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教授がいなくなった後、私たちはしばし呆然とし続けて、あれはなんだったのかと、どちらからともなく呟いた。私はそれに答えが出せずにいたが、信利氏は今の人物が宗司教授であることを認めながら、せめてもの現実的な解釈をしようとしていた。そして幻覚だったか、あるいは過度のストレスで教授の気がとうとう狂ってしまったのだろうという結論に行き着いたようだった。もっとも、それだけではとても説明が付けられそうになかったが、今はそれで納得するしかなかった。それによって恐怖を和らげ、焼き付けられた非現実的な光景を少しでも薄めたかった。
私はそうした考えによって、収まらない荒い息を震わせながら、恐る恐る書斎に足を踏み入れた。おぞましい姿を見せた教授はもういないが、その痕跡、黒々とした毒を思わせる唾液の染みや、水からあがったばかりとしか考えられない濡れた手足の跡が残っており、私たちが懸命にこじつける推察をあざ笑うかのようでもあった。
私はもはやそうしたものに対する解釈を放棄し、荒らされた部屋そのものに注目を移さざるを得なかった。ただし部屋の荒れ方も尋常なものではなく、私は仕方なく、折り重なって倒れる書棚の下敷きになった本の救出を諦めた。そして代わりに、近く――さらに言えば教授のいた場所の近く――に落ちていた分厚いファイルを拾い上げて、その中身を確認した。
それは教授がフィールドワークを行った各地で書き留めてきた、草稿のようなメモの束だった。県内、県外はもとより、海外まで含めた様々な地を訪ね、信仰や宗教を中心とした人々の有様を研究しているのがわかる。教授は特に人々の口に伝えられる神話の類を好んでいたのか、各地で聞いたそうした伝承の断片を多く書き残しているようだった。
しかしその中のいくつかに、明らかに千切り取られている箇所が見受けられた。ページの一部分だけのものもあれば、丸ごと失われているものもある。そこに何が記されていたのか、私は破り残された紙に記された断片的な文字を読み解くまでもなく確信していた。そして詳しく読み解いてみれば案の定、それは紛れもなく橋山村について記述されたページだということが判明した。
加えて他の書物、郷土資料や、草稿をもとにして正式にまとめた論文の類などについても、同様に一部分が破り取られており、それらも全て橋山村に関連すると思われるものであることが判明するに至り、私も信利氏も同じ考察を共有することになった。つまりは、教授が意図的に橋山村の研究結果を隠蔽しようとしていたのだ。私たちが先ほど見た狂気の光景は、まさしくその最中だったに違いないだろう。
しかし、なぜそのようなことをしたのか。教授は昨夜の電話で最初こそ拒絶していたが、間違いなく私との面会を認めてくれたし、そうしてからは情報を供給することについても渋る様子がなかった。気が変わったにしても断ればいいだけのことであり、自らの研究を破砕することはないだろう。
……そこまで考えた時、私はあるひとつの答えが浮かんできた。教授がなぜ、突然にあのような行動を取ったのか。
そしてその結論は考えるたびに自分の中で真実味を増し、私を恐怖させていった。落ち着いてきたはずの呼吸が再び荒くなり、脂汗が止まらなくなり、手足がガタガタとわななくようになった。そうして私は部屋の片付けを始めようとしている信利氏から一刻も早く離れなくてはと思い、震える足を辛うじて後ずらせ、廊下へと出た。信利氏が私に気付いたのはその時だが、私は彼が振り向くか振り向かないかという瞬間に、踵を返して爆ぜるように駆け出していた。背後から聞こえる信利氏の驚いた声を無視して、靴を履く時間ももどかしく、何にも増して急いで家を飛び出し、傾き始めている日差しの中で現実的な賑わいを見せる町並みを、どこか遥か遠い光景のように感じながら逃げ走った。
私はもはや猶予がないことを悟っていた。それは今までのような切迫感だけによるものではなく、紛れもない事実に違いなかった。私は自宅がある牧之原市へ戻る新幹線の中で恐怖に震えながら、そこで売られていた新聞によって、愛知県で起きた凄惨で不可解な事件を知るに至り、それを確信したのだ。
それは、優衣が失踪したというものだった。それも単に姿を消しただけでなく、彼女のアパートの室内におびただしい量の血痕があり、殺害された可能性があるというものだ。だというのに当人の姿はなく、代わりに血の付いた優衣の足跡が、アパートの外まで続いていた。即死を思わせる出血にも関わらず歩いて部屋を出たという謎めいた事件に警察は頭をひねりながら、その足跡から行方を捜索中らしい。新聞はそうやって謎をほのめかしたまま終わっていたが……私は、村のとうとう監視が動いたのだということを悟っていた。何をどうやって優衣の足跡がついたのかは、まだわからない。しかし紛れもなく、彼らが優衣を殺したのだ。そして恐らく……教授も彼らと接触してしまったのだろう。そしてなんらかの行為を受け、あのような狂気の行動を起こしてしまったのだ。
それを考えると、私はもはや頭を抱え、この新幹線が一刻も早く、何事もなく駅へ着くことを願うばかりになった――村の監視は間違いなく、私を追っていたのだ。私の探し出す、村の情報を持つ者を狙っていたのだ。私に与えられていた猶予とは、そういったものだったに違いない。ならばそうした人物が途絶えた時、とうとう襲われるのは私自身に他ならないだろう……




