西の塔からの脱出
日の入り時を過ぎて、夕食時になってもゴルムは西の塔に姿を現さなかった。それどころか、食事の用意もされず、執事のオトコすら顔を出さない。西の塔の周囲には暗闇が押し寄せ、ヨルが更けていくにつれて、部屋の中にいても寒さで身体が震えてくる。
ギギルたちは外套の上からタテガミオオカミの肩掛けを羽織ると、寝台の上に座って身体を寄せ合って、ヴォルトの入ったチウシの胃袋の水筒をかわるがわる口に運んでいた。
シンはボンヤリと床を見ながら、少し気の抜けたような声で言った。ドルジの話を聞いて、女王の存在に疑念を抱いたのだ。ここまでくる間の苦労は何だったのか、そしてこれから先はどうなるのか。シンは、伝説と現実の狭間で虚無感に襲われていた。
「ねえギギル、アマテス女王は実在しない、いや、七百トング前にお亡くなりになっていて、宰相のゴルムも、宰相に指名されたヒトが名前を世襲しているだけで、永遠の命なんか持っていないとなると、イオリはこれからどうなるのかな」
「さあなあ・・・俺にも分からん。ただ、それが真実なら、俺たちは何に導かれてここまできたんだろうなぁ・・・」
ギギルは釈然としない顔をしていた。イオリの女王の力を目の当たりにして、更に修行者ゼンの話を聞いたギギルは、永遠の命なるものの崇高な存在をボンヤリと感じていた。それが、肝心の女王の城に着いた途端、種明かしをされて、崇高な存在が世俗の利害や思惑にまみれてしまったように思えてきたのだ。
「歴代のゴルム宰相が監督使を使って女王候補者を陰ながら抹殺してきたのは、女王の城に住む偉いヒトたちが、自分たちの地位や生活を守るためなのかな」
「女王の権威を拠り所にして、気の遠くなるような昔から脈々と得てきた既得権益を守りたいっていう気持ちはあるだろうな。それが真実なら酷い話だぜ」
ギギルは吐き捨てるように言った。
ギギルとシンの会話を聞きながら、イオリは外套の小物入れから取り出した食べかけのヤマリンゴの赤い実を一口かじった。そしてキッパリと言った。
「ギギル、シン、アマテス女王は本当にこの城にいらっしゃるよ。あたしを呼んでいる。あたしの助けを待っているんだ。あたしたちはアマテス女王に導かれてここまできたんだよ」
ギギルとシンは思わずイオリの顔を見た。イオリの翡翠色の大きな瞳が凛とした光を湛えていた。イオリの心には一点の迷いもない。そうなのだ、イオリの女王の力が何かの力と共鳴して、その力に導かれてここまできたことは間違いない。それはこの城に宿る崇高な力に違いない。ギギルやシンがそれを疑う必要などないのだ。イオリを信じて、ただイオリを守るだけでいい。ギギルとシンの心の中の靄が晴れた。
「それと、あのゴルム宰相って何か変だよ、ヒトじゃないみたい」
イオリはさっきと打って変わった心許ないような声で言った。イオリは目を伏せると、何かを感得したかのようにブルリと身体を震わせた。
「ハハハ、本当に千トングも生きているならヒトじゃないぜ」
ギギルがおどけた顔で茶化したが、イオリは真面目な顔をして首を振った。
「違うよギギル、ゴルムは、そう・・・何かに操られているみたい・・・何か嫌なものが身体の中にいるよ。そいつに身体を乗っ取られているんじゃないかな」
「まさか、オニウツボカズラと共生していたあの粘菌じゃないだろうな・・・サリー教の不死の戦士か。ドルジが女王の城にサリー教が広まっているという噂があると言っていたのは、本当なのかも知れんな」
ギギルは顔を曇らせて、指で顎を擦りながら考え込んだ。誰も口を開かなくなった。シンの肩に頭を乗せて、イオリがコトンと眠りに落ちた。
ヨルが深々と更けていく。
天井からぶら下がっているコハクニウムの入った水晶玉の青白い光の下で、ギギルたちは身体を寄せ合ってうつらうつらと船を漕いでいた。ギギルが小さないびきを立てている。
何かを感得したイオリがハッと顔を上げた。イオリの翡翠色の大きな瞳が燃えているかのようにメラリと光った。
イオリはギギルとシンの肩を揺すった。ギギルがガバッと上体を起こして長剣を掴んだ。シンは寝ぼけ眼でムクリと頭を上げた。
