第七章 空腹
夢見家のテーブルは、空前絶後の大宴会に襲われていた。
卓上には所狭しと皿が並べられ、その全てが料理で埋め尽くされていた。四本の足はミシミシと抵抗の音を鳴らしていたが、休むことは許されず、わずかな隙間にも追加の品がねじ込まれていった。
提供しているのは愛子と魁だ。唐揚げ、フライドポテト、ハンバーグ、餃子、チャーハン、ピザ、パスタ……相性もバランスもあったものではない。冷凍庫にストックされていた全ての冷凍食品を解凍し、冷蔵庫に入っていた牛乳やチーズをパックのまま並べ、野菜室に入っていた全ての野菜を洗って、皿が足りぬものだからボウルに突っ込んで出した。
その全てが、バルトの胃袋へと消えていく。
彼は右手に握ったフォークで唐揚げと餃子を一緒に突き刺し、口の中に放り込むと、左手で牛乳パックを掴み、一気に流し込んだ。ハンバーグを一度に三つもたいらげ、チャーハンを噛まずに飲み込み、切られていないピザにはそのままかぶりついていた。
元来、鬼神のごとき素早さを見せるバルトではあったが、それは食事中もいかんなく発揮されていた。おかげで愛子と魁はてんてこ舞いだ。なにせ、新たな料理を二皿出すと、倍の四皿が空になって返って来るのだ。既に皿を洗うことは諦め、流し台が溢れるのもお構いなしに突っ込んでいた。電子レンジは爆発寸前、食材が足りないのでカップ麺までフル稼働、二人で話し合う暇もなく、戦場と化したキッチンで汗水たらして働き続けた。
魁に至っては、度重なるビニールの開封で指先を切ってしまい、ふーふーと冷ましながら作業していた。
「もう……どんだけ食べるの……」
熱々の肉まんが乗った皿を両手に、愛子はげんなりと肩を落とした。
「ごちそうさまでした」
青リンゴのように爽やかな声が聞こえる。
ソファの上でぐったりとしたまま、愛子はぼんやりと思った。すぐ隣に魁の顔があったが、もはや照れる気力さえ残っていなかった。
「申し訳ありませんでした、お嬢様のお手を煩わせてしまって」
バルトがトコトコと寄ってくる。悪びれた様子が感じられないのは愛子だけだろうか。
「えっ、うん。お疲れ様です……」
よくわからないことをつぶやきながら、愛子は頭を上げた。体を持ち上げるには、どっこらしょという魔法の言葉が必要だった。
「なにからなにまですごいんだな、君は」
愛子と違い、魁は軽々と頭を上げた。さすがは現役のサッカー部員といったところか。
「よくあれだけの量を……」
魁がキッチンの方を見たのが、愛子にはなんとなくわかってしまった。わかってしまって、恥ずかしさで顔を真っ赤にした。
「バルトって、いっつもあんなに食べるの?」
「はい」
「いっつもあんなに食べるんだ……」
愛子はソファの上で体育座りをした。そうすれば、膝の中に逃げ込むことができるからだ。
「でもよかったじゃないか、倒れた時は本当にびっくりしたけど、こうして無傷で――」
「そう!無傷!なんで?どうして!?意味わかんないんだけど!」
魁にフォローされるのが耐えきれず、愛子は叫んだ。
バルトは首をかしげ、目をぱちくりとさせた。その瞳のすぐ下がパックリと割れたことを、愛子は忘れていない。
「かいつまんでご説明しますと」
ちらりと天井を見た後、バルトは訥々と話してくれた。
「私は研究中だった細胞活性剤を投入され、常人を遥かに超える再生能力を有しているのです」
「ごめんわかんない」
愛子は両手で顔を覆った。
「細胞分裂は膨大なエネルギーを消費いたしますので、その分を補給する必要があるのです」
「だからわかんない!」
愛子はソファの上で両手を振り回した。
「なるほど、すごいな」
魁は冷静に頷いていた。
「……センパイはわかるんですか?」
「え?あぁ……つまり彼は、めちゃくちゃ食べなきゃいけない代わりに、どんな傷でもあっという間に治してしまうんだ。そういうことだろう?」
「その通りです」
バルトは首を縦に振った。
「もう一つ聞いていいかな。あの武器はなんて言うんだ?どうして、最初の一発しか撃たなかったんだ?あの変なやつが飛んだ時、君は撃たずに切っただろう?なぜなんだ?」
魁の言葉につられ、愛子も衝撃の一幕を思い出してみた。たしかに疑問だ。悪魔の右手が吹き飛ぶ直前、大きな銃声が聞こえた。バルトの手に握られていた武器の形状からして、二丁のうちどちらかで発砲したに違いない。しかし、悪魔が飛んで逃げようとした時、バルトは銃を撃つことなく、わざわざ剣で切りつけに行った。身体能力の高いバルトであったからこその選択肢かもしれぬが、いささか不便が過ぎるのではないか。
「あっ……たしかに、どうして――」
振り向くと、バルトが今までに見せたことのない表情をしていた。眉間にシワを寄せ、魁を睨みつけていたのだ。
「バ……バルト……?」
