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ウカカの森 タテガミオオカミの襲撃1

 サリー教の神殿でイオリを奪還してから二カインが過ぎた。

 ギギルとシンはタルマンの口利きで、三バール先にあるエルパの街まで向かう行商隊の荷車に隠れてトキオンを出発した。ケチのタルマンにしては珍しく餞別だと言って、ふたりにシリル金貨を二枚ずつと、ギギルに新しい編上げ長靴まで奮発した。おそらく、トキオンの街長との間で迷惑料の交渉が上手くいったのだろう。

 ギギルとシンの次の目的地は、三十バール先にある中層帯の三大都市のひとつ、ガンデラの街である。回廊大陸の外周を半周する長旅となる。トキオンに現れた監督使に見つからないよう、空の鉱石箱の中に隠れていたため、ふたりはトキオンの象徴のひとつである回廊上側の『黒の大門』を見ることはできなかった。

 トキオンの街を出てから八カイン後、エルパの街に到着したギギルとシンは、行商隊と別れて回廊を徒歩で上り始めた。ゴツゴツした岩が地面から所々で顔を出し、風が吹くと黄色い砂塵が舞い上がる回廊を、ギギルに続いてシンが黙々と進む。

 ふたりともチウシの革の外套の防風頭巾を目深に被り、目には外光を避けるための遮光眼鏡を掛けて、鼻と口はワタスゲの襟巻で覆っている。ギギルは肩から長剣を下げて、遮光眼鏡を掛けた目をチラリチラリと上空に向けて、ザドラを警戒しながら歩いていた。シンは保育器を胸の前に抱え、外光が直接保育器に当たらないように大きめの肩掛けを羽織り、肩掛けで保育器を隠しながら歩いていた。

 リマに引かれた荷車がガラガラと音を立てて、砂塵を巻き上げながらふたりの歩く横を追い越していく。ガンデラからトキオンに向かう速駆けのリマが、鞍の後ろに目印の黄色い幟を立て、鈴玉の音をシャンシャンと響かせながら風のように駆けていく。背中に山のような荷物を括りつけて、一歩一歩足元を確かめながら歩く旅の商人とすれ違った。長剣を下げた戦闘種の大きなオトコと、その後ろに続く労働種の巡礼者という取り合わせが奇妙なのだろう。その商人はギギルとシンから目を逸らして、挨拶もせずに足早に離れていった。ひょっとすると、強盗の類だと思ったのかも知れない。

 一カインの内、日の出時から日の入り時まで歩き通して四分の一バールほどの距離を進むことができた。日の入り時までに街にたどり着くことができなければ、回廊の途中の水場や岩陰で野宿することになる。ヒルの間は肌を焼くような強い外光が降り注ぐため、歩いていると暑さのために汗が止まらないが、大陸の中層帯の上部に近づくにつれてヨルは気温が下がり、水場の炉で火を焚いて暖を取らなければ凍えてしまう。そういうヨルは、炉の火を囲み、ギギルの持っているヴォルトをちびりちびりと回し飲みながら寒さに耐えて、じっと日の出時を待つのだった。

 エルパの街を出てから一ギグが過ぎた。ギギルとシンは途中のエンサ、トトネス、ゴルドの街を経由してアルドガの街の門を潜った。アルドガは小さな街で宿屋がなかった。ギギルとシンは、門番に紹介された小さな雑貨屋のリマ畜舎の片隅でヨルを明かすことになった。

「久しぶりにホシクサの上で眠れるね」

「少しリマの小便の臭いがするが、贅沢は言えんか・・・ヴォルトを一杯やって寝るか」

 ギギルとシンは畜舎の床に敷かれたホシクサの上に腰を下ろし、外套を脱ぐと背嚢を背中から下ろした。ホシクサの向こう側では、柱に繋がれた一頭のリマが、桶に顔を突っ込んでのんびりと飼葉を食べている。

 シンは畜舎の隅にある粗末な机の上に肩掛けを敷いて保育器を置き、卵の表面をワタスゲの布で優しく拭き始めた。裏側も拭こうと卵を抱えたシンがワッと声を上げた。

「どうした、シン」

「何だかイオリが震えているような・・・何だろう、こんな感触は初めてだ」

 シンは卵を撫でながら首を傾げている。ギギルがシンの横に立って、どれどれと卵に手を当てた。確かに卵は瘧に罹ったようにブルブルと震えている。

「風邪でも引いたんじゃないだろうな。キノウの夜も寒かったからな」

「ねえギギル、卵も風邪を引くのかい」

「そりゃあ・・・俺は聞いたことはないがな」

「私も聞いたことないよ」

 シンとギギルは保育器の前に立って、心配気にイオリを覗き込んでいる。そこへ雑貨屋の妻のライラが盆を持って入ってきた。ライラは背が低く、ポチャリとした身体つきで、シンと同じくらいのトシだろう。ライラは丸顔に人の好さそうな笑みを浮かべている。

「旅の旦那さん方、こんな所ですみませんね。なにせうちも狭いもんで・・・何にもないけど、これ食べてくださいな」

 ライラはククを盛った皿とチウシの乳の入った瓶を載せた盆を差し出した。宿屋のないアルドガの街では、街民たちが手分けをして旅人の世話をしていた。

「奥さん、ありがたく頂戴します」

 ギギルが頭を下げて盆を受け取りながら、チラリとシンの方を見た。卵が風邪を引くかどうか聞いてみろという顔をしている。シンがライラに尋ねた。 

「奥さん、つかぬことをお聞きしますが、卵も風邪を引くんですかね?」

 ライラはキョトンとした顔でシンを見た。

「風邪? 卵は風邪なんか引きませんよ。変なこと言うヒトだねぇ・・・」

「やっぱり・・・ギギル、風邪引かないってさ」

 シンが唇を尖らせた。

「俺もそうかなぁとは思っていたが・・・」

 風邪云々と言い出したギギルは、気まずそうに頭を掻いている。イオリを優しく撫でていたシンが血相を変えた。

「何だか震えが酷くなってきた・・・どうしよう、温めてみようか」

 ライラは不思議そうな顔をして机の上に目をやり、保育器に気付いた。

「旦那さん方、さっきから何を言ってんのさ・・・おや? 卵、何て綺麗な・・・まさか・・・ちょっとそこをどいて!」

 血相を変えたライラはシンを突き飛ばすと、保育器の上に屈みこんだ。そして両手で卵を触り、卵に耳を当てると「ああ」と言い、慌てて卵の入った保育器を抱え上げた。

「産まれる、産まれるよ。こんなところじゃダメ、早く家の中へ・・・旦那さん方もホラッ、早く!」

 ライラは保育器を抱えてリマ畜舎を走り出ると、バタバタと家の中へ駆け込んだ。ギギルとシンは何が何だか分からないという顔をして、ライラの後に続いた。ライラは寝室に入ると保育器を寝台の上に置き、その横に柔らかなワタスゲの厚手の布を広げた。ライラの夫のカルムも何ごとかと寝室に入ってきた。カルムはライラとは対照的に、背がヒョロリと高く痩せていて、顔はリマのように長く、目がギョロリと大きい。

 ライラは振り返ると、所在なげに立っているギギルたちに向かって、追い払うように手を振った。

「さあさあ、オトコのヒトは出てって頂戴。カルム、大きな鍋にいっぱいのお湯を沸かして、それからチウシの乳を温めておいて・・・それと、隣のイザイラさんを呼んできて。さあ早く!」

