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魔本物語―創造の書と失敗世界ノース―  作者: 秋月キアラ
第∞部_創造の書と未完の旅
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エピローグ

第一節 世界は戻らない


 空は晴れていた。

 砂漠の朝は、昨日までと同じように青く、遠くの砂丘は朝日に照らされて金色に光っている。乾いた風が吹き、細かな砂を足元でさらっていく。空だけを見れば、世界が一度終わりかけたことなど、誰にも分からないかもしれなかった。

 けれど、セイには分かった。

 地平線が、わずかに歪んでいる。まっすぐ続くはずの砂の線が、ところどころで薄い頁の端のように揺れ、光を受ける角度によっては、そこに存在しない町の影が浮かぶ。鐘の音が、風に混じって聞こえる時もあった。どこの町の鐘なのか、セイには分からない。けれど、誰かがそこにいたのだと思った。

 砂の下には、まだアウロの庭の影がある。黄金都市は完全には崩れなかった。だが、完全に眠ってもいない。時折、砂漠の底から細い光が漏れ、消された名前の欠片が風に乗って舞い上がる。手を伸ばせば掴めそうで、掴もうとすれば砂になって消える。

 世界は戻っていない。

 セシルは戻らない。

 ナジムも戻らない。

 ハナンの傷も、ゼフィ=ラウの歪みも、砂漠の喪失も、なかったことにはならない。

 セイは、自分の手を見た。

 あの白い頁に、もし手を置いていたら。

 もし〈創造の書〉を開いていたら。

 もし、書き換えていたら。

 セシルが生きているハナンを書けたかもしれない。アズィーザが弟を抱きしめる砂漠を書けたかもしれない。クラウディアが傷つかなかった空中都市を書けたかもしれない。ファティマが欠けることのない、完全な存在として隣で笑う世界を書けたかもしれない。

 その迷いは、消えていなかった。

 閉じたからといって、欲しかったものが欲しくなくなるわけではない。

 セイは鞄の中の薔薇の聖印に触れた。ひびの感触が指先に返る。次に、隣に立つファティマを見る。

 彼女は朝日をまぶしそうに見上げていた。猫耳の端にはまだ細い文字のほつれがあり、尻尾も時々、頁の端のように薄く揺れる。金の首輪には六つの印が淡く残っている。火、風、土、水、光、闇。その印は彼女を完全に治したわけではない。けれど、彼女はそこにいる。

 セイが見ていることに気づくと、ファティマは少し首を傾げた。

「なに?」

「ううん。ただ……本当に、これでよかったのかなって」

 声にすると、胸の奥が少し痛んだ。

 ファティマは笑わなかった。茶化しもしなかった。朝の風に耳を揺らしながら、セイの隣へ一歩近づいた。

「迷っていいんじゃないかな」

「いいの?」

「うん。閉じたからって、ご主人様……じゃなくて、セイが何も欲しくなくなったわけじゃないもん」

 途中で言い直したその声が、セイの胸にそっと触れた。

 前なら、ファティマの「ご主人様」は軽口だった。少し照れくさくて、少し騒がしくて、彼女がセイをからかう時の呼び方だった。けれど今、その言葉は別の重さを持っている。持ち主と本。読者と記録。拾った少年と拾われた仔猫。そういう関係を、二人はもうそのままにはできない。

 ファティマは自分で言い直した。

 セイ。

 その呼び方だけで、彼女がここに自分の足で立っていることが分かった。

「ボクだって、ちょっと思うよ」

 ファティマは砂丘の向こうを見た。

「完全な本になってたら、怖くなかったのかなって。欠けてなくて、知らない記録に飲まれなくて、ちゃんと全部分かってて、セイに心配かけなくて済むボクだったらって」

「ファティマ」

「でも、そういうボクは、たぶん耳が蒸れるとか言わない」

 セイは一瞬遅れて、小さく笑った。

 ファティマも笑った。

「尻尾が焦げたら怒るし、お腹が空いたら文句言うし、知らないことは知らないって言う。そういうボクの方が、たぶんボクなんだと思う。まだ、ちょっと自信ないけど」

 セイはファティマを見つめた。

 彼女はもう、雨の日に拾った仔猫だけではない。

 世界を記した魔本であり、大魔導師ファティマの残響であり、ノースの欠けた記録を抱える証人でもある。

 それでも、隣で笑うファティマでもある。

 どれかひとつに決めなくていいのだと、セイは思った。決めてしまえば、また閉じ込めることになる。

「僕も、まだ迷うと思う」

「うん」

「セシルさんを戻したかったって、たぶん何度も思う」

「うん」

「ファティマを完全にできたんじゃないかって、思うかもしれない」

「それも、うん」

 ファティマは頷いた。

「でも、迷ったら呼んで。ボクも一緒に迷うから」

「答えてくれるんじゃないんだ」

「ボク、無知だからね」

 少し得意げに言うので、セイはまた笑ってしまった。

 風が吹く。

 砂漠の向こうで、知らない名の残響がかすかに鳴った。地平線の歪みは消えない。沈んだ都市の影も、戻らない町の痕跡も、そこにある。

 ノースは戻らない。

 けれど、続いている。

 その空の下で、セイは深く息を吸った。

 晴れた空気は乾いていて、少しだけ砂の味がした。


第二節 ハナンの薔薇


 花の都ハナンは、まだ花の香りがした。

 朝の通りには白い小花を浮かべた水路が流れ、窓辺には赤い蔓薔薇が絡み、花人たちの衣からは蜜に似た淡い香りがこぼれている。遠くから見れば、セイが初めて胸を高鳴らせた町と同じだった。美しく、柔らかく、どこか夢の中の町のようで。

 けれど、近づくほど、夢ではないことが分かった。

 聖堂へ続く大通りの石畳には、黒く染みた跡がまだ残っている。何度洗っても落ちないのだろう。白薔薇の絡む柱の一部は焼け焦げ、石の表面がひび割れていた。聖堂の塔は修復用の足場に囲まれ、鐘楼の片側だけが欠けたまま空を見せている。

