第三章(8)
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翌日の授業も、俺はそのほとんどを寝て過ごした。
昨日はあれだけ寝不足だったはずなのに、帰宅してから倒れるようにベッドに潜り込んでも一向に眠りにつくことができなかったからだ。
まぁ、昨日の部室での出来事を思えば当然とも言える。
あんなことがあってなおグースカと寝られるほど、俺の神経は図太くない。
食欲もほとんどなかった俺は、昼休みにいつものサンドイッチを買うのをやめ、いちごオレで喉の渇きを癒しただけで図書室で居眠りを再開した。
昨晩の夕食、そして今日の朝食も固形物はほとんど喉を通らなかったが、それでもなお空腹感を覚えることはなかった。
唇にはいまだに黒峰とのキスの感触が残っているようにすら感じた。
あるいはそれも食欲減衰の原因のひとつなのかもしれない。
唇に何かが触れると、どうしてもあの感触を思い出さないわけにはいかなかったからだ。
そしてその度に俺の下半身はじんわりと熱くなり、同時に俺の心は冷凍庫にブチ込まれたように冷たくなった。
はっきり言って最低の気分だ。
こんな居眠り三昧のなかで幸いだったのは、今が年度末で、かつこの高校が進学校だということだった。
この高校では期末試験後の授業は、そのほとんどが来年度の予習の内容なのだ。
だから仮に聞き逃したとしても、そのうち改めて同じ内容の授業を受けることができる。
加えてこの高校は自己研鑽を旨として掲げていて、自主学習用に授業内容の要点をまとめたプリントを山のように配布する伝統がある。
教師によっては黒板は一切使わずにパワーポイントのみで授業を行い、そのスライドを印刷したものを生徒に配っていたりするくらいだ。
その教師曰く「黒板を書いたりノートを取るのに時間を割くのは勿体無いから、とにかく授業中は講義を聞いて理解することだけに集中しろ」という意図らしい。
それは極端な例だが、とにかく授業を聞いていなくても、あるいは欠席していても、配られるプリントさえきちんと復習して理解していれば大抵の科目では赤点になることはない。
そして毎年高偏差値の大学に合格する卒業生のほとんどは、一年生の頃から大切に貯めたプリントの分厚いファイルのおかげで合格できたと口を揃えて言う……らしい。
さすがにそれは少なからず教師達が話を盛っているんじゃないかと疑ってしまうが。
なんにせよそんな風習があるから、俺も少なからず安心して居眠りができるというわけだ。
もちろん俺はできるだけ高い成績を残したいと思っているから、普段はきちんと授業に集中するよう努めている。
ただ今はあまりに心身ともに疲弊してしまっているから、学校のシステムに甘えさせてもらうことにした。
しかしそれだけ惰眠を貪ったのにも関わらず、だるさは全く回復しなかった。
ホームルームが終わる。
俺はゆるゆると席を立つと、ギターを抱え、部室に向けて歩き始めた。
肩に食い込むギターケースがやけに重い。
これが5キロもないなんて絶対に嘘だ。
その倍はあると言われても違和感を覚えることがないだろうというくらい、ずっしりとした重みを感じる。
俺はそれに押し潰されるようにして、深いため息を吐いた。
特別棟の長い長い階段を上り終え、俺は部室の前に立った。
このドアを開けたくない。
俺は心からそう思っていた。
しかしいつまでも廊下に立っているわけにもいかず、俺は静かに、ゆっくりと、ドアに手をかけた。
せめて俺が一番乗りなら、まだ少しは気持ちを落ち着ける猶予があるかもしれない。
しかしそんな淡い期待は叶わなかった。
そこには既に、黒峰がいた。
「やっほー、ダイダイ」
「……おう」
なんでもなさそうに、気軽な感じで黒峰が声をかけてくる。
しかしそれはきっと嘘だ、と俺は直感的に思った。
いかに気丈な黒峰とはいえ、昨日の出来事が何のしこりにもなっていないとは考えにくい。
きっと彼女は今、無理をしている。
いっそ、もっとよそよそしく振舞ってくれたり、あるいは罵声を浴びせかけてくれたりしたほうが、俺としてはよほど気が楽だった。
黒峰が今、普段通りに振る舞おうとしていることが、どれだけ彼女の負担になっているか。
それを想像しようとすると、俺は胃を握りつぶされるような感覚に襲われた。
「もしかしたら今日、来てくれないかと思って心配だったよ」
あはは、と笑いながら黒峰が言う。
