第7話:迷い道→寄り道(中編)
余白が隣の男に声をかける。
「メガネくん、どうすんの?」
軽く街灯の奥を指す。
「僕は行くけど」
探は一瞬だけ目を見開いた。
それから苦笑するように肩をすくめる。
「……止めても無駄ですよね、先生」
夜風が強く吹く。
埋立地の砂が道路を擦る音がした。
遠くの街灯の列は、さっきよりわずかに長くなっている。
探はタブレットを閉じた。
「僕は研究者です。交渉人じゃない」
胸ポケットから眼鏡を取り出す。
そしてそれを掛けた。
「でも――観測は続けます」
レンズ越しに街灯の列を見る。
「……ああ」
小さく息を漏らす。
「やっぱり増えてる」
探の声が少し低くなる。
「街灯、今二十三本あります」
「でも図面では十四本」
港の風がまた吹いた。
街灯の光が揺れる。
その奥から声がもう一度聞こえる。
『また増えた』
『でも、いいよ』
『道を探してるんでしょ』
少し間。
『ここは』
『道がいっぱいあるから』
探が小さく呟く。
「……来ましたね」
街灯の一つの下に影が現れていた。
人の形に見える。
だが輪郭がぼやけている。
歩いてきたわけではない。
気づけば一つ手前の街灯の下に立っていた。
影がゆらりと揺れる。
『でもね』
『前に来た人は』
間が空く。
『道を決めた』
その瞬間。
街灯がまた一本増えた。
探の声が低くなる。
「……前任者だ」
「交渉のとき、定義したんでしょう」
小さく息を吐く。
「“ここは道を失った場所だ”とか」
「“迷う場所だ”とか」
遠くの影が首を傾ける。
『ねえ』
『あなたも』
『道、決めに来たの?』
街灯の光が揺れる。
影は動かない。
『それとも』
『帰る道、探してるの?』
余白が軽く手を振る。
「しないよ」
少し笑う。
「目下、迷走中だからね」
そして言った。
「僕は余白」
「よろしく」
風が止んだ。
港の照明だけが静かに地面を照らしている。
街灯の下の影が、わずかに揺れた。
人の形に見えるが、輪郭は安定していない。
やがて声が返る。
『……余白』
『空いてるところ』
『なにも決めないところ』
間が空く。
『いいね』
『それなら』
『増えない』
街灯の光が一つ弱まる。
さっき増えたばかりの一本だ。
探が息を呑む。
「……減った」
「今、一本」
眼鏡越しに道路を見つめる。
「定義が弱まってる」
影がゆっくり形を変える。
街灯の円の中で。
作業員の姿に似た輪郭になった。
ヘルメットの影が頭に乗っている。
『前の人は』
『道を聞いた』
『ここがどこか』
『どこへ行くのか』
影が首を傾ける。
『だから』
『道を作った』
『いっぱい』
遠くでまた足音がする。
コツ
コツ
コツ
『でも』
『みんな帰れない』
影の足元で道路の白線がゆっくり曲がる。
探が低い声で言う。
「……作業員の証言と一致します」
「歩いても同じ場所に戻れない」
「道路そのものが意味を変えてる」
影は余白を見ている。
『余白』
『あなたは』
『道、決めないんだよね』
静かな声。
『じゃあ』
『どうやって帰るの?』
そのとき。
遠くの街灯の奥に、もう一つ影が現れた。
歩いている。
ヘルメットを被った作業員。
だが歩くたびに身体の輪郭が薄くなる。
街灯の影に溶けていく。
探の声が硬くなる。
「……あれ」
「三時間前に消えた作業員です」
作業員はまっすぐこちらへ歩いてくる。
歩くたび街灯が一本増える。
影が静かに言う。
『帰り道』
『探してる』
間が空く。
『でも』
『帰る道って』
影がゆっくり首を傾ける。
『どれ?』
余白が肩をすくめた。
「適当でいいじゃない」
軽く笑う。
「そのうち帰れるよ」