明らかに空気が変わった。愛子は言いようのない不安に駆られ、執事の顔を覗き込んだ。
バルトは険しい顔をしたまま、魁の腕をむんずと掴み、強い力で引っ張り始めた。
「お引き取りください」
「ちょっ……どうしたんだ?」
「部外者にお話できる内容ではありません。お引き取りを」
筋肉質な魁の体を、バルトは腕一本で引っ張っていく。廊下の壁に激突するのもかまわず、グングン進んでいく。
「ちょ、ちょっと!?バルト!?」
愛子は慌ててソファから飛び起き、スリッパをひっかけながら追いかけた。薄暗い廊下に月明かりが差し込んできたから、バルトが玄関を開け放ったということが嫌でもわかった。
「銃刀法とか気にしてるのか?大丈夫だって、助けてもらったのに、恩を仇で返すようなことしない、誰にも言わないよ」
「あなた様に申し上げること自体が問題なのです。お引き取りを」
「なんで、ちょっ……待ってくれよ……」
すでに、二人は玄関でもみ合いになっていた。バルトの力は相当強いようだ。あの獅童魁が、親にあやされる子供の様に、いとも簡単に追いやられていく。
「ちょっと、何してるの!?バルト!やめて!やめてってヴぁ!」
愛子はバルトの右腕にかぶりついた。
それを見て、先に手を引いたのは魁の方だった。
「わかった!わかったよ!」
魁はバルトに抗うのをやめ、渋々ながら靴を履いた。その顔は明らかに不服そうだった。
「悪かったよ、勝手にお邪魔して。夢見、また遠征で、よろしくな」
「あっ……センパ――」
「いえ、二度とお嬢様に近づかないでください。それだけで結構です」
バルトは魁を突き飛ばし、玄関扉を容赦なく閉めてしまった。
「バルト!」
魁の姿はピシャリとかき消された。玄関は再び暗闇に包まれ、夜のようなコートがその中に溶け込んだ。
「どうして……?」
愛子は怒りに声を震わせた。
「どうしてこんなことするの?センパイが助けてくれたのに!」
「必要なことでした」
バルトは淡々と答えた。
「あの者からはよくない気配を感じます。お関り合いになるべきではありません」
「そんなことないもん!センパイはかっこよくて!いつも一生懸命で……それに……それに、とっても優しいんだから!ここまでバルトを運んでくれたのだって、センパイなんだよ!」
「親切心だけが、人助けをする理由とは限りません」
「ホントにどうしたの!?バルト……センパイ、私のこと助けてくれたんだよ?なのに、急に……そんなに怒って――うぇっ!? 」
愛子のすっとんきょうな声が、暗い玄関にこだました。
バルトの横顔に、一筋の水が流れていたのだ。
「どっ……どうしたの?今度は、泣いてる――」
執事の右頬に光るそれは、どう見ても涙だった。
バルトは驚いたような顔をすると、右手で涙に触れ、指先をじっと見つめた。そして、なじませるように指先をこすり合わせた。
「あぁ、いえ……これは涙ではありません」
「へっ?」
「さっきの衝撃で、潤滑油が漏れたようです」
カチャリ、カチャリと細かい音がする。オレンジのデスクランプが、柔らかい光で部屋を包み込んでいる。
ここは愛子の養父の部屋だ。ベッドとデスクくらいしかないシンプルな部屋だが、今は中央に大きな揺り椅子が据えられている。弓なりに曲がった椅子の脚には、動かないように枕がかませてあり、バルトが仰向けに腰掛けている。
「お嬢様、そのままでお願いします」
「う、うん……」
愛子はというと、バルトが自分の右目を見ていられるよう、彼の顔の真上で、花柄の手鏡を一生懸命持っていた。
不思議な体験だった。自分の目と鼻の先に、超絶イケメンの顔があって、そのイケメンはなんだかいい臭いがして、ではなく、イケメンの右目は黄金の金属やガラスのレンズでできていて、鏡越しに機械の右目を見ながら、器用に精密ドライバーを操っているのだ。自分がなぜドキドキしているのか、愛子はよくわからなくなっていた。
バルトがこめかみにドライバーを突き立て(一瞬だけ血の臭いがして、愛子は顔をしかめた)、左右に捻ると、カメラの絞りに似たパーツが収縮した。薄い飴細工のように透き通った金色だった。絞りの開いた先にはレンズがあり、ぎゅっと縮まった後、今度は大きく見開かれた。よくよく耳をそばだててみると、バルトの頭の中で、キュイ、キュインという音が微かに鳴っていた。
瞳が大きく開かれたところで固定すると、バルトはこめかみからドライバーを引き抜いた。そして、右手を上に伸ばした。頭上にあるデスクにドライバーを置こうとしているのだ。愛子は右手で鏡を支えたまま、左手でドライバーをそっと取り、デスクの上に置いてあるステンレスの盆に乗せてやった。
「ありがとうございます。六番のピンセットを取っていただけますか」
真上を見上げたまま、バルトが淡々と言った。眼を開いたままなので、顔を動かすことができないのだ。
