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幽玄交渉人の余白 ― 幽玄は悪ではない  作者: 余作
第一章【幽玄との日常】
16/24

第16話:区切りの足音

本作は一話完結型、日曜日・水曜日の週2回更新です。

夜でも昼でもない、曖昧な明るさが店内を満たしている。


外から見れば普通の古い喫茶店だが、扉の内側では時間も季節もどこか緩んでいる。


壁時計の針はゆっくり進み、ときどき逆に戻る。


カウンターの奥では、長い髪の女がグラスを磨いている。

人間離れした整った顔立ちだが、その笑みは妙に親しみやすい。


『あら。いらっしゃい、余白(よはく)

『今日はお仕事じゃない顔ね。顔っていうより、気配だけど』


女はグラスを棚に戻し、カウンターに肘をつく。

楽しそうにこちらを見た。


『ここは幽玄ラウンジ《白昼夢(はくちゅうむ)》』

『現実に疲れた人と、現実に居場所のない幽玄が、同じ椅子に座れる店』


奥のテーブル席では、若い女性の姿をしたスタッフがトレーを抱えて歩いている。

だが、その足音は床に触れていない。


『ママ、余白さん来てるよ』

『今日も静かな匂いする』


ママはくすっと笑った。


『この子たち、あなたのこと好きなのよ』

『幽玄ってね。境界の匂いがする人、落ち着くの』


カウンターの向こうにグラスが置かれる。

透明な酒の表面に、星のような微かな光が揺れている。


『サービスよ』

『今日はただの夜更かしでしょう?』


そのとき、店の外を誰かが通り過ぎる気配がした。


だが、ドアのベルは鳴らない。


ママは一瞬だけ扉へ視線を向ける。


『……あら』


小さく首を傾げた。


『変ね』

『この店の前、さっきから“同じ人”が三回通ってるわ』


奥のスタッフが窓の外を覗く。


『ほんとだ』

『歩き方、まったく同じ』


ママは少し楽しそうに笑った。


『ねえ余白』

『あなたの勘、今日はお休み?』


外の通りを、同じ男がもう一度横切る。

同じ歩幅、同じ角度、同じ時間で。


「休みは働かないよ。酒を飲みに来たんだ」


ママは目を細め、くすっと笑った。


『あら、いいじゃない』

『交渉人だって酔う夜くらい必要よね』


カウンター越しに透明な酒のグラスを押し出す。

液体の中で、星屑のような粒が静かに揺れていた。


『これはね、《未明》』

『夢からこぼれた酒。幽玄の店じゃないと置いてないの』


奥のスタッフが身を乗り出す。


『余白さんって、酔うの?なんか酔わなそう』


別のスタッフが笑う。


『酔うよ、この人。ただ、酔っても静かになるだけ』


ママは頬杖をついた。


『そういえば聞いたことあるわ』

『昔ここで三日飲み続けて、最後に幽玄と哲学談義して帰ったって』


グラスの縁を軽く弾く。

澄んだ音が店内に溶ける。


『で、そのあと相手の幽玄が悟っちゃって消えたとか』

『あれ本当?』


外を、例の男がまた横切る。

同じ歩幅、同じ角度、同じ速度。


スタッフの一人が窓を見て眉をひそめた。


『……四回目』

『普通の人って、あんな歩き方しないよね』


ママはグラスを磨きながら扉を見る。


『まあ今日は休みらしいし』

『うちの前で時間が壊れてても、関係ないわよね?』


楽しそうに微笑む。


『余白はただの客だもの』


外ではまた同じ足音が通り過ぎる。


「……入れてあげたら?」


ママは一瞬きょとんとし、それから笑った。


『あら、優しい』

『幽玄より人間のほうが気になる夜?』


入口を見ながら言う。


『いいわよ』

『どうせうちの前をぐるぐるしてるなら、座らせてあげたほうが落ち着くかもね』


奥のスタッフが窓を覗く。


『呼ぶ?』


『ううん』


ママは首を振る。


『この店はね、呼ばないの』

『入りたい人が、自分で扉を開ける場所』


通りを、また同じ男が横切る。


今度は、店の前で足が止まった。


数秒。


男はゆっくりと店の看板を見上げる。

《白昼夢》と書かれた灯りが淡く揺れている。


