第16話「未食のバーガーと、においの地図」
三十日が終わった。
次の日の朝、販歯厚餓安 好代は目を覚ましてまず棚を確認した。
五十六種類の知識が全部ある。においの知識。時間の知識。力の知識。記憶の知識。全部、昨日のままそこにある。
好代は天井を見た。
一ヶ月が終わった。それは確かなことだ。でも何かが区切れた感じはしない。むしろ——前が広い。
まだ食べていないバーガーがある。
それだけで、十分だった。
第一章 「未食のにおい」
◆ 朝のぱんでむ
三十一日目の朝、好代がぱんでむのフロアに出ると、廊下のにおいが少し違った。
いつものぱんでむのにおい——草と電子と時間と複数の世界線のにおいが混ざったもの——の中に、何か新しいものがある。
好代は立ち止まって棚を開けた。においだけ。
知らないにおいがする。焦げた砂糖みたいな、でも砂糖じゃない。金属みたいな、でも金属じゃない。何か——まだ食べていないものの予感。
「……新しいバーガーが来た」
好代はそのまま廊下を歩いた。においを追って。
においの先に、摩天ちゃんがいた。
訓練場の入り口の前に立っていて、腕を組んでいる。見るともなく廊下の先を見ていた。好代に気づくと、少しだけ目を動かした。
「早い」
「においがしたので」と好代は言った。「何か新しいバーガーが来ましたか」
摩天ちゃんが少し間を置いた。
「……来た。渾沌が持ってきた。今日の分の未食バーガーが補充された」
「いくつですか」
「十二。全部分類不明に近い系統だ。今日の訓練のあとで試す予定だったが——」と摩天ちゃんが好代を見た。「起きた瞬間においで気づくあたり、鼻が育ってきている」
好代は少し嬉しかった。
◆ 訓練:においの地図
今日の訓練は、においの知識を使った空間把握だった。
摩天ちゃんの説明はいつも通り端的だ。「目を閉じて。においだけで訓練場の中にいるものを全部言ってみろ」
好代は目を閉じた。
棚を開けた。においだけ。
訓練場の中に、今どんなにおいがあるか——摩天ちゃんのにおい(スパイシーで熱い、力のにおい)。鉄のにおい(砂袋の鎖)。床の金属のにおい。空調の微かな風のにおい。岩のにおい(摩天ちゃんが割った岩の断面、少し前に割れた)。
あと——右奥の隅に、何か。
「……右奥の隅に、誰かいますか」
少しの間があった。
「……いる」
好代が目を開けると、訓練場の右奥の隅に、壁にもたれて座っている子がいた。
黒白の服。膝を抱えて。首元に白いチョーカー。目がぼんやりしている。
「……憂起ちゃん?」
「ここ、です」と憂起ちゃんが静かに言った。「ここにいます。確認中です」
「訓練場で確認していたんですか」
「……たまに、自分がここにいるかどうかわからなくなる。広い場所の方が、ここがわかりやすい気がして」
摩天ちゃんが「いつもの」と静かに言った。気にしていない様子だ。
好代は憂起ちゃんに近づいた。
「……一緒にいてもいいですか」
「……ここにいます」と憂起ちゃんが言った。「それが答えみたいで、申し訳ないですが、でもここにいます」
「十分です」と好代は言った。床に座った。
摩天ちゃんが「続けろ」と言った。訓練再開だ。
好代は目を閉じたまま訓練を続けた。憂起ちゃんが隣に座っている。においが一つ増えた——古い紙とチョークのにおい。少し静かで、でもちゃんとここにある。
においの地図が、また少し広がった。
第二章 「十二個の未食バーガー」
◆ 昼すぎ、バックヤードにて
訓練のあと、好代はバックヤードに戻った。リビング・オブ・カオスのテーブルに、小さな保冷ボックスが置いてあった。渾沌ちゃんがその隣で床に座って、ラベルを読んでいる。
「すきよちゃん、来た来た!」渾沌ちゃんが顔を上げた。「今日ね、新しいやつが来たよ!」
「においがしていました」
「あ、わかったの? すごいじゃん!」渾沌ちゃんが保冷ボックスを開けた。「十二個。全部ちょっと変なやつ。ちょっと特殊な世界線から来たから、私もまだ中身知らないやつがある」
秩序ちゃんが書類を持って現れた。いつ来たのかわからない。
「補充分の記録です」と秩序ちゃんが言った。「好代さん、今日はいくつ試しますか」
「食べられる分だけ」
「……その回答、毎回同じですね」
「毎回本当のことを言っているので」
秩序ちゃんが少しだけ、眉の角度を変えた。それが秩序ちゃんの笑顔に最も近い表情だと好代は知っている。
