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機械の右目でなにが見える  作者: 影宮閃
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第十四章 バルト・シルヴェスタキ

 これは彼の記憶だ。

『いーち、にーい、さーん、しーい……』

 まだ五歳だった彼は、騎士としての務めも、主との主従関係もない、無垢な少年だった。

『ごーお、ろーく、しーち、はーち、きゅーう、じゅう!』

 バルトは腕にうずめていた顔を上げた。

 白やピンクのバラで作られた花のトンネルの中に、身長わずか110㎝の彼だけが取り残されていた。

『むぅ……よし!』

 彼のクセっ毛は小さいころから変わらぬようだ。眉毛にかかるかかからないかくらいの長さの黒髪を弾ませ、庭を駆けていく。

 お目当ての物が見つからなかったバルトは、館の中へと入った。大きな扉を子供とは思えぬ力で押し開け、赤いじゅうたんが敷き詰められ、白い扉が連なる洋館の中を走り回っていった。

 緑の坪や黄色い絵画、蒼い柄の三振みふりのつるぎの前を通り過ぎ、大きなシャンデリアのある広間が見えてきたところで、バルトはふと立ち止まった。犬のように鼻をくんくんと動かし、一番近くの扉を迷いなく開いた。

『見ぃつけた!』

 まだ深みも落ち着きもない、女子(おなご)のような声でバルトは人差し指をつき立てた。

 その先にいたのは、頬にそばかすのある可愛い女の子だった。バルトとたいして年が変わらぬように見えた。

『あぁん!もーっ!』

『夢香の負けだ!』

『バルトが強すぎるの!』

 女の子はおさげにした亜麻色の髪を振り回し、頬を膨らませた。


『ね、次は何して遊ぶ?』

 夢香は椅子の背にしがみついて足をぶらぶらさせている。

『んー……かけっこは』

 その椅子に座っているのはバルトだ。小さなサイズではあるが、既に執事服に身を包んでいる。

『……つまんない』

『んー……またオセロするか』

『つまんない!』

 夢香は頬を膨らませ、椅子の背から飛び降りた。

『……夢香はオレと遊ぶのが嫌いか』

『だって、何やってもバルトが勝っちゃうんだもーん』

 バルトは椅子の上で身じろぎし、夢香の頬についているそばかすをじっと見つめた。

『じゃあおままごとならどうだ。前の続き』

 夢香は翡翠の瞳をじわりと細めていたが、最後はニッと笑った。前歯が数本抜けていたが、とびきり可愛い笑顔だった。

『うん!』

 バルトは嫌な顔一つせず頷いた。


 時は進み、バルトと夢香の身長差が少し出始めたころ、バルトは広大な庭を歩いていた。

 向かった先にいたのは、木製のブランコに腰掛けた夢香だ。ブランコを無暗にこぐことはせず、地に足をつけ、体を前後にゆすっていた。

『探したぞ、夢香』

『あっ、バルト!ふふーん!』

 バルトが声をかけると、夢香ははじけんばかりの笑顔で振り向いた。

『どうした』

 バルトがもう一度声をかけると、夢香は古い記憶を思い出すように、一言ひとことを飲み込みながら語った。

『……お母さんがね、私……妹が生まれるんだって!』

『む、お姉ちゃんになるのか』

『うん!いーでしょーっ!』

 夢香は翡翠の瞳を輝かせた。


 真っ白な教会の壁に沿って、バルトは歩いていた。身長は大分伸び、執事服も様になりつつあった。

 教会の裏手に出たところで、夢香を見つけた。彼女は真っ黒な洋服に身を包み、ベンチに腰掛けていた。その膝を枕にして、幼い愛子が眠っていた。

