第九章 遠征
翌朝、愛子は最悪の気分で目を覚ました。
ベッドから体を起こすと、フォトフレームの中にいる姉が目に入った。
この写真は、姉が高校の入学式へ行く時――今の自分と同じ――十六の時に撮ったものだ。今の自分と、驚くほどよく似ている。ただし、同じ翡翠の瞳を持っていても、亜麻色の髪をしていても、ほっぺたにちょっぴりそばかすがあるだけで、自分なんかより何倍も可愛らしく見える。実際、姉の方が綺麗なのだ。肌艶もよくて、体型もモデルのようにスラリとしていて、笑顔がとびきり魅力的だ。愛子のツーサイドアップも、写真の中の姉を真似て始めたものだ。
『だいじょーぶ、お姉ちゃんがいるから、愛子は何も心配しなくていいんだよ』
まだ三つ編みだったころの姉が、頭を撫でてくれる。愛子の心があったまるまで、ずっと頭を撫でてくれる。
「ウソつき」
私を残して死んだくせに。
それだけに飽き足らず、とんでもない不幸と、耐えきれぬ責任を押し付けてくるなんて。
愛子がどれだけ口汚く罵っても、写真の中の姉は笑っていた。
家の中はひっそりとしていた。祝日であるためか、外からも音は聞こえない。チチチ、と鳥が鳴いているくらいだ。
リビングに降りてみたが、人の気配がしない。
「……バルト?」
少し心細くなりながら、愛子はリビングの戸を開いた。頭だけ突っ込んでみたが、やはり誰もいない。そぅっと足を踏み入れてみると、テーブルの上に何かが置いてあるのがわかった。
近づいてみると、それはラップに包まれた朝食と、ピンクのリュックサックだった。朝食の上にはメモ書きも置いてあった。
いってらっしゃいませ
丁寧な字で、それだけ書いてあった。
広大な田んぼ、大きなため池、寺を中心とした小粒な家々、時たま、思い出したようににょきりと生えている針葉樹……のどかな田園風景が、時速300キロで後方へ吹っ飛んでいく。そうかと思えばまたトンネルだ。景色の半分以上は、トンネルの壁か防音壁の残像で終わっている。
金曜日、朝七時、愛子は桜の名がついた高速鉄道に乗っていた。今日はサッカー部の遠征の日だ。この恒例行事は今年で八回目だそうだ。なんでも、顧問が長崎の名門校とコネを持っているのが事の発端らしい。
愛子たちの学校だけで二車両を独占しているのだが、部員が多すぎて中々にやかましい。エネルギーのあり余った若者たちにとって、一時間だけでも静かにしていなさい、というのは無理な相談なのだろう。座席を向かい合わせにしてトランプをしたり、スマホで写真を取り合っている。お察しの通り魁は一番人気で、後ろの車両は魁を目当てにした女子マネで溢れかえっている。
今日ばかりは先輩争奪杯に参加する気になれず、愛子は前の方の車両、それも一番前の席に一人で座っていた。こちらは比較的静かなのだ。顧問と引率の教員が静かに座っているか、後ろの車両からあぶれてしまった男子部員が集まって、流行りのゲームや漫画の話をしているか、先輩争奪杯からうまく抜け出し、少々レベルを落としてでもそれなりのイケメンを捕まえた女子マネが、相手が女に免疫のないのをいいことに、こっそりいちゃついているか、それくらいだ。
愛子はため息をついて、小さな窓におでこをぶつけた。ごん、という音が頭の中だけに響いた。色んなことが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返していた。
悪魔の姿を思い出すと、姉の最後の瞬間を嫌でも考えてしまう。あんな恐ろしい生き物に命を奪われるなんて、想像を絶する恐怖ではなかろうか。あの槍、あの剣、あのかぎ爪……どれほどの痛みと、どれほどの苦しみが、優しい姉を襲ったのだろう。ぞっとする。姉は最後、どんな気持ちで人生の終わりを受け入れたのだろう?いや、そもそも、受け入れる暇などあったのだろうか?皮膚をはがされ、肉を焼かれ、骨を砕かれたのだとしたら?自分が刺されたわけでもないのに、胸がキリキリと痛む。そして、強くて、かっこよくて、自分の執事だと言い張って、どんな怪我でも瞬時に治るのに、あきれるほど大食らいで、十年ぶりに自分に寄り添ってくれた、あの人――バルトが最後に見せた表情が、脳裏に焼き付いて離れない。
