第11話 襲撃
あれから、無事に夜食を済ませたコヨミは、機嫌良くラジオ配信の仕事をこなした。
配信が終わる頃、今日の家事を完璧に終えた老執事のユウヅキが、栞たちに見送られながらネオン輝く夜のエデンへと帰って行った。
迎えた深夜。就寝時間となり、コヨミと栞はそれぞれ自室へと戻り眠りにつく。
一方、嬭苑は一人、綺麗に手入れされた中庭のガーデンチェアに深く腰掛け、夜空を見上げながら優雅な時間を過ごしていた。
「……ハハッ、悪くねェ景色だな」
紫煙が夜の空へと溶けていく。
嬭苑は指先でトントンと煙草を叩き、傍らの木製テーブルに置かれた灰皿へと灰を落とした。
「…………」
五大マフィアの一角であり、『特異』とまで恐れられた反社会組織、中国マフィア『白蓮』。
その頂点に君臨していた彼にとって、こんなにも静かで、血の匂いのしない夜など今まで存在しなかった。
(アイツら……元気してっかな)
暗緑色の瞳が、どこか迷子のような揺らぎを見せる。
ふと、嬭苑はハーフパンツのポケットから一つのジッポーライターを取り出す。
それはかつて、総勢四十人の直属の部下たちが、彼の誕生日にサプライズでプレゼントしてくれた唯一無二の品だった。
銀色の裏面には、不器用ながらも深く、こう刻まれている。
――『我们的大哥』と。
「悪いなオメェら。置いてきぼりにして、己だけが……こんな良い思いしちまって」
胸を刺すような罪悪感と共に、吸いかけの煙草を灰皿へ押し付ける。
空き箱の山から、未開封の箱を手に取った刹那、脳内に騒がしい幻聴が響いた。
『アァッ! また兄貴こんなに吸って! 肺に悪いっスよ!!』
『言いましたよね私!? 一日一箱までだって!』
『嬭苑の兄貴! 俺が最高にウマい飯作るんで、タバコは控えてくだせェ!』
懐かしい声に、嬭苑の口元が微かに緩む。だが結局、重度のヘビースモーカーである彼は、新品の箱を開けて煙草を取り出した。
「……あと一箱で終わりにすっから、許してくれ」
言い訳のように呟きながら、ジッポーライターで火をつける。
「そろそろ手持ちの在庫も無くなってきたな。コヨミに頼んで、この世界のエッセイタバコでも――」
気怠げに視線を上げた、その時だった。
彼の眼前に、音もなく三つの黒い影が立ち塞がっていた。
「……あ?」
煙草を咥えたまま、嬭苑が間の抜けた声を漏らした直後。一番手前にいた影が、滑らかな動作で右腕を上げる。
「――!」
月明かりに鈍く光ったのは、嬭苑の眉間へピタリと狙いを定めた、サイレンサー付きの銃口だった。
――――――
――――
――
同時刻。コヨミの寝室では、可愛らしい寝息が響いていた。
だが、夜風を入れるために少しだけ開けていた窓の外――バルコニーに、四つの人影が音もなく降り立った。
月明かりを背にした彼らは、壁を向いて眠る無防備な歌姫を確認すると、カーテンの隙間から寝室へと侵入し、その細い首へと複数の手を伸ばす。
――部屋の隅、完全な闇と同化して気配を消していた彼女の存在に気づかないまま。
「ッ!?」
刹那。栞は、数分前に室内に張り巡らせていた極細のワイヤーを思い切り引き絞った。
空気を裂く鋭い音と共に、ベッドへ近づこうとしていた二人の影が瞬時にワイヤーに絡め取られ、床へと無様に引き倒される。
残る二人の影は、即座に異常を察知して後方へ飛び退いた。
「……これだけ知名度を誇るアイドルだ。もちろんコヨミを狙う連中がいるってのも、最初から予測済みだ」
闇の中から現れた栞を見据え、二つの影は懐からサイレンサー付きの拳銃を抜き放ち、銃口を向けた。
「無謀だな。気配にすら気づけなかったのに勝てるとでも?」
冷徹に告げながら、栞が自身の懐から取り出したのは――クローゼットにあったプラスチック製のハンガー。
次の瞬間、栞が床を蹴る。
直後、敵の視界から『武神』の姿が完全にブレて消え失せた。
「――ッ!?」
迷わず銃口を構え続けていた一人の目の前に、突如として栞が肉薄する。
動揺した敵がトリガーを引くよりも速く、栞はハンガーのフック部分を拳銃のトリガーガードに引っ掛け、テコの原理で強引に振り抜いた。
弾き飛ばされた拳銃が、カラカラと床を滑る。
敵もプロだ。即座に拳を突き出してきたが、彼女にとっては止まって見える。
僅かに首を傾げて紙一重で躱すと、ハンガーを逆手に持ち替え、抜刀のごとき神速で顔面へと薙ぎ払った。
骨の軋む鈍い音が響き、一人目の影が崩れ落ちる。
(あと一人――)
勢いのまま、すぐ横にいた最後の影へ踏み込もうとした、その刹那。
「……ッ!」
背後から、最悪の気配を感じ取った栞は、咄嗟に踵を返す。
視線の先、そこには――。
「…………クソッ」
最後の一人が、片腕でコヨミを抱え上げ、眠る彼女の細い首筋に、冷たい銃口を捻じ込むように押し当てていた。
(今動けば、コヨミが殺される)
状況を瞬時に理解した栞は、舌打ちと共に、両手を上げてハンガーを床へと落とす。
降伏の合図。だが、敵は容赦しなかった。
コヨミの首元にあった銃口が、一瞬にして栞へと向けられる。
もちろんその未来も予測していた彼女は咄嗟に身を屈め、落としたハンガーを拾って防ごうとした。
しかし、ワイヤーで縛られたまま床に倒れていた敵が、執念で足を伸ばし、ハンガーを遠くへと蹴り飛ばしたのだ。
(――しまっ……!)
無防備な体勢のまま、栞が視線を上げた。
覆面の奥の、冷酷な瞳と目が合う。
そして、サイレンサー越しのくぐもった破裂音。
次の瞬間、栞の胸には麻酔弾が撃ち込められていた。
「…………チィッ」
どしゃり、と床に倒れ込む。
視界が、深い海の底へ沈むように急速に暗転していく。
薄れゆく意識の中、窓から逃走していく黒い影たちと、その腕の中でぐったりと抱えられている、白銀の髪を揺らす少女の後ろ姿が見えた。
(コヨミ……ッ!)
手を伸ばそうとしたが、指先一つ動かない。
無力を噛み締めながら、栞の意識は、完全な暗闇へと飲み込まれていった。




