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第十八章 果てない

 最果ての地が、静かに崩れ始めた。

 崩壊というには、あまりにも穏やかだった。白い地平線が裂け、開かれた頁のような空が一枚ずつ閉じ、文字でできた砂が風にほどけていく。だが、それは世界が壊れる音ではなかった。長く閉じ込められていた場所が、ようやく息を吐く音だった。

 セイの足元で、白い砂が光った。

 砂粒のひとつひとつが、名前になっていた。読めるものも、読めないものもある。人名、町名、種族名、神殿名、消えた水路の名、忘れられた市場の名、記録から外れた子どもの名。それらは、セイの足元から舞い上がり、空へ昇っていった。

 戻るわけではない。

 すべてが元通りになるわけではない。

 けれど、閉じ込められていた名が、もう一度世界の風に触れている。

 セイは、それを見上げた。

 胸の奥が痛かった。

 〈創造の書〉は閉じた。

 〈大きな神〉は、神話の仮面を失った。

 ノースは、誰かの手で理想へ作り直されることから解放された。

 でも、それは奇跡のような救済ではなかった。

 セシルは戻らない。

 ナジムも戻らない。

 クラウディアの黒い羽が受けた痛みも、ナディールが背負った罪も、ハナンの聖堂跡も、砂漠の空白も、なかったことにはならない。

 傷は残る。

 欠けた記録も残る。

 失われたものは、失われたものとして残る。

 それでも、世界はもう、誰かの望む形へ勝手に上書きされない。

 そのことだけが、最果ての地の崩れる光の中で、確かに新しかった。

「セイ」

 隣で、ファティマが呼んだ。

 彼女の声は弱い。

 セイは振り向いた。

 ファティマは立っている。猫耳の端はまだ文字のようにほつれ、尻尾の輪郭も時々頁の端のように薄く揺れる。金の首輪には六つの印が淡く残っていた。火、風、土、水、光、闇。その印は彼女を完全に治してはいない。けれど、ほどけきらないよう、静かに支えている。

 彼女は完全な魔本にはならなかった。

 完全な少女にも戻らなかった。

 未完成のまま、セイの隣にいた。

「大丈夫?」

 セイが聞くと、ファティマは少しだけ笑った。

「大丈夫って言うと、嘘になるかな」

「じゃあ、歩ける?」

 アズィーザが横から言った。

 ファティマは瞬きをして、それから小さく頷く。

「歩ける。ちょっとふらふらするけど」

「なら上等。砂漠じゃ、大丈夫より歩けるかどうかの方が信用できる」

「それ、アズィーザがよく言うやつだ」

「名言だからね。今後も使い回すよ」

 ファティマは、ほんの少しだけ笑った。

 その笑い方は、以前より静かだった。弾むような明るさではない。けれど、無理に隠す明るさでもなかった。傷ついたまま笑うことを、少しだけ覚えた笑みだった。

 白い地平線が大きく揺れた。

 エムが〈光天の書〉を開く。白い頁は激しく震え、記録の線が何度も途切れた。

「戻るぞ」

 エムが言った。

「最果ての接続が閉じる。ここに長く留まれば、記録の断片として外縁に残される」

「それは遠慮したいね」

 アズィーザがナジムの形見を握り、外套を整えた。

「せっかく戻さないって決めた弟に、今度は姉が迷子になりましたなんて笑われたら、たまったもんじゃない」

 セイは頷いた。

 だが、足を動かす前に、もう一度だけ振り返った。

 最果ての奥、〈大きな神〉がいた場所には、もう椅子も旅人の影もない。白い砂の上に、一行の記録だけが残っている。

 ――失った世界を取り戻せなかった者。

 その文字は、風に消えなかった。

 神話ではなく、断罪でもなく、ただの記録として残っていた。

 セイは小さく頭を下げた。

 許したわけではない。

 救えたわけでもない。

 けれど、見なかったことにはしない。

 そのための礼だった。

 次の瞬間、空が閉じた。

 白い光が、セイたちを包み込む。

 落ちる感覚があった。

 今度は、最初と違って、本当に落ちている。頁と砂と星と雨音が混ざり、ハナンの薔薇、ゼフィ=ラウの風、砂漠の湖、アウロの黄金、現代日本の雨の路地が一瞬ずつ通り過ぎていく。

