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不死の戦士の襲撃

 シンがマスルの家に戻ると、正気を失って床に倒れていたマスルを、ギギルがキヌグモの紐で後ろ手に縛っているところだった。

 シンは力なくうなだれた。

「ごめんギギル、逃げられた。ヤモリグモの糸が切れてしまって、追いかけられなかった」

 ギギルは頷くと、顎をしゃくってマスルを指した。

「仕方ないさ、でもこいつがいる。リビドと繋がっているのは間違いないから、締め上げて吐かせてやる」

「監督使は?」

「ああ、こいつが唸り声を上げたんでオレがちょっと視線を外したら、あっという間に逃げちまった。リビドがイオリを抱えて逃げ出したのが分かったんだろうな。ここにイオリがいない以上、無駄な戦いはしないってことだろう」

 ギギルはマスルの両手両足を縛り終えると、マスルの髪の毛を鷲掴みにして顔を持ち上げて、マスルの目を見た。マスルの目はとろんとして焦点が定まっていない。口元はだらしなく緩んだままで、よだれが顎から垂れている。

「シン、こいつはしばらく正気に返りそうにないな。監督使に催眠薬を吹きかけられたんだろう。クロドクダミの葉を煎じた薬湯を作ってくれ。そいつを飲ませてみよう。俺はその間に、この家の中を捜索してみる」

 シンが奥の部屋の小さな炉で薬湯の準備を始めると、ギギルはマスルの服の小物入れの中身を机の上に並べてざっと調べてから、部屋の中の机の引出しや小間物箱、書類箱などを片っ端から調べ始めた。

 イオリを探す手掛かりは、ここしか残されていないのだ。必ずイオリを取り戻して見せる。イオリを不老不死の薬なんぞにされてたまるか。ギギルは胸の奥でつぶやいた。


 リビドはマスルの家の入口の扉が開くのと同時に、保育器を抱えたまま隣の部屋に走り込み、裏口を開けると脱兎のごとく逃げ出した。盗人の本能が危険を察知したのだ。誰かが後ろから追いかけてくる。肩越しにチラッと振り返ると、ジルの宿屋にいたヒョロリとした労働種の卵の父親が、鬼のような形相で走っている。捕まる訳にはいかない。とにかくこのままオラハンの邸宅に逃げ込もうと考えたリビドは必死になって走った。

 トキオンの通路は迷路だと言われるが、体形変化期を迎える前の小さなコドモの頃からここで生活しているリビドにとっては、どの通路がどこに繋がっているのかは身体に染みついている。裏道や秘密の通路を使ってシンを撒いて逃げることなど朝飯前だった。

 あっという間にシンを振り切ると、リビドは慎重を期してわざと遠回りしながら進み、トキオンの中央を貫く迂回隧道の下に掘られた秘密の通路を通って半島側に広がる街区に入った。リビドの背中に貼り付いているヤモリグモの糸が切れたことで、追跡の手を免れたことなどリビドには知る由もない。

 トキオンの街の中心を貫く迂回隧道を挟んで、大陸側が庶民の住む街区であるのに対して、半島側は貴族種の役人や大金持ちの商人などが住む高級住宅街が集中する特別街区となっていた。迂回隧道から半島側の特別街区に入る入口には検問所があり、居住者以外の者は通行証がなければ通してもらえない。リビドが通った秘密の通路は盗人仲間が利用する抜け道だった。

 半島側の特別街区に張り巡らされている通路の幅や高さは、大陸側の庶民街区の倍以上もあるゆったりしたもので、通路の床には白光石の四角い舗装材が敷かれている。通路の天井には十メルごとにヒカリゴケの雪洞が吊り下げられていて、更に通路の壁面には五メルごとに置かれた水晶の大きな盆にヒカリゴケが植栽されていて、通路の中は外光に照らされているかのように明るかった。直径二百メルもある広大な円形の公共広場も点在していて、広場には観賞用のサクラソウやシダレバラなどが植えられていた。特別街区にある家々もそれぞれが広大で、多くの部屋が設けられている。

 貴族種でありかつコハク鉱石を扱う大商人でもあるオラハン・ズ・デリの邸宅は、特別街区の中でも一、二を争う大邸宅であり、半島の先端部分の四分の一という広大な面積を占めていた。

 リビドはオラハンの邸宅の通用門の前に立ち、乱れた息を整えると、目の前の紐を引いた。何の音もしなかった。リビドは首を傾げると二度三度と紐を引いたが反応がない。もう一度引こうと紐に手を伸ばすと、ガタリと音がして通用門の覗き窓が開いた。

「呼び鈴を何度も鳴らすんじゃない、バカめ。こんなヨルの遅くに何ごとだ」

 怒鳴りつけるような門番の声に一瞬首をすくめたリビドは、負けじと声を張り上げた。

「大変重要なお話がございまして、大至急オラハン様にお目通り願いたいのでございます」

「こんなヨルの遅くにオラハン様にお目通りだと、気違いかお前は。お前は何者だ?オラハン様と直接お話しできるような身分なのか?紹介状があるなら出せ、まず執事のゴーラ様にお渡しして判断を仰ぐ。お目通り云々はその後だ。ともかくオラハン様もゴーラ様もお休み中だ。日の出時になってから出直せ」

 門番は非常識だと言わんばかりの顔をして、覗き窓を閉めようとした。リビドは慌てて覗き窓に顔を近づけると、さも重大事であるかのように声を潜めた。

「火急の要件でございます。それにこれはオラハン様から直々にご命令を受けた鉱石市場管理役場のマスル様が、私に是非と厳命された案件でございます。オラハン様からは『ヨルが遅くても構わんから直ちに報告するように』ときつく念押しされたとのこと。日の出時まで待てばオラハン様のご命令に背くことになりますが、その場合にはオラハン様のお叱りは貴方様がお受けになることに・・・」