スタッフが小声で言う。


『……あ、気づいた』


ドアノブが回る。

ベルが一度だけ鳴った。


入ってきたのは三十代半ばほどの男だった。

スーツ姿だが、どこか疲れた顔をしている。


男は店内を見回し、その視線が一瞬だけ不思議そうに止まった。

それから、少し安心したように息をつく。


「……あれ?」

「俺、なんで外ずっと歩いてたんだろ」


男は頭を掻きながらカウンターに近づいた。


「すみません、ここバーですよね」


ママはにこやかに微笑む。


『ええ、そうよ』

『現実よりちょっとだけ居心地のいいバー』


男は苦笑した。


「それ助かります……今日ちょっと頭おかしくなりそうで」


奥のスタッフの一人が、トレーを抱えたまま男をじっと見つめる。


『ママ』

『この人、足音がまだ“外”にある』


ママは何も言わない。

ただ、男の背後の床をちらりと見る。


その瞬間、店の外から同じ足音がもう一度通り過ぎた。



「見ない顔だね。一杯おごるよ」


男は一瞬きょとんとしたあと、少し驚いた顔で余白を見る。


「え、いいんですか?」

「……助かります。正直、財布の中身あんまり自信なくて」


肩の力が少し抜けたように笑う。


「ありがとうございます」


ママはカウンターの奥でグラスを取り出しながら、わずかに目を細めた。


『じゃあ、お言葉に甘えて』

『この人には軽いの出しておくわね』


透明な酒を注ぐ。

先ほどの《未明》より色が薄い。


表面にわずかな波紋が浮かび、すぐ静まる。


『これは《半分の夜》』

『眠る前の人間向け』


男はグラスを受け取り、照れくさそうに会釈した。


「どうも」

「……なんか不思議な店ですね」


男は一口飲む。


「……うまい」


沈黙。


男は指でグラスの縁をなぞりながら、ぽつりと言った。


「さっきから変なんですよ」

「同じ道、何回も歩いてる気がして」


小さく笑う。


「疲れてるのかな」


奥のスタッフが小声で呟く。


『もう五周目』


もう一人が窓の外を見る。


『外の足音、まだ回ってる』


男はそれに気づかない。

ただグラスを見つめながら、少し首を傾げた。


「……あれ?」

「俺、ここに入ったよな」


その瞬間。


店の外をまた同じ足音が通り過ぎる。

同じ歩幅、同じ速度、同じ靴音。


今、カウンターに座っている男とまったく同じだった。



余白が静かに言う。


「お悩みかい?」


男は少し困ったように笑い、グラスを指で回す。


「悩みってほどじゃないんですけど」

「……なんか、変な一日で」


男はもう一口飲む。

肩の力が少し抜けた。


「会社出て、駅に向かって歩いてたんですよ」

「それで、気づいたら同じ通りに戻ってて」


小さく首を傾げる。


「まあ、道間違えたんだろうなって思って」


「で、また歩いて」

「また同じ通り」


苦笑する。


「三回目くらいで、さすがにおかしいなって」


奥のスタッフが窓をちらっと見る。


『今は六回目』


ママは静かにグラスを磨きながら男を見ている。


『それで、うちに入ったの?』


男は頷く。


「ええ」

「さっき通ったとき、この店あったかなって」


少し考える。


「でも、四回目くらいで急に看板が目に入って」


男の手が止まる。


「……あれ」


男は眉をひそめた。


「さっきも、この話しましたっけ」


ママは何も言わない。

ただ静かに微笑んでいる。


奥のスタッフが小さく呟く。


『また最初に戻ってる』


その瞬間。


店の外をまた同じ足音が通り過ぎた。


男はふと顔を上げる。


「……今の足音」

「俺の靴の音に似てません?」


入口のガラスに、通り過ぎる影が映る。


その影は――


今カウンターに座っている男と、同じ背格好だった。



余白が静かに言う。


「君かもしれんね」


男は固まる。


それから苦笑を作るが、どこか引きつっていた。


「……俺?」

「いやいや」


グラスを持ち上げるが、口には運ばない。


「俺ここに座ってますよ」