違う。
あいつは私をだましたんだ。
愛子は自分に言い聞かせた。
違う。
でも守ってくれた。
悪魔の姿を思い浮かべると、感謝の念が沸き上がってきた。
違う。
あんなもの、ただの潤滑油だ。悪魔と戦って、調子が悪かったんだ。だから二度も漏れたんだ。それだけだ。
そうだ。
「あーいこ」
もはや懐かしさすら感じる声だった。それだけ、愛子にとって、悪魔との邂逅とその後のごたごたは激動の体験だった。
「カナメ……」
愛子は窓から額を引きはがし、泥沼よりもっとひどい感情から意識を引きはがした。
「どったの、こんなとこふわって。プリッツ食べう?」
汐崎嬢はプリッツを口に咥えたままむぐむぐと言った。なぜだか全く興味がわかなくて、愛子は無言で汐崎嬢を見上げた。
「うわっ……ちょっ、どしたの、その顔……」
目があったとたん、汐崎嬢はゲッと叫んだ。その口から、食べかけのプリッツが床に落ちた。
「あーもう、せっかく髪、綺麗にしてたのに」
汐崎嬢はすかさず隣の席に滑り込んできて、ボサボサで艶も無くなった愛子の髪を、必死にとかし始めた。彼女のほっそりとした指が、亜麻色の中に差し込まれた。いつものツーサイドアップを作っていないことまで、ついでにバレてしまった。
「バルチぃは?クシ入れてくんなかったの?」
汐崎嬢の言葉を、愛子は正面から受け止めることができなかった。代わりに目をそらして、座席の前についているコンセントの差込口を見つめた。
愛子が何も言わなかったので、汐崎嬢は何かを感じ取ったようだった。もっとも、一般人である彼女が察することのできる範囲は、ごく限られた事象に限るのだが。
「あー、わかった。愛子、バルチぃとケンカしたんでしょ」
汐崎嬢の声はとても優しかったが、愛子の慰めにはならなかった。
「もー、ダメだよ?あんないい男、日本中探したって滅多にいないんだから」
違う!と叫んでしまいたかった。しかし、悪魔や神官の話をしたところで、信じてもらえないのは目に見えていた。
汐崎嬢は荷物棚に入っている愛子のリュックを引っ張り出し、中をあさり始めた。リュックを開けたところで、息を飲んで固まっているのが見えたが、愛子は気付かないふりをした。
出発前、愛子も一度中身を確認し、驚いたのだ。リュックの中はきちんと整理整頓されており、着替えや身の回り品、髪留めのシュシュに至るまで、一番取りやすい順番で入れてあったのだ。バルトは、愛子が遠征の準備もせずに寝てしまったことを、きちんと見ていたのだ。
汐崎嬢はシュシュと折り畳み式のクシだけを取り出すと、何も言わずにリュックを元に戻した。
「ほら、できた!」
「あ、ありがと……」
数分後、愛子は窓に写る汐崎嬢にぶつぶつとお礼を言った。汐崎嬢がツーサイドアップを作ってくれたのだ。今は彼女に背を向けて、髪をすいてもらっている。バルトにやってもらった方が気持ちよかったとは、口が裂けても言えなかった。
「はあ、もう……えー、そんな愛子に、うん、愛子が会いたいだろうなぁ、と思う人を、連れてきました!」
窓越しに、通路に向かって振り返る汐崎嬢が見えた。
「いいよー!こっちー!」
彼女が誰を呼んでくれたのか、愛子は考えもしなかった。考えるより早く、体が動いたのだ。
「えっ……バルっ――」
なぜその人の名前が口から出てくるのか、自分でもわからなかった。しかし、確かに一瞬、彼女の心は晴れ間に包まれたのだ。
その分、失望も大きかった。
「ふん!申し訳ありませんわね。どうせ私は、バルト様ではありませんわよ」
つっけんどんな物言いで現れたのは、金髪まぶしい富田嬢だった。腕を組み、カールさせた毛先をくるくるといじっている。
「もー。とみーいじけないの」
汐崎嬢が立ち上がり、富田嬢の背中を押す。
自分の隣にやってきた富田嬢を、愛子は見上げる。