 人々は働いていた。

 花を運ぶ者、崩れた壁を直す者、焦げた蔓を切る者、祈りの札を結び直す者。町は終わっていない。けれど、元通りでもなかった。

「禁書災害の跡だよ」

 通りの花売りが、セイたちにそう言った。

 彼女はセイを覚えていないようだった。あるいは、覚えていても、どこかぼんやりしているのかもしれない。

「司教様が……いや、司教様だったかしら。誰かが、あの聖堂で悪い本を開いたんだって。そう聞いた気がするの」

 隣で花束を結んでいた老人が首を振った。

「司教様? あの時は司教などおらんかっただろう。聖堂管理官がいたはずだ」

「でも、盲目の司教様がいた気がするわ。声の優しい方で、泣いていた子どもに花をくれたの」

「そんな人がいたなら、名が残っておるだろう」

「そうね。名が……」

 花売りはそこで言葉を止めた。

 手元の白薔薇と赤薔薇を見つめたまま、理由も分からないという顔で涙をこぼした。

 セイは何も言えなかった。

 ファティマも黙っていた。いつもなら、少し慌てて「えっと、泣くならハンカチあるよ」とか何か言いそうなのに、今はセイの隣でただ耳を伏せている。

 セイは花売りに小さく頭を下げ、聖堂跡へ向かった。

 聖堂の前庭は、以前より広く見えた。

 崩れた壁の一部が取り払われ、石の破片が低い囲いのように積まれている。その中央に、薔薇が咲いていた。白と赤が混じった薔薇。一本だけではない。最初は一輪だったのかもしれない。今は三つ、四つ、細い茎を伸ばして、焦げた土の上に小さな花を開いている。

 花弁は美しかった。

 白い部分は朝の光を受けて淡く透け、赤い部分は血ではなく夕焼けのように深い。けれど、花弁の端には黒い焦げ跡のような色が残っていた。美しいだけではない花だった。

 セイは鞄を開けた。

 中から、布に包んだ薔薇の聖印を取り出す。ひび割れた小さな聖印。セシルがいたことを示す形見。完全な宝石ではなく、欠けて、割れて、それでも薔薇の形を保っている。

 手のひらに乗せると、思ったより重かった。

 ファティマが隣にしゃがみ込む。

「置くの?」

「うん」

「ここに?」

「ここがいいと思う」

 セイは、薔薇の根元に聖印を置いた。土へ押し込まない。ただ、見えるように、焦げた石の上にそっと置いた。

 それから〈ファティマの書〉を開く。

 頁はすぐには文字を示さなかった。風が吹き、白と赤の花弁が揺れる。ファティマは茶化さず、何も言わず、ただ隣にいた。

 セイは息を吸った。

 そして、頁へ言葉を刻むように声に出した。

「セシル・ローズ。花の都ハナンの司教。〈ドゥローの禁書〉を開き、町を混沌へ還そうとした人」

 喉が痛んだ。

 でも、ここで止めてはいけない。

 美しい言葉だけでは、また何かを消してしまう。

「それでも、誰も苦しんでほしくないと願った人」

 頁に文字が浮かんだ。

 セシル・ローズ。

 その名は最初、薄く、何度も滲みかけた。だが、消えなかった。黒い焦げ跡の残る薔薇の前で、文字はゆっくりと形を保った。

 ファティマは目を伏せた。

「……書けたね」

「うん」

「きれいにしすぎなかったね」

「したかった」

 セイは正直に言った。

「本当は、もっと優しい人だったって書きたかった。僕たちを助けてくれたって。声が穏やかだったって。救いたかっただけだったって」

「それも本当だよ」

「でも、それだけじゃない」

「うん」

 ファティマは小さく頷いた。

「それだけじゃない」

 その時、背後で小さな足音がした。

 振り返ると、花人の子どもが立っていた。年は、セイよりずっと幼い。手には白薔薇の小さな花束を持っている。誰かに頼まれて供えに来たのか、それとも自分で摘んできたのか。

 子どもは、セイとファティマを少し警戒しながら、薔薇の前に近づいた。

「その人、悪い人だったの?」

 セイはすぐには答えられなかった。

 子どもの目は、ただ知りたがっている目だった。責めるためでも、許すためでもない。大人たちがうまく話せない名前を、どう呼べばいいのか探している目。

 セイは、聖印と薔薇を見た。

 黒く焦げた花弁。白と赤の混じった色。

 そして、答えた。

「悪いことをした人だった」

 子どもは瞬きをする。

 セイは続けた。

「でも、それだけの人じゃなかった」

「それだけじゃない?」

「うん。間違えた人だった。町を傷つけた人だった。でも、誰も苦しんでほしくないって願った人でもあった。だから、忘れないように書いてる」

 子どもはしばらく考えていた。

 やがて、持っていた白薔薇の花束を、セシルの聖印のそばに置いた。

「じゃあ、名前、覚えておく」

 小さな声だった。

 セイの胸が熱くなる。

 ファティマがそっと耳を伏せた。

 その子どもは、セシルを知らない。罪も祈りも、事件の重さも分からないかもしれない。けれど、名を聞いた。覚えておくと言った。

 それだけで、消えかけた記録が少しだけ息をした気がした。

 風が吹く。

 白と赤の薔薇が揺れ、黒い焦げ跡の残る花弁が朝日に透けた。

 セイは〈ファティマの書〉を閉じずに、もう一度だけ頁を見た。

 そこには、短い記録が残っていた。

 罪と祈りの両方を抱えた、一人の司教の名が。


第三節 空に戻った名


 蒼風都市ゼフィ=ラウは、まだ空にあった。

 雲海の上に浮かぶ都市は、朝日に照らされると、まるで青い結晶でできた鳥籠のように美しい。風車塔はゆっくり回り、空中回廊には蒼い灯がともり、翼を持つセイレーンたちが風を読んで行き交っている。けれど、以前のような危うい静けさはなかった。

 都市の中心部、蒼風石中枢の周囲には足場が組まれている。上層の魔導師たちが風歌を調整し、下層技師街の技師たちが油まみれの手で配管や風車軸を直していた。上等な衣の魔導師と煤けた作業服の技師が、同じ図面を覗き込んで言い合いをしている。まだぎこちない。言葉の端に身分の壁が残る。だが、少なくとも同じ場所に立っていた。

 その足場の下で、爆発音がした。

 青白い煙が噴き上がり、ファティマが両耳を押さえて飛び上がる。

「にゃっ、耳! 耳が内側からひっくり返るかと思った!」

「成功だ!」

 煙の中から、ウィンディの声がした。

 セイは思わず咳き込みながら言う。

「今の、成功なんですか?」

「落ちなかっただろ?」

「爆発しましたよね」

「爆発しても落ちなかった。進歩だ」

 ウィンディは煤だらけの顔で笑っていた。額のゴーグルは片方だけひび割れ、翼の先にはまた焦げ跡が増えている。彼の背後には、鳥とも船とも荷車ともつかない飛行機械が鎮座していた。翼の骨組みに蒼風石小型炉、下部には荷台、横には地上係留用の錨。あちこちに応急修理の針金が巻かれ、機体の横には大きく《地空一号・改三・今度こそ定期便型》と書かれている。