「どうした、イオリ」
「とっても嫌なものが生まれた・・・とっても悪いもの・・・。何かがここにくるよ、逃げなきゃ」
イオリは両手で自分の肩を抱いて、怯えるように身体を震わせた。シンがイオリの背中を優しく擦った。
「ねえ、イオリ。逃げるったってどこへ? そうだ、こうなったら、いっそのことシリバスにでも帰ろうか」
シンの脳裏にはガンデラの軍本部でゾルゲルの襲来を予知したイオリの姿が浮かんでいた。イオリが女王の力で危機を感得したのだ。ここに危機が迫っているのは間違いない。
「とにかくここから逃げなきゃ。・・・アマテス女王の元へ、アマノイワトに行かなきゃ。アマテス女王があたしを呼んでる・・・」
イオリはうわ言のように「アマテス女王」と「アマノイワト」を繰り返した。そして、シンの腕から離れると、居ても立っても居られないというように、部屋の中をウロウロと歩き始めた。シンが声を掛けても俯いたままで返事もしない。イオリのただならぬ様子を見てギギルとシンにも不安感がこみ上げてきた。
「ねえギギル。イオリの言うとおり、とにかくこの部屋から逃げようよ」
「ああ、そうは言っても、あの頑丈な扉は厄介だぜ」
ギギルはオニシダの扉に近寄り、肩をぶつけるようにして力一杯押してみたが、扉はビクともしない。ギギルはダメだと肩をすくめた。シンは部屋の中を見回した。
「ギギル、窓だ、窓を破って逃げよう」
「シン、正気か? ここは五十メルもある塔の最上階だぞ」
「キヌグモの紐を伝えばひとつ下の階に下りられるよ、そこからなら逃げられるかも知れない。とにかく、この部屋から逃げなきゃ」
ギギルが分かったと頷いた。
「そうだな。何もせずに、ただボンヤリと座っていても仕方がない。よし、試してみるか」
ギギルは長剣を右手に持って水晶の板の嵌め込まれた窓に近づくと、長剣を振り上げ、長剣の柄頭を思いきり叩きつけた。ビシリと音がして水晶の板にマダラグモの巣のような形をした小さな亀裂が走った。
「何とかなりそうだ」
ギギルは長剣の柄頭を二度三度と叩きつけた。叩きつける度に亀裂は広がり大きくなって、とうとう水晶の窓は粉々に砕けた。ポッカリと空いた窓の穴から氷のような冷気が部屋の中に流れ込んできた。
ギギルは窓から身を乗り出すようにして階下に目をやったが、西の塔はヨルの暗闇に沈んでいた。窓の外には部屋の床面と同じ高さの所につま先が乗せられるぐらいの小さな出っ張りがあり、それが塔の外周をグルリと輪のように取り囲んでいた。ギギルはヒカリ玉を首から外すと、手に持って窓の外にぶら下げた。微かなヒカリ玉の灯りを頼りに暗闇に目を凝らすと、その出っ張りは下の階にも付いている。西の塔の五層の各階の位置を示すように、塔の外周を五つの輪が取り囲んでいた。
西の塔の最下層の階の小さな窓からポッと明かりが漏れた。その明かりはすぐに消え、しばらくすると隣の窓から明かりが漏れた。そうやって明かりはゆっくりと西の塔を上っている。誰かが明かりを持って西の塔の螺旋階段を上っているのだ。
「誰かが塔を上ってくるみたいだ、急ごう」
ギギルは背嚢からキヌグモの紐を一巻き取り出して、紐の端を寝台の脚に括りつけた。
「あたしが飛んでいって下の階の窓を破ろうか?」
イオリの提案にギギルは首を振った。
「窓に嵌め込まれている水晶の板は結構固いぞ、イオリの力じゃ割るのは無理だな。シン、頼むぜ。身体は俺が支えてやる」
シンは頷くとキヌグモの紐の端を輪っかにして身体に巻き付けた。手には投石器を持っている。高いところが苦手なシンは青ざめた顔で窓に近づくと、窓から顔を出して下を見た。冷たい外気のせいで、シンの鼻の奥がツンと痛んだ。
「暗くて何も見えない・・・ハハハ、この方が怖くなくていいや」
強がりを言ったシンの膝がガクガクと震えている。
「俺が紐を握っている限り落ちやしないから安心しろ。窓を破って部屋の中に入ったら、合図に紐を三回引け」
「分かった。三回だね」
