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幽玄交渉人の余白 ― 幽玄は悪ではない  作者: 余作
第一章【幽玄との日常】
2/24

第2話:退院の日

※本話は2026年3月19日に公開した第2話(前編・後編)を統合・再構成したものです。

途切れていた“認識”を、一つの物語として繋ぎ直しています。

《依頼書》


依頼者:城南総合病院


依頼内容:夜間病棟で発生している不可解な巡回記録の調査


現場:城南総合病院 第三病棟(旧病棟区画)


異常概要:

夜勤記録に「305号室の患者対応」と記載されているが、305号室は現在存在しない。十年前の改修で廃室となり、現在は壁で塞がれている。

しかし、夜勤スタッフの数名が「巡回で305号室を確認した」と証言している。

電子カルテには、該当患者は存在しない。


制約:

現役病院のため病棟封鎖不可。患者への不安拡散を避けること。


報酬(成功報酬のみ):950万円



依頼書を閉じると、担当者が一度だけ口を開いた。

幽玄管理庁(UGA)交渉局の女性職員だった。


「……一つだけ、気になることがあります」


彼女は資料の一枚を差し出す。


「夜勤看護師の報告です」


短いメモだった。


305号室

呼吸安定

点滴交換済


患者、眠っている


誰もいないのに、寝息が聞こえる


職員は、それ以上説明しなかった。



深夜。

城南総合病院 第三病棟。


古い建物特有の、静かな廊下が続いている。

蛍光灯は落とされ、足元灯だけが淡く床を照らしていた。

消毒液の匂い。遠くでモニターの電子音が一度だけ鳴る。


夜勤の看護師が一人、廊下の途中で立ち止まった。

三十代くらいの女性で、どこか疲れた顔をしている。


彼女は小声で言う。


「……ここです」


指差した先。


廊下の途中の壁。

そこだけ、壁紙の色がわずかに違う。


かつて扉だった場所を、後から壁にした跡だった。


「ここが……305号室です」


看護師は、少し躊躇してから続ける。


「夜の巡回をしてると、ここに扉がある気がするんです」


廊下は静かだった。

空調の低い音だけが続いている。


看護師は、壁を見ながら言う。


「それで……つい、ノックしちゃうんです」


看護師は、視線を落とした。


「最初は誰も信じません。でも」


小さく息を吐く。


「巡回を何回かしていると……」


彼女は、壁を見たまま言う。


「……聞こえるようになるんです」


そのとき。


とても小さく。

壁の向こうから。


――スー……


ゆっくりした呼吸音が聞こえた。

まるで、誰かが眠っているみたいに。


「寝息が聞こえる」


看護師の肩が、小さく震えた。


彼女は壁を見たまま、ゆっくり頷く。


「……聞こえますよね」


廊下は静まり返っている。


壁の向こう。


――スー……

――スー……


深く、静かな寝息だった。


看護師が小さく言う。


「夜勤の人、だいたい三日くらいで聞こえるようになるんです」


彼女は、壁を見たまま続ける。


「最初は誰も信じません。でも巡回を何回かしてると」


わずかに、止まる。


「……“患者さんがいる気がする”んです」


そのとき。


寝息が、少しだけ変わる。


――スー……


音が揺れる。


――……スー……


呼吸が浅くなる。

眠りが浅くなったような変化。


看護師が、小さく息を飲む。


「……起きる」


とても小さな声。


そして。


壁の向こうから、かすかな衣擦れの音。

布団が動くような音。


それから。


『……看護師さん』


余白(よはく)が、小さく言った。


「呼んでるよ?」


看護師は、一瞬だけ固まった。

壁の前で立ったまま、まばたきも忘れたように動かない。


廊下の足元灯が、静かに床を照らしている。

消毒液の匂いが、わずかに強く感じられた。


壁の向こうから、もう一度。


『……看護師さん』


声は弱い。子どもとも大人ともつかない、眠気の残った患者の声。


看護師は喉を鳴らす。


「……呼ばれてます」