 ファティマが小さく声を上げる。

 セイは手を伸ばしかけ、すぐに思い直した。

 つかむのではなく、差し出す。

 ファティマはその手を見て、迷って、それから自分で掴んだ。

 強くはない。

 けれど、自分で選んだ手だった。

「セイ」

「うん」

「落ちるの、やっぱり苦手」

「僕も」

「ご主人様――じゃなくて、セイも?」

 言い直した後、ファティマは少しだけ気まずそうにした。

 セイは、思わず笑った。

「別に、絶対に言っちゃだめってわけじゃないよ」

「え?」

「でも、持ち主って意味じゃないなら」

 ファティマは目を丸くした。

 それから、落下の光の中で小さく笑う。

「じゃあ、たまに言うかも。癖で」

「たまになら」

「調子に乗ったら?」

「注意する」

「尻尾で反撃する」

「ほどほどに」

 ファティマの笑い声が、白い光の中に混じった。

 それは、以前の笑いとは少し違っていた。

 でも、嘘ではなかった。

 白い光が割れた。

 足元に硬い感触が戻る。

 セイたちは、アウロの庭の最深部へ落ちるように戻ってきた。

 黄金都市は揺れていた。

 天蓋の構文に幾筋もの亀裂が走り、砂の向こうに本物の空が透けて見える。黄金の塔は傾き、乾いた水路には黒いインクのような光が流れ、記録庫の扉は開いたままだった。猫型使い魔の石像たちの目が、一斉に淡く光っている。

 セイは身構えた。

 アウロの庭が崩れるのかと思った。

 だが、崩れない。

 都市は深く軋みながらも、完全には壊れなかった。

 むしろ、長い封印で硬く閉じていた場所が、少しずつほどけているように見えた。

 天蓋の亀裂から、砂ではなく文字が流れ出している。

 記録庫の棚から、消えた地名が小さな光となって外へ飛んでいく。神殿碑文の空白に残っていた音が、鐘のように響き、壁に刻まれた名の一部が、風に乗って砂漠の方へ向かっていく。

 アズィーザが息を呑んだ。

「記録が、外へ……」

 エムが白い頁を照合する。

「封印が完全に解けたわけではない。だが、閉じ込められていた記録の一部がノース側へ還流しておる。地名、種族名、消失都市の断片、神格構文の補助記録……すべてではない。だが、一部は戻る」

「町が戻るのかい」

「町そのものは戻らぬ」

 エムの声は静かだった。

「だが、誰かが夢で見るかもしれぬ。古い歌の中に名が混じるかもしれぬ。旅人が砂漠で、見知らぬ町の鐘の音を聞くかもしれぬ。消えた者の名を、誰かがふと口にするかもしれぬ」

