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03 - チュートリアルステージ

人生は、静かに笑った。


目の前には、五体のスライムがいた。


広がる草原の上。

彼らは一直線に並び、ただ黙ってこちらを見つめている。


音はない。


ただ、丸い二つの目だけが、まっすぐ人生へ向けられていた。


「……は」


小さな笑いが、口元から漏れる。


「まだいたのかよ」


呆れたように首を振る。


「お前ら、本当に飽きないな」


両手をズボンのポケットへ入れたまま、五体のスライムを順番に眺める。


「左の奴は最初に飛びかかる」

「真ん中は粘液を飛ばす」

「右端の奴は、必ずコンマ五秒遅れる」


動きはすべて頭に入っている。


十回やった程度じゃない。


百回でもない。


一体、何千回この戦いを繰り返したのか。


もう覚えていない。


「考えてみれば……」


人生は口角を上げた。


「お前らの動き、完全に覚えちまってるな」


「動き出す前から分かるくらいには」


風が吹く。


草がゆっくりと揺れる。


何も変わっていない。


空も。

草原も。


そして――


目の前のスライムも。


まるでこの世界そのものが、彼を歓迎するために用意した最初の試練のようだった。


「さて」


人生はポケットから手を抜く。


指を伸ばすと、関節が小さく鳴った。


「まずは、お前らからだ」


人差し指を立てる。


狙うのは、一番右のスライム。


「スライム」


アルニカに存在する最初の魔物。


最も単純な存在。


もし、スライムすら倒せないのなら――


この世界で生き残ることなど不可能だ。


人生は一歩踏み出した。


それに反応するように、一体のスライムが動く。


ぷるん。


ぷるん。


ぷるん。


「はは……」


人生は小さく笑った。


「効果音まで同じかよ」


腰を落とす。


体重を右足へ乗せる。


「チュートリアルなら……」


指を弾く。


「五秒で十分だ」


地面を蹴った。


身体が前へ飛び出す。


――その瞬間。


キィン。


足が止まった。


「……」


人生の肩がわずかに跳ねる。


聞き覚えのある音だった。


いや。


聞き慣れすぎた音だった。


クエストを受注した時。


あるいは――


誰かにランキングを奪われた時。


必ず聞こえた音。


人生はゆっくり顔を上げる。


目の前の空間が、水面に落ちた雫のように揺れる。


小さく。


かすかに。


そして――


その揺らぎの中から、一枚の透明なウィンドウが現れた。


空中に浮かぶ。


静かに。


何の音もなく。


人生の目が見開かれる。


「……」


文字が一つずつ表示されていく。


[MISSION 01]


スライムを5体討伐せよ


報酬:不明


反射的に手を伸ばす。


指先が近づく。


あと少し。


あと少しで――


しかし。


指は何もない空間をすり抜けた。


「……クエスト」


人生は小さく呟いた。


しばらく、その画面を見つめる。


そして――


少しだけ笑った。


「まだ残ってたのか」


「この世界に来た時、全部消えたと思ってた」


透明なウィンドウは、ゆっくりと消えていく。


人生は小さく息を吐いた。


そして再び、五体のスライムを見る。


「なら……」


肩を回す。


「負ける理由はないな」


一体のスライムが跳ねた。


ぷるん。


人生は左足を半歩ずらす。


目を細める。


(初撃)


中央のスライムの身体が膨らむ。


記憶通り。


迷いなく横へ移動する。


次の瞬間――


水の弾丸が飛んだ。


ドォン!!


後方の木が一本、吹き飛ぶ。


幹の中央には、大きな穴が空いていた。


「危な」


人生は後ろを振り返る。


そして、道中で拾った小石を手に取った。


口元が大きく吊り上がる。


「もう一回、試してみるか?」


スライムたちは答えない。


ただ、ぷるぷると身体を揺らすだけ。


人生は少しだけ笑った。


「まあ……」


「ちょっとした懐かしみってことで」


ゆっくり歩き出す。


距離が縮まる。


「こんな攻撃しかできないなら――」


「初心者でも勝てるぞ」


五メートル。


四メートル。


三メートル。


スライムたちの身体が、わずかに震え始める。


人生の眉が少し動いた。


(次は……右)


すでに踵が回っていた。


何千回も繰り返した動き。


スライムが跳ぶ。


――しかし。


「……」


人生の目が大きく見開かれる。


違う。


そこじゃない。


スライムの身体は、記憶よりも遥かに高く跳ね上がっていた。


「……は?」


遅い。


避けるには、もう間に合わない。


次の瞬間――


ドゴォン!!