『こっちだったか』

 声変わり途中の不安定さでバルトは話しかけた。

『ごめんね、愛子が疲れた、ってぐずっちゃって』

『無理もない。相当なショックだったはずだ……』

 バルトはそこで言葉に詰まった。

『それは、あなたもでしょう?』

 夢香は寂しそうに笑った。

『あ、私もか』

『むー……』

 夢香の膝の上で愛子が寝返りをうった。夢香は泣くのを中断し、小さな妹の頭を、愛おしそうに撫でた。

『ねえ知ってる?バルト……人には、魂の入れ物があるの』

『魂……?』

 バルトは最初、夢香がからかっているのかと思った。

『そ、魂の入れ物』

 事実、彼女は悪戯っぽい笑みを見せていた。

『もちろん、そんな内臓器官があるわけじゃないからぁー、レントゲンでもー、CTスキャンでもー、見ることはできないの』

 夢香は愛子の頬をつつき、少しだけ笑った後、真剣な口調で行った。

『でも、確かに()るの』


   それはバルトの知らない、姉妹の話だった。

  『お父さん……お母さん……』

   両親を亡くした夢香は、ずっと自室にこもっていた。

   悲しみと苦しみ以外の感情を忘れていたそうだ。

   バルトとの接触や親族との面会も拒み、一人で泣き続けていた。

  『お姉ちゃん……』

   そんな時だった。まだ六つになったばかりの愛子が寄ってきたのは。

   夢香は妹を気遣ってやる余裕さえなかった。

   大声で両親の名を呼び、むせび泣いていた。

   すると、小さなちいさな手が、彼女の両頬にあてられたのだ。

   それらはぺたぺたと頬の上を撫ぜ始めた。

   翡翠の瞳から流れ落ちる滝の勢いを、少しでも押しとどめんとしていた。

   夢香は泣くのをやめ、目を開いた。

   小さな両手の持ち主を見た。

   愛子だった。

   さくらんぼ色の唇をぎゅっと結び、ぷるぷると震えていた。

   自分だって泣きそうなのに、懸命にこらえているのだ。

  『だいじょうぶだよ』

   自分と同じ翡翠の瞳に、みるみる涙がたまっていった。

   愛子はラッパのように大きな音で鼻をすすり、口を開いた。

  『私がいるよ……!』

   夢香はまた泣いた。音もなく泣いた。

   愛おしかった。

  『そうだね……』

   愛子を抱きしめ、小さな頭に頬ずりした。

  『そうだね……ごめんね……ごめんね……愛子……!』

   そうすることで、愛子はようやく泣いた。

  『大丈夫、大丈夫!お姉ちゃんがついてるよ……!』

   姉妹は抱き合い、ずっと泣いていた。


 バルトは気持ちよさそうに眠る愛子の顔を見つめた。彼女は年相応の幼さで、姉の膝に頬ずりしていた。

『お母さんが言ってた。愛子は、選ばれし者だって』

『神童……か?』

『うん……だから、お誕生日、秘密にしてるって。オルバルトさんにも』

 愛子は幼いころの夢香に瓜二つだ。そばかすがあるかないか、それだけしか違いが無いように思えた。

 しかし、その小さな体の中には、人類を救う力が入っているというのだ。

 信じがたい話だった。

『お母さんたちいなくなっちゃったから……今度は私が守らなきゃ』

『んー……お姉ちゃん……』

 愛子は姉の膝で寝返りをうった。

 夢香はその頬をずっと撫でていた。


『やめて!お願い!この子だけは――!』

『お姉ちゃぁぁぁん』

 森の奥、炎上する木造のロッジの前で、夢香は愛子を抱きかかえ、その存在を必死に隠そうとしていた。

