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第1話:読んでいるのは、だれ?(後編)


UGA監査官が小さく呟く。


「……それ」


「前回の報告では無かった」


本の紙面が、またわずかに波打つ。


次のページの下に、

インクがにじみ出るように文字が現れる。


《思い出した?》


一拍。


《余白》


棚の七冊が、また同時に微かに軋む。


そのうち一冊が、わずかに前へ滑り出た。


誰も触れていないのに、

その本がひとりでに開く。


開いたページには、文章がすでに書かれている。


《世界には、裏側がある。》


《そこに落ちたものは、記録になる。》


少し間が空く。


《だからこの本は、読まれるたびに増える。》


監査官の視線が棚へ向く。


「……増殖媒体は」


彼は数を数える。


「本じゃない」


静かに言う。


「読者です」


その瞬間。


余白の持っている本のページの下に、

新しい一行が現れた。


《余白は、何を書いた?》


余白は答える。


「何も」


開かれたページの下に浮かんだ文字が、静かに止まる。


図書館の空調の音だけが、遠くで低く鳴っている。


紙の上のインクが、ゆっくりと形を変える。


《何も?》


その言葉は、疑うようでもあり、

確かめるようでもある。


数秒の沈黙。


書架の七冊が、ほんのわずかに軋む。


そして次の文字が現れる。


《おかしいな》


《この本は》


《読む人の頭の中にある文章を写すのに》


UGA監査官の眉が、わずかに動く。


「……認識媒体型か」


声は低い。


「読者の記憶や思考を、文章にしている可能性があります」


ページのインクがまた滲む。


《何も書いてないなら》


《どうして》


少し間。


《このページ、白いんだろう?》


監査官が一瞬だけ本を覗き込む。


そして、小さく息を止めた。


「……違う」


彼は言う。


「文字、あります」


だがその声は、少し戸惑っている。


「でも……」


彼はもう一度ページを見る。


「……読めない」


紙の上には、確かに文字が並んでいる。


しかしそれは、

意味のある文章として認識できない。


ただの記号のようにも、

文字の断片のようにも見える。


そのとき。


ページの一番下に、

ゆっくり新しい一行が現れる。


《じゃあ、まだ書かれてないんだ》


図書館の棚の奥で、

紙の束がかすかに鳴った。


七冊の本が、また同時にわずかに動く。


そして——


棚の端に、


八冊目が、静かに現れる。


余白が言う。


「頭の中“空っぽ”だから」


余白の言葉が、静かな書架の前に落ちる。


図書館の空気は相変わらず穏やかだ。

遠くではページをめくる音が続いている。


しかしこの棚の前だけが、

ほんの少しだけ深い沈黙に包まれた。


開かれている本のページ。


そこにあった文字が、ゆっくりと揺れる。


《空っぽ?》


数秒の沈黙。


棚の八冊が、同時にほんのわずかに軋んだ。

まるで、どこかで何かが理解されたように。


そして、新しい文字が現れる。


《なるほど》


一文字ずつ、ゆっくりと浮かび上がる。


《だから読めるんだ》


UGA監査官が、小さく息を吸う。


「……今までの読者は」


彼は棚の本を指で軽く押さえる。


「読めませんでした」


「違和感なく読んで、違和感なく返す」


監査官の視線が、余白へ向く。


「でも」


少し間。


「交渉人は違う」


ページの文字が、さらに増える。


《頭がいっぱいの人は》


《この本を“普通の本”として読む》


一拍の間。


《頭が空っぽの人は》


インクが、静かに最後の言葉を作る。


《本そのものを読む》


棚の奥で、紙がゆっくり擦れる音がする。


八冊の本のうち、一冊が、ほんの少しだけ前へ滑り出る。


そして、その本がひとりでに開いた。


ページの中央に、短い文章がすでに書かれている。


《余白》


少しだけ間。


《この本、どこから来たと思う?》


余白が言う。


「分からない」


開かれた本のページの上で、文字が静かに揺れる。


図書館の照明は変わらない。

だが、その紙の上だけがほんの少し深い影を持っている。


余白の言葉を受け取ると、

インクはしばらく現れない。


本が考えているような沈黙だった。


やがて。


《わからない?》


一文字ずつ、ゆっくり浮かび上がる。


《それも正しい》


棚の奥で、紙の束が擦れる。


八冊の本が同時に、ほんのわずかに揺れる。


ページの中央に、新しい文章が書かれていく。


《この本には》


《最初のページがない》


UGA監査官が小さく呟く。


「……初版が存在しない?」


ページの文字は、止まらない。


《だれかが最初に書いたわけじゃない》


《だれかが最初に読んだわけでもない》


図書館の奥で、誰かが椅子を立つ音がする。


しかしこの棚の前だけは、

相変わらず異様に静かだ。


本の下に、もう一行が現れる。


《この本は》


インクがゆっくり広がる。


《読む人が増えると》


《過去も増える》


監査官が低く言う。


「……認識履歴型」


「読者の数だけ、過去の版が増えている」


棚を見上げる。


「つまり——」


彼は八冊を指差す。


「この本は、最初から八冊ある」


そのとき。


棚の奥で、紙が重く鳴った。


九冊目が、静かに本の列に現れる。


そして、余白の開いているページに、また一行。


《余白》


少し間。


《この本、終わりのページはあると思う?》


余白が言う。


「始まりがあれば、ね」


余白の言葉が、静かな書架の前に落ちる。


図書館の奥では、誰かが本を棚に戻す音がした。


だがこの棚の前だけは、

まるで時間が少し遅れて流れているようだ。


開かれているページの文字が、ゆっくりと揺れる。


《始まりがあれば、ね》


その言葉をなぞるように、インクが広がる。


《なるほど》


一拍の沈黙。


棚の九冊が、同時にほんのわずか軋む。

紙の束が揃って呼吸するような音だ。