「外歩いてたら、さすがに分かりますって」


しかし、その途中で。


また同じ足音が店の前を通り過ぎる。


コツ。コツ。コツ。


男の手が止まる。


ゆっくりと入口のガラスを見る。


影が横切る。

同じスーツ、同じ歩幅。


男の笑みが消えた。


「……似てるとかじゃないですね」


「完全に俺だ」


奥のスタッフが囁く。


『七周目』


もう一人が首を傾げる。


『でも中の人、ちゃんといるよ』


ママはグラスを置き、男を見る。


『ねえ、お客さん』

『今日、何か“区切り”みたいなことあった?』


男は戸惑ったまま、少し視線を落とした。


「区切り……?」


少し考え、それから頷く。


「……ああ」


男は息を吐いた。


「会社、辞めたんです」


グラスの中の酒がわずかに揺れる。

男はそれを見つめたまま続ける。


「十年いたんですけどね」

「今日、最後の日で」


グラスを見つめながら苦笑する。


「なんか実感なくて」


そのとき。


外の足音がまた通り過ぎる。


コツ。コツ。コツ。


男は低く呟く。


「……放っておいたら」


少し窓の外を見る。


「あいつ、どうなるんでしょうね」


窓の外では、同じ男が同じ歩幅で歩いている。



余白が静かに言う。


「今までの、自分との決別」


男はその言葉を聞き、少しだけ目を伏せる。


「……決別」


小さく繰り返す。


「そういう大げさな感じじゃないですけど」


言葉の最後が少し弱い。


「ただ、区切りっていうか」

「もう同じ生活には戻らないなって」


外を、また足音が通り過ぎる。


コツ。コツ。コツ。


男は窓を見る。


「……でも、あいつ」


苦い顔になる。


「全然止まらないですね」


ママはカウンターに肘をつく。


『区切りってね』

『本人が思うより、ずっと重いのよ』


グラスを指で軽く回す。


『十年歩いた道を、急にやめるんだもの』

『足のほうが覚えてるわ』


奥のスタッフが窓を見ている。


『まだ歩いてる』

『止まる気配ない』


もう一人が首を傾げる。


『あの人、“帰る場所”決めてない歩き方だ』


男は息を詰まらせる。


「……帰る場所」


グラスを見つめる。


「家はあるんですけどね」


また足音が通り過ぎる。


コツ。コツ。コツ。


男は低く言う。


「でも、あいつ」

「ずっと同じ方向しか歩いてない」


ママが静かに呟く。


『仕事に行く道ね』


外の男はまた同じ方向へ歩いていく。

駅へ向かう道だ。



余白が言う。


「仕事に後悔でも?」


男はすぐには答えない。


グラスの縁を指でなぞる。


しばらく沈黙が続く。


「……後悔」


小さく息を吐く。


「いや」


首を振る。


「多分、ないです」


外ではまた足音が通り過ぎる。


コツ。コツ。コツ。


男は窓を見ずに言う。


「むしろ、よくやったと思います」


少し笑う。


「十年、ちゃんと働いたし」


肩をすくめる。


「ブラック気味でしたけどね」


男は酒を一口飲む。


「だから辞めたんです」


その声は穏やかだった。


――


奥のスタッフが、小さく呟く。


『……嘘、混ざってる』


もう一人が頷く。


『うん』

『言葉の匂いがちょっと濁ってる』


ママは黙って聞いている。


男はグラスを置く。


「ただ」


言葉が少し遅れる。


「……一個だけ」


外の足音が通る。


コツ。コツ。コツ。


男の声が低くなる。


「辞めるって言ったとき」


少し言葉を探す。


「部下の子が」


言葉が途切れる。


「……泣いたんですよ」


少し笑う。

だが、その笑みは苦い。


「俺、別にいい上司でもなかったのに」


ママが静かに聞く。


『それで?』


男は肩をすくめる。


「それだけです」


少し視線を落とす。


「それだけなんですけど」


外の足音がまた通り過ぎる。


今度は、ほんの少し速い。


男はぽつりと言う。


「……なんか」


「置いてきた気がして」