小さく言う。だが、壁の前から動かない。


彼女は壁を見たまま、低く続けた。


「最初に聞いた人は……」


わずかに、止まる。


「返事したそうです」


壁の向こうで、布団が擦れる音。


『……誰か』


呼吸が少し速くなる。


『巡回……?』


その声は、完全に「病室の中の患者」だった。


静かな夜の病棟で、看護師を呼ぶ患者の声。


看護師の声が震える。


「でも……」


彼女は、壁を見たまま言う。


「305号室は」


小さく首を振る。


「十年前に、なくなってるんです」


そのとき。


壁の向こうで、少し沈黙。


そして、ゆっくり。


『……そこに』

『いるのか』


声は、今度は余白の方へ向いていた。


余白が答える。


「僕のことかい?」


壁の向こうで、呼吸が少し止まった。


看護師は息を潜めている。

廊下の空気は、静かな夜勤の病棟そのもの。


やがて。


『……うん』


わずかに遅れて。


『看護師さんじゃない』


布団が擦れる音。


『でも』

『いる』


呼吸が浅くなる。


『ここに』


壁の向こうで、何かがゆっくり体を起こす気配。

寝具の重さが動く音。


看護師が、小さく呟く。


「……起き上がってる」


そのとき。


壁の向こうから、声がまた落ちる。


『……ここは』


わずかに、止まる。


『305号室』


呼吸。


『だよね』


壁は、ただの壁だった。

だが、その向こうからは確かに、病室の気配が続いている。


『……誰』


小さく、問いかける声。


『夜の人?』


余白が言った。


「君こそ誰。患者さん?」


壁の向こうで、しばらく沈黙が続いた。


呼吸音だけが、静かに聞こえる。

布団の中で、誰かが考えているような時間。


やがて。


『……患者』


その言葉を、小さく繰り返す。


『そう』


少し安心したような声。


『患者』


布が擦れる音。ベッドの上で姿勢を直した気配。


『入院してる』


呼吸が少し落ち着く。


『検査』


わずかに、止まる。


『長くなるって』


また沈黙。


『……名前』


小さく続く。


『忘れた』


看護師が、思わず小さく息を吸う。

壁を見たまま、動けない。


壁の向こうの声は続く。


『でも』


呼吸。


『ずっと』

『ここにいる』


少しだけ、声が不安そうになる。


『……看護師さん』


『巡回、来なくなった』


布団がわずかに動く。


『みんな』

『帰った?』


廊下は静かだった。


壁のこちら側には、病室は存在していない。


そのとき。


患者の声が、もう一度。


『……あなた』

『どこの人?』


余白が、肩を軽くすくめた。


「どこだと思う?」


壁の向こうで、布団がわずかに擦れる。


患者はすぐには答えなかった。

呼吸だけが、ゆっくり続いている。


廊下の足元灯が、静かな光を落としている。

看護師は壁を見たまま、微動だにしない。


やがて。


『……廊下』


小さな声。


『巡回の人』


わずかに、止まる。


『夜の人』


呼吸。


『でも』


布団が少し動く。


『声が』


考えるような沈黙。


『違う』


看護師が、小さく息を呑む。


患者の声が続く。


『……お医者さんでもない』

『看護師さんでもない』


わずかに、止まる。


『じゃあ』


呼吸。


『見回りの人?』


布団が少し動く。


『それとも』


沈黙。


『……まだ来てない人?』


壁の向こうで、ベッドのスプリングがきしむ音。


『ここ』


呼吸。


『長いんだ』


小さく言う。


『だから』


沈黙。


『新しい人が来るの』

『待ってる』


余白が、軽く言った。


「どうも。新参者の余白です」


壁の向こうで、呼吸が一度だけ止まった。


廊下は静かだ。

ナースステーションの方向から、遠い機械音がかすかに響く。


やがて。


『……新参者』


患者は、その言葉をゆっくり繰り返す。


『余白』


わずかに、止まる。


『変な名前』


だが声には、わずかな安堵が混じっていた。


