第四章(5)
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新学期が始まり、俺は二年に進級した。
始業式から数日のうちは廊下を歩いていると赤いスリッパを見かける度に三年生だと勘違いして身構えてしまっていたが、今はそんなこともなくなった。
真新しい光沢を持つ赤いスリッパは、気持ち大きめに仕立てられた制服と相まって、初々しい雰囲気を新入生に与えていた。
進級したことでありがたいこともある。
一年のうちは四階に教室があったが、今は三階になったことだ。
今までは遅刻ギリギリに校舎を駆け上がる時は相当に体力を消耗していたものだが、登る階がひとつ減るだけでだいぶ楽になった。
……時々今までの癖で四階まで一気に駆け上がって、一年生に奇異の目で見られることもあるけれど。
想定外だったのはクラス替えだ。
どうせ俺にはロクな友人もいないし、どう振り分けられようと関係ないと思っていたのだが、どういう縁かアンナと同じクラスになってしまった。
新しい教室で最初に顔を合わせた時、アンナが露骨に眉間に皺を寄せたのが腹立たしかった。
俺だって別にお前と同じクラスになりたくなかったっつーの。
まぁそれでも、登校してきたときには「……おはよ」「……ん」みたいな感じで挨拶を交わすくらいには打ち解けてきているから、まぁ悪い傾向ではない気がする。
この程度の挨拶で打ち解けたって表現していいのかは悩ましいレベルだが。
助かったのは、今年も遠藤と同じクラスだったことだ。
基本的にこの学校の席順は苗字のアイウエオ順なので、今はアンナ(安斎)・遠藤・俺(大泉)という順番で席に着いている。
遠藤は持ち前のコミュ力とサッカー部の人脈で新学期早々クラスの中心的人物になっていたから、俺とアンナに挟まれた彼が話題を振って、三人で話すことも度々あった。
もし遠藤がいなかったら、例えば前からプリントが回ってくる時なんかに毎回アンナに嫌な顔を向けられることになっていただろうから、これは本当に僥倖と言う他なかった。
そんなこんなで新年度最初の一週間が慌ただしく過ぎさろうとしている、四月七日の放課後。
俺はショートホームルームが終わるとゆっくりと席を立ち、二つ前の席に座るアンナに声をかけた。
「部室、行くだろ?」
「……アンタと連れ立って歩き回りたくないんだけど」
「んなこと言ったって、出発地も目的地も同じなのに別々に行動するほうが不自然だろ。いいからさっさと行くぞ。本番までに少しでも多く練習しときたいしな」
そう言いながら、俺はアンナに背を向けて歩き始めた。
後ろからアンナが「ちょ、待ちなさいよ!」と非難の声をあげるが、トロトロしてる方が悪い。
それでも一応立ち止まって振り返ると、席を立ってこちらに近づいてくるアンナの後方で、席に座ったままの遠藤がニヤニヤしながら親指を立てて俺を見ていた。
アイツ、絶対なんか勘違いしてるだろ……。
俺はゲンナリといった感じで肩をすくめた。
「うわっ、ウザ。なんなのアンタ」
俺の仕草を見咎めたアンナがそんなことを言ってくる。
どうやら俺の態度が自身に向けられたものだと思ったのだろう。
ほんとめんどくさいな、コイツ。
「お前じゃなくて遠藤にだよ。いいから黙って歩けって」
俺を睨みつけてくるアンナを適当にあしらいながら、俺と彼女は連れ立って部室に向けて歩き始めた。
肩にかかるギターケースの重みのせいで少しばかり歩みが鈍いが、そのおかげで期せずして小柄な彼女と歩幅を合わせることができた。
普段通りに歩いていたら、たぶん彼女に相当な早歩きを強いることになっていただろう。
「……あれからどうなの。少しはマトモに弾けるようになった?」
特別棟へと繋がる渡り廊下に差し掛かったあたりで、アンナが唐突に口を開いた。
俺は進行方向を見据えたまま、小さく唸る。
「むぅ……。もちろん練習はたっぷりやってきたけど、不安がないと言ったら嘘になるな。ひとりで弾くのと他人と合わせるのじゃ全く感覚が違うってのは、前のスタジオで嫌というほど痛感したし」
