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第三章(7)

「キスしてよ、ダイダイ」


 何を言い出すのかと思ったら、黒峰はサラッとそんなことを言ってのけた。

 俺は突然のことに頭が真っ白になりかけたが、努めて冷静を保って彼女に問いかける。


「……ヤケになってるだろ、お前?」

「ん……否定はしないよ。あんなことがあった直後だしね」

「悪いことは言わない、もっと自分を大切にしろよ」

「ダイダイは、私とキスするのは嫌?」

「そうじゃない。お前が可愛いって思ってるのは、さっきも言ったけど本心だしな」

「じゃあいいじゃん。最初にここに来たのも、下心があったからでしょ? あの時からかった分の埋め合わせだと思ってくれればいいよ」

「……後悔するぞ」

「後悔したいの。後悔させてよ」


 挑発するような黒峰の物言いに、俺はだんだんと腹が立ってきた。

 ここまで言われても及び腰の腑抜け野郎だと思われるのは癪だ。

 俺は一度深くため息を吐いてから、ゆっくりと立ち上がった。


「今さらやっぱナシなんて言っても遅いからな」

「カッコつけちゃって。童貞のダイダイに、上手にできるかな?」


 その言葉に、俺は本気で頭に血がのぼるのを感じた。

 彼女の口車に乗せられているのは分かってるが、それでも激情が理性を飛び越えていった。

 そこまで言うんなら、本気で後悔させてやる。


 俺は左手を黒峰の腰に回して、強く彼女を引き寄せた。

 彼女は一瞬ビクッと身体を震わせたが、すぐに力を抜いて俺の胸の中に収まった。

 俺は空いている右手を彼女の顎に当てて、半ば無理矢理顔を上げさせた。

 彼女は抵抗するでもなく、真っ直ぐに俺の目を見据えてくる。


「……目、閉じろよ」

「嫌。ダイダイがどんな顔でキスするのか、じっくり見ててあげる」


 コイツ、どこまでも俺を煽るつもりだな。

 俺は負けじと、睨みつけるように黒峰の透き通るような瞳を見つめ返す。

 そしてゆっくりと、彼女に顔を近付けた。


 その時、急激に黒峰の顔が迫ってきた。

 彼女が背伸びをしたのだ。

予想外の彼女の動きに、俺は咄嗟に対応できず——


 ——そのまま俺たちは、唇を重ねた。


 初めてのキスは、不思議な感覚だった。

 自分の唇から、彼女の温かく湿った唇の感触を感じる。

 俺は息を止めて、微動だにできなかった。

 怒りと興奮と衝撃と劣情がごっちゃになって俺の脳内を駆け巡る。

 俺は無意識に左手に込める力を強くした。


 しばらくの後、黒峰が一旦唇を離した。

 誘うようにして、数センチの距離で俺に吐息を吹きかけてくる。

 俺もそれに合わせて息継ぎをしようとしたが、そうする間もなく再び彼女の唇が重なった。

 そのせいで俺の吐いた息がゼロ距離で彼女の顔に当たってしまった。

 やっちまったと思ったが、彼女は気にしたふうもなく、唇を動かし始めた。


 黒峰はついばむようにして俺の下唇を弄ぶ。

 ぬらぬらとうごめくその感触は、先ほどまでとは比べものにならないくらいの興奮を俺に与えた。

 俺は下半身がじんわりと熱くなってくるのを感じた。

 彼女を抱き寄せているせいで、硬くなった俺のオトコノコが、彼女の下腹部あたりに押し付けられているのが分かる。

 それに気付いたのか、彼女は目元にニンマリと笑みを浮かべた。


 それが癇に障った俺は、反撃に打ってでた。

 俺の下唇をついばむために半開きになった黒峰の口中めがけて、ぐっと自分の舌を押し入れる。

 彼女は一瞬驚いたように目を見開いたが、すぐにそれに順応して、自ら舌を絡めてきた。

 お互いの舌を押し付けるようにする度に、右へ左へと舌が滑る。

 彼女の生暖かい吐息と唾液が、直接俺の口内に流れ込んできた。


 俺はまだ攻撃の手を緩めない。

 今度は左手の位置を下ろして、黒峰の小ぶりな臀部に添えた。

