邪教サリー教の神殿
ギギルたちがジルの宿屋に戻ってから二カクンが経過した。
ギギルとシンはトキオンの半島側にある特別街区の入口の検問所の前に立っていた。
ギギルはゾグの上着を羽織り襟巻で鼻まで顔を覆っている。頭には頭髪を隠すためにクロムの兜を被っている。いつも肩から下げている長剣は目立つためジルの宿に置いてきたので、ギギルは手ぶらだ。何かあれば腰の後ろの短剣とカギ爪で戦うつもりなのだ。
シンはジルから借りたトキオンで流行のザックリとした襟なし丸首の上着を着て、ギギルと同じく襟巻で鼻まで顔を覆い、巡礼者と気付かれないよう両手にリマ革のピッチリした手袋を嵌めている。ギギルとシンの懐にはチウシの胃袋の水筒があり、中にはクロドクダミの薬湯が入っていた。
特別街区の入口の検問所は幅二十メルもあり、ヒトの出入りする通路の他に乗用のリマやリマの引く客車の通路、食料品や生活雑貨などを運び入れる荷車専用の通路も設けられていて、多くのヒトや荷車が往来していた。検問所には労働種の事務員のオトコが四人と、戦闘種の護衛が六人立っている。事務員たちが、街の中に入ろうとするヒトに通行証の提示を求めていた。
ギギルとシンが検問所に入ると、業務用の取って付けたような笑みを浮かべた事務員が近寄ってきた。左腕には検問所と書かれた緑色の腕章を付けている。事務員の後方で、ひとりの護衛が胡散臭そうな目でギギルたちを見ている。特別街区には場違いな風体だと思っているのだろう。
「通行証を拝見します」
そう言ってペコリと頭を下げた事務員に、ギギルとシンは無言で通行証を差し出した。
「どうも・・・こちらの通行証はオラハン様の発行・・・こちらは鉱石市場の発行っと・・・はいどうも、ありがとうございました。おふたりともオラハン様の邸宅へ?・・・いえね、キョウのヨルは一ギグに一度のホシヨミのヨルでしょう。オラハン様の邸宅じゃお客を呼んで一晩中宴会をするそうで、ここを通るヒトが多いんですよ。食べきれないほどの御馳走と飲みきれないほどの酒が振舞われて、大道芸人による出し物もあるそうですよ。羨ましい、あたしもいつかご相伴に預かってみたいもんです・・・」
事務員は聞かれもしないことをペラペラと喋ると、もう興味はないという仕草で通行証を返した。ギギルとシンは無言で通行証を受け取ると、ギギルが片手を上げて事務員に挨拶し、ふたりは検問所を抜けて高級住宅街に入った。
「一ギグに一度の宴会というのは、サリー教の集会かな」
「恐らくそうだろう、ジルの話じゃサリー教の集会はヨルが一番深い頃に行われるらしい。日の入り時まではまだだいぶん時間がある。まずは、どうやってオラハンの邸宅に忍び込むかだな」
ギギルとシンはトキオンの地図を見ながら、中央大通りを抜けて環状の街区周遊通りに入ると、半島の先端に向かった。半島の先端部分の四分の一を占めるオラハンの邸宅はすぐに分かった。街区周遊通りに面した邸宅内部への入口は六か所もあり、それぞれの入口にオニシダの分厚い板で造られた門が設けられていて、門の前には戦闘種のオトコの門番がふたりずつ、一メルほどもある警棒を持って立っている。門の内側にも警備員の待機所があり、四、五人の戦闘種のオトコたちが椅子に座って話をしたり、チャルを飲んだりしている。
六つの門の中でも、邸宅の正門はひときわ大きく、幅は十メル、高さは街区周遊通りの天井まで届く五メルもある。巨大な正門はトキオンの『黒の大門』を模した造りになっていた。
そろそろ昼食時が近くなり、着飾った貴族種のオトコやオンナ、高級官僚と思われる青い襟なしの上着を着た労働種のオトコ、高級将校の制服を着た戦闘種のオトコたちが、続々とオラハン邸の正門に吸い込まれていく。正門の横には詰襟の黒い執事服を着た秘書官のオトコが数名控えていて、正門を入る招待客から手に持った招待状を受け取っていた。
ギギルとシンは正門から少し離れた街区周遊通りに立って、正門の様子を覗っていた。招待客から招待状を奪う方法がないか考えているのだ。
しばらくすると正門の中から白い執事服を着た執事のゴーラが出てきた。相変わらず、萎びたカラシウリのような細長い顔をしている。ゴーラは秘書官たちに声を掛け、招待客に向かってにこやかな笑顔を見せると、すばやく正門の外に目を配った。ゴーラの目に、この場に不釣り合いな姿でボンヤリと立っているギギルとシンの姿が映った。ギギルはゾグの上着を着てクロムの兜を被り、襟巻で鼻と口を覆って俯いている。ゴーラはゾグの上着に気付くと、チッと舌打ちをした。
「あれはゾグじゃないか。あんな所でボオッと立ってやがる。マッタク、キノウの報告もしないで・・・不死の戦士はいいが、頭は空っぽで言われたことしかできん。所詮は粘菌の塊だ」
ゴーラは小声で独り言を呟くと、近くにいた護衛に声を掛けた。
「おい、あそこにボオッと立っているでかいオトコがいるじゃろう。儂の手下のゾグというやつじゃ。頭が少し、いや、だいぶん足りんから、お前、行って声を掛けて、やつを邸宅の中に入れてくれ。・・・正門を使うなよ、目障りじゃ。通用門に回れ。後で儂が顔を出すから、面会室に入れておいてくれ」
ゴーラはそう言うと慌ただしく正門の中に戻って行った。ゴーラから命令を受けた護衛は、ギギルとシンに近寄ると、ギギルに声を掛けた。
「ええっと、お前はゾグだな。執事のゴーラ様が中に入れと仰っている。付いてこい」
ギギルとシンは一瞬顔を見合わせた。罠かという考えがギギルの頭をよぎった。ギギルは探るような目を護衛に向けたが、護衛はギギルの様子を気に止めることもなく、正門に背を向けるとスタスタと歩き始めた。その後ろをギギルとシンが無言で付いて行った。
二百メル先の通用門まで行くと、護衛は門の前に立っている門番に声を掛けた。
「ご苦労さん、執事のゴーラ様からの命令だ。こいつはゴーラ様の部下のゾグ。中に入れて面会室に連れて行ってくれ。後からゴーラ様が・・・うん? お前は何だ」
ギギルの後ろに付いてきたシンを見て、護衛は怪訝な顔をした。シンは襟巻で鼻まで顔を覆ったまま、モゴモゴと言った。
「私はゴーラ様の部下のマスルです。このゾグと一緒に、ゴーラ様から密命を受けております」
「ゴーラ様はお前のことなんぞ何も言わなかったぞ。とにかくお前はダメだ、帰れ」
護衛はシンの肩をグイッと突いた。
シンと護衛のやり取りを聞いていた門番が、シンに向かってオヤッ? と顔を向けた。門番は額に手を当てて、必死に何かを思い出そうとしている。
「マスル、マスル・・・どこかで聞いたような・・・そうだ、キノウのヨルだ。火急の用件で入って行ったオトコが、『オラハン様から直々にご命令を受けたマスル様が』と言っていた。お前、キノウのヨルのオトコの知り合いか」
シンは大きく頷くと、モゴモゴと言った。
「そのオトコは保育器を持っていたでしょう」
門番は謎が解けてスッキリしたという晴れ晴れとした顔をした。完全な誤解だとも知らずに。
「ああ、持っていた。分かった、このオトコもゴーラ様の部下だよ。よし、ふたりとも付いてきな・・・面会室に連れて行けば良いんだな」
「そうだ、後はお前に任せる、よろしくな」
護衛は一仕事終えたという顔で片手を上げると、正門に向かって駆けて行った。