◆ 一個目:気配のバーガー
保冷ボックスの一番手前にあったバーガーを取り出した。包み紙が紺色で、ラベルに「世界線コード:PRES-0044」と書いてある。においは微かだ。遠い、薄い——でも確かに何かがある。
好代はにおいを吸い込んだ。
「……これ、ほとんどにおいがしないんですが」
「それ自体が特徴かも」と渾沌ちゃんが言った。「においが薄いバーガーは、存在感が薄い世界線から来ることが多い」
好代は食べた。
情報が来た——映像でも音でもなく、気配だ。どこかにいる誰かの、存在の感触。遠くても近くても、気配があればわかる。その世界線では、気配そのものが通貨みたいに機能していた。存在感の強い者が、場を支配する。
「……気配を読む知識が入ってきました。存在感の強弱を感知できる系統です」
摩天ちゃんがメモを取っている。秩序ちゃんも書いている。
「憂起ちゃんの気配が……すごく静かですが、確かにあります」と好代は続けた。「訓練場でにおいで気づいたのは、この系統と連動していたのかもしれません」
憂起ちゃんが壁のそばで少し顔を上げた。「……気配、あった」と小さく言った。「よかった」
◆ 二個目:音のない世界線
次のバーガーは包み紙が無地の白だった。ラベルもほとんど消えかかっている。においは——ない。完全に無音みたいな、においのなさだ。
「これ、においが全くしません」
「それもデータ」と摩天ちゃんが言った。
食べると、静寂が来た。音の知識が一瞬消えた——いや、消えたのではなく、「音がない世界線」の感触が入ってきて、それが既存の音の知識と衝突した。二つが混在した。「音がある世界の音の知識」と「音がない世界の静寂の知識」が同時にある。
好代は少し止まった。
「……矛盾する知識が二つ同時に入っています。音の知識と、音のない知識が」
「干渉は?」と秩序ちゃんがすぐに反応した。
「……干渉というより、補完し合ってる気がします。音があることを知っているから、音がないことがわかる。音がないことを知っているから、音の解像度が上がる」
秩序ちゃんの手が少し速くなった。書くペースが上がっている。
「……それは、想定外の相乗効果です」
◆ 三個目、そして四個目
三個目のバーガーは重かった——物理的に。手に持つと、同じサイズのバーガーより明らかに重い。においは鉱物のようで、地面の深いところのにおい。
食べると、「質量の知識」が来た。どこかの世界線では、ものの重さを感じる感覚が拡張されていた。離れた場所にある物の質量を皮膚で感じられる。自分の体重がどこにかかっているかを正確に把握できる。
「……重さを感じる知識です。体重の配分が全部見えます。今、摩天ちゃんが少しだけ左重心になっています」
摩天ちゃんが即座に重心を直した。「正確だ」と静かに言った。
四個目は包み紙がピンクで、においが——好代は少し驚いた。
「これ、桜のにおいです」
「桜?」と渾沌ちゃんが首を傾けた。「桜が咲く世界線かな」
「……でも何か別のものも混じっています。桜と、それから——別れのにおいです」
渾沌ちゃんが少しだけ顔を変えた。秩序ちゃんが書く手を一瞬止めた。
好代は食べた。
春の映像が来た。桜が散る。誰かが去っていく。でも悲しくない——その世界線では、別れは春と同じ「また来る」を意味していた。行ってしまうことと、また会えることが同じだった。
「……別れが怖くない世界線の知識です。行くことと戻ることが、季節みたいに繰り返される——そういう感触です」
しばらく静かだった。
「なんかいいね、それ」と渾沌ちゃんが静かに言った。「すきよちゃんっぽい」
「……そうですか?」
「うん。バーガー好きで、毎日来て、でも怖くない人に選ばれるバーガーだと思う」
第三章 「流焔ちゃんと世界線の外」
◆ 午後の配達訓練
昼食のあと、秩序ちゃんから告げられた。「午後は外業務の訓練です。担当は流焔ちゃんです」
流焔ちゃんが廊下の向こうから飛んでくるように現れた。虎耳が動いている。黄色い服がぱんでむの廊下に明るい。
「すきよちゃーん! 久しぶり! 今日一緒に行くね!」
「はい、お願いします」
「今日はねー、ちょっと遠い世界線に届け物があってー、でもそんなに危なくないやつだから! 燃やさなくていい! たぶん!」
「……たぶん、という部分が少し気になります」
「大丈夫大丈夫! 燃えたとしても、燃えてほしいものだけ燃えるから!」