 ファティマはその文字を見て、半眼になった。

「今度こそ、って書いてある機械ほど信用できないよ」

「俺もそう思う」

「作った本人が言わないで」

 ウィンディは胸を張った。

「だがな、ファティマ。この機械は昨日、地上から空中都市まで、子ども三人と野菜籠二つと手紙袋一つを運んだ」

「すごい」

 セイは素直に言った。

 ウィンディは得意げに頷く。

「ただし風が強い日は飛べない」

「はい」

「荷物を積みすぎると沈む」

「はい」

「あと、ファティマが乗ると重量計算が狂う」

「ボク、そんなに重くない!」

「いや、体重じゃない。おまえ、記録密度が変なんだよ。機械が“本一冊”として扱うか“猫耳少女一人”として扱うかで迷う」

 ファティマは尻尾を逆立てた。

「機械にまで分類で迷われた!」

 セイは笑ってしまった。

 笑いながら、ふと空中桟橋の向こうを見る。

 地上から来たらしい子どもが、母親の手を握って都市の縁に立っていた。彼は空を見上げるのではなく、足元の雲海を見下ろしている。目を丸くし、声も出ない様子だった。少し離れた場所では、空中都市の老人が、地上から運ばれてきた黄色い花を両手で包むように持っていた。何十年ぶりかに地上の花を見たのだと、隣の技師が小声で教えてくれた。

 風便筒の発着台では、筒型の小さな装置が空へ撃ち出され、地上へ向けて滑っていく。まだ途中で失速することも多いらしく、回収係の若者たちが翼を広げて追いかけていた。

 ウィンディの夢は、完成していない。

 けれど、始まっていた。

「続きを作ればいい、か」

 セイが呟くと、ウィンディは片目をつぶった。

「おう。世界を書き換えるより、ネジを締める方が俺には向いてる」

「時々、締め忘れて爆発しますけどね」

「そこも次の課題だ」

 笑い声の上を、風が抜けていった。


 蒼風宮の公式記録室は、発着場とはまるで違う静けさに満ちていた。

 高い天井。青い硝子窓。風の紋章が刻まれた机。壁一面に並ぶ系譜書。そこには長く、整えられた王家の歴史が収められている。整いすぎているほどに。

 その中央に、クラウディアが立っていた。

 彼女はもう黒い羽を隠していない。背に広がる黒翼は、光を受けると夜空のような深い青を帯びる。視線は静かで、しかし少しも下がっていなかった。

 記録官が震える手で新しい頁を広げる。

 周囲には貴族、神官、風歌の師、下層技師街の代表、そしてナディールがいた。

「黒い羽の名を王家の記録へ戻すことは、都市の秩序を乱します」

 年配の神官が言った。

「落下危機の混乱に乗じて、正史を書き換えるべきではありません」

 別の貴族が続ける。

「第一子など、今さら認めれば継承権に混乱が生じる。民も不安に思うでしょう」

 ナディールは、その声を最後まで聞いた。

 蒼い羽を背に、銀の冠をつけたまま、逃げなかった。

「民が不安に思うのは、記録が変わるからではありません」

 彼女は静かに言った。

「記録が嘘をついていたからです」

 記録室がざわめく。

 ナディールは記録官へ頷いた。

 公式記録の頁に、文字が刻まれていく。


 クラウディア。

 蒼風王家第一子。

 黒翼の風魔導師。

 蒼風都市落下危機において、黒翼風術により中枢構文の暴走を制御した者。


 その文字が記された瞬間、風が吹いた。

 祝福の風だけではない。反発、戸惑い、不安、安堵。いくつもの感情が混ざった風だった。

 ナディールは筆を取る。

 彼女の手はわずかに震えていた。だが、署名はまっすぐだった。

 ナディール・リュフト=ゼフィリア。

 皇女であり、継承者であり、正史の嘘を認めた者の名。

 クラウディアはその署名を見て、少しだけ目を伏せた。

「これで、すべてが変わるわけではありません」

「分かっています」

 ナディールは答えた。

「黒い羽を見る目は、明日も残るでしょう。反対する者もいます。私の継承権も、再審議にかけられるはずです」

「それでも署名したのですか」

「はい」

 ナディールはクラウディアへ向き直った。

 そして、深く息を吸う。

「姉様。守らせてください、とはもう言いません。ともに、この都市を変えてください」

 クラウディアの黒い羽が、かすかに揺れた。

 彼女はしばらくナディールを見つめていた。やがて、ほんの少しだけ笑う。

「時間はかかりますよ」

「その時間を、もう誰かにだけ背負わせません」

 ナディールの声は、今度は震えていなかった。

 クラウディアは頷いた。

「なら、まずは風歌の記録から見直しましょう。黒翼構文を“不吉”ではなく“未分類”とした記録が、まだ残っているはずです」

「はい、姉様」

 その呼び名に、記録室の誰かが息を呑んだ。

 けれど、今度は消えなかった。

 名は、空に戻った。


 セイは、その場を少し離れた窓辺から見ていた。

 自分が救ったのではない。

 そう、はっきり分かった。

 クラウディアは自分の羽で立ち、ナディールは自分の署名で嘘を認めた。ウィンディは未完成の機械で、地上と空をつなぎ始めた。

 セイにできたことは、その瞬間を見届けることだった。

 必要なら、記録することだった。

 ファティマが隣で、小さく言う。

「セイ、書く?」

 セイは〈ファティマの書〉を開いた。

 頁に、風が流れる。

「うん」

 彼は短く記した。

 クラウディアの名は、空に戻った。

 ただし、空はまだ完全には晴れていない。

 それでも、彼女の名はもう消されない。

 ファティマは頁を覗き込み、少しだけ笑った。

「いいね。ちょっと不完全で」

「うん」

 窓の外では、ウィンディの試作定期便が、また少し傾きながら発着台を離れていった。

 悲鳴と歓声と、誰かの手紙を乗せて。


第四節 砂漠を歩く怪盗


 砂漠の夜は、よく冷える。

 昼の熱が嘘のように退き、砂丘の稜線は月明かりを受けて銀色に沈んでいた。風が吹くと、砂は音もなく流れ、遠くの焚き火の煙が細く横へ倒れる。月牙の泊まり場に集まった旅人たちは、外套にくるまりながら、火の周りで茶を飲んでいた。