ギギルとシンは門番に連れられて邸宅内に入り、廊下通路を右に左に何度も曲がった後、面会室に入った。十メル四方の面会室は、部屋の真ん中にオニシダの長細い机と四脚の椅子が置かれているだけの、装飾など一切ない殺風景な部屋だった。雑多な陳情や用談を秘書官が聞き取る部屋なのだろう。
「キョウは一ギグに一度のホシヨミのヨルだから、オラハン様の邸宅では大宴会だ。来客も多いから、執事のゴーラ様は大忙しだろう。待たされるかも知れんが部屋から出るなよ」
門番はそう釘を刺すと、ギギルとシンを残して面会室を出て行った。
「何だか分かんないけど、上手くいったね」
シンがキョトンとした顔で言った。こんなに簡単に邸宅の中に入れるとは思っていなかったのだ。ギギルは指で顎を擦りながら、まんざらでもない顔をしている。
「執事のゴーラとやらが俺の姿を見てゾグと間違えたらしい。どうだ、俺の作戦が見事に成功しただろう」
「行き当たりばったりの作戦じゃないか。まあ、結果はよかったけどね」
シンは呆れたような声を出した。ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑った。
「ヒヒヒ、それも作戦の内だ、裏の裏まで読んでるのさ。行き当たりだろうが何だろうが、バッタリと倒れなきゃそれでいいのさ。ところで、さっきの門番の話だと、やはりイオリはここにいるな」
「ジルさんの言っていたサリー教の秘密の寺院も、このオラハン邸の中にあるのかな」
「恐らくな。あるいは秘密の通路で繋がっているのかも知れん」
「そうすると宴会の招待客はサリー教の信者なんだろうね」
「そうだろう・・・そうか、招待客の中に混じればいいのか。よしっ、招待客の集まっている部屋を探そう。招待客らしい服も調達しなきゃいかんな」
突然、面会室の入口の扉が開き、黒い執事服を着た秘書官のオトコが部屋の中に入ってきた。
「ゴーラ様はお忙しくて手が離せない。キノウの首尾だけ報告しろとの御下命だ。秘書官の私からゴーラ様にお伝えする。ゾグ?・・・お前は誰だ?」
ギギルは疾風のように秘書官に走り寄ると、鳩尾に強烈な当て身を入れた。呻き声も立てずに崩れ落ちた秘書官を抱えると、ギギルは丸めたワタスゲの布を秘書官の口の中に押し込み、素早く服を脱がせ始めた。
「シン、これに着替えろ。コイツは縛り上げてどこかに放り込んでおこう。秘書官の格好なら邸内をうろついても怪しまれないからな・・・髪型は・・・仕方ない頭の後ろで髪を縛れ。・・・よし、行こう」
秘書官の姿をしたシンがゾルグ姿のギギルを先導するようにして、ふたりは面会室を後にした。
一カクンが経過した。
ギギルとシンはオラハン邸の中央大広間の中に首尾よく潜り込んでいた。シンは黒い執事服、ギギルは軍事指導のためにトキオンにきているガンデラ軍の将校用軍服を着ていた。ギギルの着ている将校用軍服の持ち主は猿轡をはめられ、身動きできないように縛り上げられて用具入れに放り込まれている。
中央大広間は百メル四方の巨大な空間で、天井を支える岩柱が二十メルおきに整然と並んでいる。床にはトルキス産の最高級毛織物が敷かれ、腰の高さほどの白光石の大きな円卓が飛び石のように配置されて、その上に料理と酒が所狭しと並べられていた。
宴会は日の入り時を過ぎてから始まる予定だが、多くの招待客が早くから集まって酒を飲み料理を食べて、そこここで歓談している。大広間の周囲には疲れた招待客用に長椅子が幾つも並べられていて、早々に酔いつぶれた招待客が何人か長椅子で寝転んでいる。ギギルは酔いつぶれたふりをして長椅子に横になり、シンはそれを介抱しているふりをして長椅子に腰掛けていた。
日の入り時が迫ってくると、中央大広間の中のヒトの数は更に増えた。どこからかドーンドーンという太鼓の音が響いてきた。日の入り時を知らせる太鼓の音だ。
回廊大陸では日の出時から一カイン(一日に相当)が始まり、日の出時から日の入り時までが『ヒル』、日の入り時から次の日の出時までが『ヨル』とされている。ヒルの長さは十カクン、ヨルの長さも十カクンで、季節によってヒルとヨルの長さが若干変動する。ヨルが始まった。
日の入り時を知らせる太鼓の音が鳴り止むと、中央大広間の入口の扉が一斉に閉められた。大広間の中を埋め尽くすヒトの塊がサッと左右に分かれて道ができた。その道を白い執事服を着たゴーラの先導により、オラハン・ズ・デリが静々と歩いて、中央大広間の真ん中にある演台の上に立った。オラハンはキヌグモの糸で織った光沢のある布製のゆったりとした上下の礼服を着て、ヤクウの毛で編まれた膝まである長衣を羽織っている。
中央大広間に溢れていたザワザワという喧騒がスウッと止み、中央大広間に静寂が満ちた。演台の下でゴーラが声を張り上げた。
「貴族種、デリ家の御当主。トキオン上院街区議会議員、トキオン鉱石市場特別役員、トキオン・ガンデラ軍事協議会常任理事、トキオン貴族種高等大学校名誉学長、この宴の主催者。オラハン・ズ・デリ!」
ゴーラの紹介を受けてオラハンは軽く頷くと、演台の上から周囲をゆったりと見回した。丸い顔に満面の笑みを浮かべている。オラハンの太くて低い声が響いた。
「皆さん、ようこそいらっしゃいました。皆さんのお顔を拝見できてうれしく思います。キョウは一ギグに一度のホシヨミのヨル、我々にとって大変重要なヨルであります。どうか心ゆくまで料理とお酒を堪能していただき、日頃の憂さを存分に晴らしていただければ幸いです。それでは・・・皆さんのご健康とご健勝を祈念して、乾杯!」
オラハンの発声による乾杯の声に呼応して中央大広間に乾杯の声が上がり、続いて大広間の中は大きな拍手に包まれた。オラハンはヒトの輪の中に立って、ヴォルトとシリカバチの蜜の入った水晶の杯を持ったまま、招待客からの挨拶に対してにこやかな笑顔を返している。オラハンの左後方に貼りつくように立っているゴーラも、萎びたカラシウリのような細長い顔をわざとらしく歪めて笑顔を振りまいている。中央大広間はザワザワという喧騒に包まれ、招待客の笑い声がそこここで上がった。
一抱えもある水晶の大皿に、リマの焼き肉、リマの肉の煮込み、アブラマメの炒め物、アオナマズの燻製、イワツバメの串焼き、焼いたククに甘辛いリマの挽肉を挟んだマグ、ククの黒砂糖焼き、イワブドウやヤマモモなどの果物・・・などの様々な料理が山のように盛られていて、そうした大皿がひっきりなしに大広間の中に運び込まれている。ヴォルトやヴォールを入れた水晶の杯を載せた盆を手に持った秘書官が招待客の間を回って、空になった杯と交換している。焼けたリマ肉の甘い脂の匂いとヴォルトやヴォールの酒精の香りの入り混じったムッとするような空気の中に、水晶の煙管から吐き出されたヤニクサの紫煙がうすい靄のようにたなびいている。
宴会の開始から二カクンほどが経過した。長椅子で横になって会場内を見回していたギギルは、何人かの招待客が黒い執事服の秘書官に連れられて中央大広間から出て行くのに気が付いた。そしてしばらくすると執事のゴーラに先導されて、オラハンが中央大広間の出入口に向かって歩いて行くのが見えた。