「富田さん……」
「とみーはね、愛子に謝りに来たんだよ。ほら、昨日のこと」
両手で富田嬢の肩を掴んだまま、汐崎嬢がひょい、と顔を出す。とたんに、富田嬢の顔が真っ赤に染まる。
「そそそ、そういうわけではありませんわ!私はただ、あのままでは夢見さんがひどく落ち込んでしまうのではないかと思って――そう!慰めて差し上げようと思っただけですわ!おほほほほほほほほ!」
「とみー?」
汐崎嬢の握力が瞬で五倍になったようだ。富田嬢の肩に食い込み、制服がミシミシと悲鳴を上げた。
「ぐっ……………………!夢見さん」
「は、はい……」
「先日は、その……大変失礼いたしましたわ」
富田嬢は観念したようだった。ただ、毛先をいじる指が、ミキサーのように高速回転を始めていた。
「わ、わたくしはその、人より少々、見栄っ張りなところがありまして……自分でも直さなくてはいけないとわかっているのですが……いえ、今後とも、努力はいたしますわ。それよりも愛子さん?その、明日、みなさんでハウステンボスに行きますでしょう?夢見さんさえよければ、その、わたくしも、一緒に……」
一緒に、の後が何だったのか、愛子には聞こえなかった。富田嬢の声が、つまみを絞られるスピーカーのごとく、どんどん小さくなっていたせいだ。
無論、彼女が何を言おうとしたのかは容易に推測できるところだが、汐崎嬢がそれを許すはずもない。彼女は富田嬢の頬を突っついた。
「えー、とみー、そこでごにょっちゃうの」
「んなな!何をおっしゃいますの!私ともあろう者が、そんな誤魔化すようなこと――」
「あはは……んーん、いいの、富田さん、ありがとう。私もあの時は、ちょっと調子に乗ってたってゆーか……」
普段の自分なら、もっと明るく笑ったはずだ。
自分がこんなに悲観する人間だったとは思わなかった。愛子は二人の目を見て話すことができなくなり、窓の外へと視線を逃がした。
「夢を、見てたんだよ」
車窓から見える景色と同じだ。その夢は、あっという間に過ぎ去ってしまった。
「ずっと一人ぼっちだった人生に、ちょっとだけ光がさして……とっても明るくて、楽しくて……幸せになった夢を」
十年前のあの日から、愛子はそれだけを望んでいるのに。
大人はみんな、耳障りのいいことだけを言って、そして消えていく。
窓に映る二人の顔を、愛子は努めて見ないようにしていた。
「ちょっといいかな」
突然、実直そうな声がこだまし、愛子の頭は急激に冴えた。思わぬ来客の登場で、辺りは緊張感に包まれた。二人の学友が背中から壁に激突したのを、愛子は見た。
「シ、シドウ様……!」
富田嬢の言う通り、やってきたのは獅童魁だった(どうでもいいが、富田嬢は青ざめていた)。
魁はワイルドな口元に笑みを浮かべ、大きな手でスポーツ刈りを撫でつけていた。
それを見たとたん、汐崎嬢が変な芝居に打って出た。
「はいはーい、私たちはあっちに行きましょーねー、とみい」
「は?何を言ってるんですの?わたくしは今、夢見さんと――」
「もう用事は終わったでしょおぉ?おほほほほほ……」
汐崎嬢は富田嬢の首根っこを掴み、ズルズルと引っ張って行った。
魁は若干引き気味で二人を見送っていた。
「隣、いいかな」
二人の姿が後ろの車両へ消えた後、魁が思い出したように言った。
「はっ……はい……」
なんと、魁は自分に会いに来たのだ。愛子は完全に不意を突かれ、条件反射的に答えてしまった。決まずくなって窓際まで逃げた。
「い、いいんですか?こんなとこに来て」
「え?」
愛子が話しかけたせいで、魁は座る途中で固まってしまった。その顔が本気で意外そうだったのが、ちょっぴり癪にさわった。
「だ、だってセンパイ、みんなの人気者だし」
「あぁ……慕ってくれるのは嬉しいけど、正直、ちょっと疲れちゃってさ。だから、一番落ち着く人のとこに来た」
なんだそんなことか、と前置きをして、魁はするりと腰掛けた。
