第17話「お客様と、屋上の庭と、においの実戦」
三十二日目の朝、好代がぱんでむのフロアに出ると、空気が違った。
バックヤード側の静かなにおいではない。もっと広い——複数の方向から来る、知らないにおいが混ざっている。
好代は棚を開けた。においだけ。
草のにおい。埃みたいな古いにおい。少し濡れた土のにおい。それから——人のにおいが、複数。
「……今日、お客さまが来ていますか」と好代は廊下を歩きながら秩序ちゃんに聞いた。
秩序ちゃんが書類を抱えて廊下を歩いてきた。いつ来たのかわからない。
「来ています。今日から好代さんにはフロア業務の見習いを始めてもらいます」
「……初めてですか、フロアは」
「訓練と外業務が先でしたが——そろそろ接客も経験してもらいます。ただし」と秩序ちゃんが少し止まった。「今日来ているお客さまは、少し特殊です」
「特殊、というのは」
「……見れば分かります」
第一章 「初めてのお客さま」
◆ フロア、開店
フロアに出た。
ぱんでむの表のフロアは、好代が最初に来た日以来あまり入っていない場所だ。パステルカラーの照明。丸いテーブルと椅子。壁にポスター。見た目は普通のファストフード店に近い。でも——今日は椅子に何人か座っている。
三組いた。
一組目は、テーブルの端に座っている背の高い人影だった。全身が銀色に光っている——光っているというより、金属製だ。関節が細くてぎこちなく動いている。頭部がランプのようになっていて、ゆっくり点滅している。人型だが人間ではない。
二組目は、二人連れだった。一人は普通の中学生くらいの見た目だが、背中から三本の腕が余分に生えている。もう一人は半透明で、椅子ではなく椅子の少し上に浮いている。
三組目は——一見普通の女性だった。灰色のスーツを着ている。でも顔がない。のっぺらぼうではなく、顔があるべき場所が「情報」で満たされている感触がした。数字と記号が薄く浮かんでいる。
好代は少し止まった。
「……これが、ぱんでむのお客さまです」と秩序ちゃんが静かに言った。
「……色んなところから来るんですね」
「色んなところ、の意味がわかりましたか」
「……少しわかりました」
◆ 接客担当:無常ちゃん
フロアでは無常ちゃんが動いていた。
無常ちゃんは好代が来たのを見ると「いいタイミング」と言って近づいてきた。今日の色はオレンジと緑だ。
「今日から見習いね。基本は私の動きを見ていればいい」
「はい。何か手伝えることがあれば」
「……ある。今日ちょうど——ちょっとむずかしいオーダーが来てる」無常ちゃんが三組目の顔のない女性の方に視線を向けた。「あの方、バーガーを注文するんだけど、何を注文したいのか自分でもわかってないみたいで。何度か話しかけたけど、答えが来るたびに内容が変わる」
「……顔のある場所が情報で満たされているのと関係がありそうですか」
「そう思う。あの世界線では「自分が何を望んでいるか」という情報が外部化されている。自分の欲求が自分の外側に出ているから、本人が把握できていない」
好代は少し考えた。においを嗅いだ——気配の知識と、においの知識を同時に開いた。
顔のない女性のにおいがした。焦げた情報のにおい——紙を焼いたのとも違う、電子的な焦げたにおい。それから——かすかに、甘いにおいが混ざっていた。
好代は棚を一つだけ開いた状態で、女性に近づいた。
◆ お客さまと、においの会話
「……おはようございます。今日はどんなにおいが好きですか」
女性の顔の場所が、少しゆれた。
「においを聞かれたのは初めてです」と声がした。音声が情報として直接来る感触だ。言語だが、耳ではなく皮膚に届く。「私はにおいで……何かを決めたことが……ない」
「……では、今、何かにおいがしますか」
しばらく間があった。女性が少し動いた。頭部の情報が整理されていくような動きだ。
「……甘いにおいが……します。焦げた甘いにおい。焦げているのに——なぜか懐かしい」
好代は棚をもう一つ開けた。においの知識と、気配の知識を同時に使った。女性のにおいを追った。
焦げた甘さ——これは記憶が圧縮されているにおいだ。郷愁ちゃんのバーガーに似た質のにおいだが、もっと古くて、もっと遠い。
「……懐かしい場所のにおいですか」と好代は言った。「帰れない場所、というより——あったけど忘れてしまった場所のにおいです」
女性の顔の場所が、また動いた。