 オトコたちはぞろぞろと寝室から出ると、互いに顔を見合わせた。カルムがボソリと言った。

「私は隣のイザイラさんを呼びに行くんで、旦那さん方は炉でお湯を沸かして下さいな」

 まだ状況が良く呑み込めていないシンが、間の抜けたような質問をした。

「産まれるっていうのは・・・そのう・・・卵からコドモが?」

 シンの問いかけに、カルムはさも当たり前だと言わんばかりに首を縦に振った。

「それ以外に何が産まれるってんです? 卵はいつかはコドモになるもんです」

 カルムはそう言うと家を飛び出していった。

 残されたギギルとシンは顔を見合わせて「そりゃそうだ」と言い、アハハハと笑った。そして、急に真顔になると、炉のある台所に我先にと走った。


 そろそろ日の出時を迎えようとしていた。卵はブルブルと震えたり静かになったりを繰り返していたが、日の出時が近づくにつれて、ブルブルと震える間隔がどんどん短くなってきた。ワタスゲの布の上に置かれた卵が突然震えを止めた。卵の内側から何かで殻を叩いているようなコツコツという音が聞こえ始めた。

 ライラはチラッとイザイラの顔を見た。イザイラは助産の技法を心得ていて、これまで数えきれないほど卵の出産と卵から産まれるコドモを取り上げてきた経験を持っている。アルドガの街のコドモは、ほとんどイザイラが取り上げているのだ。

 イザイラは小さく頷いた。

「外に出たいという合図じゃ。そろそろいいじゃろう、産まれトキがきたのじゃ」

 イザイラはそう言うと、スッと卵を撫で、ブツブツと祝詞を上げた。

「卵からこの世に産まれ出るコドモに幸多からんことを・・・」

 イザイラは祝詞を口にしながら、握りこぶしほどの大きさの水晶の玉を手に持ち、卵の表面をコツコツと水晶の玉で優しく叩いた。卵にキヌグモの巣のような割れ目が入るや否や、卵がパカリと割れた。

「ウニャー! ウニャー!」

 大きな泣き声が寝室に響いた。

「産まれた・・・何とも可愛いオンナのコドモだこと・・・」

 ライラは割れた卵の殻の中から小さなオンナのコドモを抱え上げた。オンナのコドモはライラの胸にギュウッとしがみつくと、ウニャアウニャアと声を上げて泣き続けた。産まれたコドモの身長は三セルで、白光石のように白い肌は皮膚の下の血の色がほんのり透けて薄桃色に染まっている。労働種や戦闘種や貴族種の肌の色ではなかった。頭頂部にわずかに生えている柔らかな髪の毛は栗色をしている。ライラは産湯でコドモを優しく洗いながら、しげしげとコドモを見た。

「それにしても不思議な肌の色をしている。こんなコドモは見たことないわ。卵も不思議な色だったけど・・・ねえ、イザイラさん」

 イザイラは皺だらけの顔に驚きの色を浮かべている。

「伝説にいう女王候補者じゃないのかね。『女王の卵は光により変化する七色にして、産まれたるコドモの肌は白、目の色は濃い緑で翡翠のごとく輝く』というからね」

「なるほどね、目はまだ閉じているから分からないけど、女王様ねぇ・・・伝説は本当なのかね?・・・。はい、綺麗になりまちた、気持ち良かったでしゅねぇ・・・・」


 ギギルたち『オトコのヒト』は、ただ待つしかすることがなく、寝室の隣の居間で思い思いの格好で椅子に腰掛けていた。ギギルとカルムは眠っているらしく、ギギルはグウグウといびきまでかいている。眠れないシンは天井を見つめたまま、せわしなく貧乏ゆすりをしている。

「ウニャー! ウニャー!」

 寝室の中から突然泣き声が響いてきた。

「産まれた!」

 泣き声を耳にしたシンが椅子から飛び上がった。ギギルとカルムは寝ぼけ眼でキョロキョロと辺りを見回している。しばらくするとライラがワタスゲの布に包まれた小さなコドモを抱えて寝室から出てきた。ライラをオトコたちが取り囲んだ。産まれたばかりのコドモを見るオトコたちの顔は、喜びと好奇心と期待がないまぜになった複雑な表情をしている。

「おめでとうございます、とっても可愛いオンナのコドモですよ。名前は?・・・」

 イオリを覗き込んでいるシンの目に涙が滲んでいる。シンはグズリと鼻を啜ると、涙声で答えた。

「このコドモの名前は『イオリ』といいます」

「良い名前だこと。・・・イオリちゃん、お腹が空いているでしょ、お乳を上げましょう。えっと・・・お父さんはどちら?」

 ライラはギギルとシンの顔を交互に見比べた。どちらもコドモには似ていないという顔をしている。ひょっとして、母親似なのかしらと思っているのかも知れない。

「私です。イオリの両親は訳があって亡くなってしまいまして、私が養い親です」

 ライラは養い親と聞いて「アア」と頷き、胸の前に抱えているイオリをシンに渡した。顔付きや肌の色が違いすぎる理由に合点がいったのだろう。

 シンはライラからイオリを受け取ると、危なっかしい手つきでイオリを胸の前で抱えた。ライラは卵の殻を持って台所に向かうと、卵の殻のかけらを少し擦り潰して粉にすると、その粉を温めたチウシの乳に入れてかき混ぜた。

「お母さんがいないなら、産まれてからしばらくは、こうやって卵の殻を少しずつ粉にしてチウシの乳に混ぜて飲ませてあげるといいわ。十カインほど経てばチウシの乳だけでいいけど。カルム、店に哺乳器があったでしょう、持ってきてよ」

 ライラは卵の殻の粉を混ぜた乳を哺乳器に入れると、シンに渡した。シンは恐る恐るイオリの小さな口に哺乳器をそっと押し当てた。ウグウグと音を立てながら、イオリは必死になって哺乳器に吸い付いている。ギギルがシンに近づいてきてイオリを覗き込んだ。

「可愛いもんだ。シンにもこんな可愛い時期があったのかね、今じゃ信じられんが」

「バカを言うんじゃないよ、ギギル。私は可愛いコドモだとアジステアの街で評判だったんだよ・・・たぶんだけどね・・・うん、確かそんなことを母親から聞いた気がするよ」

「そういやあ、俺もお袋に言われたような気がするな・・・確かじゃないが」

 バカな掛け合いをしているギギルとシンに向かって、ライラが声を潜めた。

「旦那さん方、イオリちゃんを見て気付いたかい?見たこともない白い肌の色をしている。労働種でも戦闘種でもないし、たぶん貴族種とも違うね。卵だってすごく綺麗な色をしていたしね。イザイラさんは伝説にある女王候補者じゃないかって言うんだけど・・・」

 ギギルとシンは顔を見合わせた。シンは保育器の底からリトの街が発行したイオリの出生証明書と養育権証明書を取り出してライラに見せた。

「イオリの両親は殺されました。私は縁があってイオリの父親からイオリを託されたんです。不思議な卵の色のせいでイオリは殺されかかったこともあります。女王候補者かどうかは私には分かりませんが、私が責任を持って育てることに変わりはありません。ひとつだけカルムさんとライラさんにお願いがあります。このイオリのことは内密にお願いしたいのです。綺麗な卵だったことも、ここで産まれたことも。もし誰かが訪ねてきても『知らない』と答えて下さい」

 シンは訴えるような目でカルムとカイラを見た。シンの真剣な表情を見て、カルムが少し怯えたような声を出した。

「そりゃお安い御用ですけどね・・・そのう・・・誰かが尋ねてくるのかい?」

「あっ、いや・・・もしも尋ねてくれば、という仮定の話です」

 シンは監督使や女王の耳のことを打ち明けようかと迷った挙句、口をつぐんだ。ギギルの目がやめておけと言っている。無用に怖がらせては可哀そうだ。シンの何とも言えぬ表情を見て、ライラは状況を察したのだろう。ライラはカラリと笑って胸を叩いた。肝っ玉の据わった奥さんなのだ。

