大水の神亀(おおみずのじんき) その2
若殿はそれでも興味を示した顔で話題を広げるべく薬売りに向かって
「明日香村と言えば古代の中央集権律令国家が誕生した場所だな。推古天皇の小墾田宮(593年)から持統天皇の藤原京(694年)までの間である飛鳥王朝時代、皇居や都がおかれていた政治の中心地だ。それ以前から難波宮に副都をおいたり、政治の中心である宮殿を置く場所は難波や近江や長岡など他国と大和国との間で行ったり来たりを繰り返している。はて・・・なぜだろう?」
と急に何かを考え始めたのか黙り込む。
大和と他国を行ったり来たりした理由?そんなの決まってるじゃないか!
私は得意げに
「それは川を使って船で移動しやすいからですよ!近江までは木津川を下れば桂川・宇治川と合流するし、河内国から大和国までは大和川を船でさかのぼるだけで移動できます。古代の都は大和川をさかのぼった上流の川の周辺にあるんじゃないですか?」
とエヘンと威張ると、若殿も感心したように頷き
「そうだな!もっともだ!お前も時々気の利いたことを言うな。」
『時々』は余計だよね~~~。そういうところに性格の悪さが出るんだよ。
若殿が続けて
「いや、だから、そもそもなぜ移動する必要があるのか?と考えてるんだ。都を移動させるとなると臣下やその家族も移動させなければならないし、身の回りのものや武器や宝物の運搬もあるし色々大変だ。そんなことを繰り返す利点は何かあるのか?大陸の国と戦争をするのに舟をすぐに出せる難波が便利ということは一つの理由としてあるだろうが・・・」
と若殿が再び黙って考え始める。
まぁわかんないけど時の大王がジッとしてられない性分とかじゃないの?と思いつつ薬売りを見るとすっかり議論に飽きたのか自分の薬草の入った巾着を点検している。
そこへ大奥様が到着したので若殿と私は退散した。
その後、大和国に詳しい同僚の話を聞いた若殿が
「野中寺という蘇我馬子が聖徳太子の命を受けて開基した寺の塔舎利(舎利を安置するために作られた室内に置く小塔)心礎(塔の心柱の礎石)に亀石と同様の浮彫加工がされていたので亀石もその時期(550年~626年)に作られたんだろうと。そして近くの陵(天皇・皇后・皇太后・太皇太后を葬る所)にある四体の『猿石』とよばれる石の彫像も百済益山の弥勒寺にある石人像と類似し百済工人の技術が使用されていることから、同時期に作られたものなので亀石も同じ作者の百済工人が作りかけて捨てたのかもと言っていた。」
猿石も亀石も明日香の地にあるから単純には飛鳥王朝時代に作られたと考えておかしくないのはわかるが、猿石が百済工人が作ったからといって亀石も同じだとはいえないよね、と一応心の中で指摘しておく。
「猿石ってどんなものですか?」
「ちょっと変わった石造で、同僚曰く、顔が大きすぎ、手足が短いなど体の比率がおかしいし、耳や手足などの末端が大きすぎたり、背面にも顔がある二面石だったり、性器が露に彫られていたり、背面に肋骨が彫られていたりとあきらかに仏像ではなく異形のモノを彫刻した石像だそうな。」
作者は面白いだろうと思って人間の特徴を変形させて強調?しただけかもしれないし、それだけで異形のモノを彫刻したと決めつけるのもいかがなものかだけど、当時の百済ではそういう超自然の不思議なものを彫刻するのが流行ってたのかしら?どんなの!日本でいう地獄絵図の彫刻版?一度この目で見てみたい!とウズウズした。
「その異形の様子から仏教伝来以前の土着信仰の対象物、つまり神像だという説もあるらしい。」
やっぱりっ!何?妖怪?鬼?精霊?普通の人には見えないけど、陰陽師みたいな能力者は見えるヤツ?とテンションが上がって
「猿石見たいですっ!異形のモノを形に表してくれてるなんて凄いですねっ!神像って八百万の神ですか?自然にいる神様ってことですか?ホント能力者って羨ましいですねぇ~~不思議なものをいっぱい見ることができてぇ。じゃあ亀石も信仰の対象で、亀の神様を祀ったものなんでしょうかねぇ。それにしてはぞんざいに置いてあるんでしょう?作りも雑だし出来も悪いと薬売りが言ってましたしねぇ。」
若殿はまた考えこみ
「もうちょっと他の説も聞いてからでないと判断できないな」
(その3へつづく)