「シン、オラハンが大広間から出て行くぞ。いよいよサリー教の儀式が始まるんだろう。イオリはそこにいる。俺たちも付いて行くぞ」
ギギルとシンが長椅子から立ち上がろうとすると、神経質そうに眉間にしわを寄せた黒い執事服の秘書官がシンの傍に足早に近づいてきた。ギギルとシンは変装がばれたのかとヒヤリとながらも、何食わぬ顔をしている。秘書官は、黒い執事服を着ているシンの耳元に口を寄せると早口で囁いた。
「こんな所で何をしている、そろそろ時間だぞ。信者の方々が移動したら、すぐにアマシビレグサを焚くんだ。早く持ち場に付け」
シンを秘書官の同僚と勘違いしているのだ。
「キョウの私の担当はどちらでしたっけ」
間の抜けたようなシンの声を聞いて、秘書官が顔を歪めてチッと舌打ちをした。眉間のしわが深くなった。ギギルはさりげなく秘書官の背後に回った。
「お前は今頃何を言っているんだ、バカめ。自分の担当ぐらい・・・」
秘書官が言い終わる前に、ギギルの手刀が秘書官の首筋に叩き込まれた。崩れ落ちる秘書官を、ギギルが抱えて長椅子に寝かせた。シンは素早く周囲を見回したが、ギギルの早業に誰も気付いていない。
「こんなになるまで飲んじまって・・・しばらく横になっていた方がいいぜ」
ギギルは隣の長椅子で酔い潰れて正体不明の貴族種のオンナが掛けているひざ掛けを取って、横になった秘書官の顔を隠すように、秘書官の上体をひざ掛けで覆った。シンは貴族種のオンナが脇に置いている帽子と上着を掴み上げると、帽子を目深に被り、秘書官服の上から上着を羽織った。そしてギギルとシンは首から下げていた銀色の小さな紋様飾りを胸元から引っぱり出すと、胸の前に垂らした。その紋様飾りはマスルとゾグが持っていたものだ。
そうしているうちに、中央大広間の出入口の扉が一斉に閉められ始めた。
「シン、急ごう。とにかくこの中央大広間から出るんだ」
三つある中央大広間の出入口の扉の、最後の扉が閉められようとしていた。ギギルとシンが扉に走り寄ったが、扉の前で秘書官が両手を上げてふたりを制止した。
「外に出られるのはご容赦願います。お客様はこの大広間で、ごゆるりとご歓談願います」
「ちょっと待ってくれ。俺・・・いや、私達も外に出たいんだ。邪魔をしないでくれんか」
ギギルは将校用軍服に付いている勲章を見せびらかすように胸を張ると威圧的に言った。シンは帽子を目深に被り上着の襟を立てて顔を伏せ、ギギルの身体の陰に隠れるように身を縮めている。
「申し訳ございません、時間でございまして」
秘書官の口調は丁寧だが、一歩も外に出さないと言わんばかりに、扉の前で両手を横に広げている。ギギルが食って掛かった。
「なぜ出ちゃいけないんだ。外に出たヒトが沢山いるじゃないか」
「あちらは特別なお客様でして、オラハン様が別室でおもてなしされます。一般のお客様は・・・ん?・・・それは紋様飾り。大変失礼いたしました、まだ残っている方がいらっしゃったとは」
ギギルとシンの胸の前の紋様飾りに気付いた秘書官は、突然態度を改めた。
「まだ間に合います、お急ぎ下さい」
中央大広間の扉から廊下に出たギギルとシンは左右を見回した。廊下には既にヒトの姿はなかったが、廊下の左の奥から微かなヒトの話声と、サワサワという足音が聞こえている。
「ギギル、左だ」
「シン、ちょっと待て、こいつを仕掛けてからだ・・・よし。さあ行くぞ」
ギギルは懐からヤモリグモを掴みだし、尻から出ている糸を中央大広間の扉の取っ手に巻き付けると、ヤモリグモを自分の背中に貼り付けた。ギギルとシンはヒトの話声がする左方向に向かって廊下を駆けだした。
廊下の百メル先で応接室の扉が開かれていて、最後の招待客が応接室の中に入って行くのが見えた。応接室の扉を閉めようとした秘書官が、走ってくるギギルとシンに気付き、部屋の中から早くこいと手招きをしている。
ギギルとシンが応接室に入り肩で息をしていると、応接室の扉が静かに閉ざされた。
「オラハン様、信者の皆様お揃いでございます」
執事のゴーラの声にオラハンは無言で頷くと、応接室の壁に掛けてあるオラハンの肖像画の前に立ち、額縁の下に隠されている小さな突起を押した。白光石の粉をドロウルシに混ぜた白漆喰を塗った壁の一部が音もなく横に滑り、ポッカリと空いた穴が姿を現した。秘密の通路の入口だ。オラハンは無言で中に入った。
「それでは皆様、どうぞ中へ。足元にお気を付け下さいますように」
執事のゴーラの声に促され、応接室にいた招待客は次々と秘密の通路に入った。ギギルとシンも招待客の後に続いて最後に中に入った。通路は幅一メル、高さ二メルあって、十メルほど奥に進むと、五メル四方の四角い小さな部屋があった。その部屋には細長い机が置いてあり、その上に灰色の頭巾付き長衣と灰色の仮面が置かれていた。灰色の仮面は薄いチウシの革で作られていて、顔全体を覆うもので、のっぺりとして凹凸がなく、丸いふたつの目と椀を伏せたような半円形の口の部分だけ穴が空いている。仮面には頭の後ろで結べるように紐が付いていた。
部屋に入った招待客は服の上から長衣を羽織り、仮面を顔に当てて紐で結ぶと、頭巾を目深に被った。そして銀色の小さな紋様飾りを首に掛けた。ギギルとシンは仮面を被る前にこっそりとクロドクダミの葉を丸めたものを口に含み、鼻と口にもクロドクダミの葉を当ててから襟巻で覆った。大広間でシンを同僚だと誤解した秘書官が、アマシビレグサの名前を口にしたことを用心しているのだ。ギギルとシンは仮面を当てて、長衣の頭巾を目深に被ると、銀色の小さな紋様飾りを首に掛けた。ふたりは顔を見合わせると頷き合い、招待客の後を追った。
部屋の反対側にも幅一メル、高さ二メルの通路が続いていた。通路には所々にヒカリゴケの雪洞が吊るされている。硬い岩盤層を避けるように、通路はウネウネと蛇行しながら距離にして半ギールほど続き、その先にぽっかりと開けた空間が現れた。
そこは硬い岩盤層の中にできた峡谷で、剣の形をした石柱が大小無数に林立していて、壁面や床に自生するヒカリゴケの薄緑の光を受けて石柱がキラキラと輝いていた。剣の形をした石柱の正体は水晶で、透明な六角形の結晶が林立して荘厳な剣の宮殿を形作っていた。
水晶の峡谷の中にヒトが何とか歩けるほどの細い道が付けられていた。その道は徐々に下り坂となり、二百メル先で突然途切れていた。地面が大きく裂けて行く手を阻んでいるのだ。二十メルほどの幅の地面の裂け目の上には、裂け目のこちら側と向こう側を繋ぐ橋のように一本の大きな水晶の柱が倒れていた。その透明な水晶の橋の上を、信者たちはまるで空中を浮遊しているかのように渡っていく。水晶の橋の上に立つと、足元には漆黒の深淵が口を開けていて、はるか下から湿気を含んだ風が吹き上がり、ゴウゴウと水の流れる音が響いている。
水晶の橋を渡り切った先には縦横五十メルの小さな広場があり、その先は垂直に切り立った岩壁となっていた。岩壁ははるか上まで延びていて、途中からは闇に霞んで見えない。信者たちの最後尾について水晶の橋を渡ったギギルとシンは、岩壁の前の広場に立った。広場にいる四十人ほどの信者は誰ひとり口を利かず、身じろぎもせずに立っている。
トキが満ちたのだろう、ゴーラがオラハンの耳元で何ごとか囁いた。オラハンは無言で頷いた。