愛子は手鏡をいったんデスクに置き、ステンレスの盆を覗きこんだ。
盆の上には細かい銀色の工具が整然と並べられている。唯一斜めになっているのは、愛子が置いたドライバーだけだ。
「六番?六番……六番……」
工具のケツには神経質なほど細かい字が彫られていて、それがおそらく、バルトのいう番号なのだ。愛子は工具を順につまみ上げ、翡翠の瞳をじわりと細め、確認していった。
「えっと……これ、かな……」
6、と書いてあったピンセットは、真ん中がハサミのようにクロスし、先端がL字に曲がったものだった。愛子は少々不安な気持ちでそれを拾い、執事の右手に握らせた。
「ありがとうございます」
バルトは上を向いたまま謝辞を述べ、ピンセットを右目に這わせた。愛子が急いで鏡を構えてやると、ピンセットの先端が、ゆっくりと右目の方へ下りていった。
愛子は緊張の一瞬を飲み込んだ。右目の中に、金属の棒が差し込まれていくのだ。ほんの少しの恐怖を感じてしまう。
「……痛くないの?」
「はい。表面の皮膚と筋肉は私のものですが、骨格と右目はチタン合金でできております。そのため、痛覚がありません」
バルトは迷いなくピンセットを沈めていく。その先端は、まるで磁力で引き寄せられるように、絞りとレンズの隙間に入っていく。
「ち、ちたん……?金じゃなくて?」
「金は、金属としては柔らかい部類に入ります。強度を保つため、チタンを用いているのです」
バルトは絶妙な力加減によってレンズを掴み、右目の外へと引っ張り出した。そして、オレンジの灯りの下で、ピンセットを左右に捻り、レンズの様子を確認した。
「私の右目には二枚のレンズが使用されているのですが……どうやら、外側の一枚にヒビが入ってしまったようです」
バルトはどうやってレンズのヒビを見極めたのだろうか。どれほど大きく見積もっても、レンズは一円玉より一回り以上小さい。
「そんなちっちゃいのが、もう一枚あるの?」
「はい。レンズ同士の距離を変えることで、より遠くの物を見ることができるようになっているのです」
「……遠くって?」
「おおよそですが、二キロ先にある自動車のナンバープレートであれば、鮮明に読み取ることができます。お嬢様、こちらのレンズはトレーの上に置いていただけますか」
「う、うん……」
ピンセットの先端がこちらに向けられた。
愛子は手鏡をデスクに戻し、悲鳴を上げたくなるほど小さいレンズを、両手の平に乗せた。なんだか、バルトの魂を運んでいる気分だった。二キロ、マジ、と声を出さずにつぶやき、そろり、そろりと運んでいった。任務を終えた時、強烈な安堵と疲労感が彼女を襲った。
「いつもこんなふうに直してるの?」
「はい」
「なんか……大変なんだね」
「悪いことばかりではありません。この右目は、人間では視認できない波長をとらえることができます。闇夜でも日中と変わらぬ視界を確保し、壁の向こうを透視することもできます」
「そ、そうなんだ」
バルトは天井を見上げたまま、コートの内ポケットをまさぐり始めた。
「でも、どうやって見てるの?その、機械から……」
女子高生には少々グロテスクな話だった。愛子は残りのセリフを口パクでやりすごし、自分の右目、そして脳みそを順番に指さした。
「右目で得た情報は内部のコンピューターで電気信号に変換され、脳の視覚野に送られます。神経の代わりに、物理的に電極をつないでいるのです」
「ぶっ……!えぇ?」
バルトは飄々と答え、ポケットからマッチ箱くらいの、小さな銀色の箱を取り出した。
受け取ると、箱の真ん中に線が入っているのが見えた。
「ぅえと……なに?これ」
「予備のレンズに付け替えます。箱を開いていただけますか」
「そ、それなら私やる!私にやらせて!」
愛子は銀の小箱を握りしめ、バルトから隠すように身をよじった。諸君らには突然のことと思うが、あれだけ強かった執事が、無防備に揺り椅子に横たわっているのだ。愛子の胸に責任感というものが降って湧いたのも、ごくごく自然なことだったと言えよう。
バルトの左目だけが驚き、まじまじと見つめられた。途端に恥ずかしさがこみあげ、愛子は早口でまくしたてた。
「私はバルトのご主人様なんでしょ?だったら、頑張った執事をねぎらうのが、私の役目なんだから!」
愛子は数秒もの間、バルトの視線に耐えなくてはならなかった。見つめられるうちに鼓動がどんどん早くなり、小箱を握る手が汗でびっしょりになった。
「わかりました。ではお願いします。まずはその箱を開いてくださいますか」
あきらめたのか、感心したのか、バルトはふいに天井へと向き直った。
愛子はこっそりとため息をついてから、親指の長い爪を小箱の線に刺し入れた。ミニマムな蝶番を支点にして、小箱の蓋が開いた。中は仕切り板で二つに分けられており、(おそらく)二種類のレンズが四枚ずつ並べられていた。