愛子は察しがよかったので、ちょっと考えるだけですぐ答えにたどりついた。頭の中でボン!と爆発音が鳴った気がした。
「そ、それって、私!?ですか?」
「ほかに誰がいるんだよ」
「ふぇえ……はふぁ……」
「だって夢見だけじゃないか。俺の写真欲しがらないのは」
これが匂わせ系男子というやつだろうか、しょっぱい味が口いっぱいに広がり、愛子はさくらんぼ色の唇を尖らせた。
「なんなん……そんなこと……私だって、ホントは欲しいのに……」
「え?」
「なっ!なんでもないですっ!なんでも!」
「まあ、他にも、さ、夢見とはちょっと、話したいこともあったし」
またか匂わせ系男子め。嬉しさと怒りが同時にこみあげ、愛子はスカートの上で両手を握りしめた。
「この前はすまなかった。彼の機嫌を損ねてしまって」
存外に真面目な話が始まってしまい、愛子は面食らった。変な期待を抱いていた自分が恥ずかしくなり、慌てて取り繕った。
「あぅ、いえ、私こそ、すみませんでした。バルトを運んでくれたのに、お礼も言わずに」
「そんなこと気にしないでくれ。彼のおかげで、命が助かったんだ。家まで運ぶくらい、安いもんさ。俺が心配してるのは――あの後――君が、彼とその……喧嘩みたいなことに……なってなきゃいいなって……」
愛子は魁の優しさに感動した。バルトがあれだけ失礼な行いをしたというのに、それを咎めるどころか、逆にこちらの心配までしてくれるとは。
『獅童魁からは、よくない気配を感じるのです――』
何がよくない気配だ。こんなにいい人、世界中探したっていない。愛子の中で執事に対する不信が確信に変わり、魁に対する贖罪の思いが湧いた。
「そっ、そんな、センパイにそんな心配かけるなんて……謝るのは私の方です。ホント、ごめんなさい!」
「いや、やめてくれ、そんな。それで?大丈夫なのか?」
愛子はぎくりとした。こんなに答えにくいことがかつてあっただろうか。胸の前で両手を合わせ、人差し指を突っつき合った。
「あーいやぁ……大丈夫では、ない……って感じです……」
「げっ……まさか、それで彼は今日いないのか?」
魁は額に汗を光らせ、後ろを振り返った。
愛子の気まずさが加速する。声も体もどんどん小さくなっていく。
「はい……遠征にはついてくるなって、私、言っちゃって……」
「じゃあ……彼は律儀にその言いつけを守ってる、ってことか」
「たぶん……はい……」
「そうか、この遠征にはついてきてないのか……そうか……」
「え?」
魁はまるで、その事実を噛みしめるかのように繰り返した。口元に添えられた大きな手で、その表情は読み取れなかった。
「ん?いや、またこの前みたいなやつに襲われたら、心配じゃないか。それに、君と彼は仲がよさそうだったから、喧嘩したままなのは少し残念だ」
「むー……でも、バルトが悪いんですよ!急に、お世話になったセンパイにあんなひどいことして!しかも、センパイに『もう近づくな』って、意味わかんなくないですか?」
「あはは……うーん……なんでだろうな……あぁ、彼はそういえば、年上なんだっけ」
「はい……23って言ってました」
「ならきっと……あれじゃなかな、執事だし、ほら……保護者的なやつ。娘を心配する父親、みたいな」
魁は名探偵さながらの思案顔で行った後、ふっふ、と鼻を膨らませて笑った。
愛子はお腹の底をくすぐられたような気分になり、つられて笑った。つまるところ、気が抜けていたのだ。完全に。
「えへへ、なんですか?それ。それじゃあまるで、私がセンパイのこと、好き――」
愛子曰く、この時の自分を本気でひっぱたいてやりたいそうだ。
「――みたい、な……」
もしうまく誤魔化したいのなら、ここで右耳の裏をカリカリとかいたり、口をつぐむべきではなかった。それが余計に、冗談ではすまない空気感を作り出してしまうからだ。それ見ろ、魁が笑顔のまま固まっている。
「あー」
「あややいやうぇぇう、あぁ、すいませんなんでもありません!」