 お叱りと聞いて門番はギョッとした顔をした。オラハンから叱られると言うことは、職を失い邸宅から放り出されることを意味するのだ。その際には弁明の余地などありはしない。

「俺がオラハン様のお叱りを受ける・・・ブルル、考えただけでも恐ろしい。分かった。とにかく中に入って、ゴーラ様の秘書官にあんたから話をしてくれ。そこから先は秘書官に判断してもらおう。いいな、俺は関係ないからな」

 門番はこれ以上関わりたくないと言わんばかりに、首を縦に振った。


 ぐっすりと眠り込んでいたところを秘書官に起こされた執事のゴーラは、これ以上はないといった不機嫌な顔でリビドが待つ面会室に入ってきた。ゴーラは労働種で背が低く、萎びたカラシウリのような細長い顔をした銀髪のオトコだった。体形変化期から四十トングは過ぎているだろう、トシのせいで背中が少し曲がっている。

 面会室の入口の扉の両脇にはふたりの秘書官が控え、リビドの椅子の後方にも護衛がひとり立っていた。秘書官は労働種で護衛は戦闘種だ。秘書官は身体にピッチリと貼り付くような黒い詰襟の執事服を着ている。護衛はチウシの革の胸当てを着けて腰に短めの剣を佩いている。

 起き抜けらしいぼさぼさの頭で、白い寝巻の上にチウシの毛で織った膝まである長衣を羽織ったゴーラの目は充血で真っ赤に染まり、顔色はどす黒くほとんど紫に近い。ゴーラは白光石の大きな長机を挟んで、リビドの前の椅子に腰掛け、ジロリとリビドを睨んだ。

「こんなヨルの遅くに火急の要件だと?鉱石市場の管理役場のマスルの使いだと聞いたが・・・オラハン様の直々のご命令とは何だ。儂の耳には入っておらんが」

 しゃがれたゴーラの声にはあからさまな怒気が含まれている。

「非常に重要なお話でして、私の口から直接オラハン様にご報告を申し上げるようにと、マスル様から指示を頂いております」

 リビドはゴーラの顔を直接見ることができず、視線を下に落としたまま早口で言った。リビドが抱えている保育器は、胸の前で掻き合わされている汚れた上着のために、ゴーラの目から隠されていた。

「マスルはどうしたんだ。オラハン様からご命令を受けたのがマスルなら、マスルがきて報告すべきじゃろう」

「マスル様はよんどころなき事情により自宅から動けません。そこでやむなく私が参上した次第です」

 ゴーラは『話にならん』とばかりに首を横に振った。

「リビドといったか、お前がマスルの代理人であることをどうやって証明するのだ。儂はお前の顔など、これまで一度も見たことがないぞ」

「そこは信用していただくしかありません」

 ゴーラは白光石の長机をドンと叩いた。

 リビドの申し出をゴーラに取り次いだ秘書官の膝がガクガクと震えている。この秘書官も『オラハン様のお叱り』と言う言葉を聞いて、責任回避のために一も二もなくゴーラへ注進に及んだのだ。この後、ゴーラから受けるであろう叱責を思って、秘書官の顔が見る見る土気色に変わった。

 ゴーラは怒りに燃える目でリビドを睨みつけた。

「ふざけるのも大概にしろ、そこが一番肝心なところじゃろうが。どこの誰とも分からんやつをオラハン様に面会させる訳がなかろう。オイ、こいつをつまみ出せ」

 ゴーラは憤然と席を立ち、面会室の入口の扉に向かって歩き始めた。扉の横に控えていた秘書官がゴーラに頭を下げ、リビドの椅子の後方に立っていた護衛が拳を固めながらリビドに近づいてきた。

 リビドはゴーラの背中に向かってポツリと言い放った。

「卵」 

 リビドの声にゴーラはビクリと肩を震わせてその場に立ち止まると、ゆっくりとリビドの方を振り返った。ゴーラの目に驚愕の色が浮かんでいる。

「何じゃと、今何と言った」

「卵。それ以上はここでは・・・」

 リビドはゆっくりと上着の前をはだけて、胸の前に抱える保育器を見せた。

 ゴーラは秘書官と護衛に部屋から出るように指示すると、足早に長机に戻り、リビドの前の椅子に腰を下ろした。

「マスルの代理人というのは本当だったのか」

「だから先程から申し上げております。オラハン様からの直々のご命令だと」

「そうか・・・ご苦労だった。オラハン様はお休み中じゃから、卵は儂が預かる。報酬を与えるからお前は帰れ」

「いえ、この卵は直接オラハン様にご覧いただいて、値を付けていただきます」

「何を! この・・・」

 怒鳴りかけたゴーラを片手で制して、リビドは保育器の覆いを外しワタスゲの布を持ち上げると、ゴーラにちらりと卵を見せた。卵を一目見たゴーラは驚愕の表情を浮かべると、リビドに向かって重々しく頷き、慌ただしく席を立った。


 オラハン邸の応接室は縦横それぞれ二十メルの広い部屋で、床には上層帯のトルキスの特産品であるヤクウの毛で織られた最高級の毛織物が敷き詰められ、壁は白光石の粉をドロウルシに混ぜた白漆喰で塗り固められている。天井には照明用のヒカリゴケが見事な層をなしていて、部屋の中は薄緑色の光で満ちていた。部屋の中央には白光石の一枚板で作られた見事な机が置かれていて、それを取り囲むように、巨大な白光石をくり抜いて作った背もたれ付きの長椅子がコの字型にゆったりと並べられていた。長椅子にはキヌグモの糸を織って作った布を縫い合わせ、その中に柔らかなワタスゲを詰めた分厚い座布団がいくつも置かれていた。

 リビドはひとりで応接室の長椅子に座っていた。フカフカの座り心地に慣れないリビドが尻を何度もモゾモゾと動かしていると、ゴーラに先導されて、貴族種の大男が応接室に入ってきた。

