一章 三
一章 三
春の天気は不安定だ。
さっきまで晴れてたと思えば、突然曇って降り出す。四方を山や峰に囲まれたこの地は特にそれが顕著なのかもしれない。
それは良いとして、だ。ランプが照らす洞窟の中で、俺と小娘は互いに無言で距離を置いて沈黙している。
「……」
「……」
「……」
「……」
何とかならねーのか。この空気。
ビオルさんに追い立てられるようにして、洞窟に入って間もなく、外では雨が降り出した。
そうなると天気の変わりは凄いもんだ。蒼かった空が瞬く間に灰色に覆われ、雫が地上に降ってくる。
暖かい春の昼間は極楽だが、雨で急に冷えた空気は暖かかった分、人間は身体を冷やすだろう。
小娘を見ると、先日ぶっ倒れた時に用意した藁を詰めた大袋の上で膝を抱えて肩から毛布を被っていた。大袋は麻で編まれた物で中にビオルさんが持って来た藁を詰めて寝床にしたものだ。毛布も俺が市で買い直してきたし、これでひとまずの寝床は確保できているから問題はなさそうだな。
人間一人が立って入れる入り口から少し進めば、人間が五人くらいなら余裕の空間が広がっている。そしてその洞窟、天井と俺の間にはそこそこの距離もあって息苦しい思いもしないで済む。
なのだが、俺は今、息苦しい。一体この小娘は何が気に入らなくて俺の顔も見ない何も言わないで黙っているんだ?
そもそも何で俺がこんな小娘を気にしなけりゃならないんだ。
ここから洞窟の入り口までは少し曲がっているから、冷たい空気や雨は直接吹き込んでこない。が、念の為に火を熾しておいた方が良いかも知れないと、俺は石を集めて作った小さな囲炉裏に火打石を使って火を熾す。薪が時化ってしまうと点きにくいから、今のうちにつけておかないといけない。
一応、夕飯も考えて食料は運び込んである。
もうこの空気もどうにもならんのなら、さっさと小娘に飯を食わせて寝させた方がいい。それしかない。
「あの、樹宝さん」
「……何だ」
決めた矢先にどうして話しかけてくるんだよ!
「クッキー、食べてくれてありがとうございました」
「別に。俺に食わせる気で作ったんなら仕方ないだろう」
仕方ない。俺に作ったものなら、俺が食わなきゃ無駄になっちまうんだ。それがどんなに不味くても、食わないわけにはいかない。
俺に食われるために作られたんだからな。
「嬉しかったです」
小娘がそう言って笑った。気味の悪いくらい白い顔が、何でか知らんがこの時だけは不気味だとは思わなかった。何故だか知らんが、それが面白くない。この小娘といると、苛々する……つーか、落ち着かねぇんだ。
だから、俺は小娘の方を見ずに言う。
「そうかよ。……ならいいんじゃねぇか」
けど、見ねぇって思ってるのに、何故か目がいつの間にか小娘を追う。
「はい!」
にっこにっこ笑ってやがる。まぁ、泣かれるより何倍もマシだろ。
と、そこで何を思ったのか小娘がじっとこっちを見てきた。
「何だよ」
「樹宝さん、もしかして髪が邪魔なんじゃないですか?」
「は?」
「だって、避けてもすぐ落ちてるみたいですし」
俺の髪は背を覆うくらいの長さがある。確かに屈んで作業するこういう時には払っても払ってもまた肩から滑り落ちてくるが、慣れていてそこまで邪魔とかいう意識も無かった。
「良かったら、私が……その、まとめ、ます」
「…………」
「だめ、ですか?」
別に意識しなけりゃ邪魔とも思ってないんだ。そんな必要はねぇ。
そう思ったが、どういうわけか。
「好きにしろ」
やっぱあの毒薬クッキーが良くなかったらしい。胸焼けなんて感覚はわからねぇが、きっとこれがそうなんだろう。何かが胸元で外の天気みたいに曇っている。
小娘が寝床から降りそうになっているのが見えて、なんとなく俺は立ち上がって囲炉裏を越え、小娘の側に座り直す。小娘に背を向けて胡坐をかいた。
「これでいいのかよ」
「はい」
背後から聴こえた小娘の声は少しだけ震えている気がした。別にこんな貧弱で今にも死にそうな細い人間の娘なんかに何もしねぇっての。
つーか、怖いなら離れてればいいじゃねーか。何で髪を結うとか言い出すんだ。訳がわからん。
「わ。……凄い綺麗」
小娘の震えた指先が俺の髪を一房掬い上げる気配がして、何故か聴こえたのはそんな言葉だった。
「髪なんか全部同じだろうが」
「そんな事無いですよ! いいなぁ……真っ直ぐで艶もこコシもある」
小娘の髪は白金で、細い。そういや、熱から脱して起き上がった時に髪がどうたらって騒いでた気がするな。絡まってるとか何とか。
軽く髪を引っ張られるような感覚がした。どうやら結い始めたらしい。
「小娘。お前、良く触れるな」
気がついたら、言葉が転がり出ていた。じっとしているだけで退屈だったからだろう。少し、憂さ晴らしの感もあったかも知れない。