顔から火が出るほど恥ずかしかった。愛子は何度も両手でバッテンを作り、首を振り回した。途中で、自分の頬が熟れたリンゴのようになっているはずだと思いなおし、両手で頬を包み込んで隠した。
「えっ、あっ、夢見――」
「なんでもないんです!ホント!忘れてください!仮定の!例えばの話です!たらればの!」
愛子は自分の両手で自分の顔を捻った。鳴ってはいけない音が首筋を襲ったが、そんなことよりも、魁の視線から逃れる方が優先だった。だがしかし、間の悪いことに今はトンネルの中だ。窓の向こうが暗いせいで、自分も魁もバッチリ写ってしまっている。最終的に、愛子は両目をぎゅぅっとつむるしかなかった。
「そうなのか?」
「へっ――えっ――」
愛子は驚いて振り返った。魁が少し残念そうな顔をしていたので、重ねても一度驚いた。
「なあ夢見、今日の試合、見ててくれよ。まあ親善試合だけどさ」
魁はニカッと笑った。イタズラ少年のような、無垢な笑顔だった。
それに見とれていたせいで、愛子はこの後の流れ一切合切を堪能することができなかった。
「もしうちが勝って……俺が決勝点を決めたら――」
不意に、優しい重たさが落ちてきた。
「――しょぼくれた顔やめて、笑顔になってくれよな!」
それは額と頭頂部の間、一番気持ちのいいところで止まって、愛子の頭を左右に揺らした。ふへ、とだらしのない笑みが自分の口からこぼれ、ようやく愛子は、自分が撫でられていることに気付いた。
「じゃ、じゃあ、私も一つ!」
愛子はとっさに立ち上がった。惚けている間に、すでに魁は席を立ち、後方へ向けて歩き出していたのだ。
ここを逃せば、何も変わらない。そんな想いが彼女を動かした。
「もし私が笑顔になれたら……明日……一緒にまわって、くれますか?」
我ながら無茶苦茶なお願いだと思った。周りにいる生徒にも、間違いなく聞こえていた。
魁は当初、真っ黒な瞳をまん丸にしていた。通路の真ん中で立ち止まり、愛子の方をじっと見ていた。
トンネルとトンネルの合間――光が差し込んだわずかな瞬間――魁が親指を立てたのが見えた。直ぐにやってきた陰で半分隠れてしまったが、その顔は会心の笑みに包まれていた。
それから、愛子はずっと夢見がちだった。
新幹線を降りる時も、特急に乗り換える時も、他の選手と語り合っている魁を、遠くからじっと見つめていた。
相手の高校について、選手のためのスポーツドリンクや、教員のためのベンチを用意している時も、魁が知り合いと思しき相手選手と握手しているのを、じっと見つめていた。
まだ肌寒い三月だというのに、愛子はちっとも震えなかった。もちろん、ジャージの下にセーターを着こんでいたのもあるが、懸命にボールを追いかける魁を見ていると、胸の奥がじんじんとするのだ。
「「「きゃー!やったー!」」」」
「「「魁せんぱーい!」」」
「やった愛子!うちらが勝った!」
女子マネが歓喜の叫びをあげも、汐崎嬢に飛びつかれても、愛子は魁だけを見つめていた。
魁はチームメイトに頭や背中をバンバン叩かれていたが、最後にこっそりと、こちらに視線を送ってくれた。
愛子はまた、胸が高鳴るのを感じた。
「ふん、ふーふふん、ふん、ふふーん」
上機嫌で鼻歌を歌いながら、愛子は扉を開いた。
部屋に入るとまず、赤いじゅうたんが目に入る。すぐ右手にはバスルーム、左手には簡素なクローゼットがある。奥に進むと、大きな窓の傍に、ゆったりとした紺色のソファが二脚あり、小さな丸机を囲んでいる。あそこに座って外を眺めれば、運河を模した大きな水路を眺めることができるだろう。
他に部屋にあるものはというと、カウンターのような細長い机と、その上の鏡、小さなテレビ、下にある手狭な冷蔵庫、あとはベッドが二つと、枕元の綺麗なベッドランプくらいだ。
家具はどれもダークブラウンの木材で作られており、部屋全体に統一感がある。しかし、決して質素なわけではない。ベッドランプの透き通るような赤い傘と、金色の装飾、ベッドのシーツやカーテンに描かれた青いバラと、赤いラインのコントラスト……一介の高校生でも、欧風な豪華さを存分に味わうことができる。