「ま、そりゃそうよね。……私も初めてスタジオに入った時は、全然マトモに歌えなかったし」
ポソリとアンナがそう呟く。
俺は驚いて視線を彼女に向けた。
「お前も、似たような経験があるんだな」
「そ。前回の練習の時アンタのこと責めたけど、人のこと言えないわよね」
そう言いながら、アンナは小さくため息を吐く。
少しばかりバツが悪そうな表情を浮かべながら。
「あのスタジオの後さ、私も初めてバンド練習に参加した時のこと思い出したんだ。私、歌にはちょっと自信があったのよ。中学の頃から友達とカラオケに行ったりすると、自分で言うのもアレだけど、私より上手く歌える子は誰もいなかったわ。声量も音感もテクニックも、同世代の子なら誰にも負けないって思ってた」
アンナは真っ直ぐに前を見据えながら言葉を続ける。
俺はその横顔を、ただ無言で見つめていた。
「でも当たり前の話だけど、カラオケとバンドじゃ全然感覚が違ったのよね。カラオケならなんの苦労もなくスラスラと歌えてたのが信じられないくらい、バンドでは全然マトモに歌えなかった。自分の歌声も聞き取りづらいし、各楽器のバランスも全然違うし、どうして私はこんなに歌えないのってパニックになったわ」
その時のアンナの心情を、俺はありありと想像できた。
つい先日俺がスタジオで感じた戸惑いと、全く同じといってもいいものだったからだ。
「それが悔しくて、本番までにもっと上達しなきゃって焦っちゃってさ。死にそうな思いで歌いまくってたら、その次の練習の時には声が枯れちゃってて、最初の時より酷い歌しか歌えなかったのよね」
「……ボーカルはボーカルで大変だな。楽器を用意するでもなく、ただ歌うだけなんだから、もっと気楽なもんかと思ってたわ」
「私も最初はそう思ってたよ。今思うと、ナメてたとしか言いようがないけどね」
そう言って、アンナは苦笑いを浮かべながら俺に視線を向けた。
教室を出てから、初めて俺と彼女の視線がぶつかった。
「ダイスケ、手のケガはどう?」
そう問われて、俺は右手を彼女の顔の前に差し出した。
その手にはドラッグストアで買ったテーピングが、手刀部分を保護するようにぐるぐると巻き付けられている。
「黒峰のアドバイスでこうするようにしてからは、痛みもさほど気にならなくなったな。ま、ブリッジミュートの音質が少し変わっちまうから、本番では外さないといけないけどな」
「……そう」
アンナは目を細めて、俺の手を見つめていた。
俺に対してはいつも不機嫌そうにしている普段の彼女とは似ても似つかないその表情に、俺は思わず少しだけドキリとした。
「私は、絶対に歓迎会を成功させたい。先輩が大切にしているこの部活を守りたい。先輩が卒業するまでずっと一緒に居たい」
彼女は俺の手から視線を上げ、再び俺と目を合わせた。
彼女の瞳には、力強い決意の程が伺えた。
しかしその奥には、同時に隠しきれない不安や焦燥が見て取れる。
彼女は今、きっと必死なんだ。
「だからダイスケ、ホントにホントに頼むわよ。なんとしてでも、歓迎会を成功させて」
「……随分とプレッシャーをかけてくるな、おい」
「アンタに責任を押し付けてるみたいで、ゴメン。でも、私はそう言ってお願いすることしかできないから。……だから」
彼女の言葉が終わらないうちに、俺たちは揃って足を止めた。
目の前には、見慣れた教室の扉がある。
部室に到着したのだ。
「……だから、頑張ってよ、ダイスケ」
吹けばたちまちかき消えてしまいそうなくらい小さな声で、アンナはそう呟いた。
そして俺が返事をする間もなく扉を開き、部室の中へと入って言った。
すぐに「せんぱぁ〜い! お疲れ様です〜!」といういつものアンナの猫なで声が響いてくるのを聞きながら、俺も続いて部室に足を踏み入れた。
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