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一輝は、雲のまばらな夜の下で立ち尽くしていた――村の中にある、左右を深い森に囲まれた山道である。深緑の香りというよりもむせ返るような草葉の臭いと腐葉土の悪臭が漂い、緩やかに幾重も曲がりながら急勾配を登る酸欠も相まって、眩暈を引き起こされそうになる。せめてもの救いは空気が乾燥しているように感じられたことであり、鬱蒼とした森の湿気に包まれていれば、もはや吐き気を堪えることは出来なかっただろう。
いずれにせよ、山頂までいけば村を見下ろすことが出来るようだったが、一輝が立ち止まったのはその中途だった。足元を見れば、下草の間に、歩く部分だけに辛うじて土が敷かれているが、水はけが悪いのか湿っていて歩きにくい。横になった丸太の表面だけが露出しているのは、階段を作ろうとした痕跡だろうか。役に立っているようには思えない。
そうした道の上に、落ちているものがある。踏みつけられて壊れたペンライトと、明らかに使用した形跡のある催涙スプレーだった。争ったような形跡は、暗闇の下ではハッキリと確認することが出来なかったが、足跡があるのはわかった。靴跡とは少し違う。土を削ったような、片足を滑らせた跡だ。
いずれにせよ……一輝はそこに落ちていた品々を拾い上げ、呆然とそれを見つめた。それが誰のもので、いかようにしてそこに持ち込まれ、放棄されたのか。もはや考えるまでもない。一輝は他でもなく、その物品の持ち主が残した手記によって、この地へやってきたのだから。
葵が再び橋山村へ向かったことを知ってから、それを追いかけるまでにはほとんど時間を必要としかなかった。恐らく、彼女との時間差は丁度一日というところだろう。長大に伸びた古木の枝の隙間から見える夜空は、彼女の時とは違い多少は星や月の光が見えた。反面、雲が横切り影を落とすたびに恐怖に竦むことになったが、それは葵の感じていたものに比べれば大したことではないだろう。一輝はそう考えながらここまでやって来た。
しかし最初に集会場ではなく山へ登ったのは、そこに葵の痕跡が残されているという勘の類などではなく、恐怖を抱いたことによる結果だった。一輝は村に入ってからずっと人の視線に近いなんらかの気配を感じ続けており、それを避けるように家々から遠ざかり、葦やススキのような背の高い草の群生する放棄された畑の中を隠れ進み、お宮へと続く山道へ足を踏み入れてしまったため、山頂から村を見下ろしてみることに決め、その途中でこうして葵の痕跡を発見したのだ。
一輝はしばしの間、その場でじっと遺留品を見下ろし、耐え難い不吉な想像に苦悶して歯噛みしていたが、やがて己がここに来た目的を思い出すと、気味悪くぬかるんだ地面に足を踏み込みながら一歩ずつ山を登っていった。
最初は人がふたりすれ違えるかどうかという細い荒れ道だったが、山頂に近付くと少しずつ道が広がっていき、やがて村側の斜面が木々ではなく畑へと変わる。そこも当然の如く放棄されているため、やはり雑草地帯となっていて視界を遮り、その先にあるはずの村の全景を隠していたが、それと同時に粗雑な山道も終わりを告げ、畑と反対の方向にお宮へと続く階段が現れた。手前には鳥居の上部を失ったような石柱が二本立っていて、その隣に石造りの古めかしい灯篭があるが、火は灯っていない。一輝は、複雑な紋様が柱や灯篭に刻まれているのを、持っているライトで照らしながら、落ち葉に覆われた急勾配の階段を登っていった。一段上がるごとになんらかの畏敬の念を抱くのは、幼少から培われてきた神仏への宗教観――無宗教ではあるが、敬意を払うことは誰しも教え込まれるものだ――によるものだったが、一輝はそれとは全く違う空虚な、喪失感にも似た感情を同時に抱いていた。
それは落ち葉を踏み砕くガサガサという足音が、風のない山の中で必要以上に反響して聞こえるせいだったかもしれないが、それ自体が身も竦む未知の生物のおぞましい会話のように思えてしまい、一輝は不要なほど聞き耳を立て、余計に音を聞き、また怯えるという悪循環に陥っていた。
そして気を急くと同時に躊躇しつつ、息を荒げながらようやく階段を上りきると、そこに見えたのは本来ならばお宮が建てられていたのだろう、車二台分ほどのスペースを持つ空き地だった。今は……何も建ってはいない。手水舎のような小さな石の容器や、周囲に生える巨大に育った榊の木などはそのままに、中央にあるはずのものが消えていた。
もっとも、正しくは全く消えているというわけではない。一輝が見たのは、少なくともお宮とは呼ぶことの出来ない廃材だった。古めかしい材木が折られ、砕かれ、徹底的に破壊された姿で散乱している。紛れもなく、それは本来ならば正しい形でこの地に建ち、荘厳な気配と由来でもって村民から奉られていたはずの神殿の残骸だった。それがなぜこのような姿になってしまったのかはわからないが、周囲には壊れた農具がいくも放棄されており、この破壊活動が自然的なものではなく、橋山村の住民たちの手によるものであることを明確にしていた。
一輝はその突如として気が狂ったかのような背徳行為に戦慄し、我知らず後ずさり、階段から足を踏み外しそうになった。なんとか踏ん張って落下は避けられたものの、この空間には醜悪な敵意が質量を持つまでに凝縮されて溢れ返っているかのように思え、一輝はもはや残虐な破壊痕を注意深く調べる気にもなれず、本来の目的であった、村になんらかの異変がないかと探る方へ注力することにした。
それはその場で踵を返して村を見下ろしてみると、すぐに見つけることが出来た。