秩序ちゃんが「流焔ちゃん、発言に気をつけて」と言った。流焔ちゃんが「ごめんごめん!」と言った。
◆ 届け先:霧の世界線
渾沌ちゃんに空間を開けてもらって、二人で外に出た。
霧だった。
全部が白い。足元だけ見えて、その先は霧に消える。においを嗅ぐと——濡れた石と、古い木と、塩の感触。海に近いどこかだ。
「わーきれい!」と流焔ちゃんが言った。「霧って燃えないんだよね。水分子だから。焼けないものって逆に好き」
「燃えないものが好きなんですか」
「燃えるものと燃えないものの対比が好き。どっちかだけじゃ面白くない」
好代は棚を開けた。気配の知識——霧の中に誰かいる。向こうの方向。音のない知識——足音が聞こえない。でも気配がある。
「……十二時方向、三十メートル先に人がいます」
流焔ちゃんが「すごい!」と言った。「私ね、炎で熱源を感知するから、霧の中でも人はわかるけど、好代ちゃんのはにおいと気配だよね。違う仕組みで同じことができてる」
「方法は違いますが、たどり着く場所は同じかもしれません」
「それって友達と同じじゃん。違う道で、同じ場所にいる」
好代は少し考えた。それは——悪くない言い方だ。
届け先は、霧の中に建つ石造りの灯台だった。階段を上ると、老人が一人いた。この世界線の人間で、目が深くて、霧を見続けているような目をしている。
流焔ちゃんが小さな箱を手渡した。老人が受け取った。開けると——においがした。
焼けた肉のにおい。バンズのにおい。ソース。
ハンバーガーのにおいだ。
老人が一口食べた。目が少し変わった。何かを思い出したような顔だ。
「……このバーガーは何ですか」と好代は流焔ちゃんに小声で聞いた。
「記憶整理系。この世界線では霧が深くなると記憶が霧と混ざって、どれが本当かわからなくなる病気がある。バーガーを食べると、霧と混ざった記憶が少し整理されて、本当のことがわかるようになる」
老人が灯台の外を見た。霧の中を。目が少し遠くなった——でも迷っていない目だ。どこに向かっているかわかっている目だ。
「……届ける、ということが——ぱんでむの仕事なんですね」と好代は思わず声に出した。
それは知っていた。でも今日は少し違う感触で知れた。
◆ 帰り道、流焔ちゃんのこと
帰り道、霧の中を戻りながら、流焔ちゃんが好代に話しかけてきた。
「ねえ、好代ちゃんはさ——バーガーを食べるたびに何かが入ってくるじゃん。それって、全部一緒にある感じ? 混ざらないで?」
「……棚がたくさんある感じです。混ざらない。でも全部ある」
「それすごくない? 私ね、炎の知識しか持ってないけど、炎だけでも世界全部燃やせる気がしてるの。好代ちゃんは全部持ってて、全部使えるってことでしょ。そっちは重くない?」
好代は少し考えた。
「……重いというより、にぎやかです。でも慣れました」
「にぎやか」と流焔ちゃんが笑った。「いい言い方。炎ってにぎやかだよね。私の頭の中もいつもにぎやかだもん。ぱちぱちしてる」
「……流焔ちゃんの炎の知識って、すごく陽気なんですね」
「陽気だよ! だって燃えてるんだよ? 燃えてて暗いってどういうことって思う。燃えてる間は明るいじゃん」
好代は霧を見た。霧は白くて、明るくはない。でも確かにここにある。
「……流焔ちゃんの炎と、霧の組み合わせ、面白いですね。明るいものと、見えにくいものが一緒にある」
「それがぱんでむじゃん!」と流焔ちゃんが笑った。「全部あるんだよ。ぱんでむには全部ある」
第四章 「夜の補充:残り八個」
◆ 夜のバックヤード
夜、好代はリビング・オブ・カオスに戻った。テーブルに保冷ボックスがまだある。残り八個。
テーブルに、ニ諦ちゃんがいた。タロットを並べている。
「……来ると思っていました」と二諦ちゃんが言った。顔を上げずに。「今夜、残りのバーガーを試す流れが見えていました」
「当たっていますか」
「……当たっています。ただ、試せるのは三個までです。それ以上は今日に収まりません」
「なぜですか」
「……四個目を食べようとすると、誰かに邪魔される流れが見えます」と二諦ちゃんが包み紙の一枚を指した。「この流れは固定です」
好代はそれを聞いた。
「……誰に邪魔されますか」
「……渾沌ちゃんです」と二諦ちゃんが少し遠い目で言った。「何か思いついて飛んでくる流れが見えます。今日もほぼ確実に発生します」
