プロローグ:空っぽの記憶
雨の音が、やけに遠く感じる。
それなのに、体の上で叩きつけられているような感覚がある。
「……っ」
「こ…ここは…」
目を開けるとそこは知らない景色だった。
街灯の光がぼやけて、輪郭だけが揺れている。
俺はボロボロの服のなか、歩き始めた。
何も思い出せない。
頭の中を探っても、空白しかない。
最初から何もなかったみたいに、綺麗に抜け落ちている。
「……ふざけてるだろ」
吐き出した言葉に、感情が乗らない。
怒っているのかすら、判断できない。
服は濡れて重い。冷たい。
遠くで、車のライトが揺れた。
こちらに向かってくる。
「っ」
反射的に体が動く。
考える前に、体が動いた。
直後、車がすぐ横を通り過ぎる。
風圧と水しぶきが頬を打つ。
「……なんで避けれた」
今の動きは、明らかに”慣れている”。
覚えていないのに。
できてしまう。
分からないことだけが増えていく。
視界の奥で、何かが揺れた。
一瞬だけ、映像が流れ込む。
崩れる街。
赤い光。
誰かの叫び。
そして——
自分の手。
何かを握っているような、感触だけが残る。
「……っ!」
頭を押さえる。
痛みはない。
なのに、拒絶されているような感覚だけがある。
息を整える。
考えるな、と自分に言い聞かせる。
今はそれしかできない。
「……とりあえず」
声に出す。
「ここがどこか、確認するか」
自分のことは分からない。
それでも歩き続ける。
——自分が何を失い、何を背負っているのかも知らずに。
「危ないよ」
後ろから、不意に、声がした。
足が止まる。
振り向くと、一人の男が立っていた。
傘を差している。
異様に落ち着いた目をしていた。
「そんな状態で歩いてたら、また倒れる」
淡々とした声。
優しさとも警戒とも違う。
ただ事実を言っているだけの声。
「……あんた、誰だ」
自然と身構える。
男は少しだけ目を細めた。
「通りすがり……と言いたいところだけど」
わずかに間。
雨音だけが強くなる。
「君、行く場所がないのかい?」
男は近づいてくる。
その足音だけが妙に鮮明に響く。
「うちのサークル、来るか?」
「……サークル?」
「ボランティアサークル。通称ボラサー」
あまりにも普通の言葉。
今の状況と、あまりにも噛み合っていない。
「人手が足りなくてね」
軽く言う。
まるで偶然のように。
「俺は榊 伸介」
そう名乗り、手を差し出す。
どこかに行く当てもなく、家もないので、好都合だと思った。
そして自分も手を差し出す。
「いやー、本当に助かるよ。」
「ところで、名前は?」
「名前…俺の…名前は…」
そのとき、不意に言葉が浮かぶ。
喉の奥から押し出されるように。
「……橘……」
「橘……翼」
「橘翼だ」
投稿頻度は遅めですが、よろしくお願いいたします。