「……そう、です。忘れた場所の……においがします」
好代は無常ちゃんを見た。無常ちゃんがうなずいた。少し早足で厨房に向かった。
少しして、無常ちゃんが戻ってきた。小さなバーガーを持っている。包み紙が薄い茶色だ。
「これ、郷愁ちゃんのフロア向け特別ブレンド。忘れた場所へ繋がる系統のバーガー。辛くないやつ」
好代は包み紙のにおいを嗅いだ。焦げた甘さ——さっきの女性のにおいに似ている。近い。
「……これだと思います」
無常ちゃんが女性の前にバーガーを置いた。女性が手を伸ばして——一口食べた。
顔の場所の情報が、少し静かになった。数字と記号の動きが、ゆっくりになった。
「……そこに、いました」と女性が言った。「ここではない、でも——あそこに、いました」
好代は少し温かい気持ちになった。
「……よかった」と無常ちゃんが好代に小声で言った。「においで客のオーダーを当てたの、初めて見た。訓練の成果じゃない」
「においが近かっただけです。あのお客さまが持っていたにおいと、バーガーのにおいが一致していたので」
「それを感知できることが成果なの」と無常ちゃんが言った。「接客は、相手が何を言っているかより、相手が何を感じているかの方が先に来ることが多い。あなたは今日、感じる方から始めた」
第二章 「概念菜園『エデンの裏庭』」
◆ 屋上への扉
昼前、フロアが少し静かになった頃、渾沌ちゃんが好代のそばに来た。
「ねえねえ、今日空いてる? ちょっと連れてきたいとこがある」
「午後は訓練があります。でも今は大丈夫です」
「じゃあ行こう! 屋上!」
渾沌ちゃんに引っ張られて、好代はエレベーターに乗った。エレベーターの中のボタンがたくさんある。好代の知っている階より多い。「B11」「EXP」「∞」「逆」と書かれたボタンもある。
渾沌ちゃんが「屋上」と書かれたボタンを押した。
エレベーターが動いた——上でも下でもなく、横のような感触だ。
扉が開いた。
◆ 概念菜園『エデンの裏庭』
においが変わった。
土のにおい。草のにおい。それから——ちょっとおかしいにおい。土と草の中に、薬品のにおいと、甘い腐敗のにおいと、電子のにおいが混ざっている。
屋上だった。でも空の下ではなく、天井が薄くオレンジ色に光っている。光の粒がゆっくり落ちていて、それが日光の代わりをしているらしい。
広い。ぱんでむの外観よりずっと広い。プランターと畝が整然と並んでいる——いや、整然ではない。それぞれが違う方向を向いていて、一部は宙に浮いている。
植物が育っている。
ただし——普通の植物ではない。
一列目は、人の手の形をした葉っぱの植物が整列して育っていた。葉が風にゆれると、小さく手を振るような動きをする。
二列目は、真っ黒な球体を実らせた木が何本か並んでいる。球体からかすかな泣き声のような音がしている。
三列目は——好代は少し止まった。人間の形をした植物が列をなして立っている。顔があって、目が閉じている。ゆっくり呼吸しているように見える。
「……これは」
「概念菜園! エデンの裏庭!」と渾沌ちゃんが言った。「ぱんでむの屋上農園。色んなものを育てている」
「……あの人間みたいな植物は何ですか」
「マンドラゴラ化した元・人間だよ!」と渾沌ちゃんが明るい声で言った。
「……元・人間」
「うん。ぱんでむに来て、特定のバーガーを食べすぎると、植物に近い状態に変容することがある。でも死んでいるわけじゃなくて、ゆっくり別の何かになっている感じ。ここで世話してる」
好代はマンドラゴラの列を見た。目が閉じている。呼吸している。穏やかな感じがする——苦しそうではない。
「……世話をしているのは誰ですか」
「摩天ちゃんと万寿ちゃんが主に。でも今日は別の人がいるよ」
渾沌ちゃんが指さした先に、一人の人影があった。
◆ 理性ちゃんと、生きているものの話
理性ちゃんだった。
緑紫の和装に草除けのエプロンをつけて、腰をかがめてプランターの土をいじっている。小さい体でてきぱきと動いている。
「お、来たか」と理性ちゃんが顔を上げた。「渾沌がいずれ連れてくると思っておったよ」
「理性ちゃん、ここの管理もしてるの?」と渾沌ちゃんが言った。
「今日は気になることがあってな。確認に来た」
好代は棚を開けた。植物対話の知識。このにおいの中で開くと——すごくにぎやかになった。