ちょうどその時、廊下から足音が聞こえた。速くて、軽い。
「すきよちゃーん! ちょっと来て! 面白いものあったよ!」
渾沌ちゃんが扉を開けた。
二諦ちゃんが静かに「……言いましたよね」と言った。
◆ 渾沌ちゃんが持ってきたもの
渾沌ちゃんが廊下の先を指さした。廊下の壁に、何か張り紙がしてある。
「見て見て! 訓練場の前に新しい掲示板設置されたの! 秩序ちゃんが作ったやつ!」
好代は行ってみた。白いボードに、秩序ちゃんの丁寧な字で書かれている。
「未食バーガー管理表:好代さん用」
ぱんでむにあるバーガーの一覧が、食べた・未食に分けて整理されていた。
食べたのは五十六種類。未食は——まだたくさんある。補充分も含めて、数えると三十二種類が未食欄に並んでいた。
「すごくない? 秩序ちゃんがすきよちゃんのために作ったんだよ! 「管理が必要になってきた」って言って朝から作ってた」
好代は表を見た。丁寧に整理されている。カテゴリ別に、世界線コードと一緒に並んでいる。
「……秩序ちゃんが作ったんですか」
「そう! 「好代さんが整理せずに動けることは把握していますが、記録は別の話です」って言ってた。好代ちゃんのためが八割、自分の記録のためが二割だと思う」
好代は少し、目が温かくなった。
表がある。全部が見える。まだ食べていないバーガーが、三十二種類、ここにある。
前が広い。
それが今日も確かだった。
◆ 五個目と六個目(本日の補充分より)
渾沌ちゃんと一緒に保冷ボックスに戻った。二諦ちゃんが「三個まで」と言っていたので、今夜は三個試す。
五個目は包み紙が半透明だった。中のパティが透けて見える。においは薄く甘い——蜂蜜みたいな、でもそれより古い甘さ。
「……時間のにおいがします。すごく長い時間の甘さ」
「ロマンティックじゃん」と渾沌ちゃんが言った。
食べると、長命の感触が来た。長く生きた世界線の時間の感触——万寿ちゃんのバーガーに似ているが、また違う。万寿ちゃんのは「死を丁寧に扱う」感触だったが、こちらは「変化を全部受け取る」感触だ。長く生きていると、変化が当たり前になる。その感触。
「……変化することを怖がらない知識が入ってきました。長く変わり続けることが、その世界線では当たり前だったみたいで」
「それすきよちゃんっぽくないじゃん」と渾沌ちゃんが言った。「すきよちゃんは変わんないイメージある」
「……変わらないものがあるから、変わることが怖くないのかもしれません。バーガーが好きという感触は変わらないので」
渾沌ちゃんが「あー」という顔をした。「それが核か」
六個目は包み紙が黒かった。ラベルに「要注意」と赤い字で書いてある。においは——苦い。コーヒーより苦い、でもそれより深い苦さ。
「……これ、何か特別なやつですか」
「多分ね!」と渾沌ちゃんがニヤっとした。「でも好代ちゃんが食べても大丈夫なやつ。私の勘だけど」
「……渾沌さんの勘は信頼していいんですか」
「百パーセントは信頼しないでいい。でも六十くらいは信頼して」
好代は食べた。
——棚が全部、一度に揺れた。
五十六種類の知識が全部、一瞬だけ同時に動いた。干渉ではない。共鳴だ。全部が同じ方向を向いた瞬間があった——「ここにある」という方向を。
そして収まった。
棚が全部もとに戻った。でも少しだけ、配置が変わっている。全部がもう少し、一緒にある感触になった。
「……全部が一回揺れました。でも壊れてはいない。むしろ——全部がもう少し近くなった感じです」
摩天ちゃんが手帳を出した。いつの間にかいた。
「……それは記録が必要です」
「正確に言うと——棚と棚の間の距離が縮まった感じです。いつもはそれぞれが独立していたんですが、今は少し、隣の棚を感じながら使えるようになった気がします」
秩序ちゃんもいた。いつ来たのかわからない。
「……統合が進んでいます」と秩序ちゃんが静かに言った。「五十六種類が別々にあるのではなく、連携し始めている」
◆ 七個目、そして今夜の最後
二諦ちゃんが予言した通り、三個目(今夜の最後)は難しかった。
包み紙がなかった。バーガーが剥き出しで保冷ボックスの底にあった。においは——複数のにおいが同時にしている。知っているにおいと、知らないにおいが混ざっている。
好代はにおいを確認した。