 この館の主であるオラハン・ズ・デリは、貴族種に典型的な青白い肌の色をしているが、身長は一般的な貴族種のオトコよりも一回り大きく戦闘種ほどもある。飽食のせいだろう身体は丸々と太り、細い目の付いた丸い顔が二重あごの中に埋没している。頭は禿げ上がりてらてらと脂で光っている。オラハンはチラリとリビドを見ると、正面の長椅子にどっかりと腰を下ろした。ヤクウの毛で編まれた最高級の部屋着の腹部は、はち切れそうに膨らんでいる。

 ゴーラはオラハンの座った長椅子の横に立った。ゴーラは先程までと違い、ぴっちりとした白の詰襟の執事服を着て、髪の毛もきれいに後ろに撫でつけてある。

 ゴーラはゴホンとひとつ咳払いをした。

「こちらが当館の主、オラハン・ズ・デリ様でいらっしゃる」

 リビドがペコリと頭を下げたが、オラハンは尊大な態度で長椅子に座ったまま身じろぎもしない。

「オラハン様、この者がマスルの代理人でリビドと申す者です。それではリビド、例のものをオラハン様にご覧いただけ」

 リビドは頷くと保育器の覆いを外し、ワタスゲの布をめくるとオラハンに卵を見せた。卵を見たオラハンの顔は真っ赤に紅潮し、無言のまま震える人差し指を卵に向けた。もっとよく見せろという意味だ。ゴーラはリビドから保育器を受け取ると、オラハンにうやうやしく差し出した。オラハンは保育器の中から卵を両手で持ち上げると、底光りのするような眼光で卵を見た。そして感嘆したようにホウッと一息つくと卵を保育器に戻した。

「素晴らしい、探し求めていた女王候補者の卵がこんなに美しいとは。伝承は知っていたが想像以上の美しさだ。永遠の命を宿す聖なる光に囲まれているようだ・・・」

 オラハンは満足気に言った。オラハンの太くて低い声が心なしか震えている。リビドはここぞとばかりに身を乗り出した。

「オラハン様がお気に召されて光栄でございます。この卵を手に入れるには、それはもう大変な苦労がございまして、命を落としかけたことも一度や二度ではございません。お買い上げの際には是非、ええ、是非その点もご考慮いただきたく存じます」

 オラハンは鷹揚に頷いた。オラハンの目は卵に吸い付いたままだ。

「分かっている、お前の言い値で買おう。いくらだ」

「十万・・・いや百万シリルです」

 リビドは一瞬言い淀んでから、思いっきり吹っ掛けた。これは一世一代の好機なのだ。リビドの心臓がバクバクと音を立てている。

 オラハンの横に立っていたゴーラが思わず声を荒げた。

「百万シリルじゃと! たった一個の卵に百万シリル! ふざけるにもほどがある!」

「ゴーラ、静かにせい。分かった百万シリルで買おう。この卵にはその価値がある。リビドとやら商談成立だな」

 オラハンは百万シリルと聞いても全く動じる気配を見せず、微かな笑みを浮かべながら静かに言った。リビドはゴクリと唾を飲み込むと、『了解した』とゆっくりと頷いた。思いもよらぬ展開にリビドの頭の中は真っ白になっている。

 オラハンは長椅子から身体を起こすと、白光石の机の上で両手を組んだ。ポッテリと肥った十本の指には、これで指が動くのかと心配するほどの沢山の指輪が光っている。

「よし決まった。ただ、百万シリルとなると、さすがに今この邸宅には置いていない。今日は手付金としてシリル金貨五十枚を渡そう。残りは鉱石市場の管理役場発行の換金証券にしよう、お互い嵩張らなくていいだろう。それではシリル金貨を持ってくる、ちょっと待っていてくれ」

 オラハンが保育器を抱えて席を立とうとした。リビドは思わず長椅子から腰を浮かせて、オラハンを呼び止めた。

「あのぅオラハン様。卵は手付金と引き換えと言うことで・・・それに残りの代金が頂けるという証文が欲しいんですが・・・」

 オラハンはいかにも今気付いたかのように、大げさな仕草で抱えている保育器を見た。

「おおそうだな、リビドの言うことはもっともだ。それでは卵はここに置いていく。証文も持ってこよう、それでいいな」

 オラハンは卵の入った保育器を白光石の机の上に置くと、ゴーラを従えて応接室を出て行った。

 応接室にひとり残されたリビドは、興奮で身体を震わせていた。百万シリル・・・想像もできない大金である。

「ウヒヒ、やっと俺にも運が向いてきた。百万シリルだぞ・・・そうだな、トキオンだと目立つからトリムカンドでまず家を買って、それから居酒屋でも始めるか。いやいや、それよりもガンデラで運送屋をした方が手堅いか・・・」

 リビドが百万シリルの使い道に想像を膨らませていると、リビドの背後の白漆喰の壁に設けられている隠し扉が音もなく開き、戦闘種のオトコが忍び出てきた。床に敷かれた分厚い毛織物のため足音は全くしない。男は両手に手袋を嵌め、キヌグモの紐を持っている。男は霧のようにリビドの背後に迫ると、やや前屈みになって長椅子に座っているリビドの首に素早くキヌグモの紐を巻き付けた。

「あっ・・・」

 リビドが小さく声を上げて、首に巻かれた紐に手を当てた。オトコは恐ろしい力で紐を引くと、背中に背負うようにしてリビドの身体を持ち上げた。リビドの首が自らの体重を受けてギリギリと締まる。リビドの両目が飛び出るように開かれた。仰向けの状態でオトコの背中に抱え上げられ、キヌグモの紐で首を絞められたリビドは両手を激しく振り、両足をバタバタと動かして抵抗したが、オトコはびくともしない。リビドの半ば開いた口から紫色の舌がダラリと垂れて、声とも息ともつかない音が喉から漏れている。リビドは仰け反るように痙攣を始めるとすぐに動かなくなった。