シンは窓枠に手をかけ、身体を窓の外に乗り出した。ギギルはキヌグモの紐を身体に巻き付けて両脚をがっしりと踏ん張ると、右手でしっかりと紐を掴み、シンの動きに合わせてゆっくりと紐を繰り出した。用心のため、ギギルの足元には抜き身の長剣が置かれていて、左手の手袋は外されている。シンの身体が窓の外に出た。シンは窓の外の細い出っ張りに両足の爪先を乗せて、ヤモリグモのように塔の壁にへばり付いた。
「ギギル、行くよ」
シンは観念したように一度目をつぶり、フウッと息を吐いてから身体を宙に投げ出した。シンの体重が掛かったキヌグモの紐がピンと張り、揺れる度にキシキシと不気味な音を立てている。ギギルが紐を繰り出すごとに、シンの身体はゆっくりと下がった。
「ギギル、もう少し下ろして・・・もう少し・・・ここで止めて」
シンは四階の窓の外の細い出っ張りに両足の爪先を掛けると、左手で窓の縁を掴み、右手に持った投石器の柄を、窓に嵌め込まれた水晶の板に思いきり叩きつけた。ゴッという音がして投石器は跳ね返された。水晶の板には傷ひとつ付いていない。
「クソッ、何て硬いんだ」
シンは投石器を大きく振りかぶると、渾身の力で水晶の板に叩きつけた。ミシリと音がして小さな亀裂が走った。
「よし、何とかなりそうだ」
シンは狂ったように投石器を何度も叩きつけた。ミシミシと音を立てて、亀裂が徐々に大きくなった。
「シン、どうした。急げ! やつらがくるぞ!」
ギギルの切羽詰まったような声が階上から降ってきた。
「そう言われても・・・クソッ・・・砕けろ、砕けろ、砕けろ!」
ガシャンと音がして、シンの最後の一撃で水晶の板が粉々に砕けた。
シンは転がるようにして窓から部屋の中に飛び込んだ。勢い余って床に腰を強かに打ち付けて、シンがグウウと呻き声を上げる。そのシンの耳に、ギギルたちがいる部屋の扉が乱暴に開かれて、部屋の中に踏み込むドカドカという複数の足音が響いてきた。シンは床に倒れたまま、必死になって紐を三回引いた。
ガタリと閂が上がる音がするや否や、オニシダの扉がバタンと開いた。ギギルは右手でキヌグモの紐を掴んだままの姿勢で振り向いた。左手のカギ爪は無意識のうちに胸の前まで上がっている。イオリも咄嗟に腰の剣に手を掛けている。
部屋の入口から半月刀を持ったソトルがゆっくりと入ってきた。顔色は死人のように血の気がなく、ギギルに潰された右目は眼窩の中に落ち込んで黒い穴になっていた。残っている左目は生気を失ってどんよりと曇っている。ギギルに叩き割られた額の傷は、大きく口を開けていて、その傷を覆うようにブヨブヨとした白い粘菌が染み出していた。身体に纏っている監督使の黒い上着の前がはだけて、その下のガンデラ軍の制服の胸の部分は血で真っ赤に染まっていた。
ソトルの後ろから三人の不死の戦士がぞろぞろと部屋の中に入ってきて、入口を塞ぐように並んで立った。
ギギルはソトルの顔をみて一瞬目を見開くと、すぐに口元に不敵な笑みを浮かべた。
「ソトル! お前さんか・・・この前の続きをやろうってのかい、ヘヘヘ、受けて立つぜ。こっちはお前さんにまだ貸しが残っているんでね」
ギギルの右手が掴んでいるキヌグモの紐に掛かっていたシンの体重が消え、紐が三回引かれた。シンが無事に四階の部屋に入ったのだ。ギギルはソトルから目を逸らさないようにしながら、ゆっくりと身体に巻き付けた紐を外し、床に置いた長剣を拾い上げた。
ギギルは背中でイオリに囁いた。
「イオリ、お前はこの窓から飛んで、シンの所へ行け。お前ひとりなら行ける。窓はシンが開けたから、そこから部屋の中へ飛び込むんだ。そして、俺に構わず、シンとふたりで逃げろ」
「ギギル・・・」
「俺ひとりなら何とでもなる、お前を庇っていられないんだ。イオリ、飛べ!」
ソトルの半月刀が横殴りにギギルの腹目掛けて襲ってきた。ギギルは長剣をすくい上げるように振り上げて身体の前で半月刀を受けると、思いきり踏み込んでソトルの首筋にカギ爪を叩き込んだ。ソトルはカギ爪を躱そうともしなかった。
「グズグズするな! イオリ、飛べ!」
背中を向けたままギギルが怒鳴った。イオリはコクンと頷くと、外套を脱ぎ、上着とヨロイウオの肌着をはだけて両肩から滑り落とすと腰に巻いた。背中に生えた透明な翅がゆっくりと伸びて開いた。イオリは両手で胸のふくらみを隠すと、窓から飛び出してフワリと宙に浮いた。