ここはハウステンボスの敷地内にあるホテルだ。親善試合が終わったのち、愛子たちはバスでここまで移動したのだ。三階、四階を貸し切っており、下に男子、上に女子が泊まるようになっている。
「こ、お、ら~」
自分の荷物をベッドの上に投げつけた時、井戸から現れる幽霊のような声で、愛子は両目を塞がれた。
「なぁんでそんなに上機嫌なのかな~?白状しろぉ!」
「うあっ!きゃっ!ちょっと、カナメ!」
声の正体は汐崎嬢だった。愛子のまぶたにあった彼女の両手は、今度は髪に差し込まれていた。数時間前、髪をといてくれたその人に、今度はぐしゃぐしゃにされるとは。
しかし、愛子は現在、愉快な気持ちの真っただ中にいる。きゃあきゃあと笑いながら、言葉ばかりの抵抗を口にする。
「な、なんでもないってヴぁ!」
「なんでもないわけないでしょうが~?試合終わっても、『センパイの写真欲しかったのに!』って一つの文句も言わないなんて~!お前はどこの子じゃあぁ~?」
数分後、愛子は窓際のベッドで正座させられていた。気持ちを落ち着けるため、枕を抱きしめている。もう一つのベッドには、汐崎嬢が腰掛けている。
「ふーん、なぁるほどね」
左右の足を組みなおし、汐崎嬢は頷いた。
「とみーはフラれた、ってわけだ」
「ぅわっ!てぇ!別に、富田さんがイヤッてわけじゃ……!」
「アハハハハ!わかってるってば」
息巻く愛子に帰ってきたのは、汐崎嬢の爆笑だった。彼女は、自分の太ももが真っ赤に腫れるまで叩いていた。
「いやー、でもよかったじゃん。念願の先輩とデート。は~!いいな~!私もあの時、一緒にボトル洗ってたらな~!」
汐崎嬢の顔が少しだけ曇った気がして、愛子は肩をすぼめた。
そう、魁に憧れを抱いているのは愛子だけではないのだ。いつもバカみたいに騒ぐ女子マネどもはもちろん、親友である汐崎嬢も、目指すところは同じはずだ。
とはいえ、汐崎嬢はその辺の女子マネとは違った。すぐにさっぱりした笑顔に戻り、優しい手つきで頭を撫でてくれた。
「なーんてね!明日は楽しみなよ、愛子」
「う、うん……」
汐崎嬢の優しさが伝わってきて、愛子は泣きそうになった。彼女が親友でい続けてくれることが、嬉しくてたまらなかった。
「じゃ、私シャワー浴びてくるから」
バチン、とウインクすると、汐崎嬢は荷物を持ち、バスルームへ消えていった。
枕をより強く抱きしめ、愛子は親友を見送った。
さて、諸君らもすっかり騙されていたことと思うが、この男はちゃっかりついてきていた。当然、愛子にバレぬよう、人外な方法で尾行していたのだが、詳細は後に彼自身が語ることになる。ここではこうご期待とだけ言っておこう。
ともあれ、バルト・シルヴェスタキはすでにエネルギー切れ間近まで消耗していたものの、汐崎嬢がバスルームに入った今しか、愛子と二人きりで話すチャンスは無いと判断した。彼は扉の鍵をこじ開け(方法は企業秘密だ。悪用されてはかなわぬ)、こっそりと、足音を立てぬように侵入した。
室内には、ドア越しに聞こえてくるシャワーの音と、愛子が点けたであろう、テレビの音だけが響いていた。
バルトは右の内耳も機械化されているため、遠くの音でもよく聞こえる。テレビはどうやら、芸能人の結婚ニュースを流しているようだった。
〔ではここで、事務所前から中継です。大城さーん?〕
〔はい、こちらは事務所前、既に多くの報道関係者が――あっ!今ちょうど、白崎心音さんが出てきた模様です!白崎さーん!マネージャーとご結婚なさるという報道が出ておりますが、本当でしょうかー?〕
歩を進めてみると、テレビの映像が目に入るようになった。大勢の記者が、一人の女性を取り囲んでいるようだった。不思議なことに、女性は一つもひるむことなく、はじけんばかりの笑顔で応えていた。
〔あっ、マコトさん!ホントだよ!私、響と――〕
〔うわっ!ちょっ!心音!何言ってんだ!まだ喋るなって、言ったばっかりじゃねえか!〕