 愛子は姉の腕の中で号泣していた。

 二人の様子を、バルトは満身創痍の状態で見ているしかなかった。

 襲い掛かってきたのはシルヴァだ。この時はシルクハットをかぶったマジシャンのような姿をしていた。

 バルトは残された力で立ち上がろうとしたが、シルヴァが指を鳴らした途端、上空から巨人の腕が降って現れ、背骨を反対方向に曲げられた。

『ぐぅっ!』

『バルトーっ!』

 夢香は金切り声を上げ、その場にしゃがみこんでしまった。

 バルトは悔しさで身を焼かれそうだった。自分の代で神代家を途絶えさせてしまうのが、不名誉極まりないことだからだ。

 シルヴァがシルクハットの縁を磨き、不敵に笑った。

『くそっ……お嬢様ぁ!』

 夢香と愛子の頭上に、何十何百という巨椀が召喚された。

 目にも止まらぬ速さで振り下ろされるそれから、ほんの少しでも妹を守りたかったのだろう、夢香は愛子に覆いかぶさった。

『うわああぁぁぁぁ!ああぁぁぁぁぁん!』

 とびきり大きな泣き声がとどろいた。愛子が癇癪を起したのだ。

 その瞬間、真っ白な光が愛子を中心に発生し、巨大な球体となって広がった。光の爆発のようだった。

『何……!?』

 バルトは声の方を見上げた。

 無数に思えた巨椀は一つ残らず浄化され、ダークフォール自身も、体中から黒いチリが噴き出し、悶絶していた。

『ぐおぉぉおおおおお!』

 苦悶の叫びを残しながら、悪魔の王は撤退していった。

 残されたのは、重傷を負って動けないでいるバルトと、腰が抜けて座り込んでいる夢香、そして、気を失って倒れた小さな愛子の三人だけだった。

 バルトと夢香は、愕然と愛子を見つめた。


『もう隠せない!』

 館に戻った夢香は、書斎の机に苛立ちをぶつけた。

 全身を包帯でぐるぐる巻きにしたバルトは、片足を引きずりながら追いすがった。

『お嬢様、まだそうと決まったわけでは――』

『そんなわけない!このまま放っておいたら、シルヴァは絶対に愛子を狙ってくる!』

『しかし――』

 夢香が今にも壊れそうな表情をしていたので、バルトは押し黙った。

 もう、おままごとをねだるお嬢様の顔ではなかった。

『そんなことさせない。この子が大人になるまで、絶対に守ってみせる……!』

 何も知らず、ソファですやすやと眠っている愛子の顔を、夢香は決意のこもった視線で見つめていた。

『どうなさるおつもりですか』

『オルバルトさんに誕生日を伝える』

『嘘の誕生日では、すぐに勘づかれます』

『嘘はつかない。でも間違えるの』

 夢香は翡翠の瞳でバルトを射抜いた。

『乙女座に生まれたのは私。シルヴァが殺すべきは、この私よ』

 その瞬間、バルトは感服した。自らが命を懸けて守るべき、真の主の姿を見た。彼はその場で跪き、身も心も夢香にささげた。

『全ての神官に伝えなさい……バルト・シルヴェスタキ、あなたが守るべき神童は、今日から私よ』

 人には魂の入れ物がある――


『お嬢様、少しはお休みになってください』

 深夜、二時を回ろうかという時間。バルトは、なかなかベッドに行こうとしない主を見舞った。

『休めない……あの子のために……私は神童でい続けなきゃいけないの……!』

 夢香は血反吐を吐く時と同じ音で返事した。机の上には本が山のように積み上げられており、彼女はその一つを開き、一生懸命にノートに書き写していた。ありとあらゆる国の言語で書かれたそれらを、彼女は読み解き、記憶し、己の糧としているのだ。