 アズィーザは、長く黙った。

 やがて、首元の形見に触れる。

「それで十分、とは言わないよ」

「十分ではない」

 エムは答えた。

「だが、ゼロではない」

 アズィーザは小さく笑った。

「白いお姫様も、ずいぶん言い方が変わったね」

「妾は事実を述べたまでじゃ」

「その事実が、前より少し優しい」

 エムは少し不機嫌そうに目を逸らした。

 その時、記録庫の奥から白い猫の影が現れた。

 大魔導師ファティマの残留記録。紅と金の瞳を持つ、白い猫。

 猫はファティマの前まで歩き、じっと彼女を見上げた。

 ファティマは少し緊張して、しゃがみ込む。

「……ボク、完全には戻らなかったよ」

 白い猫は瞬きをした。

「完全でないから、残った」

 声は大魔導師ファティマの残響だった。

 ファティマは唇を噛む。

「それ、慰め?」

「記録」

「そっか。記録なら、仕方ないね」

 ファティマは小さく笑った。

 白い猫は、彼女の首輪へ鼻先を近づけた。六つの印が淡く光り、白い猫の影に触れる。

「未完成の記録人格、自己名保持。外部読者セイとの旅程記録、存続。ノース全域記録への接続、制限。不安定。だが、継続可能」

「もっと普通に言って」

 ファティマが眉を寄せる。

 白い猫は少し間を置き、言った。

「まだ歩ける」

 ファティマは目を見開いた。

 それから、嬉しそうに笑った。

「うん。歩ける」

 白い猫は、今度はセイを見た。

「観測者」

 セイは息を呑んだ。

 その言葉は、まだ自分には大きすぎる気がした。

 創造主ではない。救世主でもない。

 ただ、見届ける者。存在したものを、なかったことにしない者。

 それでも、その名で呼ばれると、背筋が伸びた。

「僕は、まだ何も分かっていません」

 セイは正直に言った。

「救えなかったものばかりです。閉じることが、本当に正しかったのかも分かりません」

 白い猫は、尾を揺らした。

「分からないまま記録せよ。確信だけで記す者は、修正者になる」

 セイは、その言葉を胸に刻んだ。

 確信だけで書けば、世界は狭くなる。

 分からないことを分からないまま残すことも、記録なのだ。

 白い猫の影は、ゆっくり薄れていった。

 最後に、ファティマへ一度だけ視線を向ける。

「世界が広がり続ける限り、記録は未完成である」

 ファティマが小さく頷いた。

「うん。ボク、きっとずっと無知のままだよ」

「それでよい」

 白い猫は、砂の光へ溶けた。

 残留記録が消えると、記録庫の扉が静かに閉じた。

 完全に封じられたわけではない。扉の隙間からは、まだ細い光が漏れている。必要な時に、誰かがまた辿り着くかもしれない。けれど今は、ここで眠るのだろう。

 エムは〈光天の書〉を開いた。

 白い頁は、以前のようにまぶしく白いだけではなかった。端の方に、薄い灰色の余白が残っている。欠落を示す余白。以前なら白紙化の対象だった場所。

 エムはそこへ筆を置いた。

 迷いは長かった。

 セイも、ファティマも、アズィーザも黙って見守った。

 やがて、エムは一文を記した。

 ――欠けた記録は、誤りではない。

 筆が止まる。

 彼女は少しだけ息を吸い、さらに続けた。

 ――欠けたまま残ることでしか、伝えられない真実がある。

 白い頁が静かに光った。

 それは、正史の勝利を告げる光ではなかった。

 欠けたものを欠けたまま認める、小さく不器用な光だった。

 ファティマが、そっとエムを見た。

「エム」

「何じゃ」

「それ、ボクのことも?」

 エムはすぐには答えなかった。

 少し目を逸らし、白い頁を閉じる。

「含まれる」

 ファティマは、ふわりと笑った。

「じゃあ、ちょっと許す」

「ちょっとか」

「壊れた本って言われた分、まだ半分残ってる」

「半分なら妥当じゃ」

「エム、ほんと半分好きだね」

 その言葉に、アズィーザが笑った。

 笑い声は、黄金都市の崩れかけた回廊に響き、砂の中へ消えた。

 やがて、上へ向かう道が開いた。

 乾いた水路の奥、砂の流れが階段のように固まっている。ワームの通った穴なのか、アウロの庭そのものが開いた出口なのかは分からない。だが、そこから外の風が吹いていた。

 砂漠の風。

 熱く、乾いて、どこか懐かしい風だった。

 アズィーザが先に歩き出す。

 彼女はナジムの形見を首元へしまい、背中の〈名も無き魔導書〉を確かめた。

「アズィーザ」

 セイが呼ぶと、彼女は振り返った。

「何だい」

「ナジムさんのこと」

「戻さなかった」

 彼女は静かに言った。

「でも、失くしたわけじゃない」

 形見を服の上から押さえる。

「これを持って歩く。名前を呼ぶ。どこかであいつの記録が流れてきたら、聞き逃さない。砂漠で誰かがナジムの話をしたら、あたしが覚えてるって言う。それで足りるとは言わないよ。でも、あたしはそれを選んだ」