ギギルのカギ爪に切り裂かれたソトルの首筋から、ドロリと赤い血が流れ出たが、その後から滲み出てきたブヨブヨとした白い粘液があっという間に傷口を覆った。ソトルは首筋に手を当てて指についた白い粘液を不思議そうに見ると、ギギルに向かってニヤリと笑った。ソトルは痛みを感じていないのだ。ソトルは自分が、ゴルムの告げた不死の戦士になったのだと悟った。
「何てこった・・・ソトル、お前さん粘菌に・・・不死の戦士、サリー教か」
ギギルは上着の内側の小物入れに入っているクロドクダミの葉の枚数を心の中で勘定した。
・・・四枚、いや三枚か。こいつら全員を相手にするには、ちと足りないな・・・
入口に並んでいる三人の不死の戦士がギギルに向かって動き出そうとするのを、ソトルは両手を広げて止めた。ソトルはゴロゴロと痰が絡んだような声を出した。
「お前たちはそこを動くな。ギギルは私の獲物だ」
ソトルはギギルに向かってゆっくりと一歩足を踏み出した。それに合わせてソトルの半月刀がゆっくりと上段に上がる。
ギギルは上着の内側の小物入れに手を入れてクロドクダミの葉を掴み出す余裕もないまま、カギ爪と長剣を身体の前で交差させるように構えると、近づいてくるソトルの顔をジッと見つめた。
凄まじい刃鳴りと共に上段から半月刀が落ちてきた。ギギルはカギ爪を振り上げて半月刀を払いのけると、長剣をソトルの腹に突き立てた。ソトルは何ごともないような顔をして、腹に長剣を突き立てたまま半月刀を閃かせると、ギギルの顔面目掛けて横殴りに半月刀を振るった。ギギルが仰け反るようにして半月刀を躱すと、ギギルの鼻先を半月刀が掠めた。
ギギルが態勢を立て直す間もなく、ソトルの半月刀が今度は下段からすくい上げるようにギギルの脇腹を襲う。ギギルはソトルの腹に刺さったままの長剣から手を放して身体を捻り、すんでのところで半月刀を躱したものの、半月刀の切っ先はギギルの外套と上着を切り裂いた。ギギルの脇腹にヒヤリとした感触が走ったが、ギギルには傷を確かめる余裕もない。
ギギルはソトルとの間合いを取るため、思いきり後ろに向かって跳んだ。途端にギギルの背中が背後の壁にドスンとぶつかった。戦うには部屋が狭すぎるのだ。
ソトルは腹に刺さったままのギギルの長剣を自らの手で引き抜くと、ギギルの足元に長剣を投げ捨てた。カランと音を立てて床に転がったギギルの長剣の刃先にはヌメヌメとした白い粘液が付着していた。ソトルはゆっくりとギギルに向かって間合いを詰めてきた。
ギギルはその一瞬の隙をついて上着の内側の小物入れに手を入れると、クロドクダミの葉を掴み出した。枚数を確認する余裕もなく、全てを口の中に入れるとモグモグとかみ砕いた。そうしながらギギルは左手のカギ爪をソトルに向けた。
再び上段から半月刀が落ちてきた。ギギルはカギ爪に右手を添えて、渾身の力で半月刀を受け止めた。ガキリと火花が散って、ギギルの頭上で半月刀が止まった。そのままの姿勢でギギルとソトルは睨み合いを続けた。半月刀とカギ爪が擦れてギリギリと音を立てている。徐々に力の均衡が崩れて、ギギルの頭上に半月刀が近づいてくる。両手で半月刀を受け止めているギギルに、覆いかぶさるようにソトルの身体が迫った。カギ爪と半月刀を挟んで、ギギルの鼻先にソトルの顔が近づいた。ソトルの顔が不気味に歪んだ。笑っているのだ。
ブウッという音と共に、ギギルはかみ砕いたクロドクダミの葉をソトルの顔目掛けて吹きかけた。
グワッという叫び声を上げると、ソトルは両手で顔面を押さえてその場にうずくまった。指の間から黒く変色した粘液がボタボタと滴り落ちた。
ソトルの姿を見た三人の不死の戦士は、半月刀を振り上げるとゆっくりとギギルに向かって歩き出した。
「さあ、きやがれ、俺はカギ爪のギギル、不死の戦士だろうが何だろうが、相手になってやるぜ」