 しなければならないのだ。

 バルトは彼女の肩にそっとブランケットをかけた。


『今年はこれを送ろうと思うの。バルト』

 カナダで立ち寄った土産物屋で、夢香は久しぶりの笑顔を見せた。

『はい』

 その手からドリームキャッチャーを受け取り、バルトは店主のもとへ持って行った。

『ちゃんと五月(・・)に届くようにね』

 大人になった夢香は、あきれるほどの美しさで微笑んだ。


 やめろ、今じゃない、今じゃない、今じゃない――オレが死ぬのは今じゃない。

 閉ざされていく視界、動かなくなっていく四肢、彼はその全てに抗い、敗れていく。

 ミリオンセラーを握ったまま、両手が上空へと投げだされる。

 群がる悪魔の下に(あるじ)が消えていく。

 主との記憶が、走馬灯のようによみがえる。

『はっ!はっ、はっ、はっ!はっ、はっ……』

 自分の喉が、自分で制御できなかった。バルトの左目にはしばらく、澄み渡る青空と、そこを横切る無数の黒い羽が見えていた。

 オレンジの閃光が走り、数十体の悪魔が、来た時は反対方向に飛んでいった。

 ざくざくと雪をかき分ける音が近づいてきて、誰かが上から覗き込んできた。

 頬を血で染めた、(あるじ)だった。

『はっ!はっ!はっ……!はっ!はっ!はっ!』

 こんなにもどかしいことがあろうか、声を出したいだけなのに!彼女を守りたいだけなのに!ただそれだけを!死ぬ前にそれを果たしたいだけなのに!

 焦れば焦るほど呼吸は乱れ、力めば力むほど血が噴き出した。

『ごめんね、こんなところまで付き合わせて。本当にごめんなさい』

 夢香は、そばかすがとびきり可愛かった夢香は、感謝と信頼に満ちた顔で言った。

 その手が自らの頬に添えられたのが、バルトの中で永遠の(とき)となって残っている。

『心配しないで、儀式は私が終わらせるから!』

 夢香の顔が近付いてくる。彼女のやわい唇が、額に優しく乗せられる。

『愛子のことをお願い……!』

 それだけ言い残し、夢香は去っていった。

『はっ、はっ、はっ、はっ……はっ!はっ!はっ!はっ!はっ!』

 バルトは渾身の力を振り絞り、頭をもたげた。右頬にあいた穴から血がなだれ込み、彼の喉を容赦なく塞いだ。

『はぐっ……!ぐっ……!かっ……!あっ!……がっ……!』

 もう一度、悪魔が集結してくる。瀕死のバルトには目もくれず、夢香の命を奪うため、群がってくる。

 夢香は水晶を胸の前に浮かべると、苦しそうな顔をして呪文を唱え始めた。たちまち彼女の手の平からオレンジの粒子が放たれ、水晶の中へと注ぎ込まれていった。水晶はぶるぶると震え始め、その表面にヒビが生まれていった。

『お……じょ……んっんん、んっ……!』

 百の悪魔が二百の手を伸ばし、彼女の頭を引きちぎらんとしたその時――


 夢香の命と、水晶がはじけた。


 神官二人分の命を伴ったオレンジの衝撃波が、凍った湖の上を走り、あたりの空間を突き抜けた。遠く針葉樹の森を揺らし、湖の亀裂を二倍に増やした。その場にいた悪魔は一匹残らず浄化され、雲散霧消した。