無数の声が来た。「水がほしい」「日が足りない」「隣の子がうるさい」「もっと土が深いといい」——全部の植物が同時に喋っている。
好代はすぐに棚を半分閉じた。植物が多すぎる。全部の声を聞くと収拾がつかない。
「……ここで植物対話の知識を使うと、騒がしすぎました」
「それもデータじゃな」と理性ちゃんが穏やかに言った。「植物は多いほどうるさい。一本と話す時は問題ないが、農園全体と話そうとすると、全員が話しかけてくる」
「……絞る方法はありますか」
「いくつかある。「この列だけ」と意識する方法。「水のことだけ」と話題を絞る方法。あるいは——知識を開く前にどの子と話すか決めておく方法じゃ」
好代はうなずいた。試してみた。マンドラゴラの一番手前の個体だけ、と意識して棚を開いた。
声が来た——一つだけ。「暖かい。ここは静かで好きだ」という感触。
「……聞こえました。「暖かい、静かで好き」と言っています」
理性ちゃんが少し嬉しそうな目をした。「その子は一番長くここにいる。最初は辛そうだったが、慣れてきたんじゃろうな。元々は別の世界線から迷い込んできた旅人だったと聞いている」
好代はマンドラゴラを見た。閉じた目。呼吸。ここが静かで好き、と言っていた。
「……この子は、もとに戻れますか」
「戻ることを望めばな」と理性ちゃんが言った。「でもその子は今のところ、ここにいることを好んでいるようじゃ。無理に変えることもない」
渾沌ちゃんがそばで花壇に水をやっていた。「この子たちが悪い顔してるかって言ったら、してないんだよね」と渾沌ちゃんが言った。「不思議だけど、みんなわりと穏やかな顔してる」
好代はもう一度マンドラゴラの列を見た。確かに——穏やかだ。苦しんでいる顔ではない。
第三章 「摩天ちゃんとの実戦形式訓練」
◆ 午後の訓練場
午後、訓練場に行くと、摩天ちゃんが先に来ていた。いつもと違うのは——摩天ちゃんの隣に、もう一人いることだ。
瑠志ちゃんだった。
茶色の髪。格闘家風の体格。腕を組んで、壁に立っている。目が静かで鋭い。
「今日は少し違う訓練をする」と摩天ちゃんが言った。「相手のある訓練だ。瑠志に協力してもらう」
「……格闘形式ですか」
「格闘ではない。回避と索敵の訓練だ。においと気配の知識を実際の状況で使う練習」
瑠志ちゃんが静かにうなずいた。
「……動きながら問答無用じゃないので安心してください」と瑠志ちゃんが言った。「私が動く。好代さんは私がどこにいるかを、においと音と気配だけで把握する。当てたら次のフェーズに進む」
「当てられなかったら?」
「当てるまでやります」と瑠志ちゃんが静かに言った。「問答無用」
「……わかりました」
◆ フェーズ1:目を閉じたまま
好代は訓練場の中央に立った。目を閉じた。
棚を開けた。音の知識。においの知識。気配の知識。
静かになった。
足音がした——でも軽い。瑠志ちゃんの足音は非常に小さいと聞いていたが、本当に小さい。
においを追った。汗のにおいと、道場のにおいと——鉄と布のにおいが、ゆっくり動いている。
右、六メートル先。
「……右、六メートル先です」
少し間があった。
「……正確です」と瑠志ちゃんが言った。「精度が上がっています」
摩天ちゃんが「次」と言った。
◆ フェーズ2:瑠志ちゃんが動く
今度は瑠志ちゃんが動き続ける。好代は目を閉じたまま、瑠志ちゃんの位置を追い続ける。
音が来る。においが来る。気配が来る。でも瑠志ちゃんの動きが速い——音とにおいが少し遅れてくる。現在の位置より一秒前の位置を把握している状態だ。
好代は棚の組み合わせを変えた。音の知識とにおいの知識を同時に使いながら、質量の知識も少し開いた。床にかかる重さ——微振動。瑠志ちゃんが着地するたびに床が少しだけ変化している。
三つの知識が同時に来た。にぎやかだ。でも慣れた。
「前方、二メートル」「右、三メートル」「左後方、四メートル」——好代は動き続ける位置を声に出しながら追った。
三分後、摩天ちゃんが「止め」と言った。
「……ほとんど正確だった」と瑠志ちゃんが言った。「途中、一回だけ一秒遅れていたが——三つの感知を同時に使っていたのがわかった。よかった」
「瑠志が「よかった」と言うのは珍しい」と摩天ちゃんが静かに言った。
瑠志ちゃんが少し目を動かした。「……よかったと思ったので言いました」
◆ フェーズ3:においによる先制
「もう一つやる」と摩天ちゃんが言った。「今度は私が入る」