 その中心で、アズィーザはいつものように胡座をかいていた。

 片膝に肘を乗せ、手には小さな杯。背中には〈名も無き魔導書〉を入れた革鞄。首元には、砂漠石と欠けた金貨を結んだ紐飾りが揺れている。

 ナジムの形見だった。

 以前のそれは、彼女の胸元で小さな棘のように見えた。触れれば血が出るのに、それでも手放せないもの。取り戻せない弟を、まだどこかへ引き戻そうとする呪いのような重さ。

 けれど今は、少しだけ違って見えた。

 重いことに変わりはない。軽くなったわけではない。だが、その重さは彼女を縛る鎖ではなく、砂漠で方角を見失わないための石のようだった。

「それでね、ナジムって弟がいてね」

 アズィーザは、火の向こうにいる旅人たちへ語っていた。

「馬鹿みたいに夢見がちで、砂漠の下に黄金都市があるって本気で信じてた。古い地図を拾えば“姉さん、これで行ける”って言うし、欠けた石板を見つければ“これは太陽神殿の鍵だ”って騒ぐし、水袋の栓を閉め忘れるし、方向音痴のくせに誰よりも先に歩きたがる」

 旅人の一人が笑った。

「そりゃ、砂漠向きじゃないな」

「だろう? あたしも何度そう言ったか分からないよ。でもね、あいつの言うこと、半分は本当だった」

 アズィーザは杯を傾け、月の下に広がる砂漠を見た。

 遠くの砂丘の下には、アウロの庭が眠っている。完全に閉じたわけではない。時折、砂の奥から古い名の残響が風に混じる。

「黄金都市はあった。砂の下にね。古い神殿も、書庫も、猫の石像も、消された名前もあった。ナジムは、そこまで見つけてたのかもしれない」

「じゃあ、残りの半分は?」

 別の旅人が尋ねる。

 アズィーザはにやりと笑った。

「まあ、あいつらしい嘘だったけどね。太陽神殿の鍵だって言ってた石は、ただの鍋の欠片だったし、古代文字だって読んでた模様は、たぶん虫食いだ。本人は最後まで認めなかったけど」

 また笑いが起こる。

 セイは少し離れた場所で、その語りを聞いていた。

 アズィーザは、ナジムを聖人のようには語らない。

 勇敢な弟だった、だけではない。

 夢見がちで、無鉄砲で、抜けていて、姉を怒らせて、それでも砂漠の下にある何かを信じて歩いた弟として語っている。

 作り直さない記録。

 その言葉が、セイの胸に浮かんだ。

 ナジムは戻らない。

 けれど、完全な弟として美しく飾られるのでもない。

 馬鹿だったことも、弱かったことも、夢を見たことも、帰ってこなかったことも、そのまま語られる。

 だから、そこにいたのだと思えた。

 焚き火のそばで、まだ幼い旅人見習いが目を輝かせる。

「ナジムって人、すごい人だったんだね」

 アズィーザは杯を止めた。

 少しだけ考え、それから肩をすくめる。

「すごいところもあった。馬鹿なところはもっとあった」

「でも、黄金都市を信じてたんでしょ?」

「信じてたよ。信じすぎて、姉の言うことを聞かなかった」

 アズィーザの声は軽い。

 でも、首元の形見に触れる指だけは、少し強かった。

「だから、あいつの話を聞いて、真似しようと思うなら、水袋の栓はちゃんと閉めること。地図は逆さに持たないこと。姉がいるなら、出発前に一言くらい言っていくこと」

 旅人たちが笑う。

 見習いの子どもも、真剣に頷いた。

「覚えた。ナジム、水袋の栓を閉め忘れる人」

「おいおい、そこだけ覚えるんじゃないよ」

 アズィーザは苦笑した。

 けれど、どこか嬉しそうでもあった。

 その子どもの中に、ナジムの名前が少しだけ残った。

 英雄としてではなく、失敗談つきの旅人として。

 それでいいのだと、セイは思った。


 翌朝、アズィーザは出発の準備をしていた。

 砂漠の朝日はまだ低く、空は薄い青から金色へ変わりかけている。彼女は革鞄を背負い直し、短剣の位置を確かめ、〈名も無き魔導書〉の留め具を叩いた。首元の形見は、外套の内側へしまわれている。

「本当に一人で行くんですか」

 セイが尋ねると、アズィーザは片眉を上げた。

「寂しいのかい、坊や」

「そういうわけじゃ」

「じゃあ、盗まれたい荷物でもある?」

「ないです」

「なら大丈夫。あたしは元々、ひとりで砂漠を歩く女だよ」

 そう言って笑う姿は、以前と同じように軽かった。

 でも、セイには分かる。

 同じではない。

 彼女はもう、ナジムを取り戻すためだけに砂漠を歩くのではない。ナジムの名前を持って、砂漠を歩く。失われた名と記録を拾い、誰かに語り、時には盗み、時には笑い飛ばしながら。

