第1話 最終上映は、私の黒歴史
《あなたの初恋は、二十日後の最終上映で一般公開されます》
人生には、見なかったことにした方がいい通知がある。
母からの《牛乳買ってきて》とか、テスト前日に届く《明日の範囲、三章も入るって》とか。
そして今、私――北条陽葵のスマホに表示された、これだ。
「……詐欺」
月曜六限、終了三分前。先生の声が遠くなる。
通知には、星空を模した青いロゴがついていた。見覚えがあるような、ないような。指で払って消そうとすると、画面いっぱいに次の一文が開く。
《十年前にお預かりした〈星屑郵便〉を、セレスティア星見ドームにて上映します》
星屑郵便。
その名前だけは覚えている。
六歳のころ、古いプラネタリウムで未来の誰かへ手紙と声を残す、子ども向けの催しがあった。青い封筒。星形のカード。録音ブースで、私はたぶん、ものすごく大切なことをしゃべった。
肝心の内容は、きれいに忘れた。
忘れたままでよかった。人間は、必要だから忘れるのだ。黒歴史を十年間も鮮度よく保存する主催者の方がおかしい。
《上映タイトル:北条陽葵――届かなかった初恋》
初恋。
椅子が鳴った。
「北条、まだ終礼前だぞ」
「先生、私の人生が先に終わりそうなので早退します!」
「待て、どんな理由だ!」
終業のチャイムより先に教室を飛び出した。
◇
星見市の駅前から坂を上がり、住宅街を抜けた丘の上に、セレスティア星見ドームはある。
息を切らしてたどり着くと、銀色の丸屋根は西日の中でくすんでいた。入口のガラス扉には《閉館まであと二十日》の紙。さらにその下には《本日休館》。
「休んでる場合じゃないでしょ!」
「施設にも都合はある」
背後から聞き慣れた声がして、飛び上がった。
振り向くと、伊藤碧が通用口の脇に立っていた。黒い髪に、白いシャツ。左の袖口を直しながら、私の顔ではなく肩の上下を見ている。
同じクラスの、幼なじみ。
ついでに言えば、私が現在進行形で好きな人。
子どものころに仲がよかったから、ではない。町へ戻ってきた私が教室で名前を忘れられていたとき、碧だけが何も特別扱いせず、昨日も会ったみたいに「窓側、まぶしいから席を替わる?」と聞いた。そういう、小さすぎて本人は覚えていないことを、私はいくつも覚えている。
本人には、一つも言えていない。
こんな顔で会う予定ではなかった。額は汗だく、前髪は壊滅、呼吸音は故障した掃除機である。
「走った?」
「走ってない。校舎が後ろへ下がった」
「大規模だね」
碧は驚きもせず、私の前へ水のボトルを差し出した。
「飲んで。嘘に物理法則を使うのは、そのあとでいい」
「……碧くんは、なんでここに」
「父さんがここの技師だから。片付けを手伝ってる」
そういえば聞いたことがあった。けれど今、その情報は優先順位が低い。
「私の初恋が上映される」
水を一口飲んで、私は言った。
碧が一度だけ瞬きをする。
「通知、来たんだ」
「知ってたの!?」
「星屑郵便が上映されることは。北条のがあるとは知らなかった」
「じゃあ今知った分を忘れて」
「努力はする」
「成功率は?」
「北条が大声で初恋って言ったから、下がった」
好きな人の前で、自分の初恋上映を自分から発表した。
開始三分で致命傷である。
私は空のボトルを握りしめた。
「消す。今すぐ。手紙も、録音も、今の会話も」
「最後のは俺の記憶だから難しい」
「じゃあ最初の二つ!」
碧は少し迷ってから、通用口のカードキーをかざした。
「中に担当者がいる。話は聞けると思う」
「碧くん」
「なに」
「今日だけ、ものすごく頼りになる」
「今日だけなんだ」
声がいつもと同じ平らさだったので、傷ついたのかどうか判断できない。判断できないまま扉が開き、冷えた空気が流れてきた。
館内は、閉館準備の途中だった。
外された星座パネルが壁に立てかけられ、売店には白い布がかかっている。古い絨毯と機械油の匂い。私たちの足音だけが、丸い天井の向こうまでついてくる。
ドーム入口の前に、スーツ姿の男がいた。
「北条陽葵さんですね。お待ちしていました」
