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第6話:あふれる記録(中編)


その瞬間。


天井の照明が、弱く一度だけ明滅した。


そして――


静かな保管庫の奥で。


紙が一枚、めくれる音がした。


誰も触れていない場所で。


余白は書架の奥を見た。


「そこで、何してるの?」


地下資料保管庫は静まり返っていた。


温度管理装置の低い唸り。

遠くで水滴が落ちる音。


書架の奥。

問題の棚――A3列。


保存箱は静かに置かれている。


だが。


誰も触れていないはずなのに。


箱の中で、紙がゆっくり擦れる音が続いていた。


女性が小さく息を呑む。


「……今の、聞こえましたよね」


彼女は棚を見たまま、低く言う。


「紙が……動いてる」


次の瞬間。


保存箱の蓋が、ほんのわずかに持ち上がった。


紙の束の隙間から。


一枚の手紙が、ゆっくり滑り出る。


床には落ちない。


途中で止まった。


まるで――


誰かに読まれるのを待っているように。


そのとき。


手紙の中から声がした。


『……ああ』

『そこにいるのは、読む人だね』


一拍。


『ここは、まだ夜の裏側だ』


『でも』


紙がわずかに揺れる。


『誰かが来たなら――』

『やっと続きを書ける』


余白は首をかしげた。


「いや、読まないけど」


地下資料保管庫の空気が、わずかに揺れた。


宙に浮いた手紙が止まる。


紙の端が、小さく震えた。


『……読まない?』


乾いた声が、少し形を崩す。


『読まない人が来るとは思わなかった』


沈黙。


手紙は宙に浮いたまま、ゆっくり向きを変える。


まるで、こちらを見ているように。


『みんな読む』

『箱を開ける』

『紙を広げる』

『文字を探す』


一拍。


『そして、違うことを言う』


書架の奥で、別の紙が小さく擦れた。


保存箱の中。


見えていない束のどこかで、また一枚めくれた。


『君は読まない』

『なら、どうする?』


紙の端が、ほんの少し持ち上がる。


『読む人じゃないなら』


一拍。


『……書く人?』


その瞬間。


女性が小さく声を漏らした。


「……あれ」


彼女が見ているのは、手紙ではない。


書架の別の段。


そこに――


新しい保存箱が一つ増えていた。


資料番号。


A3-11483


箱のラベルには、すでにタイトルが印字されている。


《読まない人の記録》


女性が戸惑った声を出す。


「……今、増えました」


「棚、さっきより一段多いです」


余白は棚を見たまま言った。


「書きもしない。何もしない」


少し肩をすくめる。


「……空っぽ」


地下資料保管庫の空気が、わずかに静まった。


宙に浮いていた手紙は、その場で止まる。


紙の端が、かすかに揺れた。


『……空っぽ』


紙の声が、ゆっくりと繰り返す。


『読むでもない』

『書くでもない』


沈黙。


『何もしない』


保存箱の中で、紙が擦れる音がする。


そして――


『それは……』


一拍。


『ずいぶん、珍しい』


宙の手紙が、ゆっくりと沈んだ。


床から数センチの高さで止まる。


『ここに来る人は、みんな』


『何かを探す』

『何かを確かめる』

『何かを書き足す』


『でも君は』


短い沈黙。


『空っぽを持っている』


その瞬間。


保存箱の中の紙の束が、一斉に静止した。


さっきまで続いていた紙擦れの音が、完全に止む。


静かな保管庫。


温度管理装置の低い唸りだけが残る。


そして――


紙の声が、ほんの少し低くなる。


『……それなら』

『ここは、少しだけ静かにできる』


奥の書架。


いつの間にか増えていた保存箱――A3-11483。


そのラベルの文字が、ゆっくり薄れていく。


《読まない人の記録》


文字が消える。


白いラベルだけが残った。


女性が息を呑む。


「……消えた」


棚を見つめたまま、呟く。


「資料番号は残ってるのに……タイトルだけ……」


そのとき。


宙の手紙が、もう一度わずかに揺れた。


『空っぽの人』

『君は、ここを壊しに来たわけじゃない』


『でも』


紙がゆっくり折れる。


『読まないなら――』


沈黙。


『ここにあるものは、誰の記録でもなくなる』


静かな保管庫。


『それでもいい?』


女性が思わず声を上げた。


「ちょっと待ってください」


彼女は棚を見たまま言う。


「それ……困ります」


「ここ、会社の記録庫なんです」


紙の声がゆっくり動いた。


『記録』

『読まれると生まれる』

『読まれないと消える』


沈黙。


『読まれない記録は』

『記録じゃない』


短い間。


『ただの紙』


女性は言葉を失った。


余白は少しだけ首を傾けた。


「僕は余白」


軽く言う。


「君は?」


地下資料保管庫の空気が、またわずかに動く。


宙に浮かんでいた手紙は、ゆっくり向きを変えた。


『……余白』


紙の声が、その言葉を反芻する。


『余白』

『書かれていない場所』

『まだ決まっていない場所』


沈黙。


『なるほど』

『だから、君は読まない』


紙の文字が、ほんの一瞬揺らいだ。


インクが、水面のように波打つ。


『私は――』


声が止まる。


保存箱の中で、紙がゆっくりめくれた。


探しているような。

思い出そうとしているような音。


『……名前が、うまく定まらない』


『読んだ人は、みんな違う名前を呼ぶ』


『ある人は』

『夜の手紙』


『ある人は』

『存在しない記録』


『ある人は』

『未提出の報告書』


紙が小さく揺れる。


『だから私は』

『呼ばれた名前の形になる』


一拍。


『でも君は』

『読まない』

『書かない』

『決めない』


沈黙。


『……それは少し、困る』


女性が戸惑った声を漏らす。


「……え?」



ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


もし本作を面白いと感じていただけましたら、ブックマークや評価をいただけますと励みになります。

ひとつひとつの反応が、次の事案へと繋がっていきます。


それでは、また次の事案で。


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