宰相の指輪
女王の城の執政区にある宰相の執務室で、主要街長会議代表のアルガと随行員のステアは、白光石の大きな会議机を挟んでゴルム宰相と七人の元老院議員と向き合っていた。ステアたちの前に置かれた水晶の椀には温かいチャルが入っていて、執務室内のヒンヤリとした空気の中で陽炎のように湯気が揺らめいていた。
部屋の中に微かに漂っている腐臭に気が付いたステアは、眉をひそめて顔を上げた。仮面の下からステアを見つめていたゴルムと目が合うと、ステアは何ごともないかのように下を向いた。
アルガの前には主要街長会議の議決内容をしたためた上奏書が置かれていて、アルガの横の席に座るステアの前には火球器の試作品とオルギニウムの入った掌ほどの小さな箱が置かれていた。
ゴルムは出席者が全員揃ったことを確認すると、出席者ひとりひとりの役職と名前を紹介した。そしてスッと姿勢を正した。
「私はアマテス女王の宰相ゴルム。それでは、お話を聞こうか」
アルガはゴルムに向かって一礼した。
「私は上層帯のコルトバンの街長アルガと申します。先に開催された主要街長会議の代表として参内いたしました。主要街長会議における議決内容につきまして、恐れながら、アマテス女王に上奏奉ります」
アルガは恭しく上奏書をゴルムに手渡した。
ゴルムはアルガの差し出した上奏書を読み終えると、上奏書を七人の元老院議員に回覧させた。元老院議員が次々と上奏書を手に取って読んでいるのを横目で見ながら、ゴルムはステアに声を掛けた。
「随行員のステアと言ったな。それが火球器の試作品というものか。その箱の中にはオルギニウムが入っているのか」
「おっしゃるとおりです、ゴルム宰相。これは試作品なので小型ですが、実際に製造する火球器はこれの二十倍ほどの大きさとなります。そして、これがオルギニウムです」
ステアは目の前の小さな箱の蓋を開けた。箱の中には銀色に輝くキヌグモの布が敷かれていて、その上に小指の爪の先ほどの大きさの紫色の結晶が二個並んでいた。
「火球器の試作品用にオルギニウムを三個用意してきましたが、一個は既に使ってしまいましたので・・・」
「西の塔を吹き飛ばしたのはそれか」
「あ・・・いや・・・やむを得ない状況でしたので・・・仕方なく・・・」
ステアは顔を赤らめて頭を掻いた。ステアとしても、化け物を焼き殺そうと思っていたものの、あれほどの威力だとは思いもよらなかったのだ。ましてや、その後に飛翔機で九死に一生を得るような経験をするとは想像もしていなかった。
西の塔を崩壊させた原因が、この微小なオルギニウムだと聞いて、元老院議員たちがザワザワと騒ぎ出した。元老院議長のサイカがステアに尋ねた。
「オルギニウムとやらを、そんな状態で箱の中に置いておいても危険はないのか?」
「はい。鏡で閉じられた箱の中に入れると、鏡により反射された光熱粒子を吸収して自然崩壊が加速増幅することにより暴走崩壊を引き起こし、臨界点を超えると厖大な光と熱を発する火球となりますが、むき出しのままであれば自然崩壊するだけですからコハクニウムと同様で危険はありません」
ステアはそう言うと箱の蓋を閉じた。
回覧を終えた上奏書を手に持ったゴルムは、アルガに向かって響くような低い声で言った。
「上奏書の趣旨はよく分かった。女王親衛隊を中心とした女王軍の創設については、宰相名で勅書を発出しよう。オルギニウムの製錬と火球器の製造に関しては、女王の城の直轄とする。全てのオルギニウムと製造過程の火球器は速やかにコルトバン軍の管理下に置き、シリバスを経て女王に城に届けるように。
そもそも、オルギニウムは全て女王の城に差し出すよう、既に宰相名での勅書を発しているはずだ。それと、オルギニウムに関する資料と製錬方法は女王の城限りとして門外不出の知見とする。別室に待機している技師は女王の城で預かる。以上だ」
ゴルムの答えを聞いてアルガが眼を剝いた。既に頭に血が上っているのだろう、こめかみに血管が浮いている。普段は声を荒げることもない温厚なアルガの、この様子はただごとではない。
