第十六章 魂の入れ物
水晶の光で十字架が溶け、愛子は解放された。
とは言え、傷だらけの足では踏ん張ることができず、平和祈念像の上から地面に落ちてしまった。
「ぶぇっ!」
バルトがいなければ、受け身一つ取ることができないのだ。口の中に血の味を感じながら、愛子は自分の無力さを痛感していた。
「はっ!バルト……!」
顔を上げると、執事が、大好きでたまらない執事が、空から落ちてくるのが見えた。
バルトはそのまま、泉のあった方へ落ちて行った。えげつない衝突音が容赦なく愛子の耳を襲い、また悪魔が出たのかと勘違いするほど砂ぼこりと瓦礫が舞った。
「バルト……!」
なんだこんなもの、と愛子は思った。
ちょっと、両足から血が噴き出して、死ぬほど痛いだけだ。
まだ歩ける。
「くっ……んん……!バル……ト……!」
根性だけで立ち上がり、両足を引きずりながら歩いた。泉への階段を下りるだけで涙が氾濫を始めたが、我慢して歩き続けた。
泉の横を抜け、さらにその下へ続く階段へと進もうとした時、右手にあった瓦礫の山が爆発した。
「うわっきょ!」
火事場の馬鹿力、という言葉通り、愛子は両足が痛むのも忘れて飛び上がった。人間の底力とは、実にたくましいものだ。
もくもくと漂う土煙の中から、誰かが這い出てくる。
左足を引きずるようにして歩いているのだが、右足を地面につけた時だけ、気品のある音が響いている。夜のようなコートが、煙の中ではためいている。
いつもいつも、人外な現れ方をしてきたが、バリエーションに事欠かぬと言うのは素晴らしいことだ。まるで桃から生まれた桃太郎のように、どう見ても数トンはある瓦礫を砕いて出てきたのだ。こんなに嬉しいことがあるだろうか。
「バルト!」
やはり、火事場の馬鹿力。愛子は傷だらけの足で走り出した。
その名を呼んだとたん、赤い右目と、黒い左目が、ものすごい速度でこちらに向けられた。
「お嬢様!」
バルト・シルヴェスタキが血相を変えてこちらに飛んで来た。
優しい風圧にさらされ、愛子はその場に立ち止まった。
「大丈夫ですかお嬢様、あぁ、こんなにお怪我を――」
「ううん、私は大丈夫、大丈夫だから!バルトは?バルトは大丈夫なの?あぁっ……!お腹に穴あいてるじゃんか!なんで生きてんの!?」
愛子は執事の体をぺたぺたと撫ぜ、素直に驚き、心底心配した。先ほどは天賦の才で逆転呪文を唱えてみせたが、いかんせん、まだ神官としての教養は無きに等しかった。人の傷を癒す呪文があるのかどうかすら、彼女はまだ知らぬのだ。
「……ぷっ!」
頭の上で吹き出すような音が聞こえ、愛子は顔をしかめた。どうやら、いや、間違いなく、バルトが笑っていた。
「ふふふ……はははは!」
寡黙な執事が声を上げて笑うのを、愛子は初めて見た。青リンゴのように爽やかな声で、穴のあいたお腹を抱えて、子供の様な無邪気さで笑っていた。
「ちょっ――なんで笑うわけ?私、本気で心配してるのに!」
その整った顔立ちに見とれてしまう前に、愛子は遺憾の意を示した。
「ははは!はー……いえ、失礼しました」
右目の目じりを拭いながら、バルト・シルヴェスタキは詫びた。
「お嬢様は私の心配をなさるのですね、ご自分が傷だらけなのに」
「ふ、ふん!だって……私はバルトのご主人様でしょ!執事ことを気遣うのは、主人の役目なんだから!」
愛子は桃のような頬を膨らませ、そっぽを向いた。
「えぇ、そうですね」
バルトは普段なら決して見せぬ、優しい微笑みで答えた。
「ありがとうございます」
「あー、これって……」
「バルト様……」
愛子の学友二人は、仲睦まじい男女の様子を遠目に見ていた。ちなみに、富田嬢がハンカチを引きちぎる勢いで噛んでいたことは、あえて書かずともお分かりのことと思う。
私は彼女らの傍らにある、タクシーの残骸に着地した。
「うぅわっ!ちょっと!」
「きゃあ!」
二人ともタクシーより高く飛び上がったが、汐崎嬢の方は、着地するなり、割と冷静な顔になった。
「あれ、あんときのおっさん……?」
「おっさんではない」
やれやれ、新幹線より早く走ってきたというのに、もう終わっているとは。私は金色の小手を袖にしまい、代わりにラマカンテを取り出した。どこから出したのかは聞いてくれるな。
「これで罪を帳消しにしましょう、夢香様。結果的にあなたは――神童の命を継ぐという大義を果たされた」
「何を言ってますですの?この方は……」
「失礼、常人には理解しがたい話ゆえ、説明は省かせてもらうよ」
該当ページへの加筆修正を終えると、私はラマカンテを閉じた。
富田嬢を若干混乱させてしまったが、汐崎嬢は中々の洞察力を見せた。もとい、理解することを諦めたともとれる。
「よーするに、私らには関係ない、ってこと?」
「いかにも」
面倒なので、私もはぐらかすことにした。
「やっぱり私らは、残念会、しますか!」
汐崎嬢は富田嬢の肩を抱き寄せ、カラカラと笑った。
「でっ、ですから、誰が残念会ですの!?誰が!」
女子高生二人と気絶したタクシー運転手、そして白髪の爺、我ながら得体のしれぬ集団を形成している感は否めぬ。
だが、それはそれとして、我々は階段の上にいる神代愛子とバルト・シルヴェスタキ両名を、そっと見守っていた。
二人が楽しそうに笑いあっている様や、これからのことについて語り合っている様を、だ。
あぁ、決して――さっさと病院に行けなどとつまらぬことを言ってくれるな。
読者諸兄姉がそれに気付いてしまう前に、バルト・シルヴェスタキよ、締めくくるのだ。
はい。では、この場をお借りして。
事件から数週間後、私はとある海岸沿いにおりました。
そこには新品のクルーザーが一隻、停泊しておりました。三つの寝室に加え、バーカウンターやジャグジーまで備えた豪華なものでした。お恥ずかしながら、私のための食材貯蔵庫も。
夢香様の名義で所有していなかった乗り物は、これで最後でございました。
今後の活動を見据え、お嬢様がご購入されたのです。
とびきりめかしこんだお嬢様が、こちらに歩いてこられます。もちろん手ぶらでございます。荷物は既に、昨晩の内に私が持ち込んでおりますゆえ。
私には信念がある。もっともこれは、先代の残された価値ある言葉でもある。
人には魂の入れ物がある。
もちろん、そういった類の内臓器官があるわけではない。
レントゲンでも、CTスキャンでも見ることはできない。
だが、確かに存在する。
「じゃあバルト、行こっか!」
我が主は、最上のものを持っている。
「はい、お嬢様」
私には見える。