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第21話「死者の宴と、概念的仮装と、特別メニューの夜」

三十六日目の朝、ぱんでむのフロアに出たら、装飾が変わっていた。


昨日と同じパステルカラーの照明のはずが——何かが加わっている。黒とオレンジの布がカウンターを飾っている。入口に骨の形をした飾りが並んでいる。テーブルにはキャンドルが置かれていて、炎が揺れている。でも炎の色が少し変だ——紫がかっている。


においを嗅いだ。キャンドルのにおいと、花のにおいと、少し甘い腐敗のにおいと——万寿ちゃんのにおいがした。


「おはよう、好代ちゃん」と渾沌ちゃんが現れた。普段の制服の上に、黒いケープを羽織っていた。なぜか猫耳のカチューシャもついている。「今日はイベントデー!」


「……何のイベントですか」


「死者の宴! まあ……ぱんでむ的には、お客さまの中に「亡くなった世界線から来た方」が多いから、その方たちのためのお祭りみたいなもの」


「……ハロウィンですか」


「ハロウィンって言葉をぱんでむが採用しているかは不明だけど、近い概念があって! 死者が還る日、境界が薄くなる夜、みたいな感じの世界線が複数あって——そういう複数の世界線の「帰れる夜」が重なったタイミングでうちでやるんだよ」


「……何年に一度ですか」


「それが不定期で」と渾沌ちゃんが少し困った顔をした。「二諦ちゃんが「今夜は重なる夜だ」って言った時に開催するから、気づいたら明日だったりする。今回は昨日の夜中に「明日です」って言われた」


「……準備が大変じゃないですか」


「万寿ちゃんはずっと準備してる感じなの、あの子。いつでも出せる状態にしていて、日程が決まったら展開するだけ、って言ってた」




【第一章】万寿ちゃんと憂起ちゃんの装飾


フロアに入ると、万寿ちゃんが背の高い脚立に乗って天井に何かを吊るしていた。小さな骨の飾りが連なったガーランドだ。黒とベージュと白の骨が交互に並んで、風もないのにゆらゆら揺れている。


「好代ちゃん、来たわ」と万寿ちゃんが脚立の上から言った。「今日はいい夜になるわよ。境界が薄いから、お客さまが多く来るはず」


「……万寿さんはこのイベントが好きですか」


「大好き」と万寿ちゃんが即答した。「死者が還ってくる夜——本当は「還れない方たち」が多いけど、この夜は少し近くなれる。それがいい。腐らないように防腐剤を少し多めに使ったお花も飾ってあるから、においを嗅いでみて」


好代はフロアの端に飾られた花を見た。近づいて嗅いだ——白い花のにおいと、甘い薬品のにおいが混ざっている。死のにおい、と言うと怖いが、万寿ちゃんのにおいとよく似ていた。


「……きれいなにおいです」


「でしょう」と万寿ちゃんが満足そうに言った。「死は美しいのよ」


椅子の下のあたりに、憂起ちゃんが浮いていた。足元が床についていない。両手で小さなカボチャ型のランタンを持って、椅子の脚のあたりに並べていた。


「……憂起さん、何してますか」


「ランタン置いてる」と憂起ちゃんが床すれすれのあたりで言った。「床の近くに灯りがある方が、境界が薄い夜は帰ってきやすいから。足元を照らす感じで」


「……足元から来るんですか、亡くなった方は」


「世界線によるけど」と憂起ちゃんが少しだけ浮き上がった。「私は足元から来る感触が強い。だから床に並べてる」


好代は憂起ちゃんが椅子の下に小さなランタンを一つずつ置いていくのを見た。丁寧だ。数が多い。フロアの全テーブルの椅子の下に置くつもりらしかった。


「……手伝いますか」


「いい」と憂起ちゃんが言った。「これは私がやりたい」


好代は少し下がって見ていた。




【第二章】懺悔ちゃんの特別キッチン


フロアの準備を見ていたら、懺悔ちゃんが「好代ちゃん、試食係やって」と呼んだ。


キッチンへ向かった。今日の懺悔ちゃんのキッチンは、普段と違うにおいがした。甘いだけでなく、スパイスのにおい、焦げたにおい、少し苦いにおいが混ざっている。


カウンターに、いくつかの試作品が並んでいた。


「今夜のイベント用の特別サイドメニュー」と懺悔ちゃんが言った。「毎回このイベントの時だけ出るやつ。全部で四種類。味見して」


好代は並んだものを見た。




【一】骨格ポテト


見た目は普通のフライドポテトに近い——だが、一本一本の形が少し違う。人間の骨の形に似ている。指の骨に近いものから、肋骨の断面に似た形のものまで。揚がっていてさくさくしていそうな見た目だが、白っぽい。