余白が言う。


「次は決まってんの?」


男は苦笑する。


「いえ、まだです」


グラスを見つめる。


「だから多分、普通はもっと不安になるんでしょうけど」


酒面に店の灯りが揺れる。


「不思議と、あんまり怖くないんですよ」


外を足音が通る。


コツ。コツ。コツ。


男はその音を聞きながら言う。


「むしろ」


少し眉をひそめる。


「……あいつの方が必死に見える」


窓の外を見る。


「まだ会社に行こうとしてるみたいだ」


奥のスタッフが囁く。


『歩幅、少し速くなってる』


もう一人が窓を見る。


『うん』

『でも道は同じ』


ママが静かに言う。


『十年分の習慣って、体に残るのよ』

『頭が決めても、足が納得しない』


男は苦笑する。


「そんなもんですかね」


そのとき。


外の足音が止まる。


コツ。


沈黙。


スタッフが小さく言う。


『……止まった』


窓の外。


通りの真ん中に男が立っている。


こちらを見ている。

店の中の男と、同じ顔で。


そして――


ゆっくりと、店の扉へ歩き始める。


コツ。コツ。


ドアの前で止まる。


だが、開けない。


ただ、ガラス越しにこちらを見ている。



余白が言う。


「どうするよ」


男は扉を見る。


ガラス越しに立つ“もう一人の自分”。

灯りがその顔を半分だけ照らしている。


同じスーツ、同じ顔。


だが、表情だけが違う。


カウンターの男は息を吐く。


「……どうする、ですか」


小さく笑う。


「普通に考えたら」

「怖いですよね」


外の男がガラスに手を触れる。


しかし、押さない。


奥のスタッフが囁く。


『あれ、中に入りたいんじゃない』

『でも入れない感じする』


ママが静かに言う。


『境目で止まってるわね』


グラスを拭きながら続ける。


『決めた人間と』

『まだ決めてない人間』


カウンターの男は目を閉じる。


苦く笑う。


「……なるほど」


「俺、決めたつもりだったんだ」


外の男が首を振る。

まるで「まだだ」と言うように。


カウンターの男は、少し困った顔で余白を見る。


「どうも」


小さく肩をすくめる。


「まだ納得してないのがいるみたいですね、俺の中に」


外の男は扉の前で立ったまま、店の中を見続けている。


余白が静かに言う。


「代わってやれんよ、君に」


男はその言葉を聞き、少し目を伏せる。

カウンターの木目を見つめながら、ゆっくり息を吐いた。


「……そうですよね」


外の男はまだ扉の前に立っている。

ガラス越しに、店の中をじっと見ている。


カウンターの男は苦笑した。


「誰かがやってくれるなら楽なんですけどね」


グラスを持ち上げる。

少し考えるように酒を見つめた。


「でも、あいつ」


視線だけ扉へ向く。


「俺ですよね」


奥のスタッフが小さく言う。


『うん』

『匂い同じ』


もう一人が頷く。


『でも半分だけ』


ママが静かに言う。


『“決めたあなた”と』

『“まだ歩いてるあなた”』


男は小さく笑う。


「……面倒ですね、人間」


外の男がガラスから手を離す。


それから、ゆっくりと扉を押した。


ベルが鳴る。カラン。


扉が開く。


店の中に、同じ顔の男が入ってくる。


二人の視線が、初めて正面で合った。


入口の男が言う。


「……なんで座ってるんだ」


カウンターの男は肩をすくめる。


「一杯もらってる」


入口の男の眉が寄る。


「仕事は?」


カウンターの男は答える。


「辞めたよ」


入口の男は少し黙る。


それから低く言う。


「……まだ終わってない」


店の空気がわずかに重くなる。


余白は静かにグラスを傾ける。

店の灯りが、二人の男の同じ顔を並べて照らしていた。


入口の男はコートも脱がず、ただカウンターの男を見ている。


「終わってない」


低く繰り返す。


「まだ仕事あるだろ」

「引き継ぎも、報告書も」


