込む。
自覚以上に喉が渇いていたのか500mlのあった焦げ茶色の液体は瞬く間に無くなった。
口元の水滴を乱暴に拭うと、視線は自然と学校の方向へ向いていた。
「いない……な」
既に那月の姿は無かった。
自然と周囲を見渡すが、閑静な住宅街が広がるだけの平凡な景色が続くだけで、建人以外に野良猫一匹見当たらない。
メール一本飛ばせば連絡など幾らでも付くが、スマホに手を伸ばす気にも慣れない。
「――帰ろう」
倒れたままの自転車を起こし早足にその場を去った。
途中何度も後ろを振り返ったが、誰がいる訳でもなく、築三十年のボロアパートに付くまで結局誰とも擦れ違うことは無かった。
角部屋に合鍵を差し込んで身体を滑りこませるようにして飛び込むと、後ろ手に扉を閉める。
重い溜息が零れると、ドッと押し寄せた倦怠感を引き摺る様にして建人は部屋に上がった。
那月を送り届けた多幸感は完全に霧散していた。
しかしながら不思議と彼女への恐怖感は殆どなく、むしろ彼女を通して垣間見た“何か”に対する漠然とした不安だけが蟠っていた。
通りがかりの男性から貰ったおにぎりを冷蔵庫に入れると、シャワーもそこそこ建人はベッドに沈んだ。
いつもなら星が見えれば自然とベランダへ脚が向く筈だが、この時ばかりは燦々と輝く夏の大三角も、赤色超巨星を持つサソリ座も御免被りたかった。
瞼を閉じれば意識は直ぐに睡魔へ誘われ、街灯の蝉の声も遠ざかる。
その日、建人はいつもの夢を見た。
土砂降りの雨の中、銃を手に走るいつもの夢。
しかしこの日はいつもと出だしが少しだけ違った。
ぼんやりと明かりが灯る何処か暗い場所で、気が狂いそうな痛みと怖気に襲われていた。
だが、そんな事は些事と切り捨てられるほどの怒りが全身を支配していて、自分でも聞いたことの無い声音で、誰かに怒鳴り散らしていた。
顔は見えないが、怒りの根源がこいつにあることだけはハッキリと自覚出来た。
しかしその後建人はそれに何事か囁かれると、銃を引っ手繰り暗闇から外へ飛び出した。
その後は、いつも通りの展開。
憎悪に満ちた誰かが建人を呼び止め、映像は途切れる。
だがどうしてだろう。
いつもは胸を締め付けられるような感覚しか得られない“彼”の声が、とても馴染み深く、狂おしい程に泣きたくなるものだった。