草のにおい。電子のにおい。お茶のにおい。焦げたおもちゃのにおい。防腐剤のにおい——
好代は手を止めた。
ぱんでむのにおいだ。ぱんでむのすべてのにおいが、このバーガーに混ざっている。
少し前に、鏡の前で嗅いだにおい。千姿が鏡にいた朝のにおい。
好代はバーガーを少し、持ったまま考えた。
「……これ」
「うん?」と渾沌ちゃんが言った。
「……食べてみます」
一口かじった。
情報が来なかった。
代わりに——何かが確認された。
棚が全部開いた。五十六の知識が全部来た。全部が同時にここにある。においの知識も、力の知識も、記憶の知識も、気配の知識も。全部が一緒にある。
そしてその全部が——ぱんでむのにおいと同じだ、と感じた。
好代は鏡に映る自分を想像した。地雷系の制服。チョーカー。目の下。その姿が——何かと重なる感触がした。
でも今は、その感触を無理に引き出せない。
ここにある、ということだけが確かだ。
「……何か見えましたか?」と渾沌ちゃんが聞いた。少し静かな声で。
「……見えるというより——確認されました。全部がここにある、ということが」
渾沌ちゃんが何か言おうとして、やめた。秩序ちゃんが書く手を止めていた。
ぱんでむが少し温かくなった気がした。
──────────────────
◇ クルー視点モノローグ —— 摩天 ── 三十一日目の記録
好代の成長を記録する。
三十一日目。においで気配を感知できるようになった。
気配のバーガーと既存のにおいの知識が連動し始めている。
それ以上に——七個目のバーガーのあとの様子が気になった。
情報が入ってこなかった、と言っていた。でも棚が全部開いて、全部が確認された、とも言っていた。
あれは「バーガーによる知識の付与」ではなく——
「好代がぱんでむを全部持っている」という確認だったのかもしれない。
五十六種類の知識が全部ある。
ぱんでむのにおいと同じ、と言った。
千姿のことは、誰も教えていない。
でも——好代は何かに近づいている。
記録に残す。
──────────────────
◇ クルー視点モノローグ —— 流焔 ── 霧の世界線の帰り道
好代ちゃんと一緒に霧の世界線に行った。
霧ってね、燃えないんだよ。水分子だから。
私が燃やせないものは、けっこう好きだ。燃えないものって、燃えるものと違う強さがある。
好代ちゃんはにおいで人を見つけた。気配で距離を測った。
私は熱源で人を見つける。方法が違う。でも同じ場所にたどり着いた。
「違う道で、同じ場所にいる」って言ったら、好代ちゃんが少し考えて「悪くない言い方ですね」って言った。
それが、すごく嬉しかった。
私の炎は陽気だ。にぎやかだ。
好代ちゃんの棚も、にぎやかだと言っていた。
にぎやかなもの同士は、たぶん、一緒にいやすい。
──────────────────
◇ クルー視点モノローグ —— 憂起 ── 訓練場の床から
好代ちゃんが、においで私のことを見つけた。
訓練場の隅にいた。私はたまに訓練場の隅にいる。
広い場所の方が、自分がここにいることを確認しやすいから。
目を閉じたまま「右奥の隅に誰かいますか」と言った。
私がいることがわかった。
「一緒にいてもいいですか」と言って、床に座った。
それだけだ。何もしなかった。訓練を続けた。
でも——隣に誰かがいる間、私は確かにここにいた。
いつもより少し、ここがわかった。
好代ちゃんが「十分です」と言った。
それで十分だった。
──────────────────
エピローグ 「三十二種類の前」
夜、好代は廊下の掲示板を見た。
「未食バーガー管理表:好代さん用」。
三十二種類。まだこんなにある。
好代は表の一番上にあるバーガーのにおいを想像した。まだ食べていないにおい。知らない世界線のにおい。どんな知識が入ってくるか、まだわからないもの。
においを想像するだけで——少し、前が広くなった気がした。
これがバーガーが好き、ということだ。
食べた後じゃなくて、食べる前から好き。においを想像するだけで好き。十七年間、この感触と一緒に生きてきた。今はその感触が、ぱんでむ全体に広がっている。
好代は部屋に戻った。
五十六の棚が全部ある。少し前より、全部が近くにある。
明日もぱんでむに来る。また新しいバーガーを食べる。
まだ知らない世界線の欠片が、あそこにある。
前が広い。
それが今日も、変わらなかった。