「右の方に入っている物を、このピンセットでお取りになってください」
「う、うん……」
ピンセットを受け取る時、バルトの手に触れてしまった。スラリと長く見えようとも、その指は固い筋肉に覆われていて、愛子の心臓が跳ね上がった。
それでも、愛子には『これはとても繊細な作業だから』と言い訳することができた。事実、箱の中のレンズをピンセットでつまむのに三分半もかかったし、バルトの顔上に持って行くまでに二枚も落としてしまった。三枚目でようやく運搬を終えると、心臓が張り裂けんばかりに暴れ出したが、それもやはり、失敗できない作業のせいなのだ。決して、鼻先同士がちょこんと触れてしまったからではない。
「えっと」
「大丈夫ですよ。特別なことはありません。奥の方に丸い縁が見えると思います。そこに乗せていただければ全て終わります」
そうじゃないんだけどな、という言葉を胸にしまい、愛子は機械の右目を見た。大きく開いたままの絞りの奥に、きらりと光るものが見える。あれがもう一枚のレンズなのだろう。その上には確かに丸い輪っかがある。そこがレンズの終着点だ。
どこかにぶつけて、レンズを落とすようなことがあってはいけない。愛子は両手でガッチリとピンセットを固定し、息を止めた。呼吸で動き続ける胸が邪魔だった。
神経を研ぎ澄ませることで、聴覚が何十倍にも膨れ上がる。バルトの呼吸のリズムや、壁掛け時計の針の音が、嫌に大きく聞こえてしまう。手先がプルプルと震え、言うことを聞いてくれない。上唇を舐めながら下唇を噛みしめ、小さなちいさな絞りの間に、慎重にピンセットを通していく。愛子の世代では馴染みがないだろうが、電撃イライラ棒というものを私は思い出していた。
「はぁぁぅ……」
永遠とも思える十五秒だった。愛子は肺の中に溜まっていた緊張を全部吐き出した。極度に集中したせいで体が火照り、夜風を求めて窓を開けた。
バルトは揺り椅子から体を起こし、デスクの方へ向きを変えていた。
愛子は見ないようにしていたのだが、盆の縁にはぐにょぐにょとした目のパーツが置いてあった。いかにも生もの、といった質感で、人間の眼球をえぐったような形だった。機械の右目にかぶせるものだと一目でわかった。バルトは今、それを拾い上げ、自らの顔にぐいぐいと押し当てていた。
「ど、どう……?」
「ありがとうございます。お嬢様のおかげで、鮮明に見ることができます」
バルトは優しい顔で振り向いた。その右目は、元の黒い瞳に戻っていた。二重の意味で愛子は安堵した。
「はふぅ……よかった……」
「お見事でございます。愛子様」
「うぎゃぁっ!」
私が突然に話しかけたのがまずかった。愛子は天井に頭をぶつけ、バルトに抱き着いた。
ぷるぷると震える彼女を見て、私は少々、いたたまれない気持ちになってしまった。
「突然お邪魔して申し訳ありません」
「鷲獅子の……」
「うむ」
私はバルトに向かって頷き、愛子の養父のベッドに腰掛けた。小脇に抱えた本が重たすぎて、ベッドのマットレスが癇癪を起した。
「あ、あなた……あの時の……!」
「覚えておいでですか、愛子様」
「忘れるわけないじゃん!あなたがいきなり『遺産があります』なんて言うから、おかしなことになったんだから!」
「お嬢様、人を指でさしてはいけません」
左腕で主を抱きかかえながら、その手を優しく包むバルトだった。
さて、私は分厚い本を開き、本題へ入った。
「我が名はテセウス・オルバルト。テセウスでも、オルバルトでも、お好きな方でお呼びください。あるいは鷲獅子の、と呼んでいただいても結構です。騎士たちはそう呼ぶ者が多い。私は神官と騎士の活動を記録する役目を負っています故、神官になられてから三日が経ちましたるあなた様の、様子を見るために馳せ参じた次第でございます」
「へ……?」
おっと待て、これはどういうことだ?愛子はバルトにしがみつたまま(三日でよくもまあ懐いたものだ)口をぽかんと開けている。
「しんかん……?って、なに?」
私は素早くバルト・シルヴェスタキへ視線を走らせた。愛子の桃のような頬が目の前にあっても、彼の表情はいつもと変わりなかった。
「バルト・シルヴェスタキ……まさか……話していないのか」
バルトの答えは沈黙だった。否定も肯定もせず、顎先をわずかに上げ、目を細めた。
「どゆこと……?なあに?バルト……この人、何を言ってるの?」
愛子が困惑してしまったのも無理はない。常人では想像すらつかぬ我らの世界を、一つの説明も無しに理解することは到底かなわぬ。
「騎士としての責務を果たせ、バルト・シルヴェスタキ。でなければ、私が説明する」
「え?なになに?なにが?騎士って?執事じゃなくて?は?」