カウンターの男は困った顔をする。


「いや、全部終わらせたって」

「今日、最終日」


入口の男は首を振る。


「まだだ」


声が少し強くなる。


「まだ会社に行かないと」


奥のスタッフが囁く。


『歩いてた理由、あれだ』

『帰る場所じゃなくて、終わらせる場所』


ママは静かに二人を見る。


『人間ってね』

『区切りの瞬間、よく二つに割れるの』


入口の男は一歩だけ店に入る。


床に靴音が響く。


コツ。


カウンターの男の前で止まる。


「なんで」


低く問う。


「ここで飲んでる」


カウンターの男は少し考える。


それから言う。


「……多分」


グラスを見る。


「疲れたから」


入口の男の表情が揺れる。


「疲れた?」


カウンターの男は苦笑する。


「十年、ずっと走ってたんだ」


入口の男は黙る。


ママが小さく言う。


『あの子、まだ走ってる顔ね』


入口の男はゆっくり余白を見る。

初めて気づいたような顔で。


「……この人」

「ずっと見てるけど」

「あなた、何者ですか?」


余白は軽く肩をすくめた。


「余裕がないね、君」


入口の男は眉を寄せる。


「……余裕?」


小さく繰り返す。


「そんなの、あるわけないだろ」


声は抑えているが張りつめている。


「明日からどうするかも決まってない」

「十年いた会社辞めて」


一歩カウンターに近づく。


「余裕なんてあるわけない」


カウンターの男は言う。


「……いや」


静かに続ける。


「俺、そんなこと思ってないよ」


入口の男はすぐ返す。


「思ってる」

「だからこんなとこで飲んでる」


カウンターの男は黙る。


それからゆっくり言う。


「……飲んじゃダメなのか」


入口の男は答えない。

ただ拳を握る。


奥のスタッフが言う。


『あ、これ』

『同じ人間の喧嘩だ』


ママは笑う。


『違うわ』

『同じ人間の“時間差”よ』


入口の男は余白を見る。


「余裕がないって言うなら」


低く言う。


「どうすればいいんですか」


声が揺れる。


「辞めたあと」

「人って、どうすればいいんですか」


余白は静かに言う。


「他人に聞くことかい?」


入口の男は言葉を失う。


口を開きかけて、閉じる。


しばらく沈黙。


それから息を吐いた。


「……そうですね」


苦く笑う。


「他人に聞くことじゃない」


カウンターの男が言う。


「俺もそう思う」


入口の男は眉をひそめる。


「……なんでそんな落ち着いてる」


カウンターの男は少し考える。


「落ち着いてるわけじゃない」


グラスの酒が揺れる。


「ただ」


小さく笑う。


「やっと止まった」


入口の男ははっとする。


ママが呟く。


『ああ』

『そこで分かれるのね』


入口の男は首を振る。


「……止まってない」


低く言う。


「まだ走らないと」


一歩近づく。


「止まったら」


言葉が詰まる。


「……何もなくなる」


カウンターの男は静かに言う。


「十年分、もう終わったんだよ」


入口の男は黙る。


店の空気が少し揺れる。


奥のスタッフが窓を見る。


『……外の足音』

『消えた』


入口の男は足元を見る。


それからカウンターの男を見る。


二人の視線が重なる。


ママが微笑む。


『どっちが残るのかしらね』


余白はグラスを傾ける。


「さあね」



入口の男は息を吐く。


「……さっき」


カウンターの男を見る。


「部下が泣いたって言ったな」


カウンターの男は頷く。


「うん」


入口の男は目を伏せる。


「俺」


小さく言う。


「逃げたと思った」


カウンターの男は驚く。


「え?」


入口の男は続ける。


「部下、残るのに」


拳を握る。


「俺だけ辞めて」


店の灯りが二人の影を伸ばす。


カウンターの男は静かに言う。


「……でも」

「辞めたかったんだろ」


入口の男は黙る。


しばらく沈黙。