ギギルはそう言ってカギ爪をペロリと舐めようとしたが、先程ソトルの首筋を切り払った際の白い粘液がカギ爪に付着していることに気付いて、ウウムと顔をしかめた。ギギルはペッと床に唾を吐くと、少し腰を落としてカギ爪を構えた。カギ爪だけで不死の戦士と戦うのは不利だと分かっているが、床に落ちている長剣を拾い上げる余裕はない。
「あたしは女王候補者のイオリ。あんたたち、あたしを殺しにきたんでしょう。あたしはここだよ、捕まえてごらん! ほら、こっちだよ!」
部屋の中にイオリの叫び声が響いた。
イオリは部屋の入口にスックと立ち、両手を腰に当てて胸を張って、三人の不死の戦士の背中に向かって叫んでいる。
「イオリ、お前・・・」
ギギルの驚いた顔を見て、イオリは翡翠色の大きな瞳を輝かせてニコリと笑った。
「さあ、どうしたの? あんたたちの役目はそのオトコを殺すことじゃなくて、あたしを殺すことでしょう? あたしはここだよ!」
三人の不死の戦士はゆっくりとイオリを見た。両手で顔を覆ってうずくまっていたソトルも、イオリの声を聞いて立ち上がった。ソトルの顔は右半分がドロドロに融けて、跡形もなく崩れて骨が見えていた。
ソトルはグオオオという唸り声を上げると、半月刀を拾い上げてイオリに向かって走った。それに合わせて、三人の不死の戦士もソトルの後を追った。イオリはパッと身体を翻すと、部屋の外の螺旋階段を下の階に向かって駆け下りた。ソトルと三人の不死の戦士はドタドタと足音を立てながらイオリの後を追って部屋を出ていった。
ギギルは唖然とした顔をして、ひとり残された部屋の中でしばらくポカンと立っていた。咄嗟の出来事に一瞬思考が停止したのだ。先程までの乱闘が嘘のように部屋の中は静まり返っている。
・・・イオリが俺を助けにきた。やつらイオリを追って・・・いかん!イオリが危ない・・・
ギギルはハッと我に返ると、床に落ちている長剣を素早く拾い上げて、猛然とソトルたちの後を追った。
イオリは螺旋階段を跳びはねるように四階まで駆け下りると、先程シンが窓を破って入った部屋の中に飛び込んだ。入口の扉は開いたままとなっている。その部屋も五階の部屋と同じ造りになっていて、殺風景な部屋の中はガランとしていた。シンが破った窓から寒風が吹き込んで床に埃が舞っている。
イオリがポカリと空いた窓の手前まで走り寄ると、部屋の入口にソトルと三人の不死の兵士が姿を現した。ソトルは右手で顔の右半面を押さえたまま、グルグルと低い唸り声を上げながらゆっくりとイオリに近づいた。部屋の中に入った三人の不死の戦士は、イオリを逃がすまいと、部屋の入口を塞ぐように並んで立っている。ソトルは左手に持った半月刀を上段に振り上げた。
「シン、今よ!」イオリが叫んだ。
部屋の入口の扉が突然バタンと閉まり、扉の外からガタンという閂を掛けた音が響いた。シンが扉の陰に隠れていて、ソトルたちが部屋の中に入ったのを見届けると扉を閉めたのだ。不死の戦士のひとりが振り返り扉に体当たりしたが、オニシダの扉はビクともしない。扉を閉めたシンは、螺旋階段を五階に向かって駆け上がった。
イオリはソトルに向かってニッと白い歯を見せて笑い顔を作ると、上着を脱ぎ、窓枠に手を掛けた。
「あたしを追っかけてきても無駄だよ」
半月刀を振りかぶったソトルがイオリに向かって走り寄ったが、イオリは一瞬早く窓から飛び出した。
翅を震わせて空中に浮かんだイオリは、五階まで上昇すると破れた窓から部屋の中の入ろうとした。五階の窓からは、シンが伝って下りたキヌグモの紐が力なく垂れ下がっていた。その紐が突然ピンと張り、紐の端を結び付けてある寝台がガタガタと音を立てて窓際まで滑ってきた。誰かが紐を上っている。
驚いたイオリがハッと下を見ると、口に半月刀を咥えたソトルが恐ろしい形相でキヌグモの紐を上っていた。
・・・ソトルが上ってくる!・・・それと・・・あれは何?・・・
暗闇に慣れたイオリの目に、西の塔の最下部から、オニウツボカズラが壁面に貼り付いて、ウネウネと触手を蠢かせながら上ってくるのが見えた。イオリは窓の外の細い出っ張りに両足の爪先を乗せると、腰に付けた護身用の短剣を抜いた。
イオリが短剣を振ると、キヌグモの紐はブツリと切れた。