摩天ちゃんと瑠志ちゃんの二人が訓練場の中に入った。好代はまた目を閉じた。
二人分のにおいが来た。
瑠志ちゃんのにおいは知っている——鉄と布と道場。
摩天ちゃんのにおいも知っている——スパイシーで熱い、力のにおい。
二人が動き始めた。
今度は好代も動いてよいと摩天ちゃんに言われていた。「二人の位置を把握しながら、どちらにも近づかないように動け。接触したら負けだ」
好代は歩き始めた。目を閉じたまま。
左——摩天ちゃんのにおいが来た。右に回避した。
後方——瑠志ちゃんの微振動が来た。前に出た。
においと気配と音と質量感知を全部同時に動かしながら、好代は訓練場の中を歩いた。
一分間、接触なし。
二分間、接触なし。
三分後、摩天ちゃんが「止め」と言った。
好代は目を開けた。摩天ちゃんと瑠志ちゃんが、訓練場の別々の端にいた。
「……三分間、接触なし。自己評価は?」と摩天ちゃんが聞いた。
「……においの遅れが一番あります。においは現在地より少し後の位置を示すので、気配と音と質量感知と組み合わせて補っていました。でも組み合わせ方が、まだ少し荒い気がします」
「正確な自己分析だ」と摩天ちゃんが言った。「においが一番古い情報で、気配が一番新しい。三つを使う時は気配を基準に、においと音で補完する順番が効率的だ。今日気づいたなら、それでいい」
瑠志ちゃんがうなずいた。「……問答無用ではなく、問答が必要でした。いい訓練でした」
第四章 「夕方のフロアと、お客さまの帰り」
◆ 銀色のお客さまと
夕方、フロアに戻ると、朝来ていた三組のうち二組は帰っていた。残っているのは、最初に見た銀色の人影だった。ランプの頭が今も点滅している。
無常ちゃんが「あの方、ずっとメニューを見てる」と小声で言った。「注文がなかなか決まらなくて」
「何か困っていることがありますか」
「……メニューのにおいがわからない、と言っていた。あの方の感覚器官が人間のものとは違うらしくて、においを感知できない構造になっているみたい。味は電気信号として受け取るタイプだと」
好代は少し考えた。棚を開けた。においの知識。好代は、においを「作る」ことが少しできるようになっている——三話で入ってきた知識の応用だ。まだ粗いが、手のひらから特定のにおいを出すことはできる。
好代はメニューのバーガーの一つを手に取り、においを嗅いだ。スパイシーで重いにおい。力系のバーガーだ。
好代は手のひらに意識を向けた。そのにおいの「電気的な部分」——においが皮膚に届く時の微弱な信号——を少し強めてみた。
銀色の人影に近づいて、手のひらをテーブルに置いた。
「……これが、このバーガーのにおいです。電気信号として感じてもらえますか」
人影がランプの頭を少し傾けた。指先が好代の手のひらに触れた。
少し間があった。
「……感じます」と、スピーカーから出たような音声が来た。「重くて、熱い。これが好みのものに近い」
「……力のバーガーです。強くなる感触の知識が入ってきます」
「それを」
無常ちゃんが厨房に向かった。摩天ちゃんの担当バーガー系の一つを持ってきた。
銀色の人影がバーガーを受け取った。一口食べた。ランプの点滅が少しだけ速くなった。
「……よかった」と人影が言った。「久しぶりに、ここではないどこかの感触が来た」
無常ちゃんが好代の横に来た。「においを電気に変換する、か」と小声で言った。「そういう使い方、今まで見たことなかった」
「……知識の応用ができるのかどうか、試してみました」
「できてた」と無常ちゃんが言った。「しかもお客さまが満足している。今日二回目のやつ」
◆ フロアが終わる時間
夕方、フロアのお客さまが全員帰った。
無常ちゃんが椅子を拭きながら言った。「今日、初めてフロアに立ったにしては——かなりよかったと思う」
「……ありがとうございます。でも、対応できたのはたまたまにおいが読めたからで、他の状況では全然できないと思います」
「そのたまたまを積み重ねたら訓練になる。ぱんでむの接客は毎回違う相手だから、「たまたまできた」が一番大事なデータなの」
好代はフロアを見渡した。さっきまでお客さまがいた場所。銀色の人影が座っていた椅子。顔のない女性が最初に迷っていたテーブル。
ぱんでむのお客さまは、色んなところから来る。渾沌ちゃんが最初そう言っていた。確かにそうだった。