 ファティマが少し寂しそうに耳を伏せた。

「アズィーザ、本当に行っちゃうの?」

「本猫がそう言うと、引き止められてる気分になるね」

「ファティマ」

「はいはい、ファティマ」

 アズィーザは笑い、ファティマの頭へ軽く手を置こうとして、途中で止めた。

 ファティマが少しだけ首を傾げる。

 アズィーザは肩をすくめ、代わりに彼女の耳の横を指で軽く弾いた。

「無理に完全になろうとするんじゃないよ。砂漠じゃ、完璧な地図ほど怪しい」

「じゃあ、ボクはかなり信頼できるね」

「そういうこと」

 ファティマは少しだけ笑った。

 アズィーザは次に、セイへ向き直る。

「坊や」

「はい」

「あんた、もう少し背が伸びたらいい男になるよ。それまでに、背負ってるものをちょっとは軽くしな」

 セイは苦笑した。

「それ、褒めてますか」

「半分ね」

「エムみたいな言い方になってます」

「勘弁しとくれ。あの白いお姫様と一緒にされたら、砂漠の名が泣く」

 アズィーザは笑い、それから少しだけ真面目な顔になった。

「でも、軽くするってのは、捨てるって意味じゃないからね」

 セイは言葉を飲み込んだ。

 アズィーザの指が、自分の胸元の形見に触れる。

「持ち方を変えるんだよ。首にかけるのか、鞄に入れるのか、人に話すのか、黙って撫でるのか。重さは消えない。でも、抱え方は選べる」

 セイは、鞄の中の薔薇の聖印を思った。

 セシルの名。

 ナジムの名。

 戻らない人たちの記録。

 それらは、世界を書き換えて消すものではない。神聖な箱へ閉じ込めるものでもない。持って、歩くものだ。時々、誰かに語るものだ。間違いも、弱さも、祈りも一緒に。

「はい」

 セイは頷いた。

「僕も、持ち方を考えます」

「いい返事だ。重すぎたら、本猫に半分持ってもらいな」

「ボク、記録密度で重量計算狂うらしいから、半分持てるかな」

「それはそれで頼もしいじゃないか」

 アズィーザは笑った。

 そして、ふいにセイの額を指で軽く弾く。

「痛っ」

「世界を背負う顔をしすぎた罰だよ。あんたは観測者なんだろ? 観測者なら、ちゃんと飯を食って、水を飲んで、寝ることも記録しな」

「それも記録ですか」

「旅じゃ一番大事な記録だ」

 そう言って、アズィーザは外套を翻した。

 朝日の中で、砂漠石の首飾りが一度だけ光る。

「じゃあね、セイ坊。ファティマ。どこかの遺跡で、また会おう。あたしが先に宝を盗んでいても恨まないこと」

「恨みます」

 ファティマが即答する。

「じゃあ、半分だけ残しておくよ」

「半分ばっかり!」

 アズィーザは声を上げて笑った。

 その笑い声を残して、彼女は砂丘の向こうへ歩いていく。

 足跡は風に消されていく。けれど、消えたからといって、歩かなかったことにはならない。

 セイは、その後ろ姿を見送った。

 アズィーザはナジムを戻さなかった。

 だが、ナジムの名を持って歩いている。旅人に語り、笑い話にし、時には泣き、時には怒りながら、弟を作り直さずに残していく。

 セイは鞄の上から薔薇の聖印に触れた。

 セシルの記録も、ナジムの記録も、同じように持って歩けるのだと思った。

 重いまま。

 けれど、呪いではなく。

 砂漠の風が吹く。

 遠くでアズィーザが一度だけ手を振った。

 その首元で、小さな形見が朝日に光った。


第五節 光天の書に残る断章


 白い光に満ちた図書室に、紙をめくる音だけが響いていた。

 そこには窓がない。けれど、暗くはなかった。壁も床も天井も淡い光でできていて、どこまでも続く書架には、背表紙のない白い本が並んでいる。すべてが整い、すべてが静かで、埃ひとつ落ちていない。

 〈光天の書〉の内側。

 エムにとって、もっとも正しい場所だった。

 彼女は白い机の前に座り、開いた頁を見つめていた。白銀の髪は肩に落ち、紅と金の瞳は揺れない。けれど、筆先だけが止まっている。

 頁には、これまでの記録が並んでいた。

 花の都ハナン。

 蒼風都市ゼフィ=ラウ。

 砂漠の地下に眠っていたアウロの庭。

 火界王アウロ、風界王ゼーク、土界王ディティア、水界王イズム、光神ヒリカ、闇神イーマ。

 〈創造の書〉。

 かつて〈大きな神〉と呼ばれた外部者。

 セイ。

 ファティマ。

 正史として整えるなら、いくらでも整えられた。

 セシル・ローズ。禁書に呑まれたハナンの司教。

 クラウディア。王家へ復帰した黒翼の風魔導師。

 アズィーザ。黄金都市から生還した砂漠の怪盗。

 セイ。外より来た観測者。

 ファティマ。〈ファティマの書〉に宿る未完成の記録人格。

 そう記せば、整う。

 読みやすく、矛盾なく、後世の者が迷わず理解できる。

 それこそが、エムの役割だった。

 欠落を見つけ、偽史を焼き、曖昧な証言を退け、記録から外れたものを白紙化し、世界に正しい形を与える。

 だが、筆は動かなかった。

 それだけでは足りない。

 そう知ってしまったからだった。

 セシルは、禁書に呑まれた司教だった。

 だが、それだけでは、彼が救いたかったことは残らない。祈りが届かない現実に耐えられず、間違った救済へ手を伸ばした弱さは、正しい分類だけでは保存されない。

 クラウディアは、黒翼の風魔導師だった。

 だが、それだけでは、彼女が自分の羽を嫌いになりきれなかったことは残らない。隠され、消され、それでも自分の翼で飛ぶと決めた重さは、称号だけでは伝わらない。

 ナディールは、正史の嘘を認めた継承者だった。

 だが、それだけでは、彼女が善人でいたかったことは残らない。姉を守ると言いながら制度の中へ閉じ込めようとしていた痛みは、署名の事実だけでは見えない。

 ウィンディは、地上と空をつなぐ飛行機械の開発者だった。

 だが、それだけでは、何度落ちても飛ばそうとした笑い声は残らない。爆発しても落ちなかったから成功だと言い張る、あの危うい希望は、完成品の記録には入りにくい。

 アズィーザは、ナジムを作り直さなかった。

 だが、それだけでは、彼女が戻したかったことは残らない。弟を抱きしめたいと泣き、形見を握りしめ、それでも頁を閉じた手の震えは、簡潔な正史では削られてしまう。

 ファティマは、未完成の記録人格だった。

 だが、それだけでは、彼女が自分の笑いを嘘ではないかと恐れたことは残らない。本でありながら少女として笑い、欠けているからこそ泣いた記録は、破損欄に押し込めるにはあまりに温かい。

 セイは、観測者になった。

 だが、それだけでは、彼が世界を書き換えたい誘惑に揺れたことは残らない。ファティマを完全にしたくて、セシルを救いたくて、自分を受け入れる世界が欲しくて、それでも〈創造の書〉を閉じた迷いは、勝利の一文では足りない。