「任せなさいな。あたしら夫婦は筋金入りのバカだからすぐ忘れちゃうよ」

 シンたちのやり取りの最中、乳を飲み終えたイオリは小さくゲップをすると、満足したようにシンの腕の中でスウスウと寝息を立て始めた。


 ギギルとシンは産まれたイオリの世話をするために、カルムとライラの家に二カインの間厄介になった。シンは背嚢に入れてあったおむつや産着をイオリに着せた。母親のカオリスがイオリのために作った産着は少し大きかったが、ライラによるとコドモは乳を飲んですぐに大きくなるから問題ないらしい。シンはライラからコドモの抱き方やおむつの当て方を教わり、イオリが産まれた卵の殻の入った小さな袋をライラから受け取った。

 イオリが卵から産まれて三カイン目の日の出時に、ギギルとシンはカルムとライラの家を出た。シンは肩からたすき掛けにしてイオリの入った保育器を抱えている。保育器の中のイオリは産着の上にコドモ用の防風頭巾付き外套を羽織って、鼻と口をワタスゲの襟巻で覆い、外光から目を守るために目にはカルムの雑貨屋で買ったコドモ用の遮光眼鏡を掛けている。コドモながら一丁前の旅人の姿をしている。

 カルムとライラは街の門まで見送りにきた。ライラは細々としたことをシンに教えている。

「分かってるね、卵の殻の粉はチウシの乳に混ぜて十カインの間ほど飲ませるんだよ。チウシの乳がない場合は、ククをお湯に溶かせば乳代わりになるからね。余った殻は袋に入れて、イオリちゃんの首からぶら下げておきなさい。卵の殻は栄養が豊富だから、身体が弱ったときに、殻を粉にして水か乳に溶かして飲ませればいいよ」

 まだ何か言い足りなそうなライラの肩にカルムが手を置いた。そうしなければライラはいつまでも喋り続けそうだった。ライラもイオリと別れるのが名残惜しいのだ。

「ありがとうございました。何とかなりそうです。私とギギルだけなら、どうなっていたことか・・・助かりました」

 シンはカルムとライラに向かって深々と頭を下げた。ライラはイオリの顔を見ると心配そうに言った。

「旦那さん方は本当に出発するのかい、卵から出てきてまだ二カインしか経っていないコドモを街の外に連れ出すなんて、可哀そうに。まだ目も開いていないじゃないか。ねえ、気兼ねせずに、もうしばらくウチにいてもいいんだよ」

 ライラの後ろで、カルムもそうだと頷いた。ギギルは髭面を歪め、白い歯を見せてニコリと笑ってから頭を下げた。

「お心遣いだけありがたく頂戴します。くれぐれもイオリのことは内密に、よろしくお願いします」

 長く滞在すればするほど、カルムとライラを危険に巻き込む恐れが高まるのだ。監督使の襲撃を受ける前に旅立たなければならない。それが、世話になったカルムとライラへのせめてもの恩返しである。

 シンも改めて頭を下げた。

「お世話になりました」

 ギギルとシンはカルムとライラに背を向けると、アルドガの街の門を潜って回廊に出た。カルムとライラのデコボコ夫婦は、門の中で名残惜しそうに手を振っている。日の出時の回廊はボンヤリとした外光に満ちていて、路面は白々と光っていた。風がビョウと吹き抜けて黄色い砂塵が舞い上がった。風は身を切るように冷たい。ギギルとシンは外套の風防頭巾を目深に下ろすと、回廊を黙々と歩き始めた。


 ギギルとシンがアルドガの街を出てから三十カインが過ぎた。

 ギギルとシンは交代でイオリを入れた保育器を抱きながら回廊をゆっくりと進んだ。途中、タクトの街で二カイン、メディクの街で三カイン宿泊してイオリを休ませながら、ククやチウシの乳やヴォルトなどを補給したのだ。

 イオリは乳を飲む度に目に見えて成長し、大きかった産着も今ではイオリの身体にぴったりと合っている。すぐにもう一回り大きな産着に買い替えなければならないだろう。

 卵から産まれて十カイン目に、イオリは目を開けた。イオリの瞳は吸い込まれそうに鮮やかな翡翠色をしていた。ギギルとシンはイオリの瞳を見て、イオリが伝説にいう女王候補者であることを確信した。

 イオリは遮光眼鏡の下で大きな目を開けて周りをキョロキョロと見回して、時折大声で泣いた。そうかと思うと、手足をジタバタと動かして暴れたり、何がおかしいのか突然キャッキャと笑った。そして、スウスウと眠っているかと思うと、シンの外套の胸をおしっこでグッショリと濡らすのだ。

 キノウから回廊の幅が徐々に広がり始め、大陸の壁面に沿ってオニシダの群生が姿を見せ始めた。そしてキョウになると、とうとうギギルとシンの前に黒々としたオニシダの大きな黒い森が現れた。回廊はオニシダの森の中に吸い込まれるように続いている。ギギルとシンはオニシダの森の入口で足を止めた。

「ギギル、次の街までは後どのくらいかな?」

「そうだな・・・次のユパドの街までの距離はまだ一バールはあるから、今の歩く速さだと到着は四カイン後だな。ククの残りはどうだ、持ちそうか」

 メディクの街で仕入れたチウシの乳はキノウの内になくなり、キョウからはククをお湯で溶かした代用乳をイオリに飲ませていた。

「ギリギリという感じだね。少しククを節約しなきゃいけないな」

「俺とシンは二、三カインぐらい何も食わなくても死にやしないさ。足りなくなりそうなら、ククは全部イオリにあげればいい」

「旅の商人でも通れば良いんだけど・・・。それにしてもギギル、私は下層帯生まれだからこんな風景は初めて見たよ。中層帯より上には、こんなに大きなオニシダの森がいくつもあるのかい?下層帯じゃあ、オニシダは五、六本がまとまって生えている程度で、森なんかなかったよ」

 シンは興味深げにオニシダの森に目をやった。下層帯は、液化瓦斯の海から吹き上がってくる瓦斯の雲にしばしば覆われるため、動物相や植物相が上層・中層帯とは大きく異なるのだ。

「ここら辺りはナナ崩れ平原よりも回廊の幅が広いんだが、俺の知っている限りでは見通しのいい平原だったがな。オニシダの数も、もっと少なくて疎らに生えているだけだったはずだ。いつの間にこんな森になったんだろう」

 ギギルは指で顎を擦りながら、目の前に広がるオニシダの森を不思議そうに見ている。しかし、ここで立ち止まっていても仕方がない、先に進むしかないのだ。チウシの乳とククを手に入れるために、できるだけ早くユパドの街にたどり着かなければならない。ギギルは決心したようにウムとつぶやいた。

「シン、とにかく先に進もう。回廊は大陸の一番縁に沿って大きく曲がっていたはずだから、回廊を離れて森の中を真っ直ぐ突っ切るように歩けば、半バールは距離を短縮できるだろう」

「それじゃあ、森の中で近道を探してみようよ」

 ギギルとシンはオニシダの森の中へと続く回廊に足を踏み入れた。


 オニシダの森の中は外光が遮られて薄暗く、ジメジメとして肌にまとわりつくような濃密な空気で満ちていた。回廊はまるで森の中に掘られた隧道のようで、回廊の周囲には幹の直径が一メルから二メル、高さは十五メルから二十五メルもある巨大なオニシダが屏風のように林立しているため、回廊に立っていると森の奥は全く見通せない。オニシダは地面から幹の半ば部分までは枝が生えていないため、地面から突き出た円柱のように見える。遥か上方を見上げると、幹の先端部分近くに枝が広がっていて、濃い緑の豊かな葉を茂らせていた。