においで何かを探している人も、においがわからない人も——来た理由はそれぞれだが、バーガーを食べて、少し満たされて帰っていった。
「……これが、ぱんでむの仕事なんですね」と好代は思わず言った。
「そう」と無常ちゃんが言った。「今日はその「そう」が一番伝わったと思うから、よかった」
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◇ クルー視点モノローグ —— 無常 ── 三十二日目の記録
好代さんが初めてフロアに立った。
においでお客さまのオーダーを当てた。電気信号ににおいを変換してお客さまに届けた。
どちらも、今まで誰もやったことがない対応だ。
私は常識人、と自分では思っている。状況を読んで、変化する。それが私の担当バーガーの知識でもある。
でも今日の好代さんを見ていたら、「常識」がどこにあるか、少しわからなくなった。
においで人と対話するのは非常識だが——それが一番通じた。
電気信号ににおいを変換するのは非常識だが——それが一番正確だった。
ぱんでむの接客は、常識の外にある方法の方がうまくいくことが多い。
そのことを、今日また少し確認した。
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◇ クルー視点モノローグ —— 瑠志 ── 訓練記録
今日、好代さんと訓練した。
私の動きを、においと音と気配の三つで同時に追っていた。
三分間、接触なし。正確な位置把握。自己分析も的確だった。
私の担当バーガーは「反射と感知」の系統だ。音と振動で空間全体を把握する。
好代さんは私と同じことを、違う方法でやっている。
私は音と振動だけ。好代さんはにおいと音と気配と質量感知の四つを組み合わせている。
組み合わせる、という発想は——私にはなかった。
一つしか持っていないから、一つを極める方向に来た。
でも好代さんは複数を同時に使う。荒いところはまだある。でも——可能性の方向が違う。
次の訓練では、速く動く状況も加えてみたい。
問答無用では当然なく——問答が必要な訓練だ。
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◇ クルー視点モノローグ —— 理性 ── 屋上の記録
好代が来た。
植物対話の知識を開いて、すぐに閉じた。
全部の声が来て、騒がしすぎると判断して、絞り方を工夫した。
それは妾が教えたことでもあるが——実際にやってみて、応用できた、というのは別の話じゃ。
マンドラゴラの一番手前に話しかけて、「暖かい、静かで好き」という答えを受け取っていた。
あの子は最初、怒っていた。長い間ここにいて、最近やっと落ち着いた。
それを「穏やかな感じ」として受け取った好代の感度が——よかったと思う。
においだけで十七年間生きてきた子は、受け取り方がまっすぐだ。
変に解釈しない。感じたまま受け取る。
それが、植物と対話する上でも、一番大事なことじゃ。
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エピローグ 「三十二日目の夜に残ったもの」
夜、「黄昏」でお茶を飲んだ。
郷愁ちゃんがカウンターにいた。
「今日は色々あったね」と郷愁ちゃんが言った。
「……フロアに初めて立ちました。屋上も行きました。訓練もありました」
「一日に全部やる必要があったの?」
「……そういう日でした」
郷愁ちゃんが少し笑った。お茶を入れてくれた。温かかった。
好代は今日のことを少し頭の中で並べた。
顔のない女性が、においで満足した。銀色のお客さまが、においの電気信号で満たされた。マンドラゴラが「暖かい、静かで好き」と言った。瑠志ちゃんと摩天ちゃんの中で三分間動き続けた。
全部、においが関係していた。
十七年間、においだけで生きてきた。その感触が——今日はぱんでむの仕事として使えた。
お茶を飲んだ。ほうじ茶のにおいがした。焦げた甘さと、少し木の感触。郷愁ちゃんが淹れるお茶の中に、この場所のにおいがある。千姿のにおいがある。
ぱんでむにいると、においが全部ここにある感じがする。
好代はお茶を両手で持った。
まだ食べていないバーガーがある。まだ行っていない場所がある。まだ話していない人がいる。
前が広い。
それが今日も変わらなかった。