碧に少し似た目元の人だった。二十代半ばくらい。青いフレームの眼鏡を押し上げ、胸元の名札を見せる。
TomorrowWorks 企画責任者 真壁。
下の名前は、ストラップの裏へ隠れていた。
「待たなくていいです。上映もしなくていいです。私の手紙を返してください」
「話が早くて助かります。ただ、返却前に本人確認と動作試験が必要です」
「本人です。動いてます。以上」
「そういう意味ではなくて」
真壁さんは笑った。こちらの焦りまで企画の一部として楽しんでいるみたいな笑い方だった。
「十年前の星屑郵便は、当時の音声や筆跡から、送り主が思い描いた未来を短い映像にします。システム名は〈ORBIT〉。ちょうど今、あなたのカードを――」
ドームの奥で、低い起動音がした。
「装填したところです」
「話、遅い!」
私は二人の間をすり抜け、ドームへ飛び込んだ。
百席ほどの客席は空だった。
中央の試写台に、青白い光が集まっている。浮かび上がったのは、手のひらより少し小さい星形のカード。縁に、黄色い傷があった。
胸元の星形チャームが、急に重くなる。
カードが一度、脈打った。
『あおとくんへ』
幼い女の子の声が、全天から降ってきた。
私の声だ。
碧の左手が、袖口をつかんだ。ほんの一瞬だったけれど、いつもの無表情に細いひびが入る。彼もこの声を知っているのか。それとも、「あおと」という名前に反応したのか。
聞きたい。けれど、その前に六歳の私を黙らせたい。
六歳の私が、今の私を社会的に抹殺しに来た。
「待って。あおと?」
隣へ追いついた碧を見る。
「碧くん、昔は『あおと』くんだったりする?」
「今日は碧」
「明日は?」
「明日も碧」
「役に立たないのに、ちょっとかわいい返事しないで!」
「かわいい?」
「そこだけ拾わないで!」
返事の代わりに星が降った。
天井いっぱいの夜空が、青紫の薄明へ変わる。そこに制服姿の少女が現れた。髪は私より少し長い。でも黄色いヘアピンも、焦ると前髪を触る癖も、どう見ても私だった。
映像の私は、顔の見えない少年を追いかけている。
『ねえ、あおとくん。およめさんの続き、覚えてる?』
「知らない! 私はそんな続編を制作してない!」
少年が振り向く。
星明かりが輪郭をなぞり、頬、唇、伏せた目が少しずつ形になる。
映像の私は、その顔へ近づいて――。
「停止」
鋭い声と同時に、夜空が真横から切れた。
完全な暗闇。
キスの二センチ前である。
非常灯がつく。制御卓の前に、見知らぬ女の子が立っていた。
同じ学校の制服。腰まである黒髪。左手には赤いペン、右手は非常停止ボタンの上。整った笑顔なのに、目だけは笑っていない。
「原本所有者の確認前です。続きを流すのは手順違反でしょう、真壁さん」
「高瀬さん。君の担当は明日からだったはずだけど」
「違反は開始日を待ってくれません」
女の子――高瀬澪は、真壁さんではなく私を見た。
「助けてくれたの?」
「手順を助けただけです。あなた個人への好意は、今のところありません」
「そ、そう」
「むしろ先に、利害関係を明確にしておきます」
澪は赤いペンを閉じた。ぱちん、と小さな音がドームに響く。
「私も碧くんが好きです」
今、別方向から非常停止ボタンを押された気がした。
「……誰が?」
「私が」
「誰を?」
「碧くんを」
「どの碧くん?」
「本日も明日も碧くんである、そちらの伊藤碧くんです」
碧が私と澪を順に見た。
「俺、今いない方がいい?」
「いて」
「聞いて」
私と澪の声が重なった。
初対面なのに息が合ったのが、ものすごく腹立たしい。
「あなたの録音が勝手に答えるより先に、私は自分の声で言っておきたかったんです」
澪は私に一歩近づく。
「過去の約束が何であっても、私は現在の碧くんが好き。だから、遠慮はしません」
きれいで、正しくて、真正面からの宣戦布告だった。
制服の襟はきちんとそろい、長い髪には走ってきた乱れが一つもない。私がここまで落としてきた呼吸も余裕も、全部最初から持っているように見える。
この子の方が、碧の隣に似合うかもしれない。