冗談のつもりなのだろうが、冗談になっていない。
実際に俺が今日ここに来るのをやめようと考えたのは、一度や二度ではなかったからだ。
しかしそれでも俺は、ここに来た。
「約束したからな、歓迎会に出るって」
そう、その約束だけが俺を突き動かしていた。
たとえ流れでそうなったのだとしても、一度交わした約束を自分勝手に破ることはしたくなかった。
そんなのはフェアじゃない。
「……ん。ありがと」
小さな声でそう呟きながら、黒峰ははにかむ。
俺もそれに合わせて微笑もうとしたが、表情筋が強張ってしまっていて、うまく笑うことができなかった。
ははっ、と乾いた笑い声だけを絞り出すのがやっとだ。
「昨日は……ごめん。頭に血が上ってたとはいえ、やりすぎた」
椅子に座る黒峰の足元に視線を落としながら、俺は改めて謝罪を述べる。
いくら言葉を重ねたところで過ちがなかったことになるわけではないが、それでも謝らずにはいられなかった。
「もう。昨日も言ったでしょ、悪いのは私だって。そんなに気にされるとこっちだって困っちゃうよ」
苦笑いを浮かべながら黒峰は言う。
確かに彼女の言うことも一理あるのだが、俺はなかなかそう簡単に割り切ることはできないでいた。
思わず眉間に皺が寄る。
「それにほら、アレだよ。こういうのもなんていうかセーシュンって感じしない? 一時の気の迷い、感情の暴走、苦い思い出……。うん、こういうのもまたロックだね」
「いや、ロックなのかこれ?」
どうにも彼女が言うロックという言葉の定義が判然とせず、俺は間抜けに聞き返す。
彼女と話していると、ロックという言葉がどんどん形而上学的概念を帯びてくるようにすら感じる。
……なんなんだよ、ロックって。
いやマジで。
「まぁ、昨日のことはお互いもう忘れよう? あんまり引きずってもいいことないし、これでギクシャクしちゃうのも嫌だしね」
「……そうだな」
黒峰の提案に、俺は生返事をして首肯する。
そうそう簡単に忘れられるようなことではないとも思うが、確かにいつまでも気にしていたら俺の精神がもたないのは目に見えている。
忘れることはできないにしても、せめて心の奥底に封印できるように心掛けよう。
ここまで話して、一旦会話が途切れた。
気まずい沈黙が訪れることを予測して少し気が重くなったが、まさにその時、ガラガラという音を立てて部室のドアが開いた。
「あらぁ、アカネちゃん、ダイスケちゃん、早いわねぇ」
「せんぱぁ〜い! こんにちは! 昨日は急に電話しちゃってすみませんでした!」
連れ立って入ってきたのは、言うまでもなくカオルちゃんとアンナだ。
俺は軽く手を上げながら会釈をする。
つーかアンナのヤツ、完全に俺のことスルーかよ。
別にいいんだけど、なんか釈然としない。
「やっほー、ふたりとも。アンナも昨日はわざわざありがとね」
「そんな……。ただ、心配だっただけですよ。もう、大丈夫ですか?」
「……ん、大丈夫だよ」
黒峰とアンナがお互いに気を遣って言葉を重ねていくのを、俺は居心地悪く聞いていた。
昨日の夜、彼女たちはどんな会話をしたのだろう。
さすがに俺との件を話したりはしてないとは思うが、やはりどうしてもわずかに胸のつかえのようなものを感じずにはいられなかった。
「ところでアカネちゃん、歓迎会でやる曲は結局どうするの?」
部室の奥からふたりぶんの椅子を持ってきながら、カオルちゃんがそう尋ねる。
そうだ、今日こうしてメンバーが全員集まったのは、そもそもそのためだった。
「あ、そうだね。八割がたアレンジも定まったし、お披露目するよ。最初は私が弾き語りするから、みんなはとりあえず聴いてみてよ」
そう言いながら、黒峰は彼女らしい悪戯っぽい笑みを浮かべる。
いつもよりは少しばかりぎこちないようにも思えるが、こういう表情が自然にできるくらいには、彼女はもう気持ちを整理しているのかもしれない。
黒峰がケースからギターを取り出し、セッティングを始める。
その間に俺たちは彼女の座る椅子に向かいあうように、自分たちの椅子を扇状に並べ直した。
手際よく準備を終えた黒峰は、視線を上げて俺たちをぐるりと見渡した。
「じゃあ、始めるね。気に入ってくれるといいけど」
そして、軽く呼吸を整えたのち、黒峰の演奏が始まった。
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