においを嗅いだ。普通のポテトのにおいに、骨のにおいが混ざっている——が、嫌なにおいではない。コラーゲンを煮た時のような、深いにおいだ。


一本食べた。


さくさくしていて、塩気があった。食べていると、少しずつ体の中の「骨の位置」を意識するようになった——普段感じない骨格の輪郭が、うっすらと感じられるようになった。自分の体の形を確認するような感触だ。


「……骨の位置がわかります」


「そう」と懺悔ちゃんが言った。「死者の方たちが食べると、今の自分の「形」を確認できる。体があるかどうかわからなくなっている方に向いている。あと生きているお客さまも、自分の体の感触を再確認できる。サイドのわりに用途が広い」


【二】魂のシェイク


見た目は普通のシェイクに見えるが、色が不思議だ——白でも黒でもない、光の当たり方によって変わる色をしている。少し透けている気もする。


においを嗅いだ。甘いにおいと、風のにおいと、少しだけ「思い出した感じ」のにおいがした。


一口飲んだ。


冷たくて、少し軽かった。飲むと、自分の中に「誰かの断片」が来た——誰かが笑った記憶の輪郭。声ではなく、笑った時の空気だけが薄く来た。


「……誰かの記憶の欠片が来ます」


「今夜の境界が薄い状態で漂っている記憶の欠片を集めて固めたもの」と懺悔ちゃんが説明した。「飲むと、亡くなった方や帰れない方の記憶が少し来る。誰の記憶かはわからないけど——確かに誰かがいた、という感触が来る。お客さまが「あの人を思い出したい」という時に出す」


好代は一口だけで止めた。それ以上飲むと、知らない誰かの記憶に引っ張られすぎる気がした。


【三】黒いナゲット


見た目は普通のナゲットだが、全体が黒い。漆黒ではなく、墨のような黒だ。揚がっていてつやつやしている。


においを嗅いだ。焦げた香ばしさと、少し甘い何かのにおい——煙のにおいに近い。


一口食べた。


外はさくさくして、中は柔らかかった。食べると、少し「夜の感触」が来た——暗い夜、外に出た時のひんやりとした空気。怖い感触ではなく、静かな夜のにおいだ。


「……夜の感触が来ます」


「これは「夜に属するお客さま」向け」と懺悔ちゃんが言った。「昼の世界線から来た方は食べると少し夜に近づける。境界が薄い夜に来たお客さまは、この時間を最大限に楽しみたい方が多いから——夜の感触をもっと濃くしたい時に」


【四】マリーゴールドソース添えチキン


見た目は普通の揚げたチキンだが、鮮やかなオレンジ色のソースがかかっている。そのソースから花のにおいがした。


においを嗅いだ——マリーゴールドのにおいがした。


「……これはどんな効果がありますか」


「ない」と懺悔ちゃんが言った。「ただのチキンにマリーゴールドのソースをかけただけ。マリーゴールドは死者を導く花だから、今日の雰囲気に合うと思って。でも食べても変容しない」


好代は少し考えた。「……ない、というのはどういう意味ですか」


「このイベントの日は、変容するサイドだけだと疲れる方が多い。ただ食べたいだけの方も来る。だから「変容しないけど美味しいもの」も一種類置いておく。食べ終わった後に「何も変わらなかった」という感触が、時々一番いい」


好代は一口食べた。普通に美味しかった。マリーゴールドの少し苦い香りがソースに残っていて、でも食べやすかった。


何の知識も来なかった。棚が動かなかった。


それが——今日は、少し嬉しかった。


「……おいしいです。何もありません」


「そう」と懺悔ちゃんが笑った。「それが今日の一番人気になることが多い」




【第三章】開店、イベントフロア


夕方、フロアが開いた。


今日は普段より多くのクルーがフロアに出た。万寿ちゃん、憂起ちゃん、無常ちゃん、涅槃ちゃん、妄執ちゃん、安寧ちゃん、そして好代。二諦ちゃんはフロアの端の専用スペースで占いコーナーを開いていた。冥理ちゃんがフロアのどこかにいるが、どこにいるのかよくわからなかった。