「オルギニウムと火球器を全て女王の城へ? そんな無茶な。ガンデラの街の惨状を見る限り、ヒト族の軍隊だけではゾルゲルの大群を迎え撃つのは困難です。少なくとも主要な街に展開する女王軍には火球器を一器ずつ配備しなければならないでしょう。そのためには大量のオルギニウムが必要となります。仮に、女王の城に製錬工場を造ったとしても、大陸全体に行き渡るオルギニウムの製錬は簡単にはできないでしょう」
ゴルムは仮面で覆われた顔を真っ直ぐアルガに向けたまま微動だにしない。仮面の下から声だけが伝わってきた。
「大陸の主要な街がオルギニウムと火球器を持てば、女王の統治権を脅かすことに繋がりかねない。更に、街と街の争いが勃発したときに火球器が使われたら、収拾のつかない混乱をきたして大惨事を招くだろう。そのようなことは、女王より大陸の執政権を負託された宰相として認める訳にはいかぬ」
ゴルムの言葉に、元老院議員たちは無言で頷いた。信じられないという顔をしたアルガの声が裏返った。
「それではゾルゲルの大群が襲来してきたら・・・」
アルガの発言を遮るように、ゴルムは冷ややかに言った。
「ゾルゲルはヒト族を根絶やしにはしない。五百トング前の襲来の際もそうだった。多少の犠牲は出るだろうが、女王の城が無事ならこの大陸は再建できる」
アルガは顔を真っ赤にして会議机をドンと叩いた。
「そんなバカな! 多くの犠牲が出ることが分かっているのに、指を咥えて見ていろというのか!」
アルガの怒りを前にしてもゴルムは動じない。仮面の下からジッとアルガを見つめていた。アルガとゴルムのやり取りを聞きながら、ステアは会議机の上に置いてあるオルギニウムが入った小箱を素早く手に取って上着の小物入れに仕舞った。下手をすると、このオルギニウムですら取り上げられてしまいかねないのだ。
ゴルムはアルガに向かって冷たい声で突き放した。
「だから女王軍を創設するのだろう。女王軍の健闘に期待しようではないか」
アルガは首を横に振り声を荒げた。顔面は朱に染まり目は血走っている。
「そんなことは承服できない! アマテス女王にお諮りしてくれ。宰相限りの判断には従うことはできない。こんな重大な案件は女王の裁可が必要だ!」
「アマテス女王はアマノイワトにお隠れになっていて、本件をお諮りすることはできない。宰相は女王より執政権を負託されている。私の決定は女王の決定だ」
ゴルムは木で鼻を括ったような返事をした。
アルガはスウッと息を吸って気を静めた。ふた呼吸ほど下を向いて目をつぶると、アルガは顔を上げ、ゴルムに向かって皮肉っぽい笑みを浮かべた。
「アマテス女王は本当にいらっしゃるのか? それにゴルム宰相、あなたは本当に千トング前からアマテス女王の宰相を務めておられるのか? 全てが伝説ではないのか」
アルガはそう言うと会議机の向こうに座っているゴルムと七人の元老院議員の顔をジロリと見回した。ゴルムは平然と顔を上げてアルガを見返しているが、元老院議員たちは顔色を変えて下を向いてしまった。痛い所を突かれたのだ。
七百トング前にアマテス女王がアマノイワトにお隠れになって以降、いつの頃からか、宰相の地位は元老院議員の中から選ばれた者が就くという慣行が生まれた。数十トングに一度、新たに宰相に選ばれた者はゴルムと名乗り、仮面をつけて執務を行うのである。元老院議員たちは、横に座っているゴルム宰相が、二十三トング前に宰相に選ばれた元老院議員ナパランだと思っているのだ。ナパランは宰相に選ばれた日に人知れずゴルムによって殺害されていて、仮面の下の宰相がゴルムと入れ替わっていることも知らずに。ましてや、元老院議員たちは、アマテス女王が本当にこの城にいるとも思っていないのだ。
アルガは老練な政治家らしく言葉を改めた。