紐を上っていたソトルは、グウォッと唸り声を上げると漆黒の闇に向かって落ちた。ソトルは落ちる瞬間、紐から手を放して口に咥えた半月刀を掴み、イオリに向かって投げつけた。
半月刀はクルクルと回転しながらイオリの背中に向かって真っ直ぐ飛んでいく。
ギギルが上半身を投げ出すようにして五階の窓から身を乗り出すと、右手でイオリの腰を抱いた。そして、イオリの背中に向かって飛んできた半月刀を、ギギルは左手のカギ爪で払いのけた。ガキリと音がして半月刀が弾かれ、半月刀は向きを変えると、イオリの背中を掠めるようにして飛び去った。
バサリと音がした。
イオリの背中を掠めるようにして飛び去った半月刀が、イオリの翅を根元近くから切り離したのだ。翅を失って揚力を失くしたイオリの身体が落ちる。
「キャアアア・・・」
イオリが悲鳴を上げた。
窓から身体を乗り出したギギルは右手に力を込めると、イオリの身体をしっかりと掴んだ。ギギルの腰にはシンが重り代わりにしがみついている。
「イオリ、俺が掴まえているから大丈夫だ。暴れるなよ」
ギギルに抱かれたイオリの身体がゆっくりと窓の中に消えた。
「マッタク、無茶をしやがる。ひとつ間違えば死んじまうところだぜ」
床の上にペタリと座り込んでいるイオリを囲むように、ギギルとシンが立っていた。間一髪でイオリを助けたギギルの額には汗が滲んでいる。シンはイオリの傍にひざまずくと、上着を肩に掛けてやり、背中を優しく擦った。イオリの身体はまだ恐怖のために小刻みに震えている。シンが優しく声を掛けた。
「イオリはギギルを助けようとしたんだよ。イオリ、偉かったよ」
「俺のことなんてほっておけば良かったのに・・・でも、まあ、イオリのおかげで命拾いしたよ。イオリ、ありがとう」
ギギルはイオリに向かって神妙に頭を下げた。
「あたしは翅を失くしちゃった、もう飛べないね」
イオリは下を向いてしんみりと言った。悲し気に肩をすくめたイオリの身体は、小さく萎んだシダレバラの花冠のようだ。
「すまん、イオリ。俺のカギ爪が中途半端に半月刀を弾き飛ばしちまったばっかりに・・・クソッ、情けないぜ」
ギギルは唇を噛んで、右手で左手のカギ爪を力任せに叩いた。
ギギルがカギ爪で弾き飛ばさなければ、ソトルの半月刀はイオリの身体を切り裂いていただろう。イオリにはそのことが分かっている。誰もギギルを責めることなどできないのだ。
「ギギルのせいじゃないよ。ギギルはあたしを助けてくれたんだもの。あたしがお礼を言わなきゃ、ありがとうギギル。翅なんかなくっても、あたしはあたしだよ」
イオリは吹っ切れたように顔を上げるとニコリと笑った。その顔は少し青ざめてはいるものの、いつものイオリの顔に戻っていた。ギギルは少し救われたような気がした。
イオリの翅は根元部分から五分の一ほどを残して切り落とされていた。
「イオリ、切られた翅は痛くないのかい」
「痛みはないの、大丈夫。それより、ギギルのお腹から血が出ているよ」
イオリは上着の袖に腕を通し、その上に外套を着ると、ギギルの腹を指差した。ソトルに切り裂かれたギギルの外套に血が滲んでいた。外套の下の上着はザックリと切られていて、血で濡れている。ギギルは傷口に手を当てるとイテテと顔をしかめた。傷口に触れたギギルの指が血に染まっている。
「脇腹をかすられた、傷はそんなに深くない。シン、クロドクダミの葉を当てて、その上からワタスゲの布で縛ってくれ」
ギギルがシンの手を借りて傷の手当てをしているのをぼんやり見ながら、イオリの頭の中で何かが光った。
・・・クロドクダミの葉?・・・オニウツボカズラだ!・・・
「ギギル、シン、大変だよ。オニウツボカズラがくる! 塔の壁を上っているんだよ」
「ええ! 本当かい!」
シンが窓に走り寄った。窓から身を乗り出して下を見たが、暗くて何も見えない。しかし、耳を澄ますと微かにザワザワという触手の蠢くような音が聞こえている。
「ギギル、本当だ。何かが外壁を上っている」
「こりゃいかん、螺旋階段を使って逃げよう」