考えたくないのに、考えてしまった。知らない過去の私だけじゃない。今の私まで、目の前の誰かと比べられる。その二つを、あの大きなスクリーンが勝手に答えにしてしまうのが、たまらなく怖かった。
心臓が縮む。
でも、逃げたらたぶん、今夜から一生、高瀬澪の言葉を思い出す。
「恋敵は消さない」
私は言った。
「勝つ相手がいなくなるから」
「いい返事です。八十点」
「なんで採点されるの」
「残り二十点は、勝ってからどうぞ」
「二人とも」
碧が口を挟んだ。
「俺を景品みたいに置かないで」
私と澪は同時に彼を見た。
「置かれてる自覚はあるんだ」
「あるんですね」
また重なった。
碧は少しだけ眉を寄せた。
「二人が同じこと言うと、俺が間違ってるみたいに聞こえる」
「そこは聞こえ方じゃなくて事実」
「初回なので減点はしません」
「高瀬さん、その採点表あとで見せて」
「碧くんには閲覧権限がありません」
「俺の話なのに」
真壁さんの笑い声が、客席の後ろからした。
「期待以上だ。最終上映の中心にする理由ができた」
私は一瞬で笑うのをやめた。
「しません」
「二十日後、このドームは閉館します。あなたのカードは最終上映のプログラムに入っている。止めたいなら、それまでに原本へアクセスして、正式な手続きを終えないといけない」
「だったら今、原本を渡してください」
試写台へ駆け寄り、星形のカードへ手を伸ばす。
碧の手も、同時に伸びた。
指先が触れる、その直前。
赤いペンが、私たちの間へすっと差し込まれた。
「私情での接触は禁止にします」
「今のはカードを取ろうとしただけ!」
「では、調査目的の接触として記録します」
「記録しないで!」
私は勢いのままカードをつかんだ。
冷たい。
次の瞬間、カードが白く発光し、私の手を押し返した。
《認証者が不足しています》
機械音声が告げる。
「私、本人!」
《単独での原本開封はできません》
「本人なのに!?」
澪が制御卓を確認し、初めて笑顔を消した。
「真壁さん。このカード、三名認証へ変更されています」
「事故後の安全措置だよ。単独で開けないよう、関係者を分けた」
「その三人って」
嫌な予感がして、私は碧と澪を見た。
好きな人。
恋敵。
そして、キス寸前の黒歴史。
こんな三点セットを考えた人は、ラブコメに恨みがある。
けれど、本当に嫌なのは、恥ずかしい映像を見られることだけじゃない。
私自身も覚えていない手紙を見て、碧が「陽葵の初恋は別の人だった」と決めること。澪が「なら、今の恋も自分の方が本物だ」と決めること。知らない観客が、九十秒の映像に私の十年分の気持ちを押し込めること。
そんなのは嫌だ。
過去の私に負けるのも、澪に負けるのも怖い。でも、何も言わないまま、誰かの作った結末にされる方がもっと怖い。
「私は自分の手紙を消します」
カードへ向き直り、一語ずつ言った。
「そのために必要なら、ここで働く。碧くんにも、高瀬さんにも、映像にも、私の初恋の意味を勝手に決めさせない」
「澪でいいです。二十日だけの敵に毎回『高瀬さん』は長いので」
「じゃあ私も陽葵で」
「まだ許可してません」
「不公平!」
「恋愛に公平を求めるなら、まず利用規約を作りましょう」
「作る気なんだ……」
碧が小さく息を吐いた。笑ったようにも見えた。
「北条が残るなら、俺も手伝う」
「どうして?」
「走ってくる音、館内まで聞こえたから」
「それ理由になってる?」
「放っておくと、次は壁を突き破りそう」
「心配の方向がおかしい!」
そのとき、試写台の光が三方向へ伸びた。
一本は私へ。
一本は碧へ。
最後の一本は、澪へ。
暗いドームの床に三角形が描かれ、機械音声が、逃げ道を丁寧に塞いでいく。
《星屑郵便・返却班を登録します》
《北条陽葵》
《伊藤碧》
《高瀬澪》
《原本は、登録者三名が揃うまで開封できません》
沈黙は、一秒だった。
「この人選をやり直して!」
「この人選をやり直してください!」
私と澪の声が、満天の星より先にドームいっぱいへ響いた。