「女王が伝説でも構わない。あなたが本物の、いや、千トング前に女王から執政権を負託された宰相でなくてもね。ゾルゲルに対抗するために大陸のヒト族が結集するには、女王の勅命が、いや、女王の勅命という形式が必要なのです。私は上奏文を裁可する旨の女王の勅命さえ頂ければいい。勅書を誰が作成して誰が決裁したかなどを問題にする気はない。いかがです、ゴルム宰相。女王の城の秘密を守るために、これで手を打ちませんか」
「女王が伝説だと? 女王の城の秘密?アルガ、何を言っておる。アマテス女王は千トング前からこの城にいらっしゃる。アマノイワトにお隠れになっているだけだ。私はアマテス女王より、千トング前に執政権を負託された宰相ゴルムだ。我々に守るべき秘密などない。手を打つなどもっての外、私の決定は変わらぬ」
ゴルムは平然と答えた。元老院議員たちは何も口にすることができずに固まっていた。アルガは二の句が継げなかった。仮面の下でゴルムが何を考えているのか、アルガには分からなかったのだ。宰相の執務室が静寂に包まれた。
ゴルムに向かって、もう黙ってはいられないと言わんばかりに、ステアが声を上げた。さすがのステアも、大陸のヒト族に多大の犠牲を強いるような決定を平然と下すゴルムに怒りを覚えたのだ。
「ゴルム宰相、誠に失礼なお願いですが、その仮面を外してお顔を見せていただくことはできないでしょうか」
ステアの発言に元老院議員たちがザワザワと騒ぎ出した。
「それは失礼にもほどがある。宰相の仮面を外せなどと・・・」
「女王の存在を疑うなど不敬極まりない」
「伝説などとバカげたことを・・・」
ステアは椅子からスッと立ち上ると、ゴルムを指差した。ステアの表情が硬い。
「その仮面を被った者がゴルムという名前を踏襲して宰相の地位を承継しているだけだ。ここにいらっしゃるゴルム宰相が千トングも前から生きている訳ではない。違いますか? アマテス女王もいらっしゃらない・・・いや、はるか昔にはいらっしゃったかも知れないが・・・今となっては、全てが伝説だ。あなた方はその伝説を拠り所にして、中下層帯のヒトたちから納められた税を享受して、女王の城で生活しているだけだ。ゴルム宰相のおっしゃるような執政権などありはしない。そんな宰相の決定によって、大勢のヒトを犠牲にする訳にはいかないのです。さあ、主要街長会議の議決内容を裁可して、女王の勅命として勅書を発しなさい」
ステアの声を遮るように、宰相の執務室の扉がバタンと開いた。
「アマテス女王は本当にいらっしゃるよ。伝説なんかじゃない」
執務室内にイオリの声が響いた。イオリは執務室の入口に立って翡翠色の大きな瞳で部屋の中をグルリと見回すと、ゴルムを睨みつけた。
「ここにいるゴルム宰相も千トング前から生きている。でもゴルム宰相は悪いものに身体を乗っ取られて化け物になっちゃった。だから、アマテス女王は七百トング前にアマノイワトに隠れたんだ」
ステアが驚いた顔でイオリを見つめた。いや、ステアだけでなく、アルガも元老院議員たちの目も、突然現れたイオリに釘付けになっていた。ただひとり、ゴルムだけは正面を向いたまま微動だにしなかった。
「イオリ・・・何を言っているんだい。それは全て・・伝説・・なん・・だ・・・」
ようやく声を出したステアの頭の中で、イオリの言葉がグルグルと渦を巻き、ステアの声は途中でかすれて消えた。まさか、本当なのか? いや、そんなはずはない。ステアは呆然と自問自答を繰り返していた。
イオリはステアを見るとホッとしたように表情を緩めた。
「ああ、ステア、あなたを探していたの。ギギルが大怪我をしちゃって死にそうなの。お願い、力を貸して!」
ギギルの大怪我と聞いて、ステアはハッと我に返った。
「ギギルが? ギギルはいまどこに? それにシンは?」
「ギギルはアマノイワトの前にいるの。ソトルって不死の戦士と戦って大怪我をして動けないの。出血も酷いし・・・シンはテルミとサルサのところへ助けを求めに向かったわ。お願い、ステア!」
イオリの翡翠色の大きな瞳は涙を湛えて揺れていた。ステアにはイオリの言葉がまだよく呑み込めていない。
「アマノイワトの前? ソトルと戦った?」