岩壁の前に立ったオラハンは、壁に手を当てると厳かに言った。
「サリーの神ヴァーラム様よ。我ら信者に神殿への道をお示しください」
岩壁の前の広場は静寂に包まれている。しばらくすると地鳴りのような低い音がギギルとシンの腹の底に響いてきた。その音が徐々に大きくなると、それに合わせて地面が微かに振動を始めた。信者たちは地面にひざまずき、合唱した両手を頭上に掲げた。信者たちの手には銀色の小さな紋様飾りが握られていた。
ゴゴゴという音とともに、オラハンの前の岩壁に三角形の切れ目が入り、切れ目の上部からゆっくりと穴が空き始めた。岩壁の一部がゆっくりと下がっているのだ。三角形の穴はさらに広がり、一カイ後には神殿へ繋がる三角形の入口が完全に開かれた。
「いざ、サリー神の御許へ」
オラハンは神殿の入口に足を踏み入れた。オラハンに続いて、執事のゴーラがひとりの信者の肩を抱いて入口の中に進む。信者たちは胸の前に両手を合わせ、銀色の小さな紋様飾を握りしめて無言のまま静々とゴーラに続いた。シンとギギルは信者たちの最後尾から神殿の入口を潜った。三角形の通路は長さ十メルで、三角形の頂点となる通路の一番高い所で二メルあった。長身のギギルでも頭上を気にすることなく、立ったまま歩くことができる高さだ。
シンが小声でギギルに尋ねた。
「いったいどういう仕掛けなんだろうか。その・・・サリー神の力かな」
ギギルは通路の壁面や床を手で触れて、岩の感触を確かめている。
「分からん。だが周囲の岩壁と足元の岩は種類が違うな。足元の岩は柔らかくて、小さな穴が無数に空いている・・・軽石のようだな。この床の岩が何かの仕掛けで上下して、神殿への入口を開けたり閉めたりしているんだろう。サリー神の力なんかじゃないぜ」
三角形の通路を抜けると、その先には巨大な地下鍾乳洞が広がっていた。地面はチウシの乳のように真っ白で、千々に乱れる水面のようなヒダ状の模様を描いている。天井から滴るように伸びる白い氷柱と、床から上に伸びる白い石筍が整然と並んでいる姿は、ザドラの牙を連想させる。氷柱と石筍が繋がった柱が至る所に立っていて視界を遮っている。
鍾乳洞の左半分は大きな地底湖が満々と水を湛えていた。鍾乳洞の右手の壁一面が、凍りついた滝のような巨大な鍾乳石となっていて、その滝の中程に半円形の穴が空いている。
そこがサリー教の神殿だった。
鍾乳石を削って造った階段が鍾乳洞の床から真っ直ぐ神殿に向かって延びていた。神殿の中から溢れ出るようにして植物の蔓が這い出て、神殿の周囲を覆っている。神殿の中には鍾乳石を切り出して造った腰の高さほどの祭壇が設けられていた。
祭壇の前に鮮やかな朱色の祭服を纏ったオンナが立っていた。サリー教の神官バルである。身体は枯れ枝のように細く、ノッペリとした顔はしわだらけで、垂れ下がった瞼で両目は半ば閉じられている。薄い唇は死んでいるかのように紫色をしている。
バルの左右には戦闘種のオトコが三人ずつ、右手に剣を持ち片膝を突いた姿勢で控えている。護衛たちはゾグが着ていた上着と同じものを着ていた。護衛たちの顔はゾグと同様にいずれも怪異で、兄弟や従兄弟が並んでいるように見える。
オラハンは神殿に延びる階段を上り、バルの前に進むとひざまずいた。そして踵まである長い衣の下に隠すようにして抱えていた保育器を恭しくバルに差し出した。
「神官バル様、女王候補者の卵でございます」
オラハンが囁くように言うと、バルは小さく頷いた。バルは保育器を受け取るとオラハンの頭を軽く撫でてから、保育器を祭壇の上に置いた。
神殿の中にバルのしゃがれた声が響いた。
「我はサリー教の神官バル。神殿に集いし信者よ、よく聴け。一ギグに一度のホシヨミのヨルがきた。サリー神ヴァーラム様に祈りと生贄を捧げて忠誠を誓うのじゃ。さすれば偉大なるサリー神ヴァーラム様はそなたらをこの世の迷いから解放し、永遠の命を授けて下さる。サリーオンバヤクヤムニスンソヤカン、サリーオンバヤクヤムニスンソヤカン・・・」
神官バルの唱える呪文に合わせて、信者たちは立ったまま身体を左右に揺らしながら呪文を唱え始めた。神殿の周囲に立てられたヒカリゴケの雪洞の覆いが護衛たちによって外されると、ヒカリゴケの発する光が白い鍾乳石に反射して、鍾乳洞の中は眩いほどの薄緑色の光に満たされた。六人の護衛は、ふたりが階段の下、ふたりが階段の上、ふたりがバルの後ろに進み、それぞれがその場所で片膝を突いた姿勢で控えた。
薄緑色の光に照らし出された鍾乳洞の中は、壁や床の至る所から植物の蔓が這い出て絡み合い、壁や床を覆っていた。蔓の根元には所々にヒトの頭ほどもある大きな蕾が付いていて、蕾の下にはチウシの胃袋ほどもある蓋の付いた大きな捕虫袋がぶら下がっていた。食虫植物オニウツボカズラの群生である。神殿の奥には、バルの身長ほどもあるオニウツボカズラの大きな蕾が顔を覗かせていて、その背後の神殿の壁一面が白くヌメヌメと蠢いていた。
「シン、祭壇の上に保育器がある。イオリはあそこだ。ここからじゃよく見えん、もっと前に行こう」
「大丈夫かな」
「全員同じ格好をして仮面を被っているから分かりゃしないだろう。いいか、隙をみて神殿に駆け上がり、イオリを抱えて逃げるぞ。いいな」
ギギルとシンは信者たちをかき分けながら前に進んだ。
神殿の奥の大きな蕾がゆっくりと膨らみ、やがてイワヘビが口を開くようにヌタリと花弁が開いた。上下二枚のポッテリとした肉厚の花弁の色は毒々しい赤紫で、黒くて長い雄蕊と黄色い雌蕊がイワヘビの舌のようにだらりと花弁の外に垂れている。神殿の奥の蕾が花開くのに合わせて、鍾乳洞内を覆っている蔓の根元の蕾も一斉に花弁を開いた。そして、花弁の下についている捕虫袋の蓋がゆっくりと持ち上がった。
オニウツボカズラの開花が進むにつれて、痺れるように甘く微かに腐臭を纏った香りが辺りに漂い始めた。その甘い香りを嗅いだ信者たちの仮面の下の目は虚ろになり、涙と鼻水と涎を垂らしながら、身体を左右に揺らして呪文を唱え続けている。信者たちの恍惚とした意識は桃源郷の中をさまよっているのだ。
ギギルとシンも目立たないように、周りの信者たちに合わせて身体を左右に揺らした。ギギルは周囲の信者たちのただならぬ様子に気付いた。
「シン、信者たちの様子がおかしい。あの花から出る香りが信者たちを狂わしているようだ」
シンはしきりに頭を左右に振っている。
「ギギル、頭の芯がチリチリと痺れる・・・気が遠くなりそうだ」
「クロドクダミの葉を噛んで、呼吸はできるだけ浅くしろ」
口に含んでいるクロドクダミの葉をモグリと噛んで、苦い唾液を飲み込むと、シンの頭がスッと軽くなった。
「ギギル、大丈夫だ」
「このままじゃ埒が明かん、そろそろケリをつけるか。シン、行くぜ!」
ギギルとシンが信者たちの中から飛び出そうと身構えると、突然、バルが呪文を唱えるのを止めた。ギギルとシンは飛び出す機会を失して、思わずその場で身を固くした。信者たちは身体を左右に揺らして呪文を唱え続けている。
「生贄をここへ」
バルの声を聞いた執事のゴーラは、横に立っている信者の肩を抱き、信者を抱えるようにして階段を上った。