 バルトは血の涙を流した。


『なんということだ……』

 これは私の声だ。バルトはもうろうとした意識の中で、これを聞いたという。

『バルト!バルト・シルヴェスタキ!しっかりせぬか!』

 次に目覚めた時、彼は病院の救急治療室にいた。左目だけで、私の姿を見ていた。いや、睨みつけていた。

『バルト・シルヴェスタキよ。貴様の命はもはや助からぬ。わずかな望みがあるとすれば……研究開発中の細胞活性剤……あれしかない』

 この時バルトは、けが人とは思えぬ力で私の腕を握ってきた。ありとあらゆる機械が、彼の状態異常を告げて暴れまわる中、バルトは、有無を言わせぬ力強さで頷いた。

『右目の損傷が激しすぎる。自然治癒では間に合わぬ。されとて、機械化すれば、悪魔を見る力がどうなるか、保証もできぬ、それでも生きるか――』

 それでも、彼は頷いた。

 彼の頭の中には、ずっと声が響いていたのだ。

 (あるじ)の残した、最後の命が。


 細胞活性剤が注入され、バルトの全身を、針で刺されたような痛みが襲った。心臓から爪の先に至るまで、全ての細胞が一斉に暴れ出したのだ。

 バルトは怪物のような咆哮をあげた。もはや麻酔は効かぬ。麻酔の効果さえ、彼の体は一瞬で処理してしまう。

 残った左目で、見える。

 機械の右目が降りてくる。

 瞳孔を真っ赤に光らせ、太いケーブルを何本も垂らし、自らの頭蓋骨に降りてくる。

『あぁ……!ぅあああああああーっ!』

 骨が再生する苦しみなど、誰にも理解が及ぶまい。頭蓋骨が、焼けるほどの熱を持って、正しい形など無視して滅茶苦茶に伸び始めるのだ。それをグラインダーで削られながら、削られたそばから再生しながら、機械の右目が接続されるのだ。脳に直接プラグを打ち込まれ、喉の奥にまた大量の血が流れるのだ。

 金とチタンの合金で作られた骨格の周りに、筋肉の繊維が走る。

 わなわなと震える筋肉たちの上に、皮膚が(かたど)られていく。

 冷たくなってしまった右目を、まぶたが覆う。

 機械の右目は彼の一部となり、彼は騎士としての能力(ちから)を失う。

 それでも、生きねばならぬ。

 生き続けなければならぬ。

 託されたのだから――


『愛子のことをお願い……!』

 『お願い……』

  『お願い……』

   『お願い……』


「愛子のことを、お願い」

 永い夢だった。

 バルトは生きていた。

 目を開いた時、そこはシベリアではなく、ましてや、病院の手術台でもなかった。

 暗闇だった。

 ジイジイと、右目が唸っていた。中のモーターがやられたのか、レンズにひびが入ったのか、ともかく、まともに機能していない。視界が真っ赤になり、時おり砂嵐のように残像がちらつき、ひどいときには映像そのものが揺れた。

 無事な方の左目で周囲を伺ったが、闇と静寂以外何も見えなかった。一つの光もなかった。

 ものすごく重たい何かに、押しつぶされているようだ。身動きが取れない。徐々に明らかになる感覚を頼りにすれば、中腰の姿勢のまま、腹の下と背中の上を、瓦礫に挟まれているのがわかる。

 息苦しい。そう思って、身をよじった。砂ぼこりが鼻をつき、それ以上はなにも変わらなかった。

「ふん……んっ……ふん……」

 挟まれている両腕をじりじりと動かし、瓦礫の隙間から引っ張り出した。右手がズタズタになった。傷口は治らず、血がだくだくと流れ続けていた。

 左手は結局回せなかった。バルトはそのまま頭上の瓦礫に手を当てた。

「はあ……はあ……ふん!……だあっ……!」

 ろくに力を込められぬ中、瓦礫を持ち上げようと試みた。

「ぐぅぅぅうううう!だああぁぁぁぁぁぁ!あぁっ!」

 世界がのしかかっているようだった。バルトの力を持ってしても瓦礫はビクともせず、肩や腕の骨がミシミシと嫌な音を立て始めた。踏ん張って初めて気付いたが、左足が完全に折れていた。右足一本で踏ん張るしか、選択肢がないのだ。

「ああああ!ああぁーーーっ!っがあ!」

 自分の雄たけびが、雄たけびだけが、瓦礫の中で反響した。孤独であることを強調した以外に、それは何の役にも立たなかった。

 体力も気力も既に底をついていた。バルトはそれ以上瓦礫を支えることができず、元の中途半端な体勢に押し戻された。

「はぁー……はあー……はーっ、はーっ……はー……」

 右目全体にひどい歪みが出たのだろうか?

 バルトの右頬に、こんこんと、一筋のしずくが流れていた。

 惨めだった。

 あまりにも惨めだった。

 命を懸けて守ると誓った(あるじ)を目の前で討たれ、今度はそのたった一人の妹を守ろうとしたのに、そのための脱出すら満足にできぬとは。

 何のために生まれなおしたのだ。

 何のために生きてきたのだ。

 そんなことばかりが、バルトの頭を渦巻いた。

 己の存在意義は雲のように力なく、水のように透明に感じられた。

 バルトは目を閉じ、呼吸を整えた。


 まぶたの裏に、いつでもいた。今でも思い浮かぶ。忘れることなどどうしてできる?