「そうよ、そこであたしはアマテス女王とお話をしたの。アマテス女王はおっしゃったわ。そこにいるゴルム宰相を倒してアマノイワトを開けてほしいって。アマノイワトを開けるにはゴルム宰相の持つ『宰相の指輪』が必要なの」
イオリはスッと腕を上げてゴルムを指差した。イオリの翡翠色の大きな瞳には強い意思の力が宿っている。
ゴルムはイオリに指差されても動じることなく、仮面の顔をイオリに向けるとフンと鼻で笑った。ゴルムの低い声が響いた。
「アマテス女王が宰相である私と倒せと言っただと? バカなことを。・・・アマノイワトに入ったと言ったな。アマノイワトの参道に近づくことは禁止している。衛兵! このイオリというムスメは宰相の命令に背いた。即刻捕えよ!」
ゴルムの声に槍を持った三人の衛兵が執務室の中に飛び込んできたが、イオリの姿を見ると衛兵たちは互いに顔を見合わせて、その場で固まったまま動かなくなった。アマテス女王の聖堂で見せたイオリの女王の力に畏敬の念を感じているのだ。
「衛兵! 何をしている!」
ゴルムが声を荒げたが、衛兵はオロオロとするばかりで役に立たない。ステアは椅子から立ち上ると、イオリの横に立って優しく肩を抱いた。
「イオリ、アマテス女王は本当に・・・」
「本当にいらっしゃるよ、何度言えば分かるの。七百トング前にアマノイマトにお隠れになってから、ずっとあたしを待っていたとおっしゃったわ」
イオリの声には迷いがない。ステアはイオリの肩を抱いたままゴルム宰相に目をやった。のっぺらぼうのようにつるんとした仮面の下のゴルムの表情は読めない。
「ゴルム宰相、あなたは本当に千トング前から生きているのか?・・・いや、あなたが七百トング前にアマテス女王をアマノイワトに閉じ込めた?・・・あなたを倒さなければならない?・・・ダメだ、私には分からない。あなたは『バカなことだ』とおっしゃったが、本当はどうなのです。その仮面を外して素顔を見せて、説明されたらいかがですか。それと、あなたが監督使に命じて女王候補者を次々に殺害していた理由も・・・」
ステアがそう言うと、ゴルムは仮面の下からクックッと笑い声を上げながら、ゆっくりと椅子から立ち上った。アルガや元老院議員たちは、固唾を飲んでゴルムを見ている。
「ステア・・・君は本当にアマテス女王が千トングも生きておられると、そして、私がアマテス女王と共に千トングも生きていると思っているのかね。フン、君もそんなことはあり得ないと思っているのだろう」
ゴルムは低い声でそう言いながら、ステアとイオリに向かってゆっくりと歩いた。
部屋の中に痺れるように甘く、微かに腐臭を纏った香りが漂い始めた。その香りを嗅いだアルガや元老院議員や衛兵たちの目は虚ろになり、涙と鼻水と涎を垂らしながら身体を左右に揺らし始めた。
ゴルムが被っている仮面の上に引かれた糸のように細い目の奥で何かがヌラヌラと動いている。ゴルムの口から、甘く微かに腐臭を纏った香りが止めどなく吐き出された。ゴルムはしゃべり続けた。
「大陸に住むヒト族は、たかだか七百トングの間アマテス女王が姿を現さないだけで、アマテス女王のことを忘れて、今や伝説だと思っている。ステア、君と同じようにな。とんでもない。五百万トング前に、ヒト族の祖先が女王に導かれてこの大陸に移り住んで以降、歴代の女王はこの大陸に住むヒト族を統べてこられた。ヒト族の女王の位についた者は永遠の命を得る。これは紛れもない事実だよ。
千トングの昔、前女王イザミと女王候補者アマテスが戦い、アマテスが勝った。アマテスはイザミの血を口に含み、女王の力と永遠の命を引き継いで新しい女王となった。女王の力と永遠の命は、その血によって受け継がれていくのだ。それ以降、アマテス女王は女王の城で生きておられる。次の女王にその血を引き継ぐまで。そしてアマテスを導いた巡礼者の私は、アマテス女王の血を『女王と宰相の契約の印』として口に含むことで、宰相として女王から永遠の命を授けられる・・・はずだった」