バルの前に連れ出された信者はゴーラの手によって頭巾付きの長衣を脱がされた。長衣の下から仮面で顔を隠しただけの、身体に何も纏っていないオンナの姿が現れた。オンナは下を向いてうなだれている。バルは生贄のオンナの手を取り、祭壇の上に仰向けに横たえた。バルは祭壇の奥に咲いている大きなオニウツボカズラの花弁に近づき、雄蕊を一本引き抜くと、その雄蕊を両手で揉みほぐしながら生贄のオンナに近づいた。
「さあ、これを嗅ぐのじゃ。そう・・・恐れることはない。お前の心臓を貰うが、痛みは感じない。心臓の代わりにお前の身体に粘菌を埋め込んであげよう。粘菌がお前の身体を支配すれば、夢の世界の中でお前は永遠の命を授かるのじゃ、眠れ、眠れ・・・」
バルは生贄のオンナの鼻と口を両手でふさいだ。
オラハンがしびれを切らしたようにバルの背中に声を掛けた。
「神官バル様、私の不老不死の妙薬の方もそろそろお願いしたいのですが。女王候補者の卵は既にお手元にございます。神殿の出入口が閉まるトキも考えませんと・・・」
バルは振り返ると、目でオラハンを制した。
「オラハンよ、まずはサリー神ヴァーラム様に生贄を捧げてからじゃ。この女が眠るまでしばし待て」
オラハンは首を縮めると、不満げに唇を歪めた。
バルは垂れ下がった瞼を持ち上げるようにしてオラハンを見た。
「それに不老不死の妙薬には強いオトコの心臓が要る。英雄の心臓がな。そう、例えばザドラを倒したような・・・フフッ、カギ爪のギギルと呼ばれるオトコがそこにいるのは分かっている。ザグ、ジグ、そのオトコをここへ連れてくるのじゃ」
バルがギギルを指差した。
突然名前を呼ばれたギギルは、腹の中でヒヤリとしたものの、何ごともないかのように身体を左右に揺らした。ギギルの隣で身体を硬くしたシンの腰を、バルに気付かれないように、ギギルが指先でチョンと突いた。大丈夫だという意味だ。シンも再び身体を左右に揺らし始めた。
バルの命令を受けて、階段の下で控えていたふたりの護衛ザグとジグが、剣を構えてギギルに向かった。
ギギルは身体を左右に揺らしながらシンにささやいた。
「フフン、どうやらバレていたみたいだが、まあ、俺たちにとっちゃあ渡りに舟だ。シン、俺は花の香りに酔っているふりをする。祭壇に上ればこっちのもんだ。祭壇で俺が暴れはじめたら階段を駆け上がってこい。そして、イオリを抱いたら俺に構わず逃げるんだ、いいな」
「ギギル、気を付けて」
「任せろ。・・・サリーオンバヤク・・ナントカカントカ、サリーオンバヤクナントカカントカ」
ギギルはいい加減な呪文を唱えながら身体を左右に揺らし、ザグとジグに手を引かれて階段を上った。
「ザグ、ジグ、そのオトコは後に控えさせておけ。では、そろそろ生贄の儀式を始めるか。・・・我らがサリー神ヴァーラム様よ、我らの信仰心の証としてこのオンナの心臓を捧げます。このオンナの心臓とその血を糧とされ、そのお力を我らにお示しください。我らをこの世の迷いから解放し、我らに永久の命を授けて下さりますように・・・サリーオンバヤクヤムニスンソヤカン、サリーオンバヤクヤムニスンソヤカン・・・」
バルは呪文を唱えながら懐から短剣を取り出すと、短剣を頭上に高々と掲げた。
・・・こりゃあいかん。あのオンナを助けなきゃ。・・・
ギギルは咄嗟に、バルに飛び掛かろうと腰を落とした。
祭壇の上に仰向けになっている裸のオンナの左乳房の下に向けて、バルが短剣を振り下ろす直前に、仰向けに寝ていたオンナがムクリと上体を起こした。
「お母さん、もう止めて!」
オンナはそう叫ぶと仮面を外した。それは宿屋の女主人のジルだった。
「ジル! お前、なぜここに・・・」
バルの動きが止まった。目の前にいるのは娘のジルだ。バルは驚愕の目でジルを見ている。あらかじめクロドクダミの薬湯を飲んでいたジルは、オニウツボカズラの香りの中でも正気を保っていた。
「お母さん、お願い。これ以上罪もないヒトの命を奪うのは止めて」
ジルはバルに向かって両手を広げ、じっとバルの目を見つめた。ジルの半開きの眠たいような目には、魔道に堕ちた母親を見る悲しみが溢れている。バルは短剣を頭上に振り上げた姿勢のまま動かない。祭壇の横に立っているオラハンとゴーラは突然の成り行きに目を白黒させている。
「ゴーラ、このオンナは何者だ。生贄に用意した若いオンナはどうした」
「オラハン様、確かに若いオンナを用意して隠し部屋に・・・いったいどこですり替わったんじゃろう?」
ジルはゆっくりと祭壇から降りると、バルの前に立った。
「お母さん、短剣を下ろして頂戴。それとこの卵も育て親に返してあげて」
ジルは祭壇の上に置かれているイオリの入った保育器を手に取るとギギルを見た。仮面を被ったままのギギルの顔は、ジルには見えない。突然の出来事に、ギギルは声を失っていた。さすがのギギルも一瞬思考が停止したのだ。
ギギルに向かってジルの叱咤が飛んだ。
「ギギル、早くイオリを・・・。何をやってるんだい!」
バルは仮面のような無表情で、ゆっくりと首を横に振った。
「無駄じゃ、そのオトコはオニウツボカズラの花の香りに酔っている。何も見えんし何も聞こえん、恍惚の夢の中に浸っておるわ。自らの意思で動けやしない」
バルの声は徐々に狂気を帯び始めた。
「ジル・・・ひとつ言っておくよ、お前の母親のバルは死んだ。アタシはサリー神ヴァーラム様のしもべ、神官バルだよ。ヴァーラム様は生贄の心臓と血に飢えておられる・・・お前の心臓と血を!」
バルの両目から瞳が消え、両目はぽっかりと空いた真っ赤な穴となった。バルの唇が少し開き、上下の歯の間からイワヘビの舌のような黒い触手がヌメリと滑り出た。
バルはジルの左胸目掛けて短剣を振り下ろした。ジルは振り下ろされた短剣を避けようともせず、両手を広げたまま左胸で短剣を受けた。母親バルの犯した罪に対する罰を、自らの身体で受け止めたのだ。ジルの左胸に短剣が鍔元まで深々と突き刺さった。
「!」
ギギルは左手の手袋を投げ捨てると、ギギルの右に立っているザグの顔面を下から上へカギ爪で切り裂いた。その動きの反動を利用してその場でクルリと身体を回転させると、ギギルに向かって剣を振り上げようとしているジグの腹を思いきり蹴った。腹を蹴られたジグは仰向けに倒れて床を滑り、神殿の縁から信者たちのいる鍾乳洞に転がり落ちた。
「ジル!」ギギルが叫ぶ。
ジルは保育器を祭壇の上に置くと、半開きの眠たいような目を少し緩め、口角をキュッと上げて、ギギルに向かってニコリと笑ってから、両手でバルを抱きしめた。そしてジルはバルを抱いたまま、神殿の奥に向かってヨロヨロと歩いた。
バルはジルの胸に抱かれたまま、抵抗することもなくジルに従っている。ジルがこれから何をしようとしているのか、バルは知っているのだろう。バルはこの一瞬だけ正気に戻ったのかも知れない。
神殿の奥にある巨大なオニウツボカズラの花弁の前の床には、大きな穴が空いていて、その穴の中にはオニウツボカズラの巨大な捕虫袋が禍々しい口を開けている。ジルとバルは絡み合うような姿勢で、頭からオニウツボカズラの捕虫袋の中に落ちて行った。
「クソッ、ジル!」
