20 善意か、それとも悪意か
その声が響いた瞬間、空気の温度が数度下がったように感じられた。
いや、気のせいなんかじゃない。周囲の温度は確かに下がっていた。証拠に、俺の周りでは次々と氷の結晶が凝縮され、それが弾丸のようにSaliveへと撃ち出されていく。
悲鳴を上げる暇すらなく、前方のSaliveは一掃された。
「虚無の焔よ、すべてを喰らい尽くせ!」
叫び声とともに、反対側の路地は凄まじい炎に包まれ、その中のSaliveをすべて焼き払った。
同時に、赤い影が前方でポーズを決めている。だが格好つけていられたのはほんの一瞬で、隣に現れた黒い影に刀の峰で頭を叩かれた。
「そんなふうに権能を消耗して、後で使い切ったら、そのまま置いていくぞ。」
「あっ!」
赤い影は痛みに顔をしかめ、頭を押さえてしゃがみ込んだ。
「花が周囲のSaliveがこっちに集まってるのを見て、たぶん君だろうって。間に合ってよかった。」
澄んだ声が耳元で響く。振り向くと、氷宮詩玖が立っていた。
彼女は一棟のビルを見上げている。視線を追うと、三十階以上ある高層ビルの屋上で一瞬光が瞬いた。きっとあそこから花が手を振っているんだろう。蓮も一緒にいるはずだ。
それにしても、どうして俺たちを助けに来たんだろう。たぶん舞のせいだ。あいつは立場のある人間だし、俺と一緒にいると分かれば、俺を見つければ舞も見つかる。
「北へ向かって。あっちはSaliveの数が少ない。」
昔話をしている暇はなかった。氷宮の無線から花の声が流れ、早く動くようにと告げる。
「私が道を切り開く。神人は周囲に潜んでるSaliveを排除、悠は追撃を遮断。あなたたちは私についてきて。」
氷宮の指示が素早く飛び、俺たちはその背を追って走り出した。
道中、前方のSaliveは氷宮だけでなく俺も処理していく。俺の権能は量が少ないから、こまめに補充しないと彼らの速度にはついていけない。
舞はずっと隊列の中央にいて、ときどきこちらを見やりながら、珍しく黙り込んでいた。
「ドンッ!」
目の前で何かが落下し、爆音とともに土煙が舞い上がる。
剣を構えて警戒するが、煙が晴れると見えたのは、花が蓮を抱えて飛び降りてきた姿だった。
周囲を見渡すが、視界を確保できる高い建物はない。ここで合流したのはそのためだろう。
「会いたかったよ、レイア。」
花は蓮を下ろすと、ぴょんぴょん跳ねながら俺に飛びついてきた。
「そういうのは後で。今はまず脱出だ。」
飛びかかってきたSaliveを一体斬り捨てながら、俺は花に言う。
さすがの花も状況は理解していて、それ以上絡んでこず、俺から離れて戦闘に戻った。蓮は舞が預かることになった。なぜかその話を聞いた舞はさらに沈黙を深めたが、反対はしなかった。
「助けて!」
花の誘導がなくなったことで戦闘はさらに増えたが、それでも少しずつ西へ進んでいた。そんなとき、隣の住宅ビルから救助を求める声が聞こえてくる。
視線を向けると、三十歳前後の女性が年老いた老婆を背負い、こちらに助けを求めていた。
「花、私が助けに行く。後はあなたが引き受けて。」
「了解。」
迷いなく氷宮が駆け出す。だが、その前に予想外の影が立ちはだかった。舞だ。
「salv4が到着するまであと一時間。今助けたら、追いつかれる可能性があるわ。」
「あなたは……雛原軍工の雛原会長ですか。言っていることは正しい。でも私たち赤尾小隊は、助けられる可能性があるなら誰も見捨てたくありません。」
氷宮は相手の身分に気づいたようだったが、それでも考えを曲げなかった。
それを見て、俺も疑問を抱く。もし氷宮たちが舞の身分を知らなかったなら、どうしてわざわざ俺たちを助けに来たんだ? 本当に、ただ一人も見捨てたくないだけなのか。
「その“助けられる能力”っていうのは、私たち全員を危険に晒すこと?」
舞が言い返す。
「それは……」
氷宮も言葉を詰まらせた。
だが、その隙にSaliveが二人に気づき、咆哮しながら襲いかかった。
俺はただ呆然と見ていた。いつもと同じように。
助けたい気持ちはある。でも、その行為がもっと悪い結果を招くなら、それは善意なのか悪意なのか? 誰かを救いたいなら、他人に善意を向けるべきなのか? 俺には分からない。
そのとき、後ろから蹴られた。よろめきながら数歩前へ出る。体勢が整う頃には、俺の足は止まらず、むしろ加速していた。
背後から蹴ったのは蓮だと分かっている。これは蓮の指示なのか、それとも俺自身の意思で、蓮は背中を押しただけなのか。判断はつかない。
俺は舞と氷宮が反応する前に二人をすり抜け、女性たちへ向かって走った。
「おい!」
「やせき!」
氷宮と舞の声が背後から聞こえたが、無視した。
「どけ!」
右から迫るSaliveを一刀で斬り払い、左手で二人を抱え上げて肩に担ぐ。同時に右足の回し蹴りで左側のSaliveを薙ぎ払う。
その動きでちょうど体が反転し、権能を足に集中させて氷宮たちの方へ駆け出した。
周囲は二階位以下のSaliveばかりだが、数が多い。左手が塞がれている以上、包囲を突破するのは現実的じゃない。
だが——
「失せろ!」
疾風が俺の周囲のSaliveを吹き飛ばす。同時に背中に強烈な衝撃を受け、体が氷宮たちの方へと弾き飛ばされた。その直後、背後に氷壁が形成され、追撃を阻む。
氷宮と舞は俺の独断には不満そうだったが、それでも危機に陥れば手を差し伸べてくれる。
「やせき!」
舞が吹き飛ばされた俺を受け止める。だが肩に担いでいた二人は手が緩み、そのまま前方へ落ちていった。幸い、花が間一髪で受け止めてくれた。
俺は舞の腕の中で、徐々に衝撃から意識を取り戻す。
背後の氷壁にはすでに亀裂が入り、Saliveの衝撃で崩れそうだ。さらに周囲からも引き寄せられたSaliveが迫ってくる。おまけに一般人二人を連れていれば、行動は大きく制限される。
「ありがとうございます、本当に……」
若い女性は何度も礼を言うが、誰も応じる余裕はなかった。
「花、老婆を。こちらの女性は私が。前進を続ける。」
それでも氷宮は冷静だった。
隊列は止まらず、元のルートを進み続ける。だが足取りは明らかに遅くなっていた。
特に、中央で援護する花はともかく、前方で道を切り開く氷宮は動きが制限され、すでにいくつか傷を負っている。
「その……この女性は俺が運びます。」
進みながら、俺は氷宮に申し出た。
蓮の影響があったにせよ、救出を決めたのは俺だ。何が正しいかは分からない。でも、少なくとも自分の行動の責任は負うべきだと思った。
「だめ。」
氷宮は即答する。
「レイアはまだ弱い。それじゃ二人とも危険になる。」
「それに……あなたが行かなくても、私が行ってた。自分を責める必要はないわ。あなたは正しいことをした。」
気のせいかもしれないが、その最後の言葉のとき、氷宮の口元にわずかな笑みが浮かんだ気がした。