イオリはステアの耳元でささやいた。
「ステア、気を付けて。ゴルムはヒトじゃない、化け物だよ。何か悪いものに身体を乗っ取られているの」
ステアは頷くと少し腰を落としてやや半身になり、右手を腰の剣の柄の上においてジッとゴルムを睨んだ。ゴルムはステアとイオリの前に立った。ゴルムは誰にともなくしゃべり続けている。
「しかし、アマテス女王の血を口に含んだ私には永遠の命は授けられなかった・・・さまよえる巡礼者だった私には、その資格がなかったからなのだろう。アマテス女王の正統な巡礼者ガザを、女王の城に至る途中の回廊から突き落として殺したのは私だ、その報いなのか・・・。先代の宰相ナギはそのことを見抜いていたのだろう。歴代の宰相に受け継がれてきた『宰相の指輪』を私に渡さなかった。宰相の指輪にも女王の力が秘められている。私は永遠の命が欲しい、宰相の指輪が欲しい・・・。
私は地震で崩れた壁面の穴から宰相の霊廟に忍び込みナギの遺体を見つけた。宰相の指輪を指に嵌めたまま、死しても女王の血を吐き出すこともなかったナギの遺体は、腐敗もせず死んだトキと同じ状態で、棺の中に横たわっていた。そして、ナギの遺体にはびっしりと粘菌が取り付いていたのだ。遺体の傍には小さなオニウツボカズラが花をつけていた。
私は、宰相の指輪を取るためにナギの遺体の指を切り取った。そのときに誤って付けた掌の傷に付着した粘菌が、私の身体を蝕んだのだ。先代の宰相の遺体に取り付いていた粘菌に蝕まれた結果、粘菌が私に狂気と永遠の命をもたらしたとは皮肉なものだな。
遺体の傍に咲いていたオニウツボカズラを持ち帰って育てているうちに、オニウツボカズラは粘菌と共生して、永遠の命を持つヒト食い植物ヴァリとなった。
いや、違う。ナギの遺体には前女王イザミの血が残っていたのだ。その遺体を養分として吸収した粘菌もオニウツボカズラも、女王の血によって変異したのだろう。そうだ、全ては私が正当な巡礼者ではなかったことが原因なのだ。
私はヴァリを神と崇めて永遠の命をもたらすサリー教を興して、秘かにヒトたちに広めた。サリー教は瞬く間に女王の城の中に広まり、そして監督使を通じて大陸中に広まった。サリー教がこれほどまでに広まったのは、ヒトたちの心の奥底に永遠の命に対する渇望があるのだろう」
ゴルムは喋り疲れたのか、ひと呼吸おいてからスッと息を吸った。
「アマテス女王は私の狂気に気付き、サリー神となったヴァリを恐れてアマノイワトに隠れた。私は宰相の指輪の力でアマノイワトを外から封印した。七百トングも昔のことだ。
女王候補者を殺した理由だと?・・・アマテス女王の血を口に含んだ私は、新しい女王が現れてアマテス女王が力を失って死ぬことを恐れた。アマテス女王が死ねば、私の身体の中のアマテス女王の血が私を殺すに違いないからな。女王が死ねば、その宰相も死なねばならない。これはヒト族の掟であり、女王と宰相の血の契約じゃから、それに逆らうことはできない。粘菌がもたらした永遠の命とは別の問題なのだ。
それであれば、女王が死ななければよい。だから女王候補者を殺した。女王候補者が現れなければ、アマテスは永遠に女王なのだから。
そしてとうとう私自身がサリー神ヴァイムと同化した。私は神になった。そしてもっと強い力が欲しくなった、女王の持つ強い力を・・・血が飲みたい・・・アマテス女王の血が・・・イオリ新女王の血が・・・」
ゴルムは仮面を外した。
ゴルムの顔の皮膚はふやけたようにたるみ、目鼻口耳の穴からオニウツボカズラの蔓がヌメヌメと這い出してきた。長衣の前がはだけると、裸の胸を突き破って捕虫袋がダラリとぶら下がって、禍々しい蓋が開いた。首の部分からオニウツボカズラの蕾がニュルリと顔を出すと、蕾がゆっくりと膨らみ、やがてイワヘビが口を開くように、上下二枚の肉厚の花弁がヌタリと開いた。