愛子は顔を左右に振り、私とバルトの顔を何度も見比べた。
ついにバルトは黙っていられなくなり、固く閉ざしていた口を開いた。
「私がご説明いたします」
バルトは愛子の両脇に手を刺し入れ、滑るように立ち上がった。そして、彼女が空中でジタバタしはじめるより早く、揺り椅子に座らせてやった。
愛子は赤面し、両脇をぐっと縮こませ、執事を見上げていた。
「お嬢様の一族は、代々悪魔祓いを担ってきた、由緒ある家なのです」
主の瞳をじっと見つめて、執事は語る。
「神代家、十一ある神官の家系で、最も聡明で高潔な一族だと、私は記憶しております」
「ぅえぅ……えっとぉ……」
「バカ者、それではわかるまい。愛子様、順を追ってご説明しましょう」
バルトの説明はいささか簡潔に過ぎるきらいがある。彼の性格では、これ以上かみ砕いてやることができぬのだ。仕方がないから補足してやろう。私はベッドの上で巨大な本をめくった。
「悪魔とは、文字通り地獄に巣くう者どもを指します。日本では、古来より鬼や妖怪などと呼ばれてきました。人類が人口爆発によって地球上に溢れかえっているのと同じく、彼らもまた、地獄で行き場をなくしているのです。住処を広げたい、しかし、天界の神々には歯が立たぬ……そこで、きゃつらが選んだのが」
「……私たちの世界、ってこと?てか、神さ――」
「そうです。この世の支配者たる人類を滅ぼし、地獄の領域拡大を狙う。それがきゃつらの、唯一にして絶対の目的です」
愛子は思ったよりも察しがいいようだ。もしくは、悪魔の実物を見たからこそ、信じざるを得なかったのかもしれぬ。
「その悪魔からこの世を守るのが、あなたのお姉さまがそうであった、神官と呼ばれる存在です。あるいは巫女と」
「うぅん……わかんない。どうして?だって、警察とか、自衛隊とか、そういう人たちが悪魔を退治しちゃえばいいんじゃないの?どうして?どうして、お姉ちゃんみたいな、普通の女の子が」
「それには二つの理由があります。一つ目は、神官と騎士の血を継ぐ者にしか、悪魔の姿が見えぬからです」
愛子はふうん、と納得し、直後、驚いたように自分を指さした。
「そうです。もっとも、長い年月の間に交配が進み、神官と騎士の血もだいぶ薄れてきました……いわゆる霊感の強い人間というものは、ぼんやりと、もしくは暗闇でのみ、悪魔を見ることが可能なのですが、彼らの家系図をたどれば、どこかであなた様や彼のご先祖、あるいはその親戚が出てくることでしょう。話を戻します」
私は指先を舐めて湿らせ、分厚い本をさらに数ページめくった。何枚かが張り付いていたので、引きはがしながらめくった。
「神官がなぜ必要なのか、その二つ目の理由は、悪魔の侵略の方法に関係します」
詳しい解説が描かれたページを開き、彼女に見えやすいよう、ベッドの上で傾けた。愛子は揺り椅子から身を乗り出し、食い入るように見ていた。
「夕刻、あなた様を襲ったように、場当たり的に単独潜入する間抜けもおりますが、そういったものは、人間を一人二人襲ったところで見つかり、滅却されるのがオチ……真に恐ろしいのは、一部の上級悪魔たちが行う〝儀式〟です」
「……儀式?」
「はい。巨大な地獄の門を開き、数千、数万もの悪魔を一度に呼び寄せるのです。その後は簡単に想像がつくでしょう」
愛子は見開きに描かれた一幕を見つめながら、ゴクリと喉を鳴らした。
「悪魔の〝儀式〟に必要なものは二つ。〝苦痛を受けた魂〟と〝人柱となる人間〟です。前者は多ければ多いほど、後者は強ければ強いほど、〝儀式〟の規模と成功率があがります」
「えっと、そういうのは、どうやったらわかるの?」
「苦痛を受けた魂とは、文字通りの意味です。大量虐殺や疫病など――疫病自体、悪魔の引き起こしたものですが――多くの人が命を取られた場所には、恨みや苦しみを残した魂が数えきれぬほどへばりついているのです。きゃつらはその負の感情を利用します。日本ではヒロシマ、ナガサキ……少々範囲が広いですが、トウキョウやオキナワも該当するでしょう」
私は本のページをもう一つめくった。そこには世界地図が描かれており、歴代の鷲獅子の騎士が記してきた候補地が赤いインクで示されている。最近は少々増え過ぎのきらいがある。世界地図はほぼ真っ赤だ。
「〝人柱〟はそれら負の感情を受け止め、門を開くエネルギーへと変える変換機の役目を果たします。当然、多くの魂を受け、大きな門を開くことになれば、それ相応の負荷がかかることになります。要は、凡人には耐えきれないのです」
「た、耐えるって……」
「えぇ、最後には人柱自身がすり減り、死んでしまいます。ですから、誰でもいいというわけではありません。霊力、もしくは醜い感情が強い者ほど、人柱として長く耐えることができると言われています。ですから、悪魔たちは儀式の確実性を向上させるため、有望な人材を見つけると、その者に近づき、ある契約を結びます」