「くっ……ぐぅ……!」

 バルトは再び瓦礫を持ち上げ始めた。抑えられていた傷口が開き、脇腹から血が噴き出した。ズボンがぐっしょりと濡れても、力をこめ続けた。

「ぐぅぅぅうううう!っでぁあああああああああああ!」

 アトラスの再誕かと見紛うほどの怪力、ドムトールンの残骸がついに動きはじめた。

 バルトの底力によって、高さ十メートル、重さ数十トンもあろうかという塊が、浮き上がったのだ。

 その瞬間、どよめきが起こった。

 これだけの大惨事だ。当然のごとく、警察や消防が駆けつけていた。

「離れろ!離れろーっ!」

「戻れ!戻れーっ!」

 笛の音がけたたましく鳴り、慌ただしく駆け出した足音で周囲は埋め尽くされた。

 朝日との邂逅、バルトは巨大すぎる残骸を運河へ投げ飛ばした。

 津波と見紛うほどの水しぶきの向こうから、自分の方に向けられる視線、視線、奇異の視線……誰もが唖然とし、こちらに近づけないでいる。もはやそんなものにかまって等いられぬ。

 廃墟と化したハウステンボスをぐるりと見渡す。あたりをパトカーや消防車、救急車で囲まれ、一般人はその姿を消している。

 バルトは悟る。

 愛子はすでに連れ去られた。シルヴァが儀式を行っている。

 折れていない右足を踏み出した時、ぴしゃりと水をうがった音がした。

 視線を落とすと、レストランの冷蔵庫からでも漏れたのだろうか、牛乳が小さなちいさな川を作っていた。

 牛乳は瓦礫の破片や泥で黒く染まっていたが、バルトは躊躇なく跪き、手ですくい、口に含んだ。

「ごふっ!っぐ!」

 とたんにせき込んだが、なにを、牛乳の小川の向こうには、生肉がいくつも転げ落ちているではないか。

「き、君……!」

 ヘルメットをかぶった警官の声を無視して、バルトは生肉に手を伸ばした。歯をつき立て、無理やり引きちぎり、噛めぬものだからそのまま飲み込んだ。

「ぅおえっ!ぐぇぇえっ!……かっ……!」

 ものすごい吐き気がこみあげてきたが、バルトは吐き出した物を牛乳と泥とを一緒にしてもう一度呑んだ。

「うぅぉぇぇえええ!ぐあっ!はぐっ……!ぐっ……!ぐっ……!うぅううぅ!」

 バルトは吐きながら食べ続けた。肉塊を一つ平らげ、二つ平らげ、全部吐き出し、また呑んだ。手に持てるだけの肉を持って、立ち上がり、歩きながら食らい続けた。

「ちょ、ちょっとっ……待ちなさい!」

 折れた左足をかばいながら、ひょこり、ひょこりと歩き続けた。

「待ちなさい!君!」

「救急車寄せて!早く!」

 警官がよってくる。バルトはまた生肉を食らう。

 どんなに気持ち悪くても、死ぬほど苦しくても、食べることを辞めなかった。歩くことを辞めなかった。

 全てを犠牲にしてでも、守りたい人がいた。

 その人を失うことに比べたら、こんなものは苦痛でもなんでもなかった。

 生のまま食い続けた食材は彼の血となり、肉となり、急速にその身を癒し始めた。

 初めは右足で跳ねるように――バルトは走り出す――それが次第に、左足を継げるように――どんどん加速する――完全に治った左足で、飛ぶように走る――もはや、誰にも追いつけない!

 七秒でハウステンボスの敷地を抜け、山の中を脱兎のごとくかけた。彼の通った後には猛然と砂ぼこりが舞い、落ち葉や木の枝は全て空に巻きあがった。

 さあ、今こそ問うぞ。

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