布団が擦れる音。ベッドの上で体を起こしているらしい。


『じゃあ』


呼吸。


『今日から巡回?』


沈黙。


『……よかった』


声が少し柔らかくなる。


『誰も来なくなったから』


呼吸。


『ここ』

『夜が長い』


看護師が、小さく呟く。


「……会話してる」


彼女は信じられないものを見るように、壁を見つめている。


そのとき。


壁の向こうの患者が、ふと思い出したように言う。


『余白』


わずかに、止まる。


『305号室』


呼吸。


『まだ』

『ある?』


余白が言った。


「君は、どう思うね」


壁の向こうで、患者はすぐには答えなかった。


呼吸音だけが、静かな病棟の夜に溶けている。


看護師は壁を見たまま動かない。

足元灯の光が、廊下に長い影を作っていた。


やがて。


『……ある』


小さく、しかしはっきりした声。


『ここにある』


布団が少し動く。


『ベッドも』

『窓も』


呼吸。


『天井も』


わずかに、止まる。


『だから』


声が少し迷う。


『ある』


沈黙。


『……でも』


呼吸が浅くなる。


『廊下の音』


小さく言う。


『遠い』


布団がわずかに擦れる。


『前は』

『すぐ外に聞こえた』


わずかに、止まる。


『今は』


呼吸。


『……遠い』


看護師が、低く呟く。


「……改修工事で」


彼女が説明する。


「305号室は」


壁を見たまま続ける。


「廊下の奥にありました」


彼女は指で、今の壁の少し先を示す。


「でも十年前に」


沈黙。


「病棟の構造が変わって」


小さく言う。


「廊下ごと……なくなったんです」


そのとき。


壁の向こうの患者が、ぽつりと言う。


『……ああ』


呼吸。


『だから』


わずかに、止まる。


『遠いのか』


布団がわずかに動く。


『余白』


静かな声。


『廊下』

『まだ続いてる?』


余白が答える。


「君にとっては、ね」


壁の向こうで、患者はすぐには答えなかった。


呼吸音だけが、ゆっくりと続いている。


――スー……

――スー……


看護師は壁を見つめたまま、小さく息を吐いた。

夜の病棟は相変わらず静かだ。


やがて。


『……そうか』


患者が、小さく言う。


『俺にとっては』


呼吸。


『ある』


布団が少し動く。


『でも』


わずかに、止まる。


『みんなにとっては』


呼吸。


『ない』


患者は、そこで言葉を止めた。


呼吸だけが続いている。


――スー……

――スー……


やがて。


『……ない?』


迷うような声。


わずかに、止まる。


『いや』


呼吸。


『でも』


布団がわずかに動く。


『俺にはある』


静かな夜の病棟。

その言葉は、ゆっくり自分に言い聞かせるようだった。


看護師が、思わず小さく呟く。


「……理解してる」


壁の向こうで、患者が続ける。


『余白』


呼吸。


『廊下が遠くなって』

『巡回が来なくなって』


わずかに、止まる。


『それでも』


布団がわずかに擦れる。


『俺は』

『ここにいる』


沈黙。


『……これ』


呼吸。


『退院?』


壁の向こうのベッドが、小さくきしんだ。


余白は静かに答えた。


「死んだらね。退院だよ」


壁の向こうで、患者はしばらく何も言わなかった。

呼吸音も、一瞬止まる。


看護師が、小さく息を呑む。

廊下の空気が、わずかに冷える。


やがて、布団が、わずかに動く。


『……死ぬ』


患者は、その言葉をゆっくり繰り返す。


『そうか』


わずかに、止まる。


『退院』


呼吸。


『そういうものか』


声は、不思議なくらい穏やかだった。

怒りも恐れもない。長く待っていた人が、やっと順番を聞いたような声音。


それから。


『余白』


呼吸。


『俺』


わずかに、止まる。


『死んでる?』


看護師が、思わず壁から半歩下がる。

廊下の灯りが、わずかに揺れる。


患者の声が続く。


