0 物語の旅立ち
これは私の物語の始まりであり、すべての旅立ちでもある。
人類が初めてこの世界に触れたとき、どんな感覚だったのだろうか。きっと今の私と同じなのかもしれない。
眩い陽光が、意識を覆っていた闇を引き裂き、強引にそれをこの壊れた世界へと引きずり出した。
頬を撫でる微風、背中に感じる硬い大地。それらは今の私にとって、ただ感じ取ることしかできない、けれどまだ認識すらできない存在だった。
「俺は……誰だ?」
今の私は、その疑問すら持っていなかった。ただ目覚めている状態を保っているだけだった。
そのまま、ただじっとしていた。どれくらいの時間が過ぎたのかも分からない。
どんな行動にも動機が必要だ。けれど、私にはそんな理由が存在しなかった。
また、どれほどの時間が流れたのかも分からない。
「ウゥ……グゥ……」
何かの生き物が発するような低い唸り声が、徐々にこちらへ近づいてくる。
本能が危険を察知する。けれど、それは私にその危険から逃れる動機を与えてはくれなかった。
「ウゥッ!」
唸り声はさらに鮮明になり、私はその生き物の鼻息が自分の髪にかかるのさえ感じ取れた。
どうでもいい。
生きたいという欲望も、死を恐れる感情もない。ただ静かに、これから訪れるすべてを受け入れているだけだ。
「ドンッ!」
何かがぶつかるような音が響き、私に迫っていた唸り声は消え去った。代わりに、魂を貫くような声が耳に届く。
「あなた……まだ生きてるの?」
軽やかな足音がゆっくりと近づいてくる。
胸の奥に、得体の知れない感覚が湧き上がる。
さきほど危険を感じて激しく鼓動していた心臓が、さらに強く打ち始める。
その足音の正体も、さっきの存在と同じく不明なはずなのに。
それなのに身体は、理屈抜きで反応していた。
何か分からない衝動が、私に最初の動作を促す。
力を振り絞って顔を上げ、目を開く。
初めてこの幻想の世界を、そして目の前の“彼女”を、この目で捉えた。
果てなき黄土の大地を蒼穹が覆い、微塵を含んだ風が、目の前の彼女の白いショートヘアを巻き上げる。舞い上がる髪は、その精巧な顔立ちに寄り添う伴奏のように揺れ、今この瞬間、彼女こそがこの世界の主役だと告げているかのようだった。
陽光が彼女の身体を照らし、そこに一枚の完璧な絵画を描き出す。
それは私の目を通して胸の奥へと届き、理解不能な鼓動をもたらした。
まるで人形のように整った存在が、今、私の前に立っている。
地に伏す私を、見下ろすように観察していた。
鼓動はさらに速くなる。
理解できない震えが乱暴に皮膚を這い、血液を巡り、内臓の一つひとつにまで広がっていく。
「……う」
返事をしようとした瞬間、喉を締めつけられたかのように声が出ない。
そして意識は、再び闇の中へと沈んでいった。




