大水の神亀(おおみずのじんき) その3
また数日後、今度は高麗(朝鮮)の歴史に詳しい同僚から話を聞いた若殿が
「亀石は『大化3年(647年)新羅の金春秋王子(武烈王、新羅の第29代の王)が外交使節として来朝するにあたっての歓待用に、新羅渡来系石工に造らせ、周囲で舞楽をした』という説があるらしい。当時の高麗は新羅、百済、加羅、高句麗の時代だな。『この時代の新羅は、唐からの遠征を撃退したことで勢いに乗る高句麗と、伽耶地方を80年ぶりに新羅から奪回した百済からの圧迫により疲弊していた。窮した新羅は隣国の支援を求めて、王族の金春秋を高句麗、日本に派遣したが、どちらも成果を挙げることはできなかった。 対日本の場合、大化2年(646年)に日本から遣新羅使として高向玄理が派遣され、新羅から任那への調を廃止させ、新羅から日本に人質を差し出させることとなり、翌大化3年(647年)に高向は春秋を伴って帰国し、春秋は人質という身分で暫く日本に留まった。翌648年、今度は唐に派遣された金春秋は、対高句麗で思惑の一致する太宗の厚遇を受けた。「特進」(正二品)の地位を与えられ、支援を得ることに成功した(唐・新羅の同盟)。』らしい。」
う~~ん、つまり、金春秋王子は高句麗と百済から攻められて危ない新羅を立て直すため、人質として日本にきたが何の成果もなく帰ると今度は唐に派遣されて太宗とは同盟を結んだというワケね。
「その後新羅はどうなったんですか?唐と同盟は『勝ち筋』ですよね!」
「唐と一緒に高句麗を滅ぼしたその後、新羅は朝鮮半島唯一の国家だったらしいから、金春秋王子は重要人物のようだ。」
加羅という日本の出先機関も百済も滅ぼして朝鮮半島は新羅だけになったのかぁ。じゃあ金春秋王子の活躍は新羅ではほめたたえられてるだろうなぁ~~~英雄だなぁ~~~。
「そんな重要人物なら歓迎するためにわざわざ新羅渡来系石工に彫刻させ舞楽を見せたとしてもおかしくないということですかぁ。でも雑な作りのものを見せられてもうれしくはないですよねぇ。その説もちょっと違う気がします。作られた時期はあってるのかもしれませんけどねぇ。それにそのころ春秋王子は人質扱いでしょ?日本は新羅に協力しなかったんだし冷遇したんじゃないでしょうか?」
若殿が思案顔で
「そうだな、そのせいで『何か』が起こったのかもしれないな。」
新羅の春秋王子を冷遇することで何かが起こったの?一体何が?
私が
「一体何が起こったんですか?その当時?何か思いついたんですか?」
と若殿に聞くと、考え込みながら
「いや、実は、大和国明日香村の飛鳥板蓋宮から摂津国難波の難波長柄豊碕宮への遷都が企画されたのが同じく大化3年(647年)ごろなんだ。」
金春秋王子と遷都が何の関係があるの?とチンプンカンプン。
若殿がニヤリと笑って
「全てを説明できる面白い仮説を思いついた。ただしこれを確かめるためには『ある場所』に『あるもの』が存在するかどうかを確認しなけらばならない。大和国へ出かける用事のある人に頼むか、自分で出かけるかだが・・・。」
「ハイッ!私もついて行きたいですっ!猿石と亀石を是非見たいですっ!!」
と元気よく名乗りを上げるが、若殿は
「そんなに長い間何の理由もなく旅に出るわけにはいかんし、誰かについでを頼むとしよう。」
チェッ!船旅なら楽ちんだし昔の大王バリに身軽にどこにでも行けばいいのに!忙しいフリするのは重要人物ぶって『オレってみんなから引っ張りだこで忙しいんだよね~~』と言いふらしたい自己陶酔型の人だけですよぉ~~!とぶーたれた。
気になって仕方がないのでぶーと頬をふくらませながら
「じゃあその仮説と確認方法だけでも教えてください!」
若殿はニッコリと頷いて話し始めた。
(その4へつづく)