『ずっと』

『ここにいる』


呼吸。


『検査もない』

『看護師も来ない』


わずかに、止まる。


『……でも』


布団が、わずかに擦れる。


『痛くない』


呼吸。


『だから』


静かな声。


『まだ生きてると思ってた』


廊下は、静まり返っている。


そのとき、患者が、ぽつりと言う。


『余白』

『退院するには』


わずかに、止まる。


『どうすればいい』


余白が答える。


「部屋から出といで」


長い沈黙。呼吸だけが、ゆっくり続いている。


――スー……

――スー……


看護師は、息を止めたまま壁を見ている。


やがて、布団が大きく擦れる音。

ベッドのスプリングが、ぎし、と鳴る。


『……出る』


患者が、小さく繰り返す。


『部屋から』


わずかに、止まる。


『廊下に』


呼吸が、少し速くなる。


『余白』


布の音。床に足を下ろす音。


『扉』


沈黙。


『……どこだ』


壁は、ただの壁だった。


だが、ゆっくりと、壁紙の境目が、わずかに歪む。


看護師が、小さく声を漏らす。


「……扉」


壁の中央。そこだけ、影の形が変わる。

古い木製扉の輪郭が、薄く浮かび上がる。


十年前に消えたはずの、305号室の扉。


内側から、ノブが回る音。


カチャ。


ゆっくり、扉が、少しだけ開く。


暗い病室の隙間から、白い病衣の影が見える。

顔は、まだ見えない。


患者の声が、すぐ近くから聞こえる。


『……ここが』


呼吸。


『廊下か』


余白が言う。


「そして、君の“外”さ」


扉の隙間が、ゆっくりと広がる。

古い蝶番がきしむ音が、静かな廊下に溶ける。


白い病衣の影が、扉の向こうに立っている。

暗い病室の中から、足元灯の淡い光へ、一歩だけ近づく。


看護師は、息を止めていた。

患者は、しばらく廊下を見ている。


まるで、長い夢から覚めた人のように。


やがて、小さく言う。


『……外』


呼吸。


『ここが』


わずかに、止まる。


『俺の外』


白い影が、ゆっくり扉を越える。


その瞬間、廊下の空気が、ほんの少しだけ軽くなる。


患者は立ったまま、周囲を見ている。

だが、その姿はぼんやりと透けている。

光の中で、輪郭が薄れていく。


看護師が、かすれた声で呟く。


「……患者さん」


その声に、影が振り向く。

顔が、ようやく見える。


若い男。二十代前半ほど。とても穏やかな顔。


男は余白を見て、小さく頷く。


『余白』


呼吸。


『退院』


わずかに、止まる。


『できた』


その言葉のあと、男の輪郭が、静かに薄くなる。


廊下の光の中で、霧のように消えていく。


最後に残ったのは、かすかな声。


『……ありがとう』


そして、扉も、消えた。

壁は、ただの壁に戻っている。


305号室は、もうどこにもない。


看護師が、壁を見たまま立ち尽くしていた。


やがて、深く息を吐く。


「……寝息」


小さく言う。


「聞こえなくなりました」


廊下は、ただの夜勤の病棟に戻っていた。



《通知書》


事案名称:第三病棟幻在病室事案(305号室)


依頼者:城南総合病院


担当交渉人:余白

同行者:なし


結果:幽玄存在の離脱確認

状態:現象消失


報酬:


内訳:

・成功報酬:950万円

・追加報酬:350万円

・合計:1300万円


UGA評価:S


備考:

廃室病室における存在残留。対話後、対象は病室外へ移動し消失。巡回記録に退院表記のみ残存。



夜の病棟には、もう寝息は聞こえなかった。


だが。


夜勤記録の端に、誰も書いていない一行が残っていた。


305号室

退院

ここまでお読み頂き、誠に有り難うございます。


もし、本作を“面白い”と感じて頂けましたら、

ブックマークやご評価(★)を戴けると、大変励みになります。


拙いながらもコツコツ投稿しておりますので、

「また読みたい」と思って頂ければ幸いに存じます。

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