花弁の中にゴルムの顔が見える。花弁の色は毒々しい赤紫をしていて、ゴルムが口を開くと黒くて長い雄蕊と黄色い雌蕊がイワヘビの舌のようにだらりと花弁の外に垂れた。長衣の袖口やズボンからズルズルと蔓が伸びて床や壁に広がり、更にその蔓から触手が伸びて、ウネウネと鎌首を持ち上げた。それと共に、痺れるように甘く、微かに腐臭を纏った香りが強くなった。
ゴルムの被っていた仮面が床に落ちて、カランと音を立てた。
「キャー」
ゴルムのおぞましい姿を見たイオリが思わず悲鳴を上げた。ステアの頭の芯が微かに痺れている。ゴルムが吐き出した香りを嗅いだからだ。ステアは左右からウネウネと鎌首を持ち上げる触手に目をやりながら、イオリを背中に庇った姿勢でゆっくりと後退った。オニウツボカズラの触手にまとわりつくようにゴルムの萎びた皮膚が垂れ下がり、その皮膚にゴルムの長衣やズボンや手袋が絡みついている。その手袋に宰相の指輪が光っていた。
・・・宰相の指輪だ!・・・
ステアは身体を沈めるようにして一歩前に踏み出すと、身体を捻った。ステアの腰から銀の流星が放たれた。一本の触手が切り払われて、その先に付いている手袋と宰相の指輪が床にポタリと落ちた。切り払われた触手は切り口から白い粘液を垂らしながら、床の上でウネウネと動いている。ステアは身を屈めて床の上の手袋を拾い上げると、手袋に嵌っている指輪を抜いて上着の小物入れに入れた。
指輪を拾い上げたステアの顔に向かって、ゴルムがフウッと息を吹きかけた。黒い花粉の雲がステアを包み込んだ。花粉を吸い込んだ途端、ステアの視界がグニャリと歪んだ。ステアの身体がズシリと重くなり、両手の指先がピリピリと痺れ始めた。
「いけない! イオリ、息を止めて!・・・部屋の外に出るんだ!」
部屋の扉に体当たりするようにして廊下に転がり出たステアとイオリは、もつれそうな足どりで廊下を走った。その後ろから、蔓を床の上でイワヘビのようにくねらせて、ズルズルと音を立てながらゴルムが追ってきた。
イオリの手を引いて必死に廊下を走るステアの身体は耐え切れないほどに重くなり、両手と両足の先から痺れが這い上がってきた。足が思うように前に出ない。膝がガクガクと笑い始め、目の前をチカチカと光が飛ぶ。頭の中に霞が掛かり、襲ってくる睡魔のために瞼が落ちそうになる。
・・・だめだ・・・
ステアは廊下の床に崩れるように倒れた。目の前の光景がグルグルと回っている。イオリが何か叫んでいるが、何も理解できない。
「やられた・・・ゴルムに毒を吐きかけられた・・・身体が動かない・・・イオリ、上着の小物入れの中に宰相の指輪が入っている・・・それを持って逃げろ・・・」
ステアは絞り出すように言うと、目を閉じた。
「ステア、立って! ゴルムがくるよ! 立って!」
イオリはステアの肩を激しく揺さぶりながら声を掛けた。ステアの頭がグラグラと揺れている。既に意識を失っているのだ。
ズルズルと音を立てて背後からゴルムが迫ってきた。床に倒れているステアを見て、ゴルムがニタリと笑った。胸の前の捕虫袋の蓋がゆっくりと開いていく。
「ステア! ステア! しっかりして、目を開けて!」
イオリの祈るような声もステアには届かない。
イオリはステアの顔を両手で挟むようにして掴むと、ステアの唇に自分の唇を重ねた。ステアの体内の毒を吸い出そうとするかのような、ぎこちない接吻に、ふたりの歯と歯がカチンと当たり、イオリの唇が少し切れた。イオリはそのまま目を閉じた。イオリの心の中にポッと温かな灯がともった。
ステアはイオリの甘い香りに包まれた。ステアの口の中に、錆びたクロムを舐めたような血の味が広がった。それはイオリの血だ。イオリの柔らかな唇から温かな力がステアの身体の中に広がり、身体の痺れが見る見る解けていく。頭の中の霞がスウッと晴れて、ステアの意識が闇の底から浮かび上がった。イオリの血が、いや、女王の癒しの力がステアを救ったのだ。
ステアはハッと目を開けて床の上に上体を起こした。イオリはまだ唇を合わせたまま目を閉じている。目の前にゴルムの禍々しい姿が迫っていた。
ステアは弾かれたように起き上がった。痺れが消えて身体が動く!