「髪も見た目も、自分と全然違うだろ。こんな色の髪によく触れるな」
「違うのが、駄目なんですか?」
「は?」
黙るか手を止めるか。そういう反応をすると思ってた。だが小娘は、俺の思っていたのとは違うことを口にする。
「樹宝さんの髪、綺麗です。新しい芽吹きの色。お日様に透ける新緑の命色」
ゆっくりと小娘の指が髪を弄ぶ。
「目の色も、お花の色で、とっても綺麗です」
「…………ああ、そうかよ」
何か、馬鹿馬鹿しくなった。興醒めだ。
「初めの内なら恐怖や嫌悪より好奇心って事か」
「怖くないです。だって、樹宝さんだもの」
「人間の言語野はいつから正常に動かなくなった?」
「怖くないですよ。私はあなたのお嫁さんなんですから」
「もういい。まともな答えが返ると思った俺が馬鹿だった」
そうだ。この小娘は言葉が通じないのだったと、俺は思い出した。
「怖くないです。……です」
「あ?」
「ふふ」
何か言った気がしたんだが、囲炉裏の爆ぜる音と雨音で掻き消えたようだ。小娘自身も蒸し返す気はないらしい。そうしている内に髪を引っ張っていたような力はなくなり、代わりに背に軽く結った髪が落ちる感じがした。
「出来上がりです」
心なし楽しそうな小娘の声に首を動かし振り返る。
「……」
「……? どうかしました?」
「別に」
俺は振り返るのを止めて小娘から顔を背けた。やっぱりあれは食うもんじゃなかったらしい。
振り返った先で嬉しそうに笑った小娘と瞳が合っただけなのに、一瞬、息の根を止められたような気がした。
食うべきじゃなかった。『胸焼け』が治まらねぇ。
どうかしてる。一瞬、本当に一瞬だが、この小娘の『名』を呼んでみようか、なんて思ったのは、断じて気の迷いだ。くだらねぇその会話を終えて、今度こそ小娘に飯を食わせて灯りを落とす。小娘も寝静まった頃、俺は洞窟の外に出た。
春のけぶるような甘い空気が月を霞ませる。もう雨は止んでいた。
「樹宝」
静かな、透き通るような声に視線を滑らせれば、司るものは違えど、同族の男がそこに居た。夜を集めたような濃紺の短けぇ髪に白い雪みてぇな肌、それから薄水色の切れ長の瞳が俺を見据えてくる。纏う衣は西域と南域の間にある場所で着られる事の多い確かアオザイって呼ばれてるもんだ。髪と同色の身体のラインは腰までわりとはっきり見えて、そっから足首まで深く開いたスリット。その下には白いズボンを穿いている。
「よぉ。氷冠」
「ビオルから聞いた。嫁を貰うことにしたらしいな」
「だから……俺はそんなつもりはねーって……」
ビオルさん、外堀埋めるつもりじゃねーか!
「ならば何故、側に置く」
「んなの、小娘が居座ってるからに決まってんだろ」
「……樹宝。気づいていないのか」
「は?」
「そうか」
「おい、勝手に納得するな。どういう事だよ」
氷冠は薄水色の瞳をどういう訳か気の毒とでも言うように細めてきやがった。
「案外、幼かったのだなと認識を改めただけだ」
「喧嘩売ってんのか、お前」
「思った事をそのまま言っただけだが?」
無表情で首傾げんな。つーかやっぱ喧嘩売ってんじゃねーか!
「木涙が心配している」
「杞憂だ。何もありやしねーよ。あんな小娘に俺が情を向けると思ってんのか?」
「樹宝」
「んだよ?」
氷冠の感情の薄い水色の瞳が揺らぐ。思った事を、それが時に怜悧すぎる刃になろうと構わず口に出すこの水の精霊の長が、珍しく逡巡を見せた。気味悪りぃ。
そんな心の声が聞こえたわけもねぇが、氷冠は俺の方を見てやっぱり感情の映らない瞳で言う。
「鈍いのは構わないが、それならば気づく前に決めろ。辛くなるぞ」
「は?」
わけわかんねーことを言って、氷冠が用は済んだとばかりに俺へ背を向ける。
「おい」
「我等、自然の化生。けれど、大陸の心は人の化生でもある」
「氷冠? 何を言ってる?」
「人に狂ふは、我等もそして大陸の心も同じ。心は、悠久を経ても、其の身が別の何かに成ろうとも、変わらずあり続ける。気をつけろ」
気づいた時にはもう遅いぞ。そう囁く様に呟いて。踵を返した氷冠の姿は雨の匂いが残る空気の中へ溶ける様に消えていく。
「……人間に狂う? は。あり得ねぇ。あるわけがねぇだろ」
昔、けれど俺たちの時間にしたら、少し前程度の時。この大陸は『死に掛け』た事がある。仲間が、他の生き物たちが傷ついた。
何よりも、誰よりも傷ついたのは、緑青色の髪に紅の瞳の、誰よりも、その人間に狂った大陸の心を想っていた、優しい人。
「俺は同じ路など辿らない。二度と悲しませたりしねぇ」
それは過ち。人間に惑った愚かな精霊の末路。同じになんかなるわけがねぇ。なってたまるか。
俺はビオルさんを二度と哀しませたりしねぇ。