それから肩の力が抜けた。


「……ああ」


小さく頷く。


「辞めたかった」


その瞬間。


入口の男の輪郭が揺れる。


奥のスタッフが声を上げる。


『あ』

『溶ける』


入口の男は自分の手を見る。

指先が煙のように薄れている。


カウンターの男が言う。


「……やっと言ったな」


入口の男は笑う。


「言ったな」


体がゆっくりほどけていく。


最後に言う。


「……休めよ」


そのまま静かに消えた。



店の空気が軽くなる。


カウンターの男はしばらく黙る。


それからグラスを持ち上げる。


「……すみません」


少し照れくさそうに笑う。


「変なもの見せましたね」


ママは微笑む。


『いいえ』

『うちでは、よくある夜よ』


奥のスタッフが窓を見る。


『もう誰も歩いてない』


通りは静かな夜に戻っていた。



余白が言った。


「面倒だよね、自分との対話は」


つぶやいたあと、静かにグラスを傾ける。

店の灯りが静かに揺れている。


男は頷く。


「……ですね」


少し笑う。


「面倒でした」


グラスを見る。


「ずっと追いかけてきて」


肩をすくめる。


「説教ばっかりしてきて」


奥のスタッフが笑う。


『自分の説教って一番刺さるやつ』

『逃げられないし』


男は苦笑する。


「ほんとに」


少し息を吐く。


「でも」


グラスを見る。


「言わないと消えないんですね」


ママが言う。


『幽玄と似てるわね』


グラスを磨く。


『言葉にしないものは、よく残るの』


男は驚く。


「そうなんですか」


ママは微笑む。


『未練も、後悔も、決意も』

『言葉になるまで居座る』


男は酒を飲み干す。

背筋を伸ばす。


「……ありがとうございます」


少し笑う。


「整理つきました」


奥のスタッフが手を振る。


『また迷ったら来てね』

『ここ夢の途中にあるから』


男は店を出る。

ベルが鳴る。カラン。


通りは静かな夜だった。



ママが余白を見る。


『いい夜だったわね』

『交渉人さん』


余白は苦笑する。


「休みなのになぁ……何やってんだか」


ママは肩をすくめる。


『そんなものよ』


グラスを棚に戻す。


『幽玄交渉人ってね』


カウンターに肘をつく。


『休みの日ほど交渉してる気がする』


奥のスタッフが笑う。


『さっきの人、幽玄じゃないのにね』

『でも消え方はそれっぽかった』


ママは首を振る。


『あれは“まだ形になってないもの”よ』


グラスを余白の前に置く。


『人間の心ってね』


目を細める。


『ときどき、自分で幽玄を作るの』


奥のスタッフが窓を見る。


『今日は平和』

『通り普通』


夜は静かだった。


ママが笑う。


『まあでも』

『あの人、明日から少し楽に歩けるわね』


グラスを回す。


『おごりの酒は効くのよ』


余白が言う。


「ママ、飲むの付き合ってよ」


ママは目を丸くする。


それから笑った。


『あら』


自分用のグラスを取り出す。


『交渉人に誘われるなんて光栄ね』


酒を注ぐ。

星屑のような光が揺れる。


『これは《宵の残り火》』

『長い夜のあとに飲むやつ』


奥のスタッフが言う。


『ママも飲むんだ』

『珍しい』


ママは肩をすくめる。


『だって今日は』


余白を見る。


『お客さんがいいもの』


グラスを掲げる。


『乾杯、余白』

『休みの夜に』


店の灯りが、二つのグラスの中で静かに揺れていた。

ここまでお読み頂き、誠に有り難うございます。


もし、本作を“面白い”と感じて頂けましたら、

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拙いながらもコツコツ投稿しておりますので、

「また読みたい」と思って頂ければ幸いに存じます。

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