 エムは、筆先を白い頁の上へ置いた。

 正史だけでは届かない。

 断章だけでは構造が見えない。

 欠けた記録は危うい。だが、欠けているからこそ抱えているものもある。

 彼女は、ゆっくりと文字を記した。


 欠けた記録は、ただちに誤りとは限らない。

 欠けたまま残ることでしか、保存されない真実がある。


 書いた瞬間、白い図書室の光がわずかに揺れた。

 秩序が崩れたのではない。

 余白が生まれたのだ。

 エムはその余白を見つめた。美しくない。整っていない。まだ分類できない。

 それでも、消すべきものには見えなかった。

「それ、ボクのこと褒めてる?」

 背後から声がした。

 エムは眉をひそめる。

 振り返らなくても分かる。白い図書室の入口に、猫耳の少女が立っていた。金の首輪には六つの印が淡く残り、髪の端にはまだ文字のほつれがある。

「勝手に入るでない、壊れた本」

 エムが冷たく言うと、ファティマはにこっと笑った。

「うん。でも、残すんでしょ?」

 エムは筆を置いた。

 しばらく沈黙する。

 ファティマは机の上の頁を覗き込もうとして、エムに手で制された。

「調子に乗るでない。おまえは依然として不安定な断章じゃ。記録としては穴だらけ、分類も曖昧、構文接続も危うい。正史に無条件で組み込める存在ではない」

「そこまで言う?」

「事実じゃ」

「じゃあ、その事実も残していいよ」

 ファティマは、少しだけ肩をすくめた。

「ボク、完全じゃないもん。でも、完全じゃないから見えたものもあるんでしょ?」

 エムは答えなかった。

 ファティマは白い書架を見上げる。

「正史だけだと、みんなきれいになりすぎるんだね」

「断章だけでは、世界の構造を見失う」

「うん。だから、エムも必要」

 ファティマがそう言うと、エムはわずかに目を細めた。

「おまえに必要と言われる筋合いはない」

「じゃあ、ボクもエムに壊れた本って言われる筋合いないよ」

「ある」

「ない」

「ある」

「半分くらいならある」

 ファティマがそう言って笑うと、エムは小さく息を吐いた。

 完全な和解ではない。

 今も、二人は違う。

 ファティマは欠けた断片を抱え、こぼれ落ちそうな名を覚えている。

 エムは正史を照合し、構造と矛盾を見つける。

 片方だけでは、届かない真実がある。

 片方だけでは、見えない危うさがある。

「監視するだけじゃ」

 エムは言った。

「おまえがまた記録を誤読し、読者を迷わせぬようにな」

 ファティマは嬉しそうに笑った。

「うん。ボクも監視する。エムがまた何でも白く塗りつぶそうとしないように」

「生意気な断章じゃ」

「融通の利かない正史さんだ」

 二人の間に、白い光が落ちた。

 それは境界線のようでもあり、橋のようでもあった。

 エムは再び頁へ向き直る。

 そこに、もう一行だけ書き加えた。


 正史だけでは届かない真実がある。

 断章だけでは見えない構造がある。


 ファティマは、その文字を黙って見つめていた。

 今度は茶化さなかった。

 エムも、すぐには本を閉じなかった。

 白い図書室に、静かな余白が残った。

 消されない余白だった。


第六節 未完成のファティマ


 草原の風は、最初の日と同じ匂いがした。

 青い空。遠くの山並み。背の高い草が波のように揺れ、見知らぬ鳥が白い尾を引いて飛んでいく。現代日本の雨音から切り離され、初めてノースの空気を吸った場所。セイが胸を高鳴らせ、同時に何も知らないまま、世界の危うさへ足を踏み入れた場所だった。

 あの時、ファティマは飛びついてきた。

 猫耳を揺らし、尻尾を跳ねさせ、当たり前のように「ご主人様」と呼んだ。セイは戸惑い、慌て、けれどどこかで嬉しかった。自分を呼ぶ声があることが。自分を必要としているように見える誰かがいることが。

 今、同じ草原で、二人は並んで座っている。

 ファティマは飛びついてこない。セイも、彼女を腕の中へ抱え込まない。肩が触れるか触れないかくらいの距離で、ただ同じ風を受けていた。

 ファティマは自分の手を見つめている。指先には、まだ薄い文字のほつれが残っていた。光の加減によっては、皮膚の下に小さな地図の線が透けて見える。金の首輪には六つの印が淡く宿り、耳の端は時々、頁の角のように揺れた。

「完全な書には、ならなかったね」

 彼女はぽつりと言った。

「大魔導師ファティマそのものにもならなかった。ノースのこと、全部分かるようにもならなかった。知らない町もあるし、読めない名前もあるし、思い出そうとすると頭がもやもやするところもある」

 ファティマは草を一本抜き、指先でくるくる回した。

「昔のボクなら、“ボクは何でも知ってるよ”って言ってたのに」

「たぶん、書いてあることなら、って後から足してた」

「そうそう」

 彼女は小さく笑った。

 それから、少し真面目な顔になる。

「ボク、知らないことだらけだね」

「うん」

 セイが答えると、ファティマはむっと頬を膨らませた。

「そこは否定してよ」

「だって、本当だから」

「ひどい」

「でも、僕も知らないことだらけだよ」

「セイは元からでしょ」

「それもひどい」

 二人は顔を見合わせて、少し笑った。

 軽いやり取りだった。けれど、以前と同じではない。あの頃の軽さは、知らないから笑えていた。今の笑いは、知ってしまったものを抱えたまま、それでも草原の風を受けている笑いだった。

 ファティマは膝を抱えた。

「ねえ、セイ」

「うん」

「ボクが〈ファティマの書〉で、〈創造の書〉の断片で、大魔導師ファティマの残響で、ノースの記録で……それでも、ボクはボクでいいの?」

 風が吹いた。

 草の波が二人の周りを通り過ぎる。遠くの空で、スカイドラゴンによく似た大きな影がゆっくり旋回していた。あの時なら、セイは悲鳴を上げて逃げたかもしれない。今も怖くないわけではない。けれど、草原の美しさと危うさが同じ場所にあることを、もう知っている。

 セイはファティマを見た。

 彼女は本であり、記録であり、世界の証人だ。

 けれど、それだけではない。

 尻尾を焦がして怒った。耳が蒸れると文句を言った。知らないことを笑ってごまかした。壊れているのかと怯えた。自分の笑いが嘘ではないかと泣いた。セイを「ご主人様」と呼び、やがて「セイ」と呼んだ。

 その全部を、セイは見ていた。

「僕と旅した君は、君だよ」

 ファティマの紅と金の瞳が、ゆっくり揺れた。

「本でも?」

「うん」

「記録でも?」

「うん」

「残響でも?」

「うん」

「欠けてても?」

「うん」

 ファティマは少しだけ唇を尖らせた。

「セイ、さっきから“うん”しか言ってない」

「だって、そう思うから」

「もっとこう、感動的な言葉とかないの?」

「考える?」

「今すぐ」

 セイは少し考えた。

 ファティマは期待するように耳を立てる。

「……ファティマは、ファティマだよ」

「そのまま!」

「でも、本当にそうだから」

 セイが真面目に言うと、ファティマはしばらく黙った。

 やがて、草を指先から放す。風に乗った草は、すぐに他の草の波へ紛れていった。

「そっか」

 彼女は小さく言った。

「じゃあ、ボクはファティマでいいや」

「うん」

「未完成だけど」

「うん」

「知らないことだらけだけど」

「うん」

「たまに、ご主人様って呼びそうになるけど」

「それは、意味が変わったなら」

 ファティマはセイを見て、少し照れたように笑った。

「じゃあ、たまにね」

「たまに」

「調子に乗ったら?」

「注意する」

「尻尾で反撃する」

「やっぱり」

 ファティマは声を上げて笑った。

 その笑顔は、魔本の機能ではなかった。

 大魔導師ファティマの残響でも、ノースの記録が形を取っただけの表情でもなかった。

 セイと旅をしたファティマ自身の笑みだった。

 セイはその笑みを見て、胸の奥で静かに記した。

 完全ではない。

 けれど、ここにいる。

 草原の風が吹く。

 空は果てなく広がっている。

 二人はしばらく何も言わず、並んでその空を見上げていた。


第七節 雨の匂い


 草原に、雨の匂いが混じった。

 最初は、気のせいだと思った。ノースの空は晴れている。青い空には白い雲が流れ、草は風に撫でられて銀色に光っている。遠くの山並みも、見知らぬ鳥の影も、どこまでもこの世界のものだった。