 応接室の入口からオラハンとゴーラが姿を見せた。オラハンの口元には薄ら笑いが浮かんでいる。

「ゾグ、ご苦労・・・ああ、死体を応接室の床に下すな、毛織物が汚れる・・・ん、こいつ失禁しているのか、クソッ毛織物が台無しだ。これはトルキスの最高級品だぞ」

 オラハンはリビドの足元がグッショリと濡れているのを見て毒づいた。ゾグと呼ばれたオトコは、リビドの死体を背負ったまま虚ろな目をして立っている。ゴーラは軽く腰を折るとオラハンに言った。

「オラハン様、日の出時まで今少し時間がございます。アスは一ギグに一度のホシヨミのヨルを迎え、何かとお忙しゅうございます。後始末は我々にお任せ頂き、どうぞお休みになって下さい」

 オラハンはゴーラに向かって鷹揚に頷くと、リビドの死体にチラリと目をやった。

「フン、欲に目の眩んだバカもんが。百万シリルだと、この私を相手に身のほど知らずも甚だしい。しかしホシヨミのヨルの直前に、女王候補者の卵が手に入るとは何という幸運だ。それよりもゴーラ、こいつはマスルの代理だと言ったのだろう。と言うことは、マスルもこの卵のことを知っているということだ。女王候補者の卵が手に入ればマスルも用済みだ。マスルの口からこの卵のことが他に漏れないように、ヨルのうちに口を塞いでおけ。日の出時までまだ時間がある、ゾグを使え。しくじるなよ」

 オラハンは冷たい声でゴーラの命じると、卵の入った保育器を大事そうに両手で抱え上げ、応接室を出て行った。


 マスルの家では、書類箱から引っ張り出してきた紙束にギギルが丹念に目を通していた。部屋の中にはクロドクダミの薬湯の鼻を刺すような独特の臭気が漂っている。茶褐色の薬湯がなみなみと入った大きな椀を持ったシンが、奥の部屋から入ってきてギギルの前に座った。

「ギギル、薬湯はできたよ。何か手掛かりは見つかったかい」

「うん、こいつの名前はマスル。鉱石市場の管理役場で働いているらしい。おそらく、俺たちが管理役場でタルマンと話しているときに傍にいて、シンが卵を持っていることに気付いたんだろう。こいつの手先の盗人の名前は分からん。こいつが両替商に持っている預け金口座の残高は、管理役場の役人とは思えんほど高額だ。しかも、ここ一トングほどの間に急に増えているのは、卵の誘拐が頻発し始めた時期と重なる。こいつが盗人を使って卵を誘拐し、その卵を誰かに売り払っていたのは間違いないが、誰に売り払っていたのかは分からん」

 ギギルは忌々し気に、手にしていた紙束をバサリと机の上に放り投げた。

「不老不死の薬のためにサリー教に大枚を寄進したという大金持ちかな」

「おそらくそうだろう。それをこいつから聞き出そう。よしシン、こいつに薬湯を飲ませよう。シン、こいつの頭を反らせて、鼻をつまんでくれ」

 マスルは後ろ手に縛られた状態で、ボンヤリとした目をして椅子に腰掛けている。シンはマスルの髪の毛を掴んで頭を後に反らせると、鼻をつまんで口を無理やり開けさせた。上を向いて開いているマスルの口の中に、ギギルは薬湯をドボドボと注ぎ込むと、むせ返りそうになるマスルの口を右手の掌でふさいだ。身体を反らせてのたうつマスルを、ギギルとシンが押さえつける。とうとうマスルは口の中の薬湯をゴクリと飲み干した。

「よし、少し様子を見よう・・・うん?・・・こいつ首に何か掛けている・・・」

 ギギルはマスルの肌着の中に手を突っ込むと、キヌグモの紐の輪の先に付けられた、クロム製の銀色の小さな紋様飾りを引っ張り出した。ギギルの掌の上で紋様飾りがキラリと光った。中心部は何かの花弁を模しているようで、その花弁の周りを、絡み合った無数のイワヘビのようなものが取り巻いている。美しいと言うよりも、禍々しい妖気を纏っているようで、イワヘビに見つめられているような不快感が腹の底に湧き上がる。

「見たこともない紋様だな・・・シンは知っているか」

「いいや、でも装飾品ではなさそうだね。何だか気味が悪いや。何かの印・・・あるいは信仰の証として身に着けるものかも知れないね」

「まさかサリー教か・・・卵の誘拐に関わっているということは、その可能性もあるな」

 ギギルとシンが紋様飾りを挟んで額を突き合わせていると、ウウンと呻いてマスルが顔を上げた。しきりに頭を振り、ボンヤリとした目で周りを見回している。

「お、気が付いたか。おいマスル、しっかりしろ。喉が渇いたろう、さあ、これを飲め。頭がすっきりするぞ」

 ギギルはマスルの頬をバシバシと平手打ちすると、薬湯の入った椀をマスルの口に持って行った。マスルは言われるままに薬湯を一口飲むなり、激しくむせ返った。

「ゲホゲホ・・・ひどい味だ、何を飲ませやがった。うん?・・・いったい何があったんだ?それよりなぜ私が縛られているんだ?おい、あんた誰だ」

 マスルの両目の焦点がスウッと定まった。正気に戻ったのだ。ギギルは下からすくい上げるようにして、マスルの目を正面からジッと見据えた。

「俺か? 俺はお前さんに卵を盗まれたオトコの仲間だよ」

「卵を盗む? 何を言っている、そんなこと私は知らんよ。それより縛っている紐を早くほどいてくれ」

 マスルはジタバタと身体を捩ったが、縛り上げられた手足は動かない。ギギルはマスルの胸ぐらを掴むと、鼻と鼻がくっつきそうなほど顔を近づけた。ギギルはどすの利いた声を出した。