〔えぇー!?いーじゃん!響のケチッ!〕
少しすると、事務所からマネージャーと思しき男性が出てきて、女性と記者の間に割り込んだ。スピード感はよかったが、対応が少々がさつだった。結局、心音嬢との結婚が真実であるということが露呈してしまった。
「えぇっ!ウソ!?白崎心音、結婚するの!?」
バルトが気になるのはこちらの方だ。天真爛漫な主はベッドにうつぶせになり、隙だらけの格好でテレビを見ていた。どう隙だらけなのかというと、ニュースに驚いて両足をジタバタさせるあまり、制服のスカートがめくれあがっているのだ。
こんなことをつぶやきたくはなかったが、このまま放置すれば主が堕落の一途をたどってしまうやもしれぬ。バルトは断腸の思いでそれを告げた。
「お嬢様パンツが見えております」
「へっ――うきゃあ!」
バルトが現れたことと、パンツを見られたこと、彼女がどちらに重きを置いて驚いたのかは定かではない。だがいずれにせよ、主は自分のお尻を抱え、ベッドの上で身をよじっていた。
「お嬢様は女の子なのですから、テレビをご覧になる際はきちんとお座りになってください」
バルトは愛子をひょい、と抱きかかえ、お姫様抱っこの形で運んだ。窓際にちょうどいい一人掛け用のソファがあったので、その座面にそっと乗せた。
「あ、ありがと……じゃなくてぇ!」
可愛らしい顔でつぶやいたと思った直後、愛子は歯をむき出しにして唸った。
怒られることはわかっていたため、バルトは特に驚かなかった。
「どうしてバルトがここにいるの!?ついてこないでって言ったのに!」
「私はお嬢様から仕事をするな、と。つまり、休暇をいただいたと解釈しております。ですので、たまたま――」
「たまたま女子の部屋に入んないで!」
愛子の訴えはもっともだった。バスルームの学友を気にしてか、声を潜めて怒鳴っていた。
「お嬢様のプライベートを侵害したことは、まことに申し訳ないと思っております。ですが、多少の危険を冒してでも、私はお嬢様にお伝えしなければならないことがあるのです」
「それって、魁センパイのこと……?」
愛子の察しの良さを、この時ほどありがたいと思ったことはないそうだ。無駄な説明が省けるから、当然と言えば当然だが。バルトはすかさず答えた。
「はい」
「私、信じないんだから。今日だって、ちょっと話する機会があったけど……よくない気配なんて全然感じなかったし!てゆーかセンパイ、めっちゃいい人だったし!」
恋は盲目、と言う言葉を、バルトは曲がりなりにも知っていた。汐崎嬢に聞かされてからは、愛子が恋の病にかかっていることにも気付いていた。だからバルトは、彼女の中の〝優しい先輩像〟を打ち崩すために、論理的な根拠が必要になると考えていた。
「お嬢様は、彼が私にした質問を覚えておいでですか」
「質問……?バルトがなんでたくさん食べるか……?あっそれ私か……」
「彼が私にした質問は、ミリオンセラーの名と、それを撃たなかった理由です」
「んあ、そっか……てか、それがどうしたの?別にいいじゃん、私には教えてくれたでしょ?」
愛子はまだ気付いていない。バルトはかぶりを振った。
「お気づきになりませんか……?そもそも彼は、私が現れ、悪魔を滅却するまでの間、気を失っていたのです。ミリオンセラーの名前どころか、その姿さえ見ていないはずなのです」
ここまではバルトの計算通りだった。愛子は息を飲み、眉間にシワを寄せた。それはまるで、質問の意味を理解し、魁の不審さに気付いた故の行動に見えた。
だが、彼は重要なことを知らなかった。
恋心が、時に論理さえも打ち負かすほど、強い力を持つことを。
愛子はさくらんぼ色の唇をぎゅっと噛み締めた。真っ赤な血がにじむほど、強くつよく食いしばっていた。次に出てきたのは、否定と逃避の言葉だった。
「そっ……!そんなのわかんないじゃん!実は……う~……!うっすら目を開けてたとか!そう!気が付いてたけど、混乱してて、すぐに起きれなかったとか!」