 セイは頷いた。

「はい」

 アズィーザは少しだけ笑った。

「セイ坊。あんたも、これから何度も戻したくなるよ」

「分かります」

「分かってても、揺れる」

「たぶん」

「その時は、形見を触りな。名前を呼びな。隣にいる奴に言いな。ひとりで書き換えようとするな」

 セイは、鞄の中の薔薇の聖印へ手を当てた。

 ひびの入った形見。

 戻らない司教。

 それでも、忘れない名。

「はい」

 ファティマが隣で小さく言う。

「ボクの名前も呼んでね」

「呼ぶ」

「でも引っ張らないで」

「分かってる」

「忘れたら?」

「注意して」

「尻尾で叩く」

「やっぱり」

 ファティマの尻尾は、まだ少しだけ頁のように揺れていた。

 でも、その動きは確かに彼女のものだった。

 セイたちは、砂の階段を上り始めた。

 黄金都市アウロの庭は、背後で静かに揺れている。完全には崩れない。だが、もう完全には閉じてもいない。封じられていた記録の一部が、細い光となって砂の隙間から外へ流れ続けている。

 消えた町の鐘の音が、遠くで鳴った。

 それに答えるように、砂漠の風が吹く。

 長い階段を上ると、空が見えた。

 夜明けだった。

 砂漠の地平線が薄い青に染まり、三日月がまだかすかに残っている。遠くの砂丘の上には、朝日が差し始めていた。白い光が砂を照らし、黄金都市から漏れ出した文字の粒を、朝の虫のようにきらきらと浮かび上がらせる。