「イオリ、もう大丈夫だ・・・逃げるぞ!」
ステアはイオリを胸の前に抱きかかえると、廊下を走り出した。イオリは抱きかかえられたまま、ステアの首に両腕を回して胸に顔を押し当てている。イオリの両頬は赤く染まっていた。
「ウフフ、ラクチンだな」
イオリの恥じらいを秘めた笑い声がステアの耳に届いた。ステアは照れ隠しのように憮然とした表情で正面を見据えたままイオリを見ようとしない。しかし、ステアの唇には、まだイオリの唇の感触が残っている。
・・・またイオリに救われた。イオリ、ありがとう・・・
ステアは心の中でイオリに礼を言った。
ステアの正面からひとりの衛兵が血相を変えて廊下を走ってきた。衛兵は口から泡を飛ばしながら叫んでいる。
「ゾルゲルだ! ゾルゲルの大群が現れた。あと数カクンで第一陣がここにもやってくるぞ! ゾルゲルだ!・・・」
衛兵はステアとイオリの横をバタバタと走り抜けると、ステアの後ろから迫ってきたゴルムの姿に気付いて腰を抜かした。
「何だあの化け物は・・・ヒイイ・・・」
腰を抜かした衛兵はゴルムの触手に絡み付かれると、あっという間に全身が触手に埋もれて姿が見えなくなった。
ステアは衛兵が叫ぶゾルゲルという言葉を聞いて顔を曇らせた。
・・・ゾルゲルの大群がもう現れたのか、早すぎる・・・火球器の製造が間に合わないしオルギニウムも足りない・・・ヒト族の力だけで戦わなければならないのか・・・籠城戦しかないだろう・・・
ステアは、『ゾルゲルは熱に対する耐性がヒト族よりも弱い』というギギルの言葉を思い出していた。こうなれば、それに賭けるしかないのだろう。
ステアの心の中を読んだかのようにイオリが言った。
「ねえステア、ゾルゲルと戦うにはアマテス女王の力が必要なんだよ。歴代の女王はずっと昔からこの大陸とヒト族を守ってきたんでしょう」
女王の名の下にヒト族を団結させるだけではない、女王の力そのものがゾルゲルとの戦いに発露されるというのか。アマテス女王はいらっしゃる、イオリの言葉を信じるのだ。ゴルムから逃げているだけではダメだ。アマテス女王の力によってヒト族をゾルゲルから守るために、ゴルムを倒すのだ。ステアは心を決めた。
「イオリ、アマノイワトへ行こう。ゴルムをアマノイワトにおびき寄せて決着をつける。そして宰相の指輪でアマノイワトを開けよう。この大陸とヒト族を救うために、アマテス女王にお出ましいただくのだ。その前にギギルを助けなければ・・・シンたちが間に合えばいいが・・・」
「アマノイワトはこっちだよ」
ステアはイオリを抱いたまま、イオリの指差す方向に向かって全力で走った。
宰相の執務室で身体を左右に揺らしていた元老院議長のサイカは、ゴルムの変身した姿を見ると、首から下げているクロムで作られた銀色の紋様飾りを引っ張り出して、胸の前で捧げ持った。
「新しいサリー神がお生まれになった。ゴルム神官はヴァイム様とおっしゃったか・・・。ヴァイム様とゴルム神官が同化された・・・おおお、我々に永遠の命が授けられるトキがとうとうきたのだ。サリーオンバヤクヤムニスンソヤカン、サリーオンバヤクヤムニスンソヤカン・・・いざ、ヴァイム様の元へ・・・サリーオンバヤクヤムニスンソヤカン、サリーオンバヤクヤムニスンソヤカン・・・。そうだ、全ての信者にヴァイム様へ参内するよう声を掛けなければ」
元老院議長サイカはサリー教の信者だった。サイカはサリー教の呪文を唱えながら席を立つと、宰相の執務室を出ていった。執務室の中の白光石の大きな会議机に残された六人の元老院議員と主要街長会議代表のアルガは、まだ虚ろな目をして身体を左右に揺らしていた。