そしてページの下に、新しい文章が現れる。


《じゃあ》


《この本には》


《終わりもない》


UGA監査官が小さく息を吐く。


「……無限記録媒体か」


彼は棚を見渡す。


「読む人がいる限り、書き続ける」


「そして過去も増える」


監査官の視線が、本へ戻る。


「つまり」


静かに言う。


「この本は、永遠に増えます」


その瞬間。


棚の奥で、重たい紙の音がした。


九冊の本が、同時にほんの少しだけ動く。


そして——


十冊目が、静かに並んだ。


しかし今度は、それだけでは終わらない。


十一冊。

十二冊。


本が、ゆっくりと増え始める。


図書館の誰も気づいていない。


ただこの棚だけで、

静かに本が増えている。


そして余白の持つ本のページに、最後の一行が現れる。


《余白》


インクが止まる。


《この本、どうする?》


余白が言う。


「タイトルが、つまらなそう」


余白の言葉が、棚の前に落ちる。


図書館の静かな空気は変わらない。

遠くで誰かがページをめくる音が続いている。


しかし、開かれた本のページだけが、ゆっくりと揺れた。


インクが、少し遅れて現れる。


《つまらなそう?》


その文字は、ほんの少し歪む。

笑ったようにも見える。


棚の本が、かすかに軋む。


増えかけていた本の動きが、ぴたりと止まった。


ページの中央に、新しい文章が現れる。


《それは困る》


少し間。


《この本は》


《面白い本になりたいんだ》


UGA監査官が思わず小さく息を漏らす。


「……欲求がある」


低い声で言う。


「完全な認識型だ」


ページの下に、また文字が増える。


《余白》


一拍。


《じゃあ、どんなタイトルがいい?》


その瞬間、棚の本が一冊、静かに前へ滑り出る。


そして表紙が、ゆっくりと開いた。


そこに書かれているタイトルは、

さっきまでと同じだった。


夜の裏側について


だが、その下に小さく新しい行が現れる。


(仮題)


本が、こちらを待っている。


余白が言う。


「自分で決めなよ」


余白の言葉が落ちると、

開かれた本のページのインクが、しばらく動かなかった。


図書館の空気は静かなままだ。


遠くで子供が椅子を引く音がした。


だが、この棚の前だけが、ほんの少し深く沈黙している。


やがて、文字が現れる。


《自分で?》


一拍。


《つけてもいいの?》


UGA監査官が小さく呟く。


「……自己命名」


彼は棚を見上げる。


増えかけていた本の列は、

今は十数冊で止まっている。


ページのインクが、ゆっくり動き出す。


《本は》


《読まれると変わる》


少し間。


《でも》


《タイトルは変えちゃいけないと思ってた》


棚の本が、かすかに鳴る。


紙の束が揃って呼吸するような音だ。


そして、ページの中央に新しい言葉が書かれる。


《でも》


《自分で決めていいなら》


インクがゆっくりと、一文字ずつ形を作る。


《読んでいるのは、だれ?》


UGA監査官が、その文字を見て小さく目を細める。


「……タイトル変更」


彼は棚を見る。


本の背表紙が、静かに揃っていく。


さっきまで


夜の裏側について


だった文字が、ゆっくりと書き換わっていく。


読んでいるのは、だれ?


棚の本が、それ以上増えなくなる。


図書館の空気は、また普通に戻った。


監査官が低く言う。


「……位相安定」


「増殖、止まりました」


監査官は本を一冊抜き取る。


今度はページの文字が変わらない。


普通の本のように、同じ文章のままだ。


監査官が小さく息を吐く。


「媒体が、自分の役割を定義した」


静かに言う。


「だから暴走が止まった」


そのとき。


余白の手元のページに、

最後の一行が現れる。


《余白》


少し間。


《ありがとう》


余白が言う。


「どうも」


ページの上に浮かんだ最後の文字が、ゆっくり静止する。


図書館の静けさは変わらない。

遠くで誰かが本を閉じる音がした。


しばらくして、インクがもう一度だけ動く。


《どうも》


その言葉をなぞるように、もう一行だけ増える。


《また読んでね》


そして文字は、それ以上増えない。


ページはただの紙に戻り、

インクは完全に固定される。


棚に並ぶ本の背表紙も、もう動かない。


UGA監査官が静かに数を数える。


「……十三冊」


「さっきまで増えていましたが」


本棚を軽く叩いて確かめる。


「これ以上は増えません」


彼は本を一冊取り出し、数ページめくる。


どこを読んでも、文章は変わらない。


「位相固定」


小さく言う。


「媒体が自己定義を完了しました」


監査官は本を棚に戻す。


「タイトル変更によって、存在目的が確定した」


そして余白の方を見て、

少しだけ肩の力を抜く。


「……これで事案は収束です」



《通知書》


事案名称:図書館蔵書異常事案


依頼者:幽玄管理庁(UGA)監査局


担当交渉人:余白

同行者:UGA監査官


結果:幽玄との対話成立

状態:媒体自己定義による安定化・増殖停止


報酬:

内訳:

・成功報酬:900万円

・追加報酬:700万円

・合計:1600万円


UGA評価:S


備考:

読者依存型記録媒体。

タイトル変更により存在目的固定。

蔵書として定着、増殖停止。



文学コーナーの棚。


背表紙が静かに並んでいる。


読んでいるのは、だれ?


その本は、もう増えない。


ただ——


誰かが読むたびに、

ほんの少しだけ、


静かにページをめくる。



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


もし本作を面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけますと励みになります。

ひとつひとつの反応が、次の事案へと繋がっていきます。


それでは、また次の事案で。


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