「いずれにせよ、彼の真意を測りかねます」
バルトはここで完全に見誤った。愛子ならわかってくれると思い込み、追い打ちをかけるように言ったのだ。
「お嬢様お願いです。もう少し時間をください。獅童魁の周辺を洗う時間を、私にお与えください。それからでも遅くはありません」
「やめて……」
「必ずや彼の正体を暴いてみせます!ですから、お嬢様――」
「やめてって言ってるじゃんか!」
バルトの全身の毛が逆立った。
悪魔も恐れぬ彼が、唯一恐怖するもの、それは――怒りや悲しみの感情で現れる――愛子の苦しみだった。彼女はソファから立ち上がり、ものすごい形相でバルトの足下を睨みつけていた。
「私――私、これ以上バルトのこと嫌いになりたくない!お願い、今日はもう帰って……!」
「結構です」
バルトは心を鬼にして言った。今ここで引き下がれば、愛子の説得は二度とかなわぬように思えたのだ。
「え――」
「結構です。お嬢様に嫌われようとも。それで私の使命が果たせるのなら」
「何言ってるの……?」
愛子が顔を上げた。
その顔が美しくて、バルトは思わず見入ってしまった。
面影などという生易しいものではない。その顔は、残酷なほど夢香に似ていた。そばかすさえあったなら、彼は間違えて再会を喜んでいただろう。
「私には信念があるのです」
気付いた時、バルトはその言葉を口にしていた。
生前、夢香がよく口にしていた言葉だった。
「人には魂の入れ物がある。もちろん、そのような内蔵器官があるわけではありません。レントゲンでも、CTスキャンでも見ることはできない……。ですが、たしかに存在している――」
彼の中にあったのは願望だった。熱望であり、悲願だった。それさえかなうのなら、あとは何もいらなかった。
「私は未熟ゆえ、最後まで見ることは敵いませんでした……ですが、お姉さまは、最上のものを持っていたように思います。もちろん、お嬢様も――」
「やめて……!」
しかし、足りない言葉で想いは届かぬ。
「私とお姉ちゃんを、一緒にしないで」
できた溝は、二度と戻らぬ深さとなる。
「どんなに似てたって、私とお姉ちゃんは違う!」
彼女の瞳には大粒の涙がたまっていた。
「お姉ちゃんの方が可愛いし、頭もいいし、面倒見も良くって、人付き合いも良くて!聞き分けも良くて、なんでもはいはいって、容量いいから全部そつなくこなすし!私がお姉ちゃんに勝ってるところってなに!?胸がおっきいくらいしか思いつかないんだけど!そんなのでどうやって悪魔をやっつけろって言うの!?」
「そんなことはございません。お嬢様は十分お姉さまの意思を――」
「そんな――ことはぁ――あるのぉ!」
半端な慰めの言葉を、バルトは今でも後悔しているという。
彼の不用心な行いは、愛子の中にあったコンプレックスを余計に肥大させ、ホテル中を震わす大絶叫を呼んでしまった。
バスルームから聞こえていたシャワーの音が途端に止み、他の部屋全てが聞き耳をたてているのではないかと思うほど、周囲一帯が静寂に包まれた。
「私にお姉ちゃんの代わりは無理」
バスルームの中がにわかに慌ただしくなった。バスタオルをはためかせる音と、ドアノブを捻る音が聞こえてくる。
「お願い、出ていって」
残念だが、時間切れだ。
「どしたの、愛子……?」
「ううん……なんでもない……」
愛子がさめざめと泣いているのを、バルトは窓の外に張り付いて聞いていた。
眼下に視線を下ろすと、男子陣の部屋が見えた。このホテルは運河の端を囲むようにコの字型をしているのだ。
窓の一つに、獅童魁の姿を見た。どれだけ距離が遠かろうとも、バルトの右目にははっきりと映った。彼は、学友らと楽しそうに歓談していた。
どれだけ注意深く見ようとも、穴が空くほど見つめようとも、彼の背後に、悪魔の影は感じられなかった。誠実そうな男が一人、笑っているだけだった。
自らのふがいなさを呪い、バルトは眉間にシワを寄せた。
無言で壁から手を離すと、無音のまま落ちていった。