ギギルは祭壇に走り寄った。咄嗟に身体が動かず、ジルを助けることができなかったギギルの後悔が怒りに変わった。ギギルは仮面を剥ぎ取り、灰色の長衣を脱いで床に叩きつけると、保育器を首から下げた。そして素早く腰の後ろの短剣を抜いて、身体の前でカギ爪と交差させるように身構えた。神殿でバルの後方に控えていたふたりの護衛、ベグとボグが、剣を構えてノシノシとギギルに近づいた。ベグとボグの怪異な顔には何の感情も浮かんでいない。
「シン! こい!」
シンは仮面をむしり取ると、長衣を脱ぎながら神殿に通じる階段を飛ぶように駆け上がった。階段の上で控えていたふたりの護衛、ズグとゼグが剣を振り上げて、シンが上ってくるのを待ち構えている。神殿まであと数段の所で、シンは胸の前に抱えているチウシの胃袋の水筒の口を緩め、水筒を両手で持つとズグとゼグ目掛けて中の薬湯を振り撒いた。
「グワッ」
薬湯を顔面に浴びたズグとゼグは、剣を放り投げると両手で顔を覆った。両手の指の間から黒いドロドロとした粘液がポタポタと床に滴り落ちている。シンはズグとゼグの間をすり抜けると、神殿の祭壇の前に走り込んだ。
祭壇を挟んだ反対側ではギギルがベグとボグと睨みあっている。更に、ギギルの右から、カギ爪で切り裂かれた顔面の傷から黒い粘液を滴らせながらザグが近づいてきた。祭壇の横ではオラハンとゴーラが顔を引きつらせて立ちすくんでいた。
ギギルは周囲に迫る三人の護衛に目を配りながら、ゆっくりと保育器を首から外して一瞬後ろを振り向くと、祭壇の上に保育器を置き、シンに向かって保育器を滑らせた。祭壇の上を滑ってきた保育器を受け取ると、シンは保育器を首から下げ、ギギルに向かって頷いた。
「シン、俺に構うな。走って神殿から抜け出せ」
「でもギギル・・・」
「さっきも言っただろう。俺ひとりなら何とか切り抜けてみせる。シンの面倒まで見きれないんだ、いいな、行け!」
シンは頷くと、階段に向かって身を翻した。走り出そうとしたシンに向かって、オラハンとゴーラが駆け寄ってきた。
「その卵を渡せ、それは私の卵だ。ゴーラ、何をしている。ええい、ズグ、ゼグ、お前たちこいつを殺せ」
オラハンの命令を受けて、階段の上で顔を覆っていたズグとゼグが立ち上がった。ズグとゼグの顔は、シンに浴びせられた薬湯のために半ば融けていて、顔の皮膚が剥がれて、脱皮したようにシナシナと垂れ下がっていた。両目があった所の皮膚にはぽっかりとふたつの穴が空いていて、その穴からプルプルと蠢く灰色の塊が覗いている。両目を失ったズグとゼグは、周囲で動く物体の起こす空気の振動を感知して、やみくもに剣を振り回し始めた。
シンはズグとゼグに向かってチウシの胃袋の水筒を振り回し、再び薬湯を浴びせかけた。両足首に薬湯を浴びたズグはぐしゃりと床に倒れ、胸に薬湯を浴びたゼグは身体が半分に裂けた。シンはズグとゼグの脇を駆け抜け、目の前で通せんぼをするように両手を広げたゴーラを突き飛ばすと階段を駆け下った。
ギギルは胸の前に掛けているチウシの胃袋の水筒の口を緩めると、右手でちょっと持ち上げて左手のカギ爪に薬湯を掛けた。
「さあ、きやがれ化け物ども。お前さんたちが不死の戦士じゃないことは証明済みだ。お友達のゾグとやらと同じように、ドロドロに融かしてやる」
ギギルの右からジリジリと間合いを詰めながら近づいたザグが、振り上げた剣をギギルの頭上に叩きつけた。すくい上げるように振り上げた左手のカギ爪でザグの剣を受け止めると、ギギルは右手でチウシの胃袋の水筒を振り回した。ほとばしった薬湯がザグの両腕に掛かり、ザグの両腕がボタリと床に落ちた。
ギギルの背中に向かって、ベグとボグが剣を振り上げながら走り寄ったが、ギギルは振り向きざまにベグとボグに薬湯を浴びせた。腹に薬湯を浴びたベグとボグは、身体の真ん中から折れるようにドサリと床に崩れた。
「マッタク、学習能力がないのかね。こんだけ薬湯にやられているってのに」
ギギルは床から左手の手袋を拾い上げながら、チラリとオラハンとゴーラを見た。不死の戦士と言われるサリー神の護衛がドロドロに融けた様子を見て、オラハンは気が抜けたような顔をしている。ゴーラは眼を剝いたまま固まっている。ギギルはジルと神官バルが落ちた捕虫袋の方をチラリと見て悲しそうに首を振ると、オニウツボカズラの花弁に背を向けて階段の方に歩き始めた。
ジルは母親バルのこれ以上の凶行を止めるために、最初から死ぬつもりだったのだろう。ジルはバルの身体が粘菌に侵されていることを知っていたのだ。ジルはバルの心の中に母親としての正気が一片でも残っていることを期待していたのかも知れない。ギギルの頭の中はやり切れない思いでいっぱいになった。
ズルリ・・・背後で何かが蠢いた気配がした。
ギギルは咄嗟に片膝を突いて姿勢を低くしながら左手の手袋を外し、背後の気配に向かって後ろ手にカギ爪を振るった。ザクリという感触とともに、ギギルの頭上を何かが飛び越えた。カギ爪で切り払われた細長い紐のようなものが、ギギルの目の前にグチャリと落ちた。それはウネウネと蠢いている。
・・・イワヘビか!・・・
ギギルが目を凝らすと、それは植物の蔓から伸びた触手だった。触手の切り口から白い粘液が滲み出ている。ギギルはハッと振り向いて目を見張った。
神殿の床や壁や天井を覆っているオニウツボカズラの蔓から伸びた無数の触手が、イワヘビのようにウネウネと鎌首を持ち上げている。神殿の奥にある巨大なオニウツボカズラがニタリと禍々しく笑ったように花弁を震わせた。花弁の中心から血のように真っ赤な毒蜜がダラダラと溢れ出て雄蕊や雌蕊の根元を濡らしている。その毒蜜に向かって、神殿の背後の壁で白くヌメヌメと蠢いていた粘菌の塊がヌタヌタと這いより、巨大なオニウツボカズラの花弁の中心に入った。
「ひゃぁああ・・・」
ゴーラの絶叫が周囲に響いた。ゴーラの足首にオニウツボカズラの蔓から伸びる触手が絡みつき、ゴーラを床に引き倒した。ゴーラは触手に引かれてズルズルと床を滑り、オニウツボカズラの捕虫袋の方に引き寄せられていく。
「オラハン様、お助けを・・・オラハン様ぁああ」
ゴーラは必死に両手を振り回し、オラハンの長衣の裾を掴んだ。
「バカ者。手を放せゴーラ、手を放せ!」
オラハンが必死になってゴーラの手を振り解こうともがいている。オラハンも床に倒れそうになり、足を上げてゴーラの頭を何度も蹴った。ゴーラは顔面を鼻血で濡らしながらも、両手はしっかりとオラハンの長衣の裾を掴んだまま放さない。
「放せゴーラ、放せ!」
オラハンは懐から短剣を抜くと、長衣の裾を掴んでいるゴーラの指に短剣を当てた。
「そんなぁ・・・オラハン様・・・ご慈悲です・・・ギャ!」
指を切り取られたゴーラは、泣き叫びながら触手に引きずられて床の上を滑ると、オニウツボカズラの捕虫袋の中に消えた。
ほっと息をついたオラハンの首に触手がヌルリと巻き付いた。
「グエッ・・・誰か・・・」
もがくオラハンの胴にも触手が巻き付き、オラハンを床に引き倒した。オラハンの身体に無数の触手が絡みつき、オラハンの姿が見えなくなった。オラハンの右腕だけが触手の隙間から外に出て、助けを求めるように左右に揺れている。オラハンも触手に引きずられて、オニウツボカズラの捕虫袋の中に消えた。