世頼ちゃんがカウンター奥の音響スペースに陣取っていた。




◆ 世頼ちゃんのBGM


フロアが開いた瞬間、音楽が流れ始めた。


普段のぱんでむのBGMは静かな環境音に近いものだが——今日は違った。低い弦楽器のような音と、高いガラスの音が重なって、奇妙に美しい音楽が流れている。どこか遠い世界線の音楽のようだった。怖い音ではなく、静かで深い。


世頼ちゃんがヘッドフォンをして、複数のスライダーを操作していた。スピーカーが三台並んでいる。


「好代さん」と世頼ちゃんが手招きした。


近づいた。


「今日のBGMは「境界線上の音楽」です」と世頼ちゃんが言った。「生と死の間にいる方たちに合う音域があります。その音域を主軸にして、複数の世界線の音を重ねています」


「……そういう音域があるんですか」


「あります。お客さまが来たら、その方の声の高さと体のにおいから調整します。人によって最適な境界音が違うので」と世頼ちゃんがスライダーを少し動かした。「あなたに聞こえる「音のにおい」はどうですか」


「……音のにおい、ですか」


「あなたはにおいで聞こえると前に感じた。今の音は何のにおいがしますか」


好代は少し止まって、音を嗅ぐようにした——というより、音をにおいとして受け取ろうとした。


「……秋のにおいがします。落ち葉のにおいと、夜露のにおいが重なった感触です」


世頼ちゃんが少し微笑んだ。「……それは正しい。今夜の境界の音は、秋の夜に近い」




◆ 二諦ちゃんの占いコーナー


フロアの端に、黒い布で仕切られた小さなスペースが作られていた。入口に「占い——一回五分」と書いた紙が吊るされている。


二諦ちゃんがその中で水晶玉の前に座っていた。


好代が覗くと、二諦ちゃんが「お客さまが来たら呼んで」と言った。「私はここを動けない」


「……なぜですか」


「今夜は境界が薄くて、予言が出やすい。出すぎると収拾がつかなくなるから、このスペースの中だけに封じています」


「……封じる必要があるほど出るんですか」


「今夜はすでに十七件来ています」と二諦ちゃんが水晶玉をじっと見ながら言った。「開店前から。でもこのスペースの外には出さないようにしてあるので、今夜のフロアには影響が出ないはずです」


好代は黒い布の縁を少しだけ見た。なんとなく、布の外に出したくない感触があった。


「……大変ですね」


「好きなのでいいです」と二諦ちゃんが言った。「ただ、今夜あなたに関する予言が一件来ています。伝えるかどうか迷っています」


好代は少し止まった。


「……どちらでも構いません」


「では保留にします。今夜ではなく、適切なタイミングで伝えます」


「……わかりました」


好代は占いコーナーから離れた。二諦ちゃんの予言が何かは聞かなかった。でも、何かが来ている、という感触だけが少し残った。




◆ 冥理ちゃんの手品


フロアが賑わってきた頃、テーブルとテーブルの間の空間で、唐突に冥理ちゃんの手品が始まった。


何もない空中から白い布を取り出し、布の中に手を入れると骨が出てきた。「あれ、骨です」とお客さまが反応した。冥理ちゃんが「タネも仕掛けもございません」と言った。確実に嘘だった。


次に、どのテーブルにも置いていないはずのコインが、特定のお客さまのグラスの中から出てきた。そのお客さまが「なぜここに」と言った。冥理ちゃんが「タネも仕掛けもございません」と言った。また嘘だった。


最後に、冥理ちゃんが空中を指差すと、そこにキャンドルが一本出現した。火がついていた。それを持ってお客さまのテーブルに置いた。


好代が近くで見ていたら、冥理ちゃんが小声で「タネはあります」と言った。


「……見えましたか?」と好代は聞いた。


「少し。空間の折れ目から取り出している感じがします」


「正解です」と冥理ちゃんが言った。「非ユークリッド空間を一瞬だけ折りたたんで、別の場所にあるものを引き出している。今日は境界が薄いから、折り目が出しやすい」


「……境界が薄いと、空間も薄くなるんですか」


「世界線間の境界と空間の境界は、今夜は同じものになります。だから手品がやりやすい」と冥理ちゃんが言って、また別のテーブルへ歩いていった。少し角度のおかしい歩き方で。