 それをぐっと握るようにしながら引き寄せると同時に、俺の右太腿を彼女の脚の間に押し付けてやる。

 さすがにこれは予想外だったようで、彼女は身体を強張らせた。

 俺のブレザーを握る彼女の手の力が強くなったのを感じる。

 しかしそれでも、彼女は抱きしめられた身を剥がそうとはしなかった。


「——ッ!?」


 今度は俺が驚く番だった。

 黒峰の口中をまさぐっていた俺の舌に、鮮烈な痛みが走る。

 彼女に舌を噛まれたのだ。

 俺はじんわりと血の匂いが広がっていくのを感じた。


 それに激昂した俺は、右手を黒峰の後頭部に回した。

 絶対に逃げられないようにするためだ。

 俺は彼女の艶やかな髪の柔らかさを感じる右手に力を込めて引き寄せ、さらに奥深くまで舌を押し入れた。


 俺は黒峰の口内を蹂躙し尽くした。

 自分の舌を、彼女の舌の先端から付け根まで余すところなく擦り付けた。

 前歯から奥歯まで一本一本舌を這わせた。

 吸い込むようにして彼女の唾液を飲んだ。

 俺の血と混じり合ったその唾液は、鉄の味がした。


 俺は無我夢中で黒峰をむさぼった。

 だから気付くのが遅れた。

 いつの間にか彼女は、目を閉じていた。

 舌も唇も動かすのをやめていた。

 俺のブレザーを握っていたはずの手はだらりと垂れ下がっていた。

 もう背伸びもしていなかった。

 そして目元には、うっすらと涙が浮かんでいた。


 俺は慌てて顔を離す。

 自分の血の気が引いていくのを感じた。

 感情的になりすぎた。

 明らかにやりすぎた。

 俺はいたたまれなくなって視線を落とす。

 そこには俺と黒峰のギターが、並んで立て掛けてあった。


「……ダイダイ、やっぱり結構大胆だよね」


 ぼそりと黒峰が呟く。

 その声色からは何の感情も読み取れない。

 ニュースキャスターが中央線の遅延情報を伝えるのと同じくらいの無機質さだ。


「……悪かった」

「謝らないでよ。私がお願いしたんだから」


 そう言いながら、黒峰は小さな笑みを浮かべようとする。

 しかし彼女は全く笑えていなかった。

 表情は完全に強張りきっていて、明らかに無理をしているのが見て取れる。


「ダイダイのおかげで、忘れられないファーストキスになったよ。へへっ……」


 サラリと、彼女はそんなことを言ってのける。


「……初めてだったのか」

「……うん。さんざんダイダイのことバカにしてたのに、人のこと言えないよね。好きになった人が歳上だったから、私も大人ぶりたかったんだ。だからダイダイにあんな態度取っちゃったんだよ。……ゴメンね」

「謝るなよ……謝らないでくれ」


 苦虫を噛み潰すように、俺は言葉を絞り出す。

 黒峰を後悔させてやるつもりだったのに、気付いたら俺まで深い後悔の念に苛まれていた。


「うん……。でもね、ダイダイのおかげでだいぶスッキリした気がするよ。だから、あり……ありが……」


 黒峰が唐突に言葉を途切れさせたので、俺は訝しんで彼女に向き直った。

 彼女は、今にも泣きだしそうなのを必死で堪えていた。

 ぐっと顔をしかめて、ひっくひっくと肩を震わせて、大粒の涙を目尻にためて。


 俺は反射的に、再び黒峰を抱き寄せた。

 俺にそんなことをする資格があるとは到底思えなかったし、黒峰がどう感じるかも分からなかったけど、抱きしめないわけにはいかなかった。

 今度はできるだけ、優しく。

 俺が静かに頭を撫でてやると、黒峰は堰を切ったように声を上げて泣き始めた。

 シャツの胸元が涙で湿っていくのを感じる。

 俺はつられて泣き出しそうになるのを必死で我慢した。




 ——あぁ、やっぱり初めては、純情純潔両思いであるべきだったな……。




 悔恨と悲壮の狭間で、俺はぼんやりとそんなことを考えていた。




 ♫ ♫ ♫ ♫

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