 回廊の地面は岩と土がむき出しのままだが、森の中の地面はオニシダの落葉が堆積して腐葉土となり、ヒカリゴケやワタスゲなどの下草が一面を覆い尽くしていた。下草はシンの腰の高さほども伸びていて、緑の垣根のようになっている。ギリギリというリマヅラハネムシの鳴く声が、辺り一面から聞こえてくる。回廊を半ギールほど進むと、入ってきた森の入口が見えなくなった。目の前に森の中の隧道が延々と続いている。

 回廊を進み始めてから二カクンほど時間が経過した。ギギルたちの目の前に、回廊から逸れて森の中へ入って行く細い脇道が姿を現した。前を行くギギルが振り返った。

「シン、この脇道が近道かも知れん。何か目印らしいものはないか」

「それらしいもの見当たらないね・・・でも回廊の左手が大陸の壁面方向だとすると、方向は合っているよね」

 ギギルが指で顎を擦りながらどうしようかと考えていると、保育器の中でイオリがウニャアと小さく泣いた。ギギルの心が決まった。

「よし、それじゃこっちの脇道に入ってみるか。半バールの距離の近道になるなら、試す価値ありだ」

 ギギルとシンは回廊を離れて細い脇道に入った。脇道に足を踏み入れた途端、ギリギリというリマヅラハネムシの鳴く声が急に大きくなった。


 ギギルたちの進む脇道は四ギール進んだ先で二本の道に枝分かれしていた。左側の広い方の道を選んだギギルたちが更に二ギールほど進むと、突然ポカリとした広場に出た。その広場は直径二十メルの円形をしていて、広場の先に、森の中に向かって延びる三本の道の入口が並んでいた。

「いかん、これ以上進むと道に迷いそうだ。まだ回廊から離れて進んだ距離は六ギールちょっとのはずだから、無理せず引き返したほうが無難だな」

 ギギルは後ろを振り返った。ギギルとシンの後方にも三本の道が口を開けていた。

「これは・・・俺たちはどの道から出てきたんだ?」

「恐らく私の真後ろの道じゃないかな?・・・あれ?でも、こっちの道にもヒトが歩いたような跡がある」

 ギギルはグルリと広場の周囲を見回した途端、ユラリと視界がぼやけて軽いめまいを覚え、方向感覚を失った。ギギルとシンを中心にして、広場がゆっくりと回っているような錯覚に陥った。

「クソッどれも同じで、見ていると目が回るぜ。少なくとも目の前の三本の道は違うってことだよな」

 イオリを胸に抱いたまま、シンはキョロキョロと視線をさまよわせている。

「ねえギギル、目の前って・・・どれのことだい?・・・」

 既に、どの道から広場に入ってきたのかすら、ふたりには分からなくなっていた。ふたりをあざ笑うかのように、リマズラハネムシのギリギリという鳴き声が大きくなった。

「くそっ、分からん・・・」

 ギギルは声を失った。シンはフウと大きくひとつ息を吐いた。

「ギギル、こういうトキは少し座って落ち着かなきゃ。ひとまずチャルでも飲もうよ。考えるのはそれからにしよう。イオリにも乳をやる時間だしね」

 シンはニッと笑うと、広場の真ん中にペタリと腰を下ろした。ギギルは右手で髭面をゴシゴシと擦ると、「そのとおりだ」と言ってシンの横に腰を下ろした。焦ってはロクなことにならないと、ギギルの経験が告げている。


 シンが枯れ枝を集め、火を焚いて湯を沸かすと、湯にククを溶かしてイオリに飲ませた。残りの湯でチャルを淹れ、ギギルとシンは焚き火の周りに腰を下ろしてチャルを啜った。チャルと言っても、チウシの乳はもうないため、湯にバーチャの葉を入れただけの茶色の湯だ。普通のチャルより渋みは強いが、爽快な香りには変わりがない。

 広場の周囲はギリギリというリマズラハネムシの鳴き声で満ちていた。オニシダに囲まれているためだろう、風はそよとも吹かない。ネットリとした質感の空気がふたりを取り巻いていて、微かにゲッコウユリの甘い蜜の香りが漂っている。

 ギギルはチャルの入った椀を持ったまま、頭上に目をやった。屋根のように頭上を覆っているオニシダの葉の僅かな隙間から差し込む外光は徐々に力を失い始めていた。

「さてと、日の入り時までの時間は、あと三カクンといったところだろう。できれば日の入り時までに回廊に戻っておきたいが・・・。とにかく、明るいうちに足跡を調べてみるか。ふたりが歩いてきた道なら、地面に足跡が残っているだろうからな」

 シンはホウという顔をした。

「ギギルはそういうのは得意なのかい」

「やったことはないがな」

 ギギルは平気な顔をして言った。シンは目をパチクリとさせている。

「私がオニシダに登って大まかな方向を確認するよ。少なくとも大陸の壁面はどこからでも見えるだろうから。まずは壁面に向かって歩こうよ」

 今度はギギルがホウという顔をした。

「シンはオニシダ登りは得意なのか」

「やったことはないけどね」

 お返しだとばかりにシンが平気な顔をして言った。今度はギギルが目をパチクリさせている。

 チャルを飲み終えると、ギギルは道の上に屈みこんで土の上に残る足跡を調べ始めた。シンはイオリの入った保育器をギギルに預けてから、手ごろな太さのオニシダの幹にしがみついた。へっぴり腰でオニシダの幹と格闘しているシンの姿を見て、ギギルは思わず苦笑した。

「シン、無理するなよ。落ちて怪我でもしたら大変だ」

「まあ、任せてよ・・・それっ・・・おかしいな、それっ・・・」

 オニシダの幹の表面は滑々していてとっかかりがなく、枝は遥か上方で揺れているだけで、手の届く範囲には掴まるものが何もなかった。シンは手袋を外し長靴も脱いで裸足になってオニシダの幹に取り付いたが、二メルも登れずにズルズルと下に落ちてしまう。

「ダメだ、幹がつるつるで登れない」

「シン、もういいよ、無理するな」

「ギギルの方はどうだい?歩いた跡は見つかった?」

 ギギルはひとつの道の前で、地面に片膝を突いて足跡を調べている。ギギルの足元には至る所に小さなヒトの足跡が残っていた。

「それが不思議なんだ。ほとんどの道にヒトが最近歩いたような足跡があるんだ。しかも、ひとつやふたつじゃない、そこら中にいっぱいあるんだ。多くのヒトが頻繁にこの道を使っているようだな」

「へえ・・・それじゃ待っていれば、誰かがここを通るってことだね」

「そうなるな・・・足跡が小さいのが気になるが・・・まさか、コドモがこんなところに?」

 首を捻っていたギギルは、イヤイヤと考えを打ち消した。こんな森の中をコドモだけで歩いているなどあり得ない。

「よし、それじゃここでしばらく様子を見てみるか。最悪の場合に備えて、ここで野宿ができるように準備をしておこう。手分けしてできるだけ多く枯れ枝を集めるんだ。但し、森の奥には深く入るなよ」

 ふたりは地面に落ちているオニシダの枯れ枝を集めた。長い枝を組み合わせて三角錐状の支柱を立てると、広場の脇に生えていたホテイバショウの大きな葉を何枚も支柱の上に被せて、簡単な寝床を作った。寝床の中にもホテイバショウの葉を敷いて背嚢を並べ、イオリを入れた保育器をその上に置いた。イオリは保育器の中でフガフガと声を上げながら、手足をバタつかせている。

 結局、誰ひとり姿を見せないまま、とうとう日の入り時を迎えた。森の奥から薄闇が霧のように滲み出て辺りがボンヤリと霞むと、あっという間にヨルの闇が訪れた。しかし、森の中には所々にヒカリゴケやホタルシダが自生していて、漆黒の闇が満ちることはなかった。ヨルの闇の底で仄かな薄緑色の光が、まるで森全体が静かに呼吸しているように、濃くなったり薄くなったりを繰り返していた。