ギギルは急いで上着と外套を身に着けると、部屋から外に飛び出した。螺旋階段の上から覗き込むと、既に二階までオニウツボカズラのウネウネと蠢く触手で埋め尽くされていた。ギギルは部屋の中に戻ると入口の扉を閉めた。
「ダメだ、螺旋階段からもオニウツボカズラが上ってきている。すぐにここまでやってくるぞ」
ギギルは眉間にしわを寄せた。
「それじゃあ、あたしたちは袋の中のイワネズミってことね」
シンはジロリとイオリを見て、違うと首を振った。
「イオリ、『中の』は要らないよ。袋のイワネズミが正しいんだ。この前教えたばかりでしょうが」
イオリがプッとふくれた。ふたりのやり取りを見てギギルが思わず笑った。ギギルは腹の中で『頼もしいぜ』と感心している。
「お前さんたちふたりは、本当にお気楽でいいや。それよりシン、イオリ。クロドクダミの葉はどれくらい残っているんだ。俺は・・・ない」
「私は六枚」
「あたしは四枚」
とてもじゃないが足りないと、ギギルは腕を組んで考え込んだ。
・・・どうすればいい? 逃げ道はないし、クロドクダミも足りない・・・
ギギルは鼻の奥で、ザドラの繁殖地で嗅いだオニウツボカズラの花弁の発する甘い香りを感じたような気がした。
・・・オニウツボカズラの弱点・・・光?・・・外光だ!・・・
ギギルの頭の中に、ザドラの巣の峡谷でオニウツボカズラに襲われた際に外光に助けられた記憶が蘇った。オニウツボカズラは外光を嫌う。こうなればそれに賭けるしかない。
「日の出時までは、あとどれくらいだろう」
「三カクンといったところかな」
「よし、塔の天辺に上ろう。少しでも早く外光が差すところがいい。それにここじゃあ、外と中から挟み撃ちで身動きが取れなくなるからな。袋の中のイワ・・・おっと」
ギギルが肩をすくめ、イオリが翡翠色の大きな瞳でジロリとギギルを見た。その目付きはシンそっくりだ。
塔の天辺と聞いてシンの顔が引きつった。
「ねえ、ギギル。確認なんだけど、そのぅ・・・最初に上るのは・・・やっぱり私だよね」
ギギルは当然だと頷いた。
「シン以外に誰がいるんだい。俺が紐の端を持っててやるから心配するな」
シンはひとつため息を吐くと、諦めたようにキヌグモの紐の端を腰に巻きつけた。
西の塔の最上部は石筍の先端のように丸みを帯びていて、天頂部分には槍のように鋭い突起が十メルほど空に向かって突き出ていた。その突起を取り囲むように、二メルから三メルの長さの不揃いな棘のような突起が一メルほどの間隔を開けて突き出ていた。
ギギルたちは天頂部分の槍のような突起の根元に身体を寄せてうずくまり、絶え間なく吹き抜ける寒風に耐えていた。イオリの歯がカチカチと鳴っているのは、恐怖よりも寒さのためだ。三人ともチウシの革の外套の風防頭巾を目深に下ろし、目には遮光眼鏡を掛けて、襟巻で鼻と口を覆っていた。滑落を防止するために腰にキヌグモの紐を巻いて、その先を槍のような突起に括りつけていた。
日の出時まであと一カクン半。空は徐々に明るさを増しているものの、塔の周囲はまだ暗闇に埋もれている。暗闇の中で三人が首から下げて胸の前に垂らしているヒカリ玉がユラユラと頼りなげに揺れている。ギギルたちはオニウツボカズラに気付かれないように息をひそめて日の出時がくるのをじっと待っていた。
ギギルたちはありったけのクロドクダミの葉を口の中で砕いて、その汁を外套やズボンや長靴に塗りつけていた。カギ爪や長剣や短剣の刃にもその汁を塗りつけてある。オニウツボカズラを撃退することは難しいが、日の出時まで持ちこたえれば何とかなるとギギルは考えていた。既に階下からはオニウツボカズラの触手が蠢くザワザワという音が聞こえている。
このまま気付かれなければ良いがとギギルは心の中でつぶやいた。そのつぶやきを嘲笑うかのように、最上部の縁を触手が叩くペシャリという音が響いた。
ギギルが顔を上げると、五階の破れた窓のあたりからウネウネと触手が立ち昇っていて、イワヘビが地面を這うように身体をくねらせながらザワザワと蔓が最上部に向かって伸びていた。反対側の縁からも触手がチラリと見えたかと思うと、あっという間にギギルたちは触手に取り囲まれた。