 セイは、地上へ出た。

 ノースの空があった。

 完全な空ではない。

 どこかに修正痕があり、どこかに消えた記録があり、見えない傷を抱えた空だ。

 それでも、空だった。

 誰かが所有するために貼った天井ではなく、この世界に生きる者たちの上へ広がる空。

 ファティマが隣へ出て、まぶしそうに目を細めた。

「朝だ」

「うん」

「世界、終わってないね」

「うん」

「救われた?」

 セイは少し考えた。

 それから、首を横に振る。

「完全には」

「だよね」

 ファティマは少しだけ笑った。

「じゃあ、続くんだ」

「うん。続く」

 アズィーザが砂丘の上で大きく伸びをした。

「続くなら、まず水だね。泣いて、歩いて、神様に会って、世界の端まで行ったんだ。水袋が空っぽだよ」

「こんな後に最初の心配が水なんですか」

 セイが言うと、アズィーザは真顔で返す。

「砂漠では水が一番大事。世界の真理より大事な日もある」

 ファティマが頷いた。

「あと食べ物」

「本猫、戻って最初に言うことがそれかい」

「ファティマだもん」

 その言い方に、セイは笑った。

 ファティマも笑った。

 エムは少し離れた場所で、朝日に照らされた〈光天の書〉を見下ろしていた。

 彼女は白い頁を開き、先ほどの一文をもう一度見つめている。

 欠けた記録は、誤りではない。

 欠けたまま残ることでしか、伝えられない真実がある。

 エムはその下に、もう一行だけ書き足した。

 ――ノースは未完である。

 そして、少し迷ってから、さらに続ける。

 ――未完であることをもって、失敗とは断じない。

 筆を止めた彼女は、セイたちの方を見た。

「何ですか」

 セイが尋ねると、エムは表情を変えずに言う。

「観測者。これからどうする」

 その呼び方に、セイはまだ慣れない。

 けれど、以前ほど遠くは感じなかった。

「まず、戻ります」

「どこへ」

 セイは砂漠の向こうを見た。

 月牙の泊まり場。

 その先には、ハナンがあり、ゼフィ=ラウがあり、まだ知らない町がある。現代日本の雨の部屋も、どこかで彼を待っているのかもしれない。

 戻る場所はひとつではなかった。

「歩ける場所へ」

 セイは言った。

「戻って、見ます。何が変わったのか。何が変わらないのか。誰が覚えているのか。誰が忘れたままなのか」

「記録するつもりか」

「はい。でも、全部を本に閉じ込めるためじゃありません」

 エムは黙って聞いている。

「そこにあったことを、なかったことにしないために」

 その言葉を聞いて、エムは小さく頷いた。

「ならば、妾も記そう」

「一緒に来るんですか」

「勘違いするな。監視じゃ」

 ファティマが半眼になる。

「素直じゃない」

「断章に言われる筋合いはない」

「未完成の記録人格です」

「長い」

「ファティマでいいよ」

 エムは少しだけ沈黙した。

 そして、渋々というように言った。

「……ファティマ」

 ファティマの耳がぴんと立つ。

 セイも驚いた。

 アズィーザがにやりと笑う。

「おやおや、朝からいい記録が取れたね」

「うるさい」

 エムが顔を背けた。

 ファティマは、しばらくぽかんとしていたが、やがて嬉しそうに笑った。

「うん。ボク、ファティマ」

 その声は、朝の砂漠へ溶けていった。

 セイは空を見上げる。

 ノースの空は広い。

 果てがないように見える。

 かつては、その果てのなさに憧れた。誰も知らない世界を、どこまでも冒険したいと思った。自分のための物語として、遠くへ行きたかった。

 今は違う。

 この果てない空の下には、誰かの現実がある。

 戻らない死者がいる。

 名を取り戻す者がいる。

 傷ついた町があり、未完成の機械があり、空へ飛ぶ黒い羽があり、形見を持って歩く怪盗があり、欠けたまま笑う魔本がいる。

 それらは、セイの物語ではない。

 けれど、セイは見届ける。

 記す。

 忘れない。

 作り直さない。

 それが、観測者としての最初の一歩だった。

 ファティマが隣に並ぶ。

 以前なら、勝手に腕を絡めてきたかもしれない。今は、少し距離を置いて立つ。けれど、遠くはない。

「セイ」

「うん」

「これからも、読んでくれる?」

「読むよ」

「所有しないで?」

「しない」

「閉じ込めないで?」

「閉じ込めない」

「忘れないで?」

「忘れない」

 ファティマは満足そうに頷いた。

 それから、少しだけ照れたように笑う。

「じゃあ、ボクもセイを読む」

「僕を?」

「うん。セイがまた自分を閉じ込めそうになったら、ちゃんと読む。雨の日の部屋も、ノースで歩いた足跡も、怖がったことも、逃げたかったことも、全部」

 セイは胸が詰まった。

「それは、ちょっと恥ずかしい」

「ボクだって恥ずかしい記録いっぱい読まれたもん。おあいこ」

 アズィーザが笑う。

「いいねえ。読み合う相棒ってわけだ」

 ファティマは少し考えて、首を傾げる。

「相棒、でいいのかな」

 セイは答えた。

「ファティマが嫌じゃないなら」

 ファティマは、朝日の下で笑った。

「嫌じゃない。前と同じ意味じゃないけど」

「うん」

「前より、ちょっとめんどくさい」

「それは、ファティマらしいね」

「セイもだよ」

 二人は少しだけ笑った。

 その笑い声は、砂漠の朝に小さく響き、消えずに風へ乗った。

 アズィーザが先へ歩き出す。

 エムが白い頁を閉じ、ついてくる。

 ファティマが一歩遅れて、セイの隣を歩く。

 セイも歩き出した。

 後ろでは、アウロの庭が砂の下で静かに眠り直している。封印されていた記録の一部を、世界へ返しながら。

 前には、砂漠が広がっている。

 その先に、町がある。

 空がある。

 雨の部屋がある。

 まだ知らない物語がある。

 世界は不完全だった。

 傷は残っていた。

 旅も終わっていなかった。

 けれど、ノースはもう、誰か一人の理想として閉じられた世界ではない。

 果てない空の下で、世界は未完のまま続いていく。

 セイはその空を見上げ、胸の奥で静かに名前を呼んだ。

 セシル。

 ナジム。

 クラウディア。

 ナディール。

 ウィンディ。

 アズィーザ。

 エム。

 ファティマ。

 そして、失った世界を取り戻せなかった者。

 すべてを戻すことはできない。

 けれど、なかったことにはしない。

 それが、セイの選んだ救いだった。

 砂漠の風が吹く。

 朝日が昇る。

 ファティマの首輪が、小さく光る。

 セイは、果てないノースの空の下へ、一歩を踏み出した。

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