 シンは火を焚いて湯を沸かし、ククを溶かしてイオリに飲ませた。お腹がいっぱいになったイオリはすぐに静かになった。ギギルとシンはチャルを飲み、一枚のククを半分に分けて食べてから、焚火の周りで車座になってギギルの持っているヴォルトをちびりちびりと回し飲みした。ギリギリというリマヅラハネムシの鳴き声が、オニシダの葉から滴り落ちてくる水滴のように頭上から降り注いでいる。

 ヨルが深くなった。シンはムクリと起き上がると、広場の端に立って暗闇に向かって小便を始めた。シンがブルリと身体を震わせてから顔を上げると、森の中で無数の青い小さな光が瞬いた。いつの間にかリマヅラハネムシの鳴き声は止んでいて、辺りは耳の奥が痺れるような張り詰めた静寂に包まれていた。どこかでカサリと何かが動く音が聞こえた。何かが森の中に潜んで、こちらを見ている。その視線は凶悪な害意に満ちているようだ。シンは森の中の青い光から目を逸らさないようにゆっくりと後退さると、焚火の傍に近づきギギルの肩を静かに揺らした。

「ギギル、起きているかい」

「うーん・・・いかん、ウトウトしていた。どうしたシン」

「森の中に何かがいるようだ。沢山の青い小さな光が見えた」

 ギギルは弾かれたように上体を起こした。

「何だと、青い小さな光? まさかタテガミオオカミか・・・しかし、ここは中層帯だ。やつらは上層帯の寒い地域が生息域のはずなんだが・・・だがもしタテガミオオカミなら厄介だ。シン、荷物を持て。イオリを抱えて保育器には覆いを掛けろ」

 ギギルの硬い表情を見て、シンは心配そうに瞳を揺らした。

「タテガミオオカミってヒトを襲うのかい?」

 ギギルは硬い表情のまま頷いた。

「獲物がいなくなる冬場には群れで人を襲うことがある。用心するに越したことはない。シン、ヒカリ玉を胸の前に垂らせ。背後から襲われないよう大きなオニシダの幹を背にして、その前で焚火をおこそう」

 ギギルとシンは二抱えもある太い幹のオニシダを背にして立ち、目の前に枯れ枝を積み上げると火を付けた。メラメラと大きな炎が上がり広場を明るく照らし出した。イオリが突然フニャフニャと泣き始めた。

「シィー・・・静かにイオリ、泣かないで。お腹が空いたのかな、それともおむつかな・・」

 シンは保育器をユラユラと揺らしながらイオリをあやしている。ギギルはシンとイオリを背後に庇うように炎の前に立つと、長剣を抜いて周囲に目を配った。周囲の森の闇の中に数えきれないほどの青い小さな光が浮かび上がり、濃密な獣の気配が流れ出てきた。

 ギギルは獣の気配に眉をひそめると、シンに囁いた。

「シン、間違いない、タテガミオオカミだ。すっかり囲まれちまったようだ、気を抜くなよ」

 ギギルは左手の手袋を外すと、ズボンの腰紐に手袋を挟んだ。シンは胸の前に保育器を抱えたまま、右手で投石器を構えている。保育器の中でイオリがフニャフニャと泣き続けている。

「ねえギギル、焚火は日の出時までもつかな」

「この枯れ枝の量じゃ難しいだろうな。周囲によく気を配るんだ、焚火が消えたら一斉に襲ってくるぞ」

 何かの気配を感じたのか、イオリが泣き止んだ。

 それが合図であったかのように、森の闇の中から走り出てきた一頭の大きな獣が、焚火の炎を飛び越えてシンに襲い掛かった。体長が一・五メルもある銀色の毛をしたタテガミオオカミだった。長い鼻先の下の大きく裂けた口から二本の長い鋭い牙が覗いている。両耳はピンと立ち、両目は血走ったように赤く、ふさふさとしたたてがみが首の周りから背中の半ばまで覆っている。体長の割に短く太い四本の足には鋭い爪が付いている。太く長い尾が激しく揺れている。

「ひゃああ・・」

 シンは悲鳴を上げながら、無我夢中で投石器を振り回した。シンが咄嗟に振るった投石器は、鞭のようにしなり、投石器の先端部分が唸りを上げてタテガミオオカミの顔面を直撃した。タテガミオオカミの鼻骨が砕け、上あごに生えている長い二本の牙がへし折れた。牙を折られたタテガミオオカミは飛び掛かった勢いのままシンの横をすり抜けると、あっという間に闇の中に消えた。地面には血に濡れた折れた牙が落ちている。

 もう一頭のタテガミオオカミが焚火を回り込むようにしてギギルに飛び掛かった。ギギルは左手のカギ爪を振り上げてタテガミオオカミの喉を抉ると、右手の長剣をタテガミオオカミの太い首に思いっきり叩きつけた。ビシャリという濡れた布を叩いたような音がして、タテガミオオカミの首が胴体から切り放された。首を失くしたタテガミオオカミの胴体は、切り口から血を吹き出しながらドサリとギギルの足元に倒れた。首のない胴体はしばらく手足を痙攣させていたが、すぐに動かなくなった。

「シン、大丈夫か」

「何とか無事だけど・・・労働種の私には荷が重いよ」

 青い顔をしたシンの足がガクガクと震えている。

「今のは小手調べだ。やつら俺たちの様子を見てやがる。隙を見せるなよ」

 広場の周囲の暗闇の中からタテガミオオカミのグルグルという唸り声が響き、数頭のタテガミオオカミがゆっくりと森の中から広場に出てきた。タテガミオオカミたちは焚火を挟んでギギルとシンを睨みつけ、前足を屈めて体勢を低くすると、二本の牙をむき出してグルルと威嚇音を発した。ギギルはカギ爪と長剣を身体の前で交差させ、少し腰を落として上体を屈めると、上目遣いにタテガミオオカミを睨みつけた。

 ヒョウという風を切る音と、ゴッという鈍い音がした。

 ギャンという鳴き声を発して、シンの前にいたタテガミオオカミが森の中に逃げ込んだ。再びヒョウという風を切る音がした。シンが投石器で投じた石をひらりと躱したタテガミオオカミは、そのまま森の中に走り去った。広場にいた残りのタテガミオオカミも、後に続くようにして森の中に走り去った。ギギルたちを襲ったのは先遣隊で、ギギルたちの力量を計っていたのだ。次に襲ってくるのは、タテガミオオカミの本隊となる。その襲撃は熾烈を極めるだろう。

 濃密な獣の気配が、霧が消えるように遠退くと、広場の周囲の闇の中から、ギリギリというリマズラハネムシの鳴き声が湧き上がってきた。

 ギギルは長剣を下ろして大きく息を吐いた。

「フウ・・・とりあえずしばらく時間稼ぎができたぜ」

 二投目の投石を簡単に躱されたシンは、驚いた顔をしている。

「投石器で投げた石を、この至近距離で躱すとは、信じられない・・・タテガミオオカミはとんでもない反射神経を持っているようだね」

「シン、イオリは大丈夫か」

 シンは保育器の覆いを外してイオリを見た。イオリは瞼を閉じてスウスウと寝息を立てている。シンはイオリの頬を優しく撫でたついでにおしめに手をやった。おしめはグッショリと濡れていた。

「イオリは大丈夫。イオリは気配を察したのか泣き止んでくれたよ。今は寝ている。可哀そうに、おしめは濡れたままだけど・・・」

 ギギルは頭上に目をやった。オニシダの枝々の隙間から微かに見えるヨルの空はまだ暗い。

「日の出時まであと三カクンといったところか・・・この次はやつらの本隊が一斉に襲ってくるだろう。やつらは夜行性だ。日の出時まで何とか持ちこたえなきゃならんが・・・オニシダの上に登れないかな・・・」