「とうとうおいでなさったか。シン、イオリを守れ。足元に注意しろ、滑り落ちるなよ」
ギギルは立ち上がって両足を踏ん張り、槍のような突起に背中を預けると、カギ爪と長剣を身体の前で交差させて身構えた。シンはイオリを背中に庇うようにして立つと、短剣を抜いた。シンの後ろでイオリも短剣の鞘を払った。
ギギルの前でヌウッと鎌首を持ち上げた触手が、ギギルの足首に向かってヌルリと伸びた。ギギルが長剣を振るうと、切り払われた触手がポタリと足元に落ちた。触手は切り口から白い粘液を垂らしながらウネウネと動いている。
それが合図であったかのように、左右から何本もの触手が一斉にギギルたちに襲い掛かった。ギギルは長剣とカギ爪を狂ったように振り回した。ギギルの長靴に巻き付いた触手が、塗り込まれたクロドクダミの汁に反応してパラリと解けた。
ギギルたちの足元には切り払われた無数の触手がウネウネと蠢いていた。しかし、切っても切っても触手の数は減らないどころか、数を増やしている。
やがて、ズルズルという音を立ててオニウツボカズラの巨大な花弁と捕虫袋が這い上がってきた。それはソトルに導かれて宰相の霊廟から西の塔まで移動してきたサリー教の男神ヴァーラムだった。
ギギルの姿を見つけると、まるで笑ったかのようにヴァーラムの肉厚の二枚の花弁がヌタリと開いた。トキオンで知覚したギギルの臭いを覚えているのかも知れない。痺れを含んだ甘い香りが、風に乗ってギギルの鼻腔に届いた。
「シン、オニウツボカズラの花弁がきた、頼むぞ」
ギギルは背中を向けたままシンに向かって怒鳴った。
ヒョウという風を切る音とビチャという湿った音がした。
ヴァーラムの花弁に黒い泥のような物が貼り付いた。痙攣するようにスウッと口を閉じた花弁から、黒い粘液がドロリと流れ出た。続いてヒョウという風を切る音とビチャという湿った音がして、ヴァーラムの捕虫袋に黒い泥のような物が貼り付いた。捕虫袋に穴が開き、中から茶色い消化液がダラダラと流れ出た。
シンが投石器を使ってクロドクダミの団子を投げつけたのだ。シンは投石器を持ったままギギルに言った。
「ギギル、これで終わりだ。もうクロドクダミの団子はないよ」
「分かった、シン。十枚ぽっちの葉じゃあ、こんなもんだ。だが、やつもこれでちっとは恐れ入っただろう」
ギギルの声が聞こえたのか、ヴァーラムの花弁が醜く歪むと、花弁の周りを取り囲む触手が狂ったように激しくウネウネと動き出した。
「ありゃりゃ、怒ったのかい・・・こいつはまずいな」
「ギギルが怒らせるようなことを言うから・・・責任を取ってよね」
「シン、あいつに謝ってくれよ」
「何で私が・・・言ったのはギギルでしょうが」
「シン、ダメだ。どうやら許してくれそうもないぜ」
イオリを真ん中に挟んで背中合わせになったギギルとシンの周囲を、ヴァーラムの触手が隙間なく取り囲み、無数の禍々しい鎌首が覆いかぶさるように迫ってきた。
パタパタパタパタ・・・乾いた音が近づいてきた。
「ギギルー、これに掴まって!」
頭上からキヌグモの紐がスルスルとギギルの目の前に下りてきた。紐の先端にはヒカリ玉が括り付けられていて、暗闇の中に薄緑色の光の輪を広げている。
ギギルが見上げると、天頂部分から延びる槍のように鋭い突起の横を掠めるようにして、飛翔機がユラユラと浮かんでいた。飛翔機から身を乗り出して叫んでいるのはステアだ。
ステアの顔を認めたギギルが、思わずクシャリと破顔した。よほど嬉しかったのだろう。
「ステア! 助かったぜ。シン、イオリ、紐に掴まれ」
ギギルはキヌグモの紐の先をクルリと輪にすると、イオリとシンの身体に回し、長剣を脇に挟むと右手でしっかりと紐を掴んだ。
「ステア、頼む!」
ステアは了解とばかりに片手を上げると、飛翔機の中に消えた。途端に飛翔機のパタパタという音が高まり、飛翔機はグングンと高度を上げた。ギギルたちはキヌグモの紐にぶら下がったまま、西の塔から離れた。
ヴァーラムの触手がウネウネと追いかけてきたが、やがて諦めたようにシナシナと引いていった。