「そうかい、俺たちは卵泥棒を追ってお前さんの家にたどり着いた。お前さんが卵の誘拐事件に関係しているのは分かっている。俺たちは必ず卵を取り戻す、そのためには何でもやるぜ。誘拐した卵はどこに持っていくんだ、誰に売り払っているんだ、答えろ」

「卵の誘拐なんて知らない。私は一介の管理役場の役人なんです、信じてください」

 ギギルはマルスの胸ぐらを乱暴に放すと、左手の手袋をゆっくりと外した。ギギルのカギ爪が銀色に鈍く光る。

「俺はカギ爪のギギル。お前が答えないなら、このカギ爪がものを言うぜ」

 ギギルはカギ爪をマスルの鼻先に突きつけた。マスルの顔が恐怖で引きつった。ギギルの左腕が素早く動き、マスルの目の前で銀色の光が閃いた。マスルの右頬に薄っすらと二本の赤い線が引かれ、そこから滲み出てきた血が頬を伝って顎の先からポタリと膝の上に落ちた。マスルは声を上げることもできない。

「次は容赦しないぜ。さあ、答えろ、誘拐した卵はどこへ持っていくんだ」

「卵なんて知らないんです、信じてください」

 ギギルは机の上の紙束を掴み上げると、紙束でマスルの頬をバシバシと叩いた。

「じゃあ、この両替商の預け金口座の残高は何だ。お前さんの給料じゃ到底貯めるのは無理な金額だ。卵を売り払った報酬だろう、ん?」

「それは・・・鉱石相場の投資で・・・」 

「ふざけるな!」

 ギギルは紙束を放り投げると、机をドンと叩いた。マスルがヒッと声を上げる。

「これ以上しらを切るなら、もっと痛い目に合わせるぜ。卵を取り戻すためなら何でもやると言ったろう・・・よし、お前さんが答えたくなるまで、指を一本ずつ切り落としてやる。まずは右手の小指からいくか」

 マスルは泣き声とも悲鳴ともつかぬ声を上げた。

「そんな酷い・・・本当に知らないんです、信じてください。神に誓って嘘は言いません」

「お前さんが誓った神ってのは、サリー神のことかい」

 ギギルはフンと鼻で笑うと、マスルの目の前に銀色の小さな紋様飾りをぶら下げた。それはマスルの首に掛かっていた紋様飾りだ。

 それを見た途端、マスルは目を吊り上げ歯をむき出して、獣のような唸り声を上げた。マスルは後ろ手に縛られたまま、ギギルの喉に噛みつこうと、狂ったようにギギルに飛び掛かった。ギギルは身体を開いてマスルの突進を躱すと、マスルの首の付け根に手刀を叩き込んだ。マスルは突進した勢いのまま頭から床に激突すると、ゴロリと床に転がり動かなくなった。

「ギギル、まさか・・・」

「大丈夫、殺しちゃいない、気を失っただけだ。それにしても、やっぱりこれはサリー教の紋様飾りのようだな。シン、ちょっと持っていてくれ」

 ギギルから銀色の小さな紋様飾りを受け取ったシンが、それを上着の小物入れに入れようとすると、突然、マスルの家の入口の扉がミシリと音を立てた。

 ギギルとシンは何ごとかと顔を見合わせた。監督使が再び襲撃してきたとは考えにくいが、用心に越したことはない。ギギルは椅子に立て掛けてあった長剣を手に取ると鞘を払った。ギギルは唇の前に人差し指を当てて、声を立てるなとシンに伝えてから、奥の部屋を指差した。シンは黙って頷くと足音を忍ばせて奥の部屋に移動した。

 抜き身の長剣を持ったギギルがゆっくりと入口の扉に近づくと、待っていたかのように扉が音を立てて捻じれ飛び、ゾグが家の中に飛び込んできた。壊された扉がギギルの長剣に当たり、ギギルの手から弾き飛ばされた長剣がカランと床に転がった。

 ゾグはギギルよりも頭ひとつ分背が高く、肩や胸の筋肉は盛り上がり、腕は丸太のように太い。戦闘種なのだろうが、肌は茶褐色というより灰色に近く、張りがなくブヨブヨとしている。頭部に頭髪はなく、空洞のような虚ろな目、潰れたような低い鼻、だらしなく開いた分厚い唇という怪異な顔をしている。その表情からは知性を感じられない。

 ゾグは目の前に立っているギギルに向かって、無言で剣を突き出した。ギギルは咄嗟に左手のカギ爪でゾグの剣を跳ね上げると、身体を丸めてゾグの横をすり抜けながら腰の後ろに差している短剣を抜き、跳ね上げられて伸びきったゾグの右手首をすくい上げるようにして切り放った。ゾグの右手首は剣を握ったままボタリと床に落ちた。ギギルはゾグの横をすり抜けると身体を反転してゾグに正対し、カギ爪と短剣を構えた。

「お前さん何者だ、いきなり切りつけてくるとは穏やかじゃないぜ。何かの間違いってこともある、話し合いを・・・どうやらする気はないようだな」

 ギギルの言葉を聞いても、ゾグは表情を変えずにボンヤリと立っている。

 右手首を切り放たれたゾグは、切られた右腕の傷と床に落ちている手首を交互に眺めた。ゾグの傷口からブヨブヨとした白い粘液が盛り上がるように滲み出ているが出血はしていない。痛みを感じていないのか、ゾグは無表情のままだ。ゾグは少し首を傾げると、腰を屈めて、左手で落ちている右手首を拾った。右手首は剣を握ったままだ。拾い上げられた右手首が右腕の傷口に押し当てられると、右手首は吸い付くように右腕にくっついた。ゾグはくっついた右手の指を二、三度開いたり閉じたりして動くことを確認すると、ゆっくりとギギルの方に向き直った。感情のない虚ろな目がギギルをジッと見ている。