 ギギルは背後のオニシダに目をやった。シンはオニシダの幹をペタペタと叩いた。

「幹の表面がつるつるで硬いから、剣で叩いても小さな引っ掻き傷ぐらいしかつかない。足場にもならないと思うよ。紐を伝いながら登るのなら何とかなりそうだけど」

「それだ! シン。紐を結んだ石を投石器で放り上げて、紐が枝に絡まれば何とかなるぜ」

 シンが頭上に目を向けた。上方に真っ直ぐ伸びるオニシダの幹は、途中から闇に埋もれて見えない。

「上の方は暗くてよく見えないけど、やって見ようか」

 キヌグモの紐の先に、手のひらほどの細長い石を括り付けると、シンは投石器を構えた。ヒョウという風を切る音がして、紐の軌跡を残しながら、投石が遥か上に向かって飛んでいく。オニシダの枝があると思われる方向に、シンはめくらめっぽうに石を投げ上げた。しかし何度投げても紐は枝に絡まらず、石はポタリと地面に落下してくる。シンが焦れば焦るほど手元が狂い、投石はあらぬ方向に飛んで行く。

 焚火の勢いが徐々に弱まってきた。広場の周囲の暗闇の中からタテガミオオカミの唸り声が再び響き始め、オニシダの幹の隙間で無数の青い小さな光がチラチラと瞬いた。

 シンが投石を諦めかけてぞんざいに投げた投石が、やや左に反れてオニシダの枝に偶然絡まった。

「ウン?・・・よしっ絡まった! いけそうだ」

「シン、紐を伝って登ってくれ。イオリは預かる。俺の肩に乗れ」

「まかせて、ギギル」

 シンは保育器をギギルに渡すと、長靴を脱いで裸足になった。そしてギギルの肩の上に立つと、そこから紐を伝いながらオニシダの幹を登り始めた。最初は腕の力だけで紐を手繰るようにして登っていたシンだが、六メルほど登ったあたりから幹の表面にざらざらとした産毛が生えていて、足の力も利用することができるようになった。そしてシンは何とか地面から十メルの高さにある一番下の枝にたどり着いた。枝の直径は三セルもあり、シンが上に乗ってもビクともしなかった。

「ギギル、枝にたどり着いたよ。枝に紐をしっかり巻き付けるから・・・これでよし。ギギル、上がってきて」

「シン、紐の先端に保育器を結んだ。まずイオリをそっちへ引き上げてくれ」

 シンが紐を手繰り上げると、紐の先にイオリの入った保育器と背嚢が結び付けられていた。シンはイオリの入った保育器をたすき掛けにして肩から下げると、落とさないように胸の前でしっかりと抱えた。

「ギギル、イオリは受け取ったよ。さあ、ギギルも早く!」

 ギギルは枝の上に座っているシンを見上げると、髭面を歪めてニヤリと笑った。

「シン、俺は登るのは無理だ、片腕なんでね。それにオトナがふたりも乗ると枝が持たないかもしれん。まあ見ていろ、俺はカギ爪のギギルだ。シンとイオリを庇いながらだと動きづらいが、俺だけなら何とか切り抜けて見せるぜ。背嚢の中に石を入れてあるから、シンは枝の上から投石器で援護してくれ」

「そんな・・・酷いよ。私だけ安全なところに逃げるなんて」

「シン、逃げたんじゃないぜ、イオリのためだ。お前イオリを守ると約束したんだろう? これがイオリを守る最善の方法だ」

 確かに、シンの力ではタテガミオオカミからイオリを守り抜くことはできないだろう。イオリの安全を第一に考えるのなら、この方法しかないのだ。

 ギギルからは見えなかったが、シンは分かったという風に下唇を噛んで頷いた。シンはオニシダの枝に自分の身体と保育器をしっかりと結わえると、枝に跨り身体を固定させてから右手で投石器を構えた。

「ああ、ギギル。焚火が消えそうだ・・・くるよ!」

 ギギルはオニシダの幹を背にして広場を向いている。ギギルはカギ爪と長剣を身体の前に交差させ、腰を少し落として身構えると、カギ爪をペロリと舐めた。焚火の炎は今にも消えそうにユラユラと細い光を揺らめかせ始めた。二十頭ほどのタテガミオオカミがゆっくりと森の中から広場に出てきた。真ん中にいる一頭は他のタテガミオオカミよりも一回り大きく、全身が真っ白な毛で覆われている。群れの首領だ。

 消えかけている焚火を飛び越えて、二頭のタテガミオオカミがギギルに向かって飛び掛かった。

 ギギルは右から襲ってくるタテガミオオカミの、大きく開けた口に向かって真っすぐ長剣を突き出しながら、左から襲ってくるタテガミオオカミの顔面をカギ爪で切り裂いた。右から襲ってきたタテガミオオカミの口の中に長剣が刀身の半ばまで埋まり、剣先はタテガミオオカミの首の後ろから飛び出した。左から襲ってきたタテガミオオカミは、顔面から血を吹き出しながらギギルの横を抜け、背後のオニシダの幹に頭から激しくぶつかった。ゴクリと音がして、首の骨が折れた。タテガミオオカミはドサリと地面に落ちると動かなくなった。

 倒れた二頭のすぐ後ろから回り込むようにして、新たな二頭のタテガミオオカミが、左右からギギルに襲い掛かった。ギギルは右足を軸にして身体を捻り、右から襲ってきたタテガミオオカミの首を、長剣を振るって一撃で両断した。ギギルは、剣を振り下ろした勢いを利用してその場に屈むと、左から飛び込んできたタテガミオオカミの喉を目掛けて下から剣を突き上げた。喉を串刺しにされたタテガミオオカミは、ギギルの上に圧し掛かるように倒れ込み動かなくなった。

 タテガミオオカミの死体の下敷きになったギギルは、そこから這い出そうと必死になって身体を捩りもがいている。倒れたギギルに向かって、一頭のタテガミオオカミが牙をむいて走り寄ると、ギギルの左足に噛みつこうとした。

 ヒョウという風を切る音と、ゴッという鈍い音がした。ギギルの左足に噛みつこうとしていたタテガミオオカミの右目に投石が命中した。右目を潰されたタテガミオオカミは、ギャンと声を上げると広場の外に逃げ去った。

 ギギルはタテガミオオカミの死体の下から這い出ると、地面をゴロゴロと転がって身体を移動させ、回転した勢いを利用して立ち上がった。

「ギギル! 後ろ!」シンの悲鳴のような声が上がる。

 ギギルは振り向きざまに長剣を投げた。長剣は青白い流星のように光の尾を引きながら空中を走り、背後からギギルに飛び掛かろうとしていたタテガミオオカミの脇腹に深々と突き刺さった。

 ギギルの右手からタテガミオオカミが飛び掛かる。ギギルは舞うように身体を捻ってタテガミオオカミを躱すと、タテガミオオカミの伸びきった胴体の真ん中にカギ爪を叩き込んだ。カギ爪が深々と刺さったままタテガミオオカミが地面に落ちると、ギギルは腰の後ろの短剣を抜き、倒れ込むようにしてタテガミオオカミの心臓目掛けて短剣を突き立てた。心臓を刺し貫かれたタテガミオオカミは、地面に倒れたままブルリと身体を震わせて動かなくなった。

 シンの投石器から放たれた投石が、ギギルを取り囲んでいるタテガミオオカミに向かって唸りを上げて飛び、ギギルに飛び掛かろうとしているタテガミオオカミの動きをけん制している。

