生存戦略と紅い拍動.1
……最悪な寝起きだ。
頬を伝う冷たい存在を感じた俺は目を覚まし、ゆっくりと瞼を開く。
(…泣いてた、のか…?)
視界が開けた瞬間に思い出したのは、五歳の少女が味わったあまりに生々しく重い記憶だった。
(……っ、……はぁ、はぁ……!)
一気に襲いかかる情報の濁流に、喉の奥から酸っぱいものがせり上がる。
切り替えろ。落ち着け。……これは、俺の記憶じゃない。俺は『葵』だ。あの少女じゃない。
そう自分に言い聞かせなければ、今にも少女の絶望に心を塗り潰されそうになる。
俺は震える手で地面を突き、なんとか上体を起こした。
その瞬間、耐え難い「ズレ」が全身を貫く。
視界が、異常なほどに低い。
地面が目の前にあり、自分の手足が、視界の端に映り込む「自分」の一部だとは到底信じられないほど細く、白く、頼りない。
(……なんだ、この感触。……気持ち悪い)
思わず、自分の胸元に手をやった。
そこにあるはずの厚い胸板も、硬い皮膚の感触もない。指先に触れたのは、皮一枚の下に肋骨が浮き出た、あまりに薄っぺらで脆い、異質な肉の感触。
「……っ!」
喉から漏れたのは、聞き慣れた自分の野太い声ではなく、空気の抜けるような、甲高く細い吐息。
その異変を確かめようと、震える舌で無意識に唇を舐める。
――そこには、見覚えのない感触があった。
犬歯のあたりに、人間にしては少しだけ鋭く、長い突起が存在した。
それはまだ「牙」と呼ぶには短く、幼いものだったが、それでも普通の人間としては、決して持ち得ない特徴だった。
ふと、洞窟の隅にある小さなくぼみが目に留まった。岩の隙間から滴り落ちた雫が、静かな水溜まりを作っている。俺は吸い寄せられるように、這いつくばってその水面を覗き込んだ。
「…………なんだ、これ」
水面に映っていたのは、流れてきた記憶の中に出てきた少女と同じ顔。
予感はしてた。
心構えもできていた。
寧ろ、幼女に転生するという、かつて創作の中で憧れた現象に少なからず期待感も抱いていた。
――だが、そんな薄っぺらな幻想は、指先に伝わる「自分の脈拍」の速さに、一瞬で掻き消された。
今まで楽観的に「異世界転生してみたい」と願っていた自分に対する苛立ちと、先の見えない現実に対する恐怖で一瞬良くない考えが脳裏を過ぎる。
死んでしまえば、この不気味な肉体の感触からも、脳を侵食する少女の絶望からも解放される。今の俺には、その選択肢を選ぶ理由がいくらでも転がっていた。
だが。
(……、……クソっ……!)
喉の奥がヒリついて、熱い塊が込み上げる。
死にたい。消えたい。そう願う心とは裏腹に、俺には自らその引き金を引く勇気なんてなかった。
死ぬことで、元の世界に戻れるんじゃないか。
そんな考えが、甘い誘惑のように脳裏をかすめる。だが、それを確かめる術も、実行に移す度胸も俺にはない。もし失敗して、ただ無様に命を散らすだけだったら?
平和な日本で育った俺には、死という概念はあまりに重すぎた。
(……クソ。……最後だ。それは、本当にどうしようもなくなった時の、最終手段だ……)
死ぬ勇気もない。なら、待っているのは「衰弱死」という最悪に無様な結末だ。
飢えか、渇きか。人知れず暗い穴倉で干からびていくのを待つなんて、冗談じゃない。
(死ねないなら……動くしかねぇだろ……ッ!)
俺は奥歯をガチガチと鳴らし、自棄気味に身体を引きずった。壁に爪を立て、石ころを掴み、泥臭く出口へと這い進む。
身を隠していた岩穴の入り口の向こうには、切り取られたような青空と、眩いばかりの陽光が広がっている。
少女の記憶にある、暖かく心地よいはずの光。
(……外に出てから、えっと……まずは水と食料の確保だ……!)
祈るような思いで、俺は光の境界線を越え、一歩外へ踏み出した。
「――っ!? あ、っが……ぁああ、ああああ!!」
次の瞬間、剥き出しの全身を「熱した針」で一斉に突き刺されたような激痛が走った。
「はっ、げほっ、……あ、つい、熱い…っ!!」
叫ぼうとした喉が、焼けるような熱気で引き攣る。直射日光が触れた箇所の肌が、じりじりと脂を炙られるような嫌な熱を持ち、それと同時に、身体の芯から急速にエネルギーが蒸発していくような、底なしの疲労感が襲いかかってきた。
必死に洞窟の影へと転がり込むと、日陰に入った瞬間、突き刺すような痛みは嘘のように引いた。だが、奪われた体力は戻らない。心臓が早鐘を打ち、膝がガクガクと震えて止まらなかった。
「……っはぁ、…はぁっ。…なんだ、これっ…!?」
震える手で自身の身体を抱き抑えながら、ゆっくりと視線を下へ送る。目に入るのは、実験施設から逃げ出したままの、薄汚れたボロ布一枚。ギリギリ服だと認識できるが、損傷が激しく血色の悪い肌があちらこちらから露出している。
流れてきた記憶に映る少女はあんなにも楽しそうに外を歩いていたのに。
*
岩穴内に滴るわずかな水を啜りながら日が落ちるのを待った。やがて、少し冷たい心地いい風が入り口から吹くのを感じ取り、もう一度外へ踏み出そうと心に決める。
(頼むっ…!これでまたダメなら今度こそ詰みだ…)
心臓の鼓動が耳の奥でうるさいほどに跳ねる。俺は祈るような思いで、震える指先を岩穴の外へと突き出した。
………。
……痛くない。昼間、全身を焼き付くしたあの暴力的な拒絶反応は、嘘のように消えていた。
意を決して、一歩、外へ踏み出す。
「……あ、」
思わず、呼吸も忘れ魅入ってしまった。
雲ひとつない空一面に広がる星々と、不気味なほどに冴え渡る蒼白い月。
だが、何より驚いたのはその「見え方」だ。
街灯も何もない夜の森。本来なら一寸先も闇のはずなのに、今の俺の目には、遠くの木の葉の揺れや地面を這う虫の動きまでもが、まるで昼間の曇り空の下にいるかのように鮮明に、クリアに映し出されていた。
不気味なほどに冴え渡る視界。だが、感傷に浸る時間は一瞬で終わった。
ぐう、と情けない音を立てて腹が鳴る。限界に近い空腹が、意識を現実へと引き戻した。
(ダメだ……、こんなことしてる場合じゃない。まずは水と食料、……動けるうちに確保しなきゃ、死ぬ…)
俺は、昼間あれほど恐ろしかった夜の森へと、重い足取りで踏み出した。