オニウツボカズラに寄生した粘菌が、オニウツボカズラの組織内に広がり『ヒト食い植物』と化して信者たちに襲い掛かっていた。触手に絡み付かれて身動きできなくなった信者はオニウツボカズラの花弁の前まで運ばれる。そして、花弁の下に付いている捕虫袋が蛭のように信者の肌に吸い付くと、袋の中から吐き出される強力な消化液により、吸い付かれた部分が融かされていくのだ。そうやって信者たちは生きたままオニウツボカズラの栄養分となるのである。オニウツボカズラの吐き出す香りを吸って、恍惚の夢に浸りながら。
ギギルに絡み付こうと、無数の触手が四方からウネウネと伸びてきた。ギギルはカギ爪と短剣を振るって、鎌首を持ち上げる触手を切り払いながら階段に向かって走った。階段の前まで進むと、行く手を阻むように、ズグとゼグが融けて不完全な身体を捩りながらギギルに向かってきた。両足首のないズグは、床に倒れた姿勢で剣を振り回している。身体が半分に裂けているゼグは、剣も持たずにフラフラと歩いている。ズグの振り回した剣がゼグの足に当たり、足を切断されたゼグの身体がズグの上に覆いかぶさるように倒れ込んだ。ギギルはズグとゼグがもつれ合った塊の上を飛び越えた。階段の上にはゼグの落とした剣が落ちている。ギギルは振り向いてゼグを見た。
「カギ爪と短剣じゃ触手を切り払うのには短くて不便だ。お前さんの剣を借りるぜ。必要なら後で取りにきな。と言ったものの・・・お前さんのその身体じゃあ、この先必要なのは剣じゃなくて杖だな」
ギギルはゼグの剣を拾い上げると、短剣を腰の後ろの鞘に納めた。そして、剣を脇に挟み、右手で胸の前のチウシの胃袋の水筒を持つと、頭の上から残っていた薬湯を身体中に振りかけた。
・・・よし、行くぜ・・・
身体から薬湯を滴らせながら、ギギルは右手で剣を構えると階段を駆け下りた。階段の下では、鍾乳洞の床の至る所から触手が鎌首を持ち上げてユラユラと揺れている。信者たちは全員が触手に絡み付かれていて、半数の信者は床に引き倒されている。既に、何人かの信者は壁面のオニウツボカズラの花弁の前まで運ばれていて、花弁の下についている捕虫袋が信者の身体に吸い付いている。信者たちはオニウツボカズラの発する甘い香りに酔ったままで意識がなく、触手に絡み付かれた状態でも身体を左右に揺らしながら呪文を唱え続けていた。
ギギルは階段を駆け下りると右手の剣を薙ぎ払うように左右に振り、目の前に伸びてくる触手を切り払いながら走った。切っても切っても、触手は次々にウネウネと鎌首を持ち上げて、ギギルに向かって押し寄せてくる。
ズルリ・・・ギギルの足が滑り、体勢を崩したギギルは地面に転がった。切り払われた触手から滲み出た白い粘液に足を滑らせたのだ。たちまちギギルの身体はオニウツボカズラの触手の中に埋もれた。
「クソッ!」
ギギルは地面の上で身体を転がして触手から逃げながら、左手のカギ爪でギギルの顔や首目掛けて伸びてくる触手を切り払った。身体に振りかけた薬湯のお蔭で、手や足や胴に絡み付きかけた触手は、焼けた石に触れたかのようにパッと縮まり、パラリと解けた。ギギルの身体に触れた触手は黒く変色している。
ギギルは何とか立ち上がると、再び剣を振り回しながら走り出した。
猛然と走るギギルの目に、地底湖と三角形をした神殿の出入口が見えた。ギギルの周囲でウネウネと首をもたげる触手の数が徐々に少なくなり、地底湖の傍までくるとオニウツボカズラの触手の姿が見えなくなった。それに合わせて、オニウツボカズラの甘い香りも消えた。何とか死地は脱したようだ。
触手の草原を何とか走り抜けたギギルは、地底湖の湖岸で膝を突き、左手のカギ爪と右手を湖水に浸してジャブジャブと洗った。襟巻を下ろしてザブリと顔を洗ったギギルはふと顔を上げた。
・・・何か様子が違う?・・・
ギギルが辺りを見回すと水がヒタヒタと湖岸に向かって押し寄せていた。神殿に入ってきたトキよりも地底湖の水位が上がっていた。
・・・そうか! 一ギグに一度のホシヨミのヨルは湖面の水位が一番低くなるんだ。湖面の水位が一番低いトキだけ現れる入口の仕掛けは、地底湖に浮かぶ軽石でできた島の上下動だ。神殿の出入口の軽石の床は、湖面の水位の変動に合わせて上下に動くんだ。いかん! 神殿の出入口が閉まる!・・・
ギギルは神殿の出入口である三角形の通路に向かって走り出そうと慌てて立ちあがった。
そのギギルの前に、腹を蹴られて神殿から転がり落ちたジグがノソリと立ち塞がった。神殿から鍾乳洞の床に頭から落ちた際に首が折れたのだろう、ジグの頭は不自然に斜めに傾いている。痛みを感じていないのだろう、怪異な顔は無表情のままだ。
ジグは手にした剣をいきなり横殴りにギギルの腹目掛けて叩きつけた。ギギルは後方に飛び退いてジグの剣を躱すと、右手に持った剣を上げ、踏み込みながらジグの左肩に剣を叩きつけた。ジグはギギルの剣を避けようともしない。左肩から入ったギギルの剣はジグの身体を切り裂き、左胸の半ばまで達して止まった。しかしジグは顔色も変えずに剣を振り上げた。ジグの身体から剣が抜けない。ギギルは剣から手を離すと、身体を丸めて転がりながらジグの脇をすり抜けた。そのギギルの背中に向かってジグが剣を振るった。ジグの剣先がギギルの左肩から背中を舐めていくヒヤリとした冷たい感覚があった。
・・・やられたか・・・
ギギルはつんのめるように倒れると、二、三回クルクルと地面を転がってジグとの距離を取った。ギギルは膝を突いてジグと正対しながら右手で左肩を探った。チリリとした痛みが左肩に走り、指が血で濡れた。
・・・傷は浅い、何とか動けそうだ。しかし、こいつは剣やカギ爪では倒せない化け物だ。薬湯はもうない・・・どうする・・・どうする?・・・どうするだと! 戦うしかないだろう!・・・
一瞬生じた弱気を振り払うと、ギギルはゆっくりと立ち上がり、左手の手袋を外してズボンの腰紐に挟んだ。ギギルはカギ爪を身体の前に構えた。ギギルの目は闘志でギラギラと燃えている。
「俺はカギ爪のギギル。こんな所で死ぬ訳にゃいかない、やることが残っているんでね。さあ、化け物。掛かってきやがれ!」
ジグは剣を頭上に振り上げると、のっしのっしとギギルに近づいた。ギギルはカギ爪をペロリと舐めると腰を落とし、すくい上げるような目でジグを睨みつけた。
ヒョウという風を切る音と、ビチャという鈍い湿った音がした。ジグの顔面に黒い泥のようなものが貼り付いた。
「ヴォオオオ」
唸り声を上げてジグが顔面を両手で覆った。両手の指の間から黒い粘液が滴り落ちた。再びヒョウという風を切る音とビチャという音がして、顔面を覆うジグの右手が黒い泥で覆われた。ジグの右手がドロドロと融けていく。
「ギギル! 大丈夫かい!」
ギギルが振り向くと、三角形をした神殿の出入口にシンが保育器を胸の前に抱え、右手で投石器を構えていた。シンの左手にはクロドクダミの葉をすりつぶして丸めた黒い団子が握られていた。シンの横を抜けてタルマンと数名のトキオンの警備隊員が神殿の出入口から飛び出してきた。
ギギルは呻き声を上げているジグに背中を向けると、神殿の出入口に向かって必死で走りながらシンたちに叫んだ。
「みんな引き返せ! 神殿の出入口が閉まる! 引き返せ! 早く!」