「契約?」
「はい。契約者の望みをなんでもかなえてやる代わりに、自らの儀式への協力を確約させるのです。もっとも、儀式の果てに死んでしまうことなど、絶対に口にしませんが――」
「中世の織田信長、近代ではアドルフ・ヒトラーなどがそうだと言われています。いずれも詳細な記録が消失しております故、確証はありませんが」
バルトよ、喋ることができるのなら、最初から自分で説明すればよかろう?私は非難めいた視線を送ったが、彼はぷい、と窓の外へ顔を向けてしまった。
仕方なしに私は続ける。
「人の心とは貧しく、醜いものです。一つの希望が叶えば、もう一つ、また一つと、あくなき欲望が尽きることは無い。そうやって、ぶくぶくと膨れ上がった醜い心が〝人柱〟にうってつけだったのです。さて、〝儀式〟の説明は以上です。ここまでくればお分かりになると思いますが、極めて呪術的なこの〝儀式〟……果たして、一般人に止めることができるとお思いですか?」
「んー……んーん」
愛子は嫌そうな顔をしたが、諦めて首を左右に振った。私は静かに頷いた。
「その通りでございます。一度開いてしまった地獄の門を閉じることは、人柱の死を除けば、神官、巫女の祈りによってのみ果たされます。それを担っていたのがあなた様のお姉さまなのです」
翡翠の瞳が不安そうに揺れていた。愛子は胸に手を当て、すがるように執事の背を見上げた。
「バルトは?バルトは……神官とは違うの?」
「私は騎士でございます故、お姉さまのようなお力はございません」
バルトは顔だけで振り向き、淡々と言った。何度も指摘するが、説明が簡潔すぎるのだ。
「神官と違い、騎士には呪術的な力が全くありません。代わりに、彼らには常人を遥かに超える身体能力が備わっております。愛子様もご覧になったでしょう。彼らの使命は、神官が祈りを紡いでいる間、その身を守ることにあります。神官と同じく十一の名家が名を連ねており、神話に登場する、センジュゴッドに相成る十一人の騎士の座を護っております。そこのバルト・シルヴェスタキは、龍の座を」
バルトは懐から金の懐中時計を取り出し、オレンジの光にかざした。蓋にあしらわれた龍は鱗の一枚一枚をギラギラと反射させ、今にも炎を吐き出しそうな面構えを見せた。
「ほぁ……じゃ、じゃあ、バルトが持ってた……変な剣みたいなのも、騎士の武器、ってこと?」
「はい」
主の希求に応え、バルトはコートの袖から剣を取り出した。デスク上の盆を脇へ追いやり、空いたスペースに静かに置いた。
「騎士はそれぞれ、専用の剣を携帯しております。私のものはミリオンセラー。右がフォロウ、左がリベルタです」
愛子はこの時になって初めて、ミリオンセラーの全貌をはっきりと見たそうだ。
二つは非常によく似ていたが、唯一違う点があった。フォロウと呼ばれた方は持ち手がメリケンサックのような形になっており、外側には持ち手を守るように刃が付いているのだ。一方、リベルタと呼ばれた方にはそれが無く、幾分かスマートな印象だった。
「これって……剣なの?銃なの?」
愛子は揺り椅子から立ち上がると、フォロウの剣先をつまみ、そおっと傾けていた。
バルトはリベルタを持ち上げ、銃身の背と持ち手を握り、へし折るように力を加えた。
通常の剣であれば柄と刃の境目で真っ二つに折れてしまうところだが、ミリオンセラーは違った。スムーズな動きで刃が前方にスライドし、空いたスペースに引き金が収まった。完成した姿は、まさしく刃のついた拳銃だった。
「ミリオンセラーの特徴は、状況に応じて、銃と剣双方の形態をとれることです。遠方の相手には銃撃を、近接戦闘では斬撃を繰り出すことが可能です。また――」
バルトはリベルタの先端を持ち、ペットボトルの蓋を開けるように捻った。すると、銃身の頭三分の一のみが180度回転した。刃の一部もそれに続いた。
彼はよろしいですか、とつぶやき、愛子から剣形態のフォロウを受け取ると、その先端にリベルタのケツを合わせた。
二振りの銃身の背には、それぞれ合体用の溝が付いていたのだ。バルトは両手の剣をスライドさせることで、子気味のいい合着音を鳴らした。反転させたリベルタの刃が、フォロウの先端へと収まった。
「――このように合体させることで、一振りの大剣として使用することも可能です」
リベルタを背負ったフォロウは、全長五十センチの大剣へと変貌を遂げた。これがミリオンセラー本来の姿だ。合体した分、重量も増しているが、その一撃は天を切り裂き、闇を追い払うだろう。
「わぁ……すごっ……」