 ギギルはカギ爪を死体から引き抜き、弾かれたように立ち上がると、身体の前にカギ爪と短剣を交差させて身構え、広場の真ん中にいる白いタテガミオオカミを睨みつけた。ギギルは口を開けてハアハアと大きく喘ぎ、肩が上下に揺れている。さすがのギギルも疲れているのだ。しかし、ギギルの目は闘志をみなぎらせて青白く燃えている。ギギルはゴクリと唾を飲み込んでから、白いタテガミオオカミに声を掛けた。

「お前さんが群れの首領だろう。俺はカギ爪のギギル。お前さんの手下のような、ヘナチョコなオオカミじゃ俺は倒せないぜ。差しの勝負だ、かかってこいっ!」

 白いタテガミオオカミは禍々しく口を開いて大きな牙を見せると、ゆっくりとギギルに向かって歩き始めた。周囲のタテガミオオカミたちは、ゆっくりと後退りをして戦いの輪から離れていく。

 ギギルは白いタテガミオオカミの赤いふたつの目をじっと見つめながら、少し腰を落として上体を屈め、カギ爪をペロリと舐めた。ギギルの口の中に、錆びたクロムを舐めたようなタテガミオオカミの血の味が広がった。ギギルはペッと地面に唾を吐いた。

 焚火の最後の炎がゆらりと揺れ、指先で摘まんだようにスッと細くなると、糸のような細い煙が宙に昇った。

 ・・・くる!・・・

 ギギルは迎え撃つために一歩前に足を踏み出そうとした。

 白いタテガミオオカミはギギルから視線を外すと、何かを感じたのか、訝しむように左右を見回した。そして『グルッ』という小さな鳴き声を上げると、サッと身体を翻して森の中に消えた。残りのタテガミオオカミも、その後を追ってあっという間に森の中に姿を消した。

 ヒカリゴケの薄緑色のボンヤリとした光に照らされた広場の中で、ギギルはヒカリ玉を胸の前に垂らして唖然とした顔で立っていた。何が起こったのか分からないが、とにかく死地を脱したことは間違いない。シンがオニシダの枝の上からギギルに声を掛けた。

「ギギル、大丈夫かい・・・いったいどうしたんだろう。やつら急に逃げて行ったよ・・・ギギルの剣幕に恐れをなしたのかな」

 ギギルはまだ首を捻っている。

「分からん。だがあの白いタテガミオオカミはやる気満々だったがな・・・とにかく助かった。シン、そこから何か見えるか、タテガミオオカミの目がどこかで光っていないか」

「ここからは何も見えないね」

「シン、日の出時までそこで様子を・・・ウン?」

 ギギルは身体が少しふらついたような気がして、右手をオニシダの幹に当てた。

 突然、ギギルの身体が空中に放り上げられたように一瞬浮き上がると、次に足元の地面が消えたように落下して、ギギルは地面に叩きつけられた。

「地震だ! でかいぞ」

 その直後、巨人の手で弄ばれるように、ギギルの身体が前後左右に激しく揺さぶられた。地面は波打つように揺れている。ゴゴゴという腹の底が震えるような低い地鳴りが辺り一面に響き、オニシダの森全体が巨大な不定形の原生生物のようにざわざわと蠢いている。メリメリと音がして、広場の周囲に立っている数本のオニシダが幹の根元から折れた。イオリの入った保育器を抱えたまま、シンはオニシダの枝の上から振り落とされないように必死になって幹にしがみついている。

 ギギルの目の前に地割れが迫ってきた。地面に両手を突いて四つん這いになり、激しい揺れに耐えていたギギルの両手両足の間を抜けて地割れが走った。右手と左手の高さが変わる。左側の地面が沈下し、右側の地面が隆起しているのだ。瞬く間に地割れの幅が広がり始めた。このままでは地割れに呑み込まれてしまう。ギギルは飛び退くようにして左側の地面に転がり込むと、這うようにして地割れの縁から離れた。タテガミオオカミの死体がひとつ、吸い込まれるように地割れの深淵に落ちた。反応が少しでも遅れていれば、ギギルも地割れの深淵に落ちていただろう。

 地震の激しい揺れは呼吸二十回分も続いた。

 揺れの収まった地面にギギルはペタリと座り込んでいた。しばらく放心したように首を垂れていたギギルは、ハッと顔を上げた。

「シン!大丈夫か!」

 ギギルが振り返ると、目の前に五メルほど高さの壁が現れていた。隆起した地面と沈下した地面の境界の断層が、壁となってギギルの目の前に横たわっていた。断層の壁の前には、幅が四メルの地割れが深淵となって漆黒の口を開けている。シンの登ったオニシダは隆起した地面側にあるため、沈下した地面側にいるギギルからは見えない。ギギルはヨロヨロと立ち上がると左右を見回した。ギギルの膝はまだガクガクと笑っている。断層の壁は延々とはるか先まで続いていて切れ目が見えない。

「オーイ、ギギル、そこにいるかい!」

 断層の壁の上からシンの声がした。どうやら無事だったようだ。ギギルはホッと顔を緩めると、両手を頭上で大きく振った。

「オーイ、シン、ここだ」

 断層の壁の上の地面に腹ばいになったシンが恐る恐る顔を覗かせた。シンの顔は恐怖のために引きつっている。

「シン、無事か。良かった。イオリはどうした?」

「イオリも無事だよ。酷い揺れだったけど、身体を紐でオニシダの枝に括りつけていたおかげで、何とか枝から振り落とされずにすんだ。危ないところだったけどね」

「シン、地割れの縁が崩れると危ない、地割れから少し離れていろ」

 ギギルがそう言ったそばから、目の前の断層の壁面からヒトの頭ほどもある岩がガラリと崩れ落ちた。シンがヒッと声を上げて身体をのけ反らせた。

「俺はこの壁を登れる場所を探して、そっちに向かうから、そこで動かずに待っていてくれ。余震に気をつけろよ」

「分かった。ギギル、待っているよ」


 ギギルは断層の壁に沿って大陸の壁面があるはずの左方向に移動した。時々思い出したかのように、大きな余震が地面を揺らし、断層の壁からボロボロと剥がれた岩の塊や土埃が、カラカラと音を立てながら地割れの深淵に向かって落ちていく。

 道なき森の中を進むには、断層の壁から離れないようにしなければならない。もしも断層の壁から離れて森の中に迷い込んでしまったら、おそらく二度と出られなくなるだろう。しかし、あまり断層に近すぎると、大きな余震によって足元の地面が崩れる恐れもある。

 ヨルの闇の中で、胸の前に垂らしたヒカリ玉と、所々で自生しているヒカリゴケの薄緑色の光を頼りにして、ギギルは常に目の端に断層の壁を意識しながら歩いた。森の中では、地震によって所々でオニシダが倒れて行く手を塞いでいた。ギギルは腰の高さほどもある下草を掻き分け、倒れたオニシダの幹を乗り越え、余震がくる度に歩みを止めながら、森の中をゆっくりと歩いた。

 一ギールほどの距離を進むと、ようやく断層の壁の高さが徐々に低くなり始めた。地割れの幅もいつの間にか二メルほどに狭まっていた。地割れの口が閉じて、壁の高さがもう少し低くなれば断層の壁をよじ登ることができるだろう。

 何とかなりそうだとギギルが思いながら歩いていると、どこからか微かにヒトの声が聞こえてきた。ギギルは空耳かと思い、ふと顔を上げて周りを見回した。地震の影響なのだろう、周囲の森の中から姿の見えない多くの生き物の発するザワザワとした気配が伝わってくる。その気配の中で今度はハッキリとヒトの声が聞こえた。