「切り落とされた手首がくっついた・・・こいつは化け物か。それとも俺が妖術を掛けられているのか・・・」

 ギギルは一瞬信じられないという表情を浮かべてから、直ぐに表情を引き締めた。ギギルはカギ爪と短剣を身体の前で交差するようにして構えると一気に前に出た。横なぎに払うようなゾグの剣が、唸りを上げてギギルの腹に迫る。ギギルはカギ爪を上から叩きつけてゾグの剣を払いのけると、伸びあがるように短剣を振り上げ、ゾグの額に打ち込んだ。ギギルの短剣は鍔元までゾグの額に突き刺さった。

「これで最後だ!」とギギルが叫んだ。

 しかし、ゾグは額に短剣を突き立てたまま、両手でギギルの胸ぐらを掴むと、ギギルを軽々と持ち上げた。そして、二度三度とギギルを壁に叩きつけた。ギギルの後頭部と背中が激しく壁にぶち当たり、ギギルの意識がスウッと遠退いた。ゾグはぐったりとしたギギルを無造作に床に放り投げた。

「ギギル!」

 奥の部屋から走り込んできたシンが、護身用の短剣を抜いてゾグに飛び掛かったが、ゾグに片手で掴み上げられ首を絞められた。シンは声も出せず必死にもがいたが、万力のようなゾグの手はビクともしない。シンが必死になって両腕を振り回すと、ギギルから預かった銀色の小さな紋様飾りが、シンの上着の小物入れから飛び出てポタリと床に落ちた。

 ゾグの空洞のような虚ろな目に、床の上で鈍く光る紋様飾りが映った。ゾグはグウッと小さく唸ると、シンの首を絞めるのを止め、シンを床に放り投げた。シンをサリー教の信者だと思ったのだろう。投げられたシンは、奥の部屋までゴロゴロと転がって行った。

 まるで角が生えたかのように額に短剣を突き立てたまま、ゾグは床に倒れているマスルにゆっくりと近づいた。そして後ろ手に縛られたマスルを持ち上げると、机の前の椅子に座らせた。

 意識の戻ったマスルは頭を振りながら、傍らに立っているゾグの顔を見た。

「お前は・・・ゾグ! なぜおまえがここにいる。まさかオラハン様が私を・・・やめろゾグ!やめてくれ、私はオラハン様の忠実な僕だぞ・・・私はサリー教の・・・」

 マスルの叫び声はそこで途絶えた。

 ゾグの剣が真横に一閃して、マスルの首を刎ねた。マスルの頭部は両目を見開いたまま床にゴロンと転がり、頭部を失った首から噴水のような血しぶきが吹き上がり、低い天井を濡らした。ゾグはマスルの頭部をつま先で軽く蹴飛ばすと、分厚い唇を歪めた。笑っているのだろう。天井から滴り落ちる血がゾグの禿げ頭を濡らしている。

 顔面を伝う血を拭おうとしたゾグは、額に刺さったままの短剣に気付くと、左手で短剣を引き抜き、床に放り投げた。カランと音を立てて床の上に転がった短剣の先にギギルの身体があった。ゾグは床にうつ伏せに倒れているギギルを見ると首を傾げた。

 ゾグの鈍い頭の中に、短剣をゾグの額に突き立てたギギルの顔が浮かんだ。このオトコは敵だ。殺さなければならない。ゾグの鈍い頭の中でようやく結論が出た。

 ゾグはギギルの傍にノッシノッシと歩み寄り、右手に持った剣を振り上げた。ゾグの剣が雷光のようにギギルの背中に振り下ろされた。ギギルは床の上で素早く身体を回転させてゾグの剣から逃れた。ゾグの剣が激しく石の床に当たり、ガキッという音と共に火花が散る。

 ギギルは回転した反動で立ち上がると、カギ爪を構えた。少し上体が揺れているが、下半身は力を取り戻してドッシリと安定している。強敵を前にギギルの目が燃えている。

「きやがれ、化け物」

 ゾグは無造作にギギルに歩み寄ると、横殴りの剣をギギルに叩きつけた。ギギルは後方に飛び退いてゾグの剣を躱すと、今度は一歩踏み込んでカギ爪でゾグの顔面を真横に切り裂いた。ゾグの右耳から頬に掛けて二本の深い傷が刻まれたが血は流れず、ブヨブヨとした白い粘液が滲み出るだけで、ゾグは何の反応も示さない。ゾグは剣を大きく振りかぶると、ギギルの頭上目掛けて剣を振り下ろした。ギギルは咄嗟に後方に倒れ込むようにしてゾグの剣から逃れた。空を切ったゾグの剣は石の床に当たり、火花を散らして跳ね返った。ゾグは跳ね返った剣の勢いをそのままに、体勢の崩れたギギルに向かって、もう一度上段から剣を振り下ろした。ギギルは床を転がってシンのいる奥の部屋に飛び込んだ。

 ギギルの頭上に振り下ろされるはずだったゾグの剣は、部屋と部屋の境の通路の上に渡されているオニシダの太い梁にガキッと食い込んで止まっている。梁に食い込んだ剣を外そうとゾグが上を向いた隙に、ギギルは素早く立ち上がると、今度はゾグの心臓目掛けてカギ爪を深々と叩きこんだ。

「これでどうだ!」

 ギギルの叫び声も空しく、胸の真ん中にカギ爪を叩き込まれたまま、ゾグはギギルの首を両手で掴み、ギギルを頭上に吊り上げた。

「グウウ・・・」ギギルが呻き声を上げた。

 吊り上げたギギルの首をギリギリと絞めながら、ゾグは奥の部屋にノッシノッシと入ってきた。ゾグの胸からギギルのカギ爪が外れたが、胸の傷からも血は流れない。息ができないギギルは、苦しさのあまりバタバタと両足でゾグの身体を蹴るが、ゾグはビクともしない。