◆ テーブルに入る


好代は今日のフロアで三つのテーブルを担当した。


一つ目は、半透明の二人連れ——昨日とは別の方たちだ。終わった世界線から来た、と言っていた。話を聞きながら、好代は魂のシェイクと骨格ポテトをそれぞれに提案した。二人とも受け取った。シェイクを飲んだ方が「……誰かがいた感触が来た」と言った。骨格ポテトを食べた方が「……体がある感触がする。久しぶりです」と言った。


二つ目は、ずっと泣いているお客さまだった。何の形をしているのかよくわからない——輪郭がはっきりしなかった。ただ、何かが液体になって流れ続けていた。


好代はにおいを嗅いだ。悲しみのにおい、と言えばわかりやすいが、それより「長い間帰れなかった」にじみ出るようなにおいだ。


「……バーガーはいいですか」と好代は聞いた。


「いいです」とその方が言った。声が水音に混じって来た。「ただ、ここにいてもいいですか」


「いていいですよ」


「……ありがとうございます」


好代はそのテーブルについていた。何も出さなかった。ただ同じテーブルに座っていた。


時々お茶を足した。


三十分ほどして、その方の輪郭が少し固まった。「……少し、ましになりました」と水音の声で言った。


「……よかったです」


その方が帰る時、テーブルの上に何かを置いていった——小さな水滴のような、でも固まったものだ。蒸発しなかった。


「……これは何ですか」と好代は後で無常ちゃんに聞いた。


「その方が置いていった「残るもの」かな」と無常ちゃんが言った。「帰れない方たちの中には、何かを「ここに残したい」という気持ちで来る方がいる。置いていったなら、受け取っていい。あなたのものにしていい」


好代は水滴の固まりを受け取った。


冷たかった。でも手の中で少し温かくなった。


三つ目のテーブルでは、にぎやかな四人組が来た。それぞれ別の世界線から来たらしいが、今日の境界の薄さで「同じ夜に出会えた」らしく、楽しそうだった。バーガーを食べて変容するのを楽しんでいて、それぞれ少しずつ変わっていくのを互いに報告し合っていた。


「あなたのにおいが変わった」「あなたも変わった」「見てみて、この腕が増えた」「それはバーガーのせいなの?」——というやりとりが続いていた。


好代が黒いナゲットをサービスで出すと、四人が一口ずつ食べて「夜の感触が来た!」と喜んだ。そのままマリーゴールドのチキンも出した。「これ、変容しない」「でもおいしい!」というやりとりがあって、全員がチキンを食べた。


四人が帰り際、一人が「また来ます、次もあなたのテーブルがいい」と言った。


指名の予告だ、と好代は思った。




【第四章】夜の深まりと、千姿のにおい


夜が深くなるにつれ、フロアのお客さまの変化が出てきた。


「境界が一番薄くなる時間帯に近い」と万寿ちゃんが言った。「今夜は特別に、その時間のお客さまも来られるようにしてある」


それまでのお客さまとは少し違う方たちが来始めた。


形がない方たち——においだけがあった。においだけで来ている、という感触だ。好代は棚を開けた。においの知識と、気配感知と、残留するものバーガーの知識を合わせた。


においで構成された存在が、フロアのいくつかのテーブルについていた。見えないが、においがある。


「……どうしますか」と好代は無常ちゃんに聞いた。


「いてもらっていい」と無常ちゃんが言った。「この夜だけ来られる方たちだから。サービスでお茶を出すといい。においのある方なら、お茶のにおいを受け取れる」


好代はお茶を淹れた。においの強いほうじ茶だ。においだけのお客さまのテーブルに置いた。


においが動いた。お茶のにおいの方へ、近づく感触がした。


「……受け取ってもらえましたか」と好代は聞いた——誰に聞いているのかわからなかったが。


においが、少し変わった。感謝のにおい、と言えばいいのかわからないが——お茶のにおいと、少し暖かい何かが混ざった。


好代はそのまま、においのお客さまのテーブルに座った。


フロア全体を見渡した。万寿ちゃんが花を直している。憂起ちゃんがランタンの炎をそっと調整している。無常ちゃんが別のテーブルについて話している。世頼ちゃんの音楽が流れている。冥理ちゃんがまた手品をしている。二諦ちゃんの占いコーナーから、たまに「……大凶です」という声が漏れていた。