合体ロボや銃器が大好きな男子でなくとも、ミリオンセラーの機構には心震える。また、見れば見るほど、洗練された造形に心奪われる。銃身に施された彫刻の美しさは、安い美術品を根こそぎ陳腐な置物に変え、刀身の鋭さはいかなる技術をもってしても再現不可能だ。愛子もその魅力に取りつかれ、磨き上げられた銃身を指でつついたり、刀身に写る自分の顔を見つめたりした。
「あでも、どうして撃たなかったの?ほら、センパイが言ってたじゃん」
それは無邪気な好奇心だった。愛子に他意はなく、罪もない。
とは言え、彼の無念の行き場もない。バルト・シルヴェスタキの、生きる意味の行方よ。
「ミリオンセラーには、最大で七発、弾を装填することが可能です」
バルトの手の上でミリオンセラーがひっくり返された。銃身の側面、一番ケツの部分に、スリット状の窓が設けられており、その数が七つであることが確認できる。
「弾が装填されていれば、この部分が緑色に光ります。つまり、現在の残弾数はゼロということです」
「ふーん……どうして増やさないの?」
「ミリオンセラーのエネルギー源は主との信頼関係です。互いが互いを信頼している時、その弾数は無限となります」
そう言うバルトの顔は、事務的な表情を装いきれていなかった。一つも動かない黒の瞳は悲しみで溢れ、一つのシワも入らない眉間には怒りが刻まれていた。
察しのよい愛子は、バルトの言ったことを瞬時に理解したようだった。
「そ、それって――」
「お姉さまがお亡くなりになった今、この剣で銃撃することは叶いません。あの時撃ったものは、お姉さまがお残しになられた最後の一発でした」
期せずして姉の話題になろうとは、愛子も思わなかったようだ。
バルトの視線は、今さらの別れを惜しむかのように、ミリオンセラーに注がれていた。
「ごっ……ごめんなさい……」
再び口を開いた時、愛子は震えていた。バルトの中にある、触れてはならぬ領域を見てしまったのだ。
「いえ、お嬢様をお守りすることができれば私は本望です」
バルトはすかさず返事をして、ミリオンセラーの合着を解いた。二振りの剣をコートの袖へ隠すと、再び窓の外を向いてしまった。隠したかったものは、剣だけではなかったようだ。
「ね、ねえ、もう一個聞いてもいい?」
愛子は声を落とし、私に耳打ちした。とてもバルトに声をかけられる空気ではなかったのだ。
「もちろんですとも、愛子様」
私は笑顔で応えた。
「なんであの悪魔は、バルトのこと〝マシーン〟って呼んだの?あと、なんだっけ、ダークフォール?って、なに?」
私が顔をしかめたのは、何も〝聞きたいことが一つではなく二つだったから〟ではない。それがとても、この場で話すには相応しくなく、彼の尊厳を踏みにじる行為だったからだ。
「それを説明するには、あなた様のお姉さまのことを、もう少しお話しなくてはなりません」
とは言え、彼女には知る権利がある。彼女が神官を継ぐ羽目になったのは実の姉を亡くしたからであり、その最後を看取ったのは他でもない、バルト・シルヴェスタキなのだから。
「言うぞ。もっとも、本来貴様が話すべきことだ」
「はい」
私たちに背を向けたまま、バルトは答えた。
「どうぞ愛子様、お座りになってください。長い話です」
私は手のひらで揺り椅子を指した。
愛子は両手でスカートの裾を押さえ、そっと腰掛けると、絵本をせがむ孫のように瞳を輝かせた。やれやれ、私は本物の爺になった気分だ。
「神官と悪魔の戦いは、実に数千年に及びます。始まりは紀元前――ノアの大洪水以来、人間界への干渉を嫌った神々により、地獄からやってくる悪魔を討つため、十一人の聖人が選ばれました」
「んーっと、待って、やっぱ神様っているの?あんまり知らないけど、ノアの箱舟って、ノアって人の家族が乗ってたんだよね?十一人もいたっけ?」
「結論から言うと、神の存在は私にはわかりかねます。干渉を避けているのですから、数千年も。しかし、悪魔が未だ天界への侵攻を試みていない以上、神が健在であると考えた方が自然です。ノアの箱舟の話については――愛子様が知っておられるものは――後世になってから、為政者の都合のいいように改変された記録です。こちらの方が正しい」
私は脇に抱えた巨大な本を叩いた。
「神官の選出と同時に、十一人の英雄が神々の命によって舞い降り、現在の騎士の礎となりました。その後、長い歴史の中で、神官と騎士の掟が定められ、大きな戦いを幾つも重ねてきましたが……それはまた、別の話です。今重要なのは、神官の中から時おり〝神童〟と呼ばれる目醒ましい者が現れるということです。歴史の転換点には、必ず彼ら、彼女らの存在がありました」
「んー……それって、神官とはまた違うの……」