「(ウカカ語)テトメレス・・・イクト、テトメレス・・・《助けて、誰か助けて》」

 オンナの声だ! 何と言っているのかは分からないが、尋常ではない声音だ。

 ギギルは壁に沿って声のする方向に走った。そして、走りながら大声で叫んだ。

「誰かいるのか! どこだ!」

「タスケテ・・・ココ ココデス・・・」

 ギギルの声が聞こえたのだろう。たどたどしい大陸共通語で助けを求める声が響いた。

 二十メルほど先の地割れの縁から小さな片手が突き出ていた。その片手は地割れの縁に浮き上がった細いオニシダの根を掴んでいる。

「手を離すなよ、もう少しの辛抱だ。すぐ助けるからな」

 ギギルは小さな手の前まで走り寄ると、地面に腹ばいになり、右手で小さな手を掴んだ。

 ギギルが地割れの縁から下を覗き込むと、小さなヒトが怯えた目でギギルを見上げていた。小さなヒトの背中にはコドモがしがみついていて、今にもずり落ちそうに両足をバタバタと動かしている。コドモは、泣き疲れたのか、小さく開いた口から泣き声は漏れていない。小さなヒトはもう一方の片手をコドモの腰に回して、必死になって子供を支えていた。コドモの重みに耐えかねて、身体が小刻みに震えている。今にも手を放しそうだ。

「今引き上げてやる。頑張れ、コドモを放すなよ」

 ギギルは小さなヒトに声を掛けてから、右手一本で小さなヒトを深淵の縁の上へ引っ張り上げた。

「よし、もう大丈夫だ・・・」

 ギギルはコドモを胸の前に抱え上げると、小さいヒトの襟首をつかんで深淵の縁から少し離れた所まで引っ張っていった。小さいヒトは力尽きたように地面に突っ伏したまましばらく動かなかったが、ギギルがコドモを小さいヒトに渡すと、小さいヒトはコドモを抱きしめて頭を撫でながら泣き始めた。コドモはキョトンとした顔でギギルを見つめている。

「アリガトゴザイマシタ、アリガトゴザイマシタ・・・」

 小さいヒトはコドモの母親だが、オトナにしては身長が三分の二メルほどしかなく、肌の色は黒かった。頭髪は黒くイワゴケのように縮れている。細い目と低い鼻の下に分厚い唇が付いていて、身体はずんぐりとした体形をしている。大陸共通語を話すことができるようだが、言葉の発音はギギルたちとは少し違っていて、ぎこちない。チウシやリマではない不思議な動物の毛皮で作った服を着ている。戦闘種でも、労働種でも、貴族種でもないようだ。

 しばらくして泣き止んだ小さいヒトは、子供を胸の前に抱えると、ギギルに頭を下げた。

「アリガトゴザイマシタ。ワタシタチノイノチ タスカリマシタ」

 ギギルは地面に片膝を突いて、屈みこむようにして小さなヒトの目を見ながら言った。

「いやあ、間に合ってよかったよ。俺はギギル、あんたは?」

「ワタシピピ コノコリリ イイマス。ナントオレイスレバイイカ」

 ギギルは髭面を歪めてニコリと笑った。

「ピピさんとリリちゃんか、お礼なんていいよ。とにかく無事でよかった。リリちゃんビックリしたろう」

 ギギルは右手でリリの頭を優しく撫でた。恥ずかしがり屋なのか、リリはピピの胸にパッと顔を埋めた。ピピはリリの背中をポンポンと叩いている。

 ピピの腰には小さな袋が括りつけられていて、中には甘い蜜を含んだゲッコウユリのつぼみが沢山入っていた。開花直前の日の出時の頃が一番甘くなるゲッコウユリを採りにきて森の中で道に迷い、地震に遭ったのだろうとギギルは思った。まったく運の悪いことだ、いや、それは俺も同じかと、ギギルは胸の中で苦笑した。

「ピピさんもこの森で迷ったのかい。それなら一緒にどうだい」

 ピピは首を横に振った。

「ワタシハ コノモリニ スンデイマス チカクニムラガアリマス」

「こんな森の中に村が?・・・ははあ、道の上に残っていた小さな足跡は、その村のヒトのものか」

 ギギルは合点がいったと、ひとりで頷いている。

「ギギルサン オレイヲシナキャ。ムラヘドウゾ」

 ピピはギギルの手を取って、どこかへ連れて行こうと引っ張っている。ギギルはピピの手を優しく押し返した。

「仲間が断層の壁の上で待っているんでね、ゆっくりしていられないんだ。気持ちだけ貰っておくよ」

 何度か押し問答を繰り返した後、ピピは諦めたように手を放して、もう一度ギギルに頭を下げた。

「それじゃ」

 ギギルは髭面を歪めてニコリと笑い、右手を上げてピピに挨拶すると、断層の崖に沿って歩き出した。十メルほど歩いてから、ギギルはアッと思って立ち止まった。ピピはこの森に住んでいると言った。それなら道案内を頼めばいい。マッタク俺も鈍いぜと思いながらギギルが振り返ると、ピピとリリの姿は森の中に溶け込んだかのように消えていた。


 ピピとリリを助けた地点から半ギールほどの距離を進むと、ようやく地割れは口を閉じ、断層の壁の高さも三分の二メルほどになった。ギギルは断層の壁をよじ登ると、今度は壁の縁に沿ってシンとイオリが待つ広場に向かってオニシダの森の中を歩いた。そろそろ日の出時が近づいているのだろう、森の中がほんのりと明るい。胸の前に垂らしたヒカリ玉の光を頼りにしなくても、歩けるようになった。

 何とかギギルはシンのいる広場に戻ることができた。

 シンは保育器を胸に抱き、オニシダの幹に背中をもたれ掛けるようにして地面に座っていた。シンの前で焚火の炎がユラユラと揺れている。シンは護身用の短剣を握りしめて、身体の横には投石器を置き、地面には拳ほどの大きさの石を山のように積んでいる。用心しているのだろう、緊張で強張った顔をしてキョロキョロと周囲に目を配っている。イオリはシンの緊張などお構いなしに、保育器の中でキャッキャと笑ったり、フガフガと何か言葉らしきものを発している。

 ガサリと音を立ててギギルが森の中から広場に姿を見せると、シンはホッとした顔を見せ、短剣を鞘に納めた。シンの顔には待ちくたびれたと書いてある。森の中に迷い込むことなく、何とか無事に広場に戻ってこられたギギルは、ヤレヤレという顔をしてシンの横にドカリと腰を下ろした。さすがのギギルも顔に疲れの色が浮かんでいる。ギギルは右手で髭面をゴシゴシと擦った。断層の下でシンと別れてから戻ってくるまで、たった三ギールばかりの距離を、三カクン近くもかけて歩いたことになるのだ。精神的な疲労感は相当なものだろう。

「酷い地震だったな。地面が裂けるのを初めてみたぜ」

 身体の真下を走った地面の亀裂から間一髪で逃れたことを思い出して、ギギルはブルリと身体を震わせた。

「この大陸の終わりかと思ったよ」

「シン、もうすぐ日の出時だ。タテガミオオカミはもう心配しなくていいだろう。イオリに乳を飲ませて、俺たちもチャルとククで腹ごしらえをしたらすぐに出発しよう。とにかく回廊に戻らにゃならん。それからシン、出発前にもう一度オニシダに登って、大陸の壁面の方向を確かめてくれ」

「分かった」

 地震のおかげでタテガミオオカミの襲撃から何とか身を守ることができたが、この次襲撃されたらどうなるか分からない。あの白いタテガミオオカミと戦わずに済むなら、それに越したことはない。そのためには、次のヨルがくる前に、この森から抜け出すことが必要なのだ。ギギルはシンの淹れたチャルを啜りながら、先ずは大陸の壁面方向に進もうと考えていた。

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