「ギギル! しっかり、今行く」

 床に倒れて呻いていたシンは、ギギルの様子を見て飛び起きると、ゾグに向かって飛び掛かった。そしてシンはゾグにむしゃぶりつくと、必死になって拳をゾグに叩き付けた。しかし、か細いシンの拳ではゾグはビクともしない。

 シンの振るった拳が、偶然にも、ゾグの胸の真ん中に空いている深い傷にめり込んだ。ギギルのカギ爪が切り裂いた傷だ。シンは手首までめり込んだ拳をゾグの胸の中で思いっきり開いた。シンの手にはゾグの心臓の鼓動が伝わってこない。

「・・・心臓がない? そんなバカな」

 シンが驚きの声を上げた。シンの声をかき消すように、ゾグが獣のように吠えた。

「ヴオオオオ」

 ゾグは頭上に吊り上げていたギギルを放り投げ、シンを両手で突き飛ばした。そして胸の傷に手を当ててうずくまった。傷の上に当てた手の指の間から、どす黒い粘液が溢れ出してボタボタと床に滴り落ちた。

 シンは床の上で伸びているギギルの所に這って行った。

「ギギル、大丈夫かい」

「ううむ・・・クソッ、何てやつだ・・・いかん! やつはどこだ・・・」

 ギギルは飛び起きるとカギ爪を構えたが、途端にフラリと身体を揺らしペタリと尻もちをついた。ギギルの顔は傷だらけで、額の傷から流れ出た血が頬を伝っている。シンはギギルの肩を抱くようにしてギギルの身体を支えると、振り返ってゾグを見た。ゾグは先程と同じ姿勢のままで小さく身体を震わせている。

「ギギル、なぜか分からないけど、こいつ動かなくなったんだ」

「剣もカギ爪も効かないのに、いったいどうしたんだ」

「私の振り回した拳がやつの胸の真ん中の傷に当たったんだ。そうしたらこいつ、苦しみ出した」

 シンは自分の拳を見た。クロドクダミを煎じた際に付いた煮汁のせいで、指どころか掌や手の甲まで茶色く変色していた。その拳に、ゾグの胸にめり込んだときに付いた白っぽい粘液がネットリとまとわりついている。その粘液は見る見るうちにどす黒く変色すると粘性を失い、ポタポタと床に流れ落ちた。

「クロドクダミ?・・・そうか!」

 ギギルは立ち上がり、炉の上にある鍋を手に取ると、うずくまっているゾグの傍に慎重に近づいた。そして鍋の中に残っているクロドクダミの薬湯と、煎じてドロドロになった葉っぱの滓を、ゾグの頭の上からべシャリとかけた。

「ヴルルルル・・・」

 ゾグは再び大きな声を上げ、身体を捩りながら痙攣した。薬湯の掛かったゾグの身体はドロドロと融けて崩れていき、どす黒い粘液が床に広がった。やがてゾグは膝をついて座り込むと、煮崩れたククのようにノッペリとした灰色の塊になった。その周りに融け残ったゾグの皮膚が、脱皮したイワヘビの抜け殻のように絡まり、その外側を服やズボンがシワシワと取り巻いている。その中で灰色の塊がプルプルと蠢いていた。クロムでできた銀色の小さな紋様飾りが灰色の塊の中に半ば埋もれている。それはゾグが首から下げていたものだ。ゾグはサリー教の神官により造られた不死の戦士なのだ。

 シンは訳が分からないという顔をして灰色の塊を見ている。

「ギギル、これはいったい?」

 ギギルは空になった鍋で灰色の塊をチョンチョンと突きながら言った。

「おそらく巨大な粘菌だ。それもヒトに寄生する特殊なやつだろう」

「じゃあこいつは粘菌に操られていたのかい?」

 シンは気味悪そうに灰色の塊を見た。ギギルは先程までのお返しだと言わんばかりに、鍋を振り上げ、灰色の塊にべシャリと叩きつけた。

「多分な、生きる屍ってやつだ。剣もカギ爪も効かない訳だ。何しろ死んでいるんだからな。だが、シンの作ったクロドクダミの薬湯で殺菌されちまったって訳さ。助かったぜ」

 ギギルは思い出したように「イテテ」と言いながら、ゾグに絞められた首を擦っている。よく助かったもんだと思っているのだ。シンは隣の部屋からマスルに薬湯を飲ませた大きな椀を持ってくると、止めだと言わんばかりに、椀の中に残っていた薬湯をプルプルと蠢めく灰色の塊にかけた。灰色の塊はグシャリと崩れてどす黒い粘液に変わり動かなくなった。

「ねえギギル、こいつはなぜ私たちを襲ったんだろうか」

 ギギルは違うと首を横に振った。

「俺たちじゃなくてやつの狙いはマスルだったんだ。おそらくイオリを買ったやつが、口封じのために寄越したんだろう」

 ギギルはカギ爪の先でどす黒い粘液の中から銀色の小さな紋様飾りを引っ張り上げた。

「見ろ、シン。マスルと同じ紋様飾りだ。こいつもサリー教に関係しているのは間違いないな」

 シンは目を伏せてガクリと肩を落とした。何とか化け物は倒したものの、手掛かりとなるはずのマスルは殺されてしまった。肝心のイオリの行方は不明のままなのだ。

「マスルは死んじゃったし、これで手掛かりがなくなったね。これからどうすればいいんだろう」

 シンの声には力がない。ギギルは髭面を歪めてニヤリと笑うと、シンの肩をポンと叩いた。ギギルの目はまだ光を失っていない。

「いや、手掛かりはマスルが死ぬ前に教えてくれた。こいつの名前はゾグ。そしてマスルは、『自分はオラハン様の僕だ』と叫んでいたよ。そのオラハンってやつを探すんだ。うん? ちょっと待てよ」