港の風が道路の砂をさらう。
白線の曲がりが、わずかに止まった。
街灯の下の影は動かない。
やがて小さく揺れる。
『……適当』
『いいね』
『適当』
少し笑うような響き。
『前の人は』
『正しい道を作ろうとした』
『だから』
『たくさん作った』
街灯がまた一つ弱まる。
探が息を吐く。
「……減ってる」
「定義の固定が外れてる」
遠くの作業員の輪郭も少し戻り始める。
影が言う。
『でも』
『適当なら』
『一本でいい』
その瞬間。
遠くの街灯がまとめて三本消えた。
暗闇が広がる。
作業員はまだ歩いている。
だが街灯は増えない。
探が呟く。
「……増殖が止まった」
影が余白へ近づく。
足は動いていない。
だが距離が縮む。
『余白』
『じゃあ』
影が腕を上げる。
左の闇。
右の街灯の続く道。
『適当って』
『こっち?』
『それとも』
『こっち?』
遠くの作業員がふらつく。
探が小声で言う。
「……あの人、もう限界です」
「道が安定しないと存在位置が崩れる」
風が強く吹いた。
影は余白を見ている。
『適当』
『教えて』
余白が笑う。
「分からない」
間を置く。
「ゆえに適当」
風が少し強く吹いた。
港の鉄柵がかすかに鳴る。
影は動かない。
だが沈黙の中で、何かが変わった気配があった。
やがて影が言う。
『……分からない』
間が空く。
『いいね』
声がさっきより柔らかくなる。
『分からないのに』
『決める人が多い』
『道とか』
『正しさとか』
『帰り方とか』
街灯がまた一本消えた。
探が息を吸う。
「……二十本」
「安定方向に寄ってる」
歪んでいた白線が、ゆっくり元の直線へ戻り始めていた。
影が言う。
『余白』
『あなたは』
『道を作らない』
小さな間。
『でも』
『歩く?』
影が腕を下ろす。
その瞬間、道路の中央に細い光の線が浮かび上がった。
本来そこにあるはずのない線。
街灯がその線に沿って並び始める。
だが――もう増えない。
探はその変化を見てから口を開く。
「……これ」
「自己固定をやめてる」
わずかに視線を動かす。
「代わりに……同行観測に変わってる」
遠くの作業員がその光の線に足を乗せる。
よろめきながら歩き出す。
今度は輪郭が崩れない。
影が言う。
『じゃあ』
『一緒に歩く』
『余白』
静かな声。
『どこに行くの?』
余白が笑う。
「いいよ」
「散歩しようか」
少し間を置いて影を見る。
「……で、君は誰?」
港の風が吹き抜ける。
道路の中央の光の線はまだ静かにそこにある。
影はすぐには答えなかった。
やがて言う。
『……誰』
少し考える。
『前の人は』
『場所を聞いた』
『帰り方を聞いた』
『道を聞いた』
影は首を傾ける。
『でも』
『名前は聞かなかった』
探が呟く。
「……名前の固定が始まる」
影が言う。
『私は』
『最初は』
『ただの曲がり角だった』
『でも』
『人が迷った』
『何回も』
『同じ場所で』
影の輪郭が少し濃くなる。
『だから』
『道になった』
『いっぱい』
間が空く。
『でも』
『道が多すぎると』
『人は帰れない』
影は余白を見る。
『だから』
『私は』
『まだ』
『名前がない』
余白が肩をすくめる。
「じゃあ」
「自分で適当に付けてよ」
「呼びづらい」
影は少し考える。
『人は』
『名前をつけるとき』
『意味を入れる』
間が空く。
『でも』
『余白は』
『適当って言った』
影の輪郭がゆっくり安定する。
『じゃあ』
『適当な名前』
ゆっくり言う。
『寄り道』
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