鍾乳洞の地面が小刻みに振動を始め、低い地鳴りの音が腹の底に響いてきた。背後で地底湖の湖面がピチャピチャと音を立てている。ギギルは三角形をした神殿の出入口に向かって必死で走った。
ゴゴゴという低い音と共に三角形の通路の床が徐々にせり上がっている。
ギギルが通路の前にたどり着いたトキには、通路の床は既に一メルほどせり上がっていた。ギギルは頭から通路に飛び込むと、腹ばいの姿勢で匍匐前進を始めた。体を捩り、両手足をバタつかせるように振りながら、通路の中を必死に進む。床のせり上がりに伴って三角形の通路は左右の壁も身体に迫ってくるため、ギギルの両肩と左右の壁の隙間はほとんどなくなった。三角形の通路は更に細くなり、ギギルの両肩が左右の壁を擦り始めた。通路の出口がギギルの目の前に迫る。もう少しだ。シンが何か叫んでいる顔が見える。
「!」
ギギルの足を何かが引っ張った。途端にギギルの進む速度が落ちた。
・・・クソッ、何だ?・・・
狭い通路の中でギギルが首を捻じ曲げて後ろを見ると、顔が半分融けたジグの伸ばした左手が、ギギルの左足首を掴んでいた。ギギルは振り解こうと両足を必死でバタバタと動かしたが、ジグの手は離れない。
・・・放せ! クソッ・・・ダメだ動けない・・・
通路の外から四本の腕が伸びてきて、ギギルの両肩を掴んだ。そしてその四本の腕は思いっきりギギルの身体を引っ張った。ギギルの身体は壁と床を擦りながら三角形の通路を滑り、ギギルの上半身が通路の外に抜けた。シンとタルマンがギギルを引っ張っていた。警備隊の隊員が数名、シンとタルマンに加わってギギルを力いっぱい引っ張った。ギギルの左足の長靴がスポリと脱げ、ギギルは通路の外に転がり落ちた。
それからものの数回呼吸する間に三角形の通路は完全に閉ざされた。通路が閉ざされる最後の瞬間に、グジャリというジグの身体が圧し潰される音がして、閉ざされた通路の隙間から白い粘液がドロリと染みだしてきた。
閉ざされた三角形の通路の前で、地面に仰向けに倒れているギギルの横にシンが膝を突いた。シンは安堵した顔でギギルの顔を覗き込んだ。
「ギギル! 良かった」
ギギルはシンの顔を見ると、髭面を歪めてニヤリと笑った。
「ふぅ・・・助かった。もうダメかと思ったぜ、まあ、そりゃあいつものことだがな。シンとタルマンのお蔭だ。礼を言うぜ。・・・イテテ」
ギギルは上体を起こして地面の上で胡坐をかくと、切られた左肩に手を当てて大げさに顔をしかめた。それを見てタルマンがニヤニヤと笑っている。
「気にするなギギルよ。キョウは、儂の奢りと言うことにしておいてやる」
タルマンはギギルに向かって片目をつぶると、しゃくれた顎をグイっと突き出した。ギギルは苦笑して、ヤレヤレと首を振った。シンがギギルの左肩を見た。
「ギギル、傷の具合はどうだい」
左肩の傷を探っていたギギルの右手の指にはまだ血が付いている。
「浅手だから縫わなくても済みそうだ。クロドクダミの葉でも当てておけば、血は止まるだろう。ところでイオリは?」
「イオリはここ、無事だよ」
シンは胸の前に抱えた保育器を見せた。ギギルは保育器の上からイオリを優しく撫でると、「心配したぜ」と呟いた。
シンは手に持ったクロドクダミの葉の団子を薄く伸ばしてギギルの左肩の傷口に当てると、ワタスゲの布できつく縛った。治療を終えて上着を着て外套を羽織ったギギルに向かって、タルマンが言った。タルマンの後ろにはトキオンの警備隊が並んでいる。
「ギギルよ。お前の残したヤモリグモの糸を辿って、何とかここまでたどり着けたわい。ところで、オラハンや信者たちはどうした」
ギギルは眉を上げてタルマンを見ると、顔を曇らせた。オラハンやゴーラはともかく、ジルを救えなかったことで心を痛めているのだ。
「オラハンは死んだよ、執事のゴーラも一緒にな。粘菌が寄生したオニウツボカズラが『ヒト食い植物』に変化していた。そいつがサリー教の邪神の正体だった。この神殿の出入口が開くのは一ギグ後の次のホシヨミのヨルだ。それまで助ける術はない。神殿に残された信者たちは全滅するだろうな」
ギギルは淡々とした口調で、サリー教の神殿で起こったことをタルマンに話した。タルマンはしゃくれた顎を指でつまみ、時折「オオ」「ウム」という合いの手を入れながらギギルの話を聞いた。ギギルが話し終えると、タルマンは腕を組んで天を仰ぎ、目を閉じた。ギギルの話を頭の中で反芻しているのだろう。タルマンはおもむろに目を開けた。
「なるほど・・・『ヒト食い植物』とは恐ろしい話じゃな。オラハンとゴーラは自業自得じゃが、多くの信者たちも巻き添えになるとは・・・いったいどれだけ犠牲が出たんじゃろうか?」
ギギルとシンが顔を見合わせた。シンは身に着けている黒い執事服の小物入れを探った。
「うん?ちょっと待って・・・これだ・・・秘書官用の日程表・・・会場の配置図・・・あった、信者たちの名簿だ」
タルマンはシンの手から名簿をひったくるようにして取り上げると、名簿に目を走らせた。タルマンの背中越しに警備隊長が名簿を覗き込んでいる。
「どれどれ・・・三十五、三十六、三十七名! こんなにもか。何と副街長の奥方まで!」
タルマンは犠牲者の多さに眼を剝いた。
「これは公表できんだろうな。トキオンの街長と相談して、ここは永久に封鎖するしかないじゃろう」
タルマンは振り返ると、警備隊長と何やらヒソヒソと話を始めた。
ギギルは立ち上がると、シン並んで水晶の橋に向かって歩き始めた。長靴を失くした左足は裸足だった。ギギルの背中にタルマンが声を掛けた。
「そうじゃギギル、忘れとった。お前の見込みどおり、最近のコハク鉱石強盗団の黒幕はオラハンじゃったよ。邸内の隠し倉庫に、盗まれたコハク鉱石が山のように積んであった。そうか、盗まれたコハク鉱石を回収した上で、トキオンが没収するオラハン家の財産の何割かを、迷惑料として鉱石市場の管理役場に寄越せと街長に掛け合ってみるか・・・ウヒヒ、こりゃ結構な額になるぞ」
タルマンはそう言うと不謹慎にもニヤニヤと笑い出した。
「俺は長靴を片方失くしたよ・・・高かったんだ。えらい出費だ。まあ、それでも、長靴のおかげで命拾いしたんだ、文句は言えないか・・・」
ギギルはブツブツ言いながら水晶の橋を渡った。橋の途中で立ち止まったギギルは、悲しげな眼をして振り返った。
・・・あばよ、ジル・・・
心の中で別れを告げたギギルに向かって、ジルが口角をキュッと上げて笑ったような気がした。
二カインが過ぎた。ギギルとシンはタルマンの口利きで、三バール先にあるエルパの街まで向かう行商隊の荷車に隠れてトキオンを出発した。ケチのタルマンにしては珍しく餞別だと言って、ふたりにシリル金貨を二枚ずつと、ギギルに新しい編上げ長靴まで奮発した。おそらく、トキオンの街長との間で迷惑料の交渉が上手くいったのだろう。
ギギルとシンの次の目的地は、三十バール先にある中層帯の三大都市のひとつ、ガンデラの街である。回廊大陸の外周を半周する長旅となる。トキオンに現れた監督使に見つからないよう、空の鉱石箱の中に隠れていたため、ふたりはトキオンの象徴のひとつである回廊上側の『黒の大門』を見ることはできなかった。