 ギギルは、黒い粘液の上に残されているゾグの上着を拾い上げると、上着の小物入れに手を突っ込んだ。そして掌ほどの大きさの四角い紙片を掴み出した。

「これは・・・トキオンの特別街区への通行証だ。所持者は・・・ゾグ。やはり間違いないな。おっ、見ろ!通行証の発行者はオラハン・ズ・デリだ。大当たりだぜ!」

 ギギルは通行証をシンに見せると、得意気にシンの目の前で通行証をヒラヒラと振った。 ギギルは上着の内側の小物入れからジルから渡されたトキオンの地図を取り出した。

「特別街区となると、トキオンの半島側の高級住宅街だ・・・あった、オラハン・ズ・デリ、こいつだ」

 ギギルは広げた地図を指でパンと叩いた。シンの顔にようやく笑顔が戻った。失望するにはまだ早いのだ。

「迂回隧道の向こう側だが・・・いまいる場所がどこか分からん。それに、乗り込むにはクロドクダミの薬湯が必要だ。ゾグみたいなやつがいるだろうからな。シン、とにかく一旦ジルの宿屋に戻ろう」


 通路の分岐に白い小石で残した目印をたよりに、ギギルとシンが何とかジルの宿屋に帰り着いたのは、日の出時を少し過ぎた頃だった。ジルはチャルを淹れシリカバチの蜜を塗ったククを焼いて、ふたりの帰りを待っていた。ジルはふたりの顔を見るとホッとした表情を浮かべた。寝ずに待っていたのだろう、ジルの両目が赤い。

「遅かったね、迷路で迷ってるんじゃないかと心配してたんだよ。おや、ギギルもシンも酷い顔だね、傷だらけじゃないか。どうやら大変だったみたいだね・・・それでイオリは見つかったのかい?」

 ジルは帳場の上にククを盛った皿と椀を置くと、椀にチャルを注ぎながら聞いた。ギギルは傷だらけの顔を歪ませると、皿の上のククを摘まみ上げた。

「盗人には逃げられた。だが、イオリがどこに連れて行かれたのかは分かった。オラハン・ズ・デリの邸宅だ。まずは腹ごしらえだ。それからクロドクダミの薬湯を準備したら、すぐイオリを取り返しに行く」

 ジルは半開きの眠たいような目を心もち見開いた。

「オラハン・ズ・デリだって? 貴族種で、このトキオンじゃ一、二を争う鉱石商人だよ。なるほどねぇ・・・あくどい商売をするって噂だけど、サリー教の信者だったって訳かい」

 ギギルとシンは帳場の前に立ったままで、ジルの用意したククを口の中に押し込みチャルで流し込みながら、昨晩のマスルの家での出来事を交互に話した。ふたりの話を聞いたジルは暗い顔をした。

「粘菌に操られる生ける屍だって? それはサリー教の伝承にある不死の戦士のことだろうか」

 ギギルは上着の小物入れからマスルとゾグが持っていた紋様飾りを掴み出してジルに見せた。

「マスルとゾグって化け物がこの紋様飾りを持っていた。これはサリー教の信者の証だろうな。サリー教が関係していることは間違いないだろう。不死の戦士だと? そいつらも不死でないことは確かだ。倒す方法はシンが教えてくれたぜ」

 ギギルはドロドロに融けてどす黒い粘液に変わったゾグの姿を思い出すと、髭面を歪めてニヤリと笑い、シンの脇腹を小突いた。ゾグを倒せたのはシンが作ったクロドクダミの薬湯のお蔭なのだ。あの薬湯がなければ、今頃はギギルもシンも死体になって、マスルの家の床に転がっていただろう。

 シンはすました顔でチャルを啜っている。ギギルに褒められて照れているのだ。シンは照れを隠すようにしかつめらしい顔で尋ねた。

「ねえギギル、どうやってオラハンの邸宅に乗り込むつもりだい。そんな大金持ちなら警備もきっと厳重だよ」

「それに、半島側の特別街区の入口は検問所があるんだ。通行証がないと特別街区の中へ入れてもらえないよ。あたしは通行証なんて持ってないし・・・」

 シンとジルに向かって、ギギルはゾグの上着を見せた。

「こいつはゾグの上着だ。小物入れにはこいつの通行証が入っていた。それとマスルの家にあったマルスの通行証も持ってきた。これを使って俺とシンがゾグとマスルに成りすますのさ。まあ、俺に任せておけ。それと、ジルには頼みがある」

 ジルが半開きの眠たいような目をフッと上げた。ギギルが続けた。

「鉱石市場の管理役場に行って、トリムカンドからきているタルマンにこの話をしてくれ。オラハンがサリー教に関係していることと、卵の誘拐事件の黒幕はオラハンだと納得してもらえるはずだから、トキオン警備隊の出動を要請して貰いたいんだ。何なら、マスル名義の両替商の預け金口座の書類を見せて、マスルの家を捜索してもらえればいい。そうだ、タルマンには『オラハンは鉱石輸送隊への盗賊団の襲撃事件にも一枚噛んでいるかも知れん』と言えば、タルマンのことだから食いついてくるだろう」

「分かった、あたしに任せな。タルマンとやらがゴチャゴチャ言ったら、ぶん殴ってでも納得させるわ」

 ジルは頼もし気に口角をキュッと上げて笑った。

 ジルなら本当にタルマンを殴りかねないなとギギルはチラリと思った。まあ、そこはジルに任せておこう。仮にタルマンが殴られても、俺は痛くも痒くもないからな、などと不謹慎なことまで考えている。

「ジル、それが終わったらトキオンの警備隊に持たせるためのクロドクダミの薬湯を作ってくれ。できるだけ多い方がいい。薬湯ができたら鉱石市場の管理役場のタルマンに届けてくれ」

 ククを食べ終わったシンは、早くも炉に向かってクロドクダミの薬湯の準備に取り掛かっていた。ジルはシンの横に並んで立って、薬湯の作り方をじっと見ている。

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