 けれど、風の奥に、確かに別の匂いがあった。

 濡れたアスファルト。

 紫陽花の葉に溜まる雨粒。

 湿った段ボール。

 カーテンを閉めた部屋の本の匂い。

 そして、雨の日に拾った仔猫の、小さな体温。

 セイは立ち止まった。

 ファティマも、隣で耳をぴくりと動かす。

「雨の匂いだね」

「うん」

 セイは胸元の鞄に手を当てた。

 〈ファティマの書〉が、内側から淡く光っている。開いていないのに、頁がめくられる気配がした。セイがそっと取り出すと、表紙の金文字が雨音に合わせるように揺らいでいた。

 頁を開く。

 そこには、草原の地図ではなく、雨の住宅街が映っていた。

 灰色の空。電信柱。濡れた道。紫陽花の植え込み。人通りの少ない昼の住宅街。セイがよく歩いていた道だった。学校のある時間なのに、教室にいない自分が、傘を差して歩いていた道。

 胸が痛んだ。

 懐かしい、というだけではない。

 怖い。

 戻れるのだと分かった瞬間、セイは怖くなった。

 ノースで見た怪物や禁書や神々とは違う怖さだった。あの世界には、剣も魔法もない。けれど、戻った席がない教室があり、知らない話題で笑う同級生がいて、自分がいなくても普通に続いていた時間がある。

「戻れるんだと思う」

 セイが言うと、ファティマは頁を覗き込んだまま黙った。

 彼女の耳が少しだけ伏せる。尻尾の先が、草の上でゆっくり揺れた。

「そっか」

 その声は、明るくなかった。

「戻るの?」

 セイはすぐには答えられなかった。

 ノースに残りたい、という気持ちはある。

 草原の風も、ハナンの薔薇も、ゼフィ=ラウの空も、砂漠の夜も、アウロの庭の黄金も、ここで出会った人たちの名前も、すべて大切だった。ノースはもう、ただの逃げ場ではない。自分が歩き、傷つき、誰かを見届けた世界だった。

 だからこそ、残るという選択も、少し怖かった。

 現実へ戻りたくないから残るのなら、それはまたノースを自分の避難所にしてしまうことになる。

 現代日本も、セイを拒んだだけの世界ではない。

 そこには、雨の道がある。部屋がある。本棚がある。家の明かりがある。たぶん、うまく話せない誰かもいる。自分がいなくても進んでいた時間があるからといって、もう関わらなくていい世界になるわけではない。

 セイは、雨に濡れた頁を見つめた。

「戻る。たぶん」

 ファティマの耳が、さらに少し伏せた。

 セイは続ける。

「でも、逃げるためじゃなくて」

「うん」

「僕がいた世界も、僕が関わらなきゃいけない世界だから」

 言葉にすると、不思議と少し息がしやすくなった。

 怖さは消えない。

 現代日本へ戻れば、またうまくいかないことがあるだろう。教室へすぐ戻れるわけでも、誰かと急に話せるようになるわけでもない。雨の日しか歩けなかった自分が、明日から晴れの日に平気で外へ出られるようになるわけでもない。

 それでも、戻る。

 ノースを卒業するためではなく。

 ノースを捨てるためでもなく。

 現実を、もう一度、自分が関わるべき世界として見るために。

 ファティマはしばらく黙っていた。

 やがて、小さく言う。

「じゃあ、ボクは?」

 その声が、セイの胸に刺さった。

 連れていきたい。

 反射的にそう思った。

 雨の部屋にファティマがいてくれたら。紅と金の瞳の仔猫が膝にいてくれたら。〈ファティマの書〉が手元にあれば。きっと、現実へ戻るのも怖くない。

 でも、その願いを、そのまま命令にしてはいけない。

 セイは、ファティマを見た。

「君は君の行きたいところへ行けばいい」

 ファティマの瞳が揺れる。

「……うん」

「でも、もし一緒に来てくれるなら、うれしい」

 ファティマは一瞬、怒ったような顔をした。

 それから、困ったように笑った。

「ずるいなあ。所有しないって、そういう言い方するんだ」

「ずるい?」

「ずるいよ。来てって言わないのに、来てくれたらうれしいって言うんだもん」

「だめだった?」

「だめじゃない」

 ファティマは草の上に立ち、両手を広げる。

 金の首輪が淡く光った。紅と金の瞳が、雨の頁と草原の光を同時に映す。

「ボクは、セイに拾われた仔猫だったかもしれない。〈ファティマの書〉だったかもしれない。ノースの記録だったかもしれない。でも、今はボクが決める」

 彼女の輪郭が、ふわりとほどけた。

 猫耳の少女の姿が白い光に包まれ、髪が光の糸になり、尻尾が小さく丸まる。セイは息を呑んだ。

 草の上に、白い仔猫がいた。

 薄金を帯びた毛並み。紅と金の左右違う瞳。細い金の首輪と、小さなコイン。雨の日の段ボール箱の中で出会った姿と同じだった。

 けれど、同じではなかった。

 あの時の仔猫は、拾われるためにそこにいた。

 今の仔猫は、自分の足でセイの前に立っている。

 ファティマは、にゃ、と鳴いた。

 声は小さかった。けれど、セイの胸の奥には言葉として届いた。

 ――一緒に行く。

 セイは膝をついた。

 手を伸ばしかけて、止める。

 抱き上げていいのか、一瞬迷った。

 すると、仔猫のファティマは不満そうに尻尾を振り、自分からセイの膝へ飛び乗った。

 小さな重みが、膝に乗る。

 あの日と同じ重み。

 でも、意味は違う。

 セイはそっと笑った。

「来てくれるんだね」

 仔猫は、当然でしょ、とでも言うように目を細めた。

 〈ファティマの書〉の頁から、雨音が強くなる。草原の風と、現代日本の雨が重なった。

 セイは本を閉じなかった。

 開いたまま、抱える。

 ノースへの頁は残っている。

 現代へ戻る道も、そこにある。

 どちらかを閉じて終わるのではない。

 どちらも、自分の逃げ場として所有しない。

 関わるべき世界として、行き来する。

 セイは草原を振り返った。

 青い空、遠い山、揺れる草。ここで目覚め、ここでファティマと出会い、ここから旅が始まった。

「また来るよ」

 誰にともなく、そう言った。

 仔猫のファティマが、膝の上で小さく鳴く。

 雨の匂いが濃くなる。

 セイは〈ファティマの書〉を抱え、白い光の中へ足を踏み出した。

 今度は、逃げるためではなく。

 帰るために。


第八節 外宇宙へ流れる断章


 〈創造の書〉は閉じられた。

 けれど、完全に消えたわけではなかった。

 ノースの空の、さらに外。星も風も届かない外宇宙の暗がりへ、いくつかの断章が流れていく。白い紙片。焼け焦げた頁の端。金文字の一節。猫の足跡のような小さな印。誰かが読むまで、まだ意味を持たない欠片。