においのお客さまが、そっと好代の近くに来た感触がした。


好代はにおいを嗅いだ。


知らないにおいだ。でも——少しだけ、千姿ちゃんのにおいに似ていた。


先日、ダンジョンで感じたにおいとも似ている。「前の人間」のにおいとも、少し違う。もっと古い。もっとぱんでむそのものに近いにおい。


好代は少し止まった。


においだけのお客さまが、少し動いた気がした。


好代はそのまま黙ってテーブルに座り続けた。「ここにいていいですよ」と、声には出さずに思った。においを少し出してみた——ぱんでむのにおいを。棚の中にある複数の世界線のにおいを、少しだけ混ぜて。


においのお客さまが、それを受け取った感触がした。


しばらくして、そのにおいが薄くなった。去ったのか、消えたのか、帰れたのかはわからなかった。でも、テーブルに何かが残っていた——においの輪郭だけが、うっすら残っていた。


好代はその輪郭を棚にしまった。忘れないように。




【クルー視点モノローグ】

──────────────────

万寿 ── 三十六日目の夜


今夜は来てくれた。


毎年——いや、このイベントの度に、形のない方たちが来る。体を持てない方たちが、においだけで来る。


私の担当は死体を美しく保つことだから、死そのものには慣れている。でも「帰れない方たち」の存在には、いつも少し切なくなる。


好代ちゃんが、においだけのお客さまのテーブルについていた。お茶を置いて、隣に座っていた。話もしないで、ただそこにいた。


においを受け取ってもらえた、と好代ちゃんが後で言っていた。


それだけで十分だ。今夜来た方たちに、「ここに来てよかった」と思ってもらえたなら。


装飾を片付けながら、少し思った——来年もまた、きれいな花を用意しよう。



──────────────────

二諦 ── 保留にした予言について


今夜、好代さんに関する予言が来た。


「前の人間と、境界の夜に出会う」


出会った、と思う。においだけのお客さまの中に、前の人間の欠片があったかもしれない。


今の好代さんに「前の人間」のことをどう伝えるかは、まだ判断できない。千姿ちゃんが「今はまだ」と言っていた記録がある。それに従う。


ただ——今夜の予言は、すでに成就している。


保留にしたのは正解だった。言葉にする前に、体験した。それの方が——おそらく、正しかった。



──────────────────

千姿 ── 三十六日目の夜の記録


今夜、境界が薄かった。


フロアのモニターに、一瞬ノイズが走った。


好代が、においだけのお客さまにお茶を出していた。


においのお客さまの中に、前の人間の欠片が混ざっていた。


好代はそれに気づかないまま、ぱんでむのにおいを少し出してみた。棚の中の複数の世界線のにおいを混ぜて、見えない存在に向けて。


それは——かつて前の人間がやっていたことだ。


においで届ける。においで受け取る。においで「ここにいる」と伝える。


好代はまだ知らない。でも体は覚えている。


今夜の予言は成就した。次の段階まで、まだ時間がある。


急がない。


──────────────────



【エピローグ】片付けと、イベントの後


フロアの片付けをしながら、渾沌ちゃんが「どうだった!? 今日のイベント!」と聞いた。


「……今まで来たことのないお客さまが来ました」と好代は言った。


「においだけの方たちね」と万寿ちゃんが言った。「あの方たちと話せたの?」


「話は難しかったですが、においを交わしました」


万寿ちゃんが「それは立派な接客ね」と言った。


好代は今夜テーブルに残ったものを思った。水滴の固まりと、においの輪郭。


「……今夜のイベントは、何のためのものですか。正確には」


渾沌ちゃんが少し考えた。「帰れない方たちが、少しでも「ここに来た」という感触を持てるようにするため——かな。形があっても、においだけでも、欠片だけでも。来たならそこにいた。それが残る。ぱんでむはその「残る」を大事にしたい、というのがあって」


においは残る。感触は残る。誰かがここに来た、ということが残る。


好代は手の中の水滴の固まりを見た。冷たいままだった。でも受け取った。


「……来年もやりますか」


「やる!」と渾沌ちゃんが言った。「来年は好代ちゃんがもっといろんなことできるようになってるから、もっと楽しくなる」


前が広い。今日も変わらなかった。


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