「いえ、神官であることに違いはありません。異なるのはその〝力〟です。我が聖典〝ラマカンテ〟には、歴代の鷲獅子の騎士によって、神官の歴史が克明に刻まれております。それによると、人類に大きな災いが降り注ぎし時、悪魔の侵略から世界を護る〝神童〟が生まれる、とあります。神童とは文字通り神の子。他の神官の追随を許さぬ強大な霊力と、祈りを紡ぐ天賦の才を持っていると言われています。愛子様はまだご存知ないでしょうが、通常、神官が祈りを紡ぐには、呪文を学び、考案し、実際に唱えて繰り返す、無限とも言える努力を重ねる必要があります。一方、神童は即席で、それも生まれながらにして複雑な祈りを紡ぐことができます。さらに、膨大な霊力を持っているため、一人で神官数百人分の力を引き出すことができます」
「……まさか、お姉ちゃんがそれだったとか、言わな――」
「言います」
私は被せ気味に答えた。
愛子の頬が引きつった。
「言いますとも。神童の登場には法則性があり、ラマカンテの記録によれば、概ね百年に一度、先代神童の誕生月に該当する十二星座……その次の星座の下に生まれた者が、〝神童〟になるとされています。つまり、先代の神童がやぎ座の月に生まれたのであれば、その約百年後に生まれたみずがめ座の神官が〝神童〟ということになります。お姉さまの前に〝神童〟と呼ばれていたのは、第一次世界大戦時に活躍したラシアタ・ノラ。七月三十日生まれのしし座でした」
「しし座ってことは……次は――」
「乙女座です」
「ふあっ……!?待ってお姉ちゃん……乙女座だ……!」
「そうです。百年ぶりのおとめ座なのです。愛子様のご両親は、ながらくあなた方のお誕生日を明かしませんでしたが……お姉さまに代替わりした際、お姉さまの方から私に申告がありました。ラマカンテにも記録しております。愛子様が五月二十二日生まれのふたご座、お姉さまが九月十三日生まれ、おとめ座です」
私は愛子に見えるよう、該当するページを開いてみせた。
「うわ……って――私の誕生日も書いてあるの……?」
「はい。神官の家系に生まれた者は、全て私が確認し、記録する決まりとなっております。これは騎士団の掟としてラマカンテに記されております。それほど〝神童〟の誕生は渇求されるものなのです」
「んん……そっ……んー、じゃあ、なんでお父さんとお母さんはずっと隠してたの?待ちに待った神童だよ?お姉ちゃんはともかく、私の誕生日まで……」
「姉妹の片方だけ明かせば、もう一人はどうなのだと問われるからです。〝神童〟の誕生とは、悪魔にとって天敵の到来に他なりません。数千年の歴史の中で、神童の疑いのかかった赤子たちが、どれほど無残な最期を迎えてきたか……我が子を守るご両親の愛だと、私は理解しております。もちろん、掟には反していますが……ダークフォールの目を逸らすために……少なくとも、時間稼ぎにはなりました」
ダークフォールの名が出たことで、愛子の方眉が吊り上がった。ようやく、自らが欲する情報にたどりついたのだ。
「そうです。愛子様がお聞きになったダークフォールです。ダークフォールとは、その時代において最も凶悪で、狡猾で、かつ、最も残忍な悪魔に与えられる称号です。類稀なる神官が〝神童〟ならば、ダークフォールは悪魔の王と言えるでしょう」
私はバルトの背を見た。彼は微動だにせず、外の闇夜を見つめていた。開かれた窓に反射する彼の顔は、夜風に目を細めていた。古傷がうずくのだろうか。
「長い神官の歴史でも、ダークフォールと呼ばれるほど強力な者はたった四度しか現れておりません。幾多の神官、騎士を死地に追いやり、人類に終わりのない悪夢を見せてきました。エジプト王朝を滅ぼした大干ばつ、十四世紀ヨーロッパで大流行した黒死病、近代日本ではぁ、関東大震災……人類史上の厄災には、必ずきゃつらの影があります」
「もしかして……お姉ちゃんは……」
「シルヴァ――」
緊迫した部屋を貫いたのは、バルトの張り詰めた声だった。
まるで、耐えきれぬ怒りを、言葉に乗せて吐き出したようだった。
愛子は強力な磁石に引きつけられたように、バルトの後ろ髪を見つめていた。
私は説明を続けた。
「ヴァン・エル・シルヴァ。現世代最強の悪魔と目され、二度の世界大戦を引き起こした張本人です。四代目ダークフォールの称号を欲しいがままにし、神官、騎士ともに恐れて近づくことすら敵わない。ご両親、そしてお姉さまの命を奪い、バルト・シルヴェスタキの右目を破壊したのも、このシルヴァです」
私はもう一度、バルトの背を見た。夜のようなコートは、静かな怒りにはためいていた。
「シルヴァは、歴代のダークフォールの中でも抜きんでて邪悪だと言われています。それは――」
「――地獄の門を開く〝人柱〟に、神官を用いるからです」
ついに、バルト・シルヴェスタキが長き沈黙を破った。
自ら語る時だと、悟ったのだ。
己の右目と主を失った、あの日のことを。
生きる意味を失った、忌まわしき日を。