 そこには、ノースの名が残っていた。

 花の都ハナン。

 セシル・ローズ。

 蒼風都市ゼフィ=ラウ。

 クラウディア。

 ナディール。

 ウィンディ。

 砂漠の怪盗アズィーザ。

 ナジム。

 大魔導師ファティマ。

 エム。

 〈大きな神〉。

 セイ。

 ファティマ。

 そして、最後に記された一文。

 世界を愛しても、世界を所有してはならない。

 断章は、外宇宙の暗がりを流れる。

 いつか、別の世界の魔導師がそれを拾うかもしれない。禁書として封じるかもしれない。創世以前の記録具と呼ぶかもしれない。神格構造、断絶神格、記録者思想、外宇宙由来の魔本として研究するかもしれない。

 そして、誤読するかもしれない。

 世界を所有してはならない、という警告を。

 世界を書き換える方法として。

 それでも、断章は流れる。

 誤って読まれる可能性と、正しく読み直される可能性を、同じだけ抱えて。

 ノースは続く。

 記録は流れる。

 いつか誰かが、その焦げた頁を拾い上げ、そこに残された小さな猫の足跡を見て、首をかしげるかもしれない。

 その時、断章はもう一度、静かに開く。


第九節 未完の旅


 雨は、静かに降っていた。

 紫陽花の葉に水滴が溜まり、重たくなった花房が道端でわずかにうつむいている。濡れたアスファルトには電線と曇り空が細く映り、車が遠くを通るたび、水たまりの輪郭が小さく震えた。

 セイは、傘を差して立っていた。

 久しぶりの現代日本だった。

 空は低く、灰色で、草原のような広がりはない。風は砂漠のように乾いておらず、ゼフィ=ラウのように高くもない。花の都の甘い香りも、アウロの庭の黄金の熱もない。あるのは、濡れた道と、紫陽花と、電信柱と、閉じた窓の並ぶ住宅街。

 何も変わっていないように見えた。

 けれど、セイの見え方は変わっていた。

 以前の雨は、世界から隠れるための幕だった。人目が少なくなり、音が柔らかくなり、自分の輪郭が薄くなる時間。学校のある時間に外を歩いていても、雨なら少しだけ許される気がした。世界が静かになることで、自分がそこにいないことを責められずに済むような気がした。

 今も、雨は静かだった。

 けれど、その静けさの中に、人の気配があった。

 カーテンの向こうで誰かが暮らしている。軒先の植木鉢に水が跳ねる。遠くで小学生の声がして、すぐに雨音へ溶ける。郵便受けに濡れた封筒が差し込まれ、コンビニの袋を持った人が小走りに角を曲がっていく。

 この世界は、セイを拒んだだけの世界ではない。

 セイが関わらずにいた世界でもある。

 そして、これから関わるべき世界でもある。

 傘の下で、小さな声がした。

「にゃ」

 セイは足元を見た。

 紅と金の瞳を持つ白い仔猫が、濡れない位置を選んでちょこんと座っている。金色の首輪には、小さなコインが揺れていた。あの日は読めなかった文字が、今は読める。

 ファティマ。

 そこには、そう刻まれていた。

 セイが傘を少し傾けると、仔猫は満足そうに目を細めた。

「濡れるの、嫌なんだ」

「にゃ」

 返事はただの鳴き声だった。

 けれど、どこかで少女の笑い声が混じったように聞こえた。

 セイは苦笑した。

「ノースの草原では、雨じゃなかったのにね」

 仔猫は、当然でしょ、と言いたげに尻尾を揺らした。

 セイの肩掛け鞄の中で、〈ファティマの書〉が小さく震える。手を入れて表紙に触れると、金文字が雨音に合わせるように淡く光った。ノースへの頁は閉じていない。草原も、ハナンも、ゼフィ=ラウも、砂漠も、まだ本の奥で息をしている。

 戻れないわけではない。

 だが、もう逃げ込むために戻るのではない。

 セイは歩き出す前に、一度だけ目を閉じた。

 草原の風が、記憶の奥で吹いた。

 ファティマの声が蘇る。

 世界が広がり続ける限り、ボクはきっと無知のままだよ。だから、旅は終わらないんだ。

 セイは小さく頷いた。

 雨の向こうにも、草原の向こうにも、まだ知らない世界がある。

 けれど、もうそれを自分だけの物語にしようとは思わない。

 ハナンにはハナンの痛みがあった。ゼフィ=ラウには空へ戻った名があった。砂漠には形見を持って歩く怪盗がいた。光天の書には断章が残り、外宇宙には誤読されるかもしれない頁が流れている。ノースはセイのために用意された夢ではなく、誰かが生きた世界だった。

 そして、この雨の住宅街も同じだ。

 誰かが生きている。

 セイも、ここで生きている。

 仔猫のファティマが、傘の下から一歩踏み出しかけ、すぐに濡れた道を見て引っ込んだ。

「歩かないの?」

「にゃ」

「抱っこ?」

 仔猫は、仕方ないなあ、という顔でセイを見上げる。

 セイは笑って、片手でそっと抱き上げた。今度は、拾うためではない。ファティマが自分で来ると決めたから、その重みを受け止めるために。

 小さな身体は温かかった。

 あの日、雨の中で段ボール箱から抱き上げた時と同じ体温。けれど、その奥にノースの草原と、魔本の頁と、未完成の記録の光があることを、セイは知っている。

 鞄の中の〈ファティマの書〉が、もう一度震えた。

 セイは傘を傾け、濡れた道を歩き出す。

 雨粒が傘を叩く音は、頁をめくる音に少し似ていた。

 誰も知らない世界を欲しがっていた少年は、もういない。

 そこにいるのは、誰かが生きた世界を忘れないために、未完の本を抱えて歩く一人の観測者だった。

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