人生の身体が地面へ叩きつけられた。


人生の身体は、草原の上を何度も転がった。


「っ……!」


息が詰まる。


数回転した後、ようやく身体が止まった。


「……っ、く……」


小さく咳き込みながら、人生はゆっくりと上体を起こす。


そして――


目の前のスライムを見た。


「……」


眉が寄る。


「……三秒……」


呟きが漏れる。


「違うだろ」


「三・四秒のはずだ」


だが。


スライムは何も答えない。


ただ、いつも通りに。


ぷるん。


ぷるん。


ぷるん。


身体を揺らしているだけだった。


人生は唾を飲み込む。


「……なんでだ?」


胸の奥がざわつく。


違う。


これは間違いだ。


何かがおかしい。


長年、このゲームをやり込んできた。


誰よりも。


誰より正確に。


モンスターの行動パターンを理解していた。


なのに――


今、自分の記憶と目の前の現実が噛み合っていない。


人生は強く首を振った。


まるで、自分の中に生まれた違和感を振り払うように。


「……違う」


「これは……」


「俺のタイミングがズレただけだ」


そう言い聞かせる。


そうするしかなかった。


しかし。


スライムは再び近づいてくる。


ぷるん。


ぷるん。


ぷるん。


妙なことに。


いつもなら少し間の抜けた音だった。


プレイヤーを緊張させることすらない、ただの効果音。


それが今は――


まるで、残り時間を告げるカウントダウンのように聞こえた。


人生は大きく息を吸う。


「……よし」


「もう一回だ」


自分の太ももを軽く叩く。


「今度は本気でやる」


ゆっくりと姿勢を低くする。


膝を曲げる。


視線を五体のスライムへ向ける。


「少し違うだけだ」


「それだけ」


口元を上げる。


「そもそも……」


「チュートリアル相手にスキャン使う奴なんて、ただの臆病者だろ」


一歩。


二歩。


スライムの身体が膨らむ。


「来る」


人生が動いた。


瞬間。


ヒュンッ!!


無数の粘液弾が横を通り過ぎる。


ドォン!


ドォン!


後方の木々が次々と倒れていく。


大量の土煙が舞い上がり、視界を覆った。


人生の姿が消える。


静寂。


しばらく。


風の音だけが残る。


スライムたちも動きを止めた。


そして――


ゆっくりと身体の向きを変える。


その瞬間。


……。


しかし。


彼らが完全に振り向くより先に。


タッ。


小さな足音。


そして――


荒い呼吸。


近づいてくる。


タッ。


タッ。


タッ。


「……」


スライムたちが止まる。


そして。


「スライム!!」


土煙を切り裂き、人生が飛び出した。


右手には小さな石。


すでに大きく振りかぶっている。


左足が地面を踏み込む。


靴の周囲で土が跳ねる。


全身の力が一点へ集まる。


投げる。


石は一直線に飛んだ。


回転しながら。


一度。


二度。


空気を切り裂いて。


ガキィィン!!


直撃。


スライムの核へ。


透明な中心部分に亀裂が走る。


そして――


パァン!!


核が砕け散った。


支えを失った身体が、その場に崩れる。


ただの液体となり、動かなくなった。


人生はゆっくり息を吐く。


「……一体」


口元が少し上がる。


やはり。


倒し方は変わっていない。


攻略法も。


弱点も。


全部知っている。


――なのに。


「……」


その笑顔は、すぐに消えた。


呼吸が重い。


「はぁ……」


「はぁ……」


胸が大きく上下する。


額から冷たい汗が流れる。


たった一体。


たった一体倒しただけだ。


なのに。


両足はもう重くなっていた。


人生は自分の手を見る。


震えている。


「……」


そういうことか。


この身体は――


ゲームキャラクターじゃない。


スタミナゲージは存在しない。


自動回復もない。


HPバーもない。


ダメージを数字で受け流すこともできない。


あるのは。


疲れる身体。


息を切らす身体。


傷つけば痛みを感じる。


ただの――


人間の身体だった。


ぷるん。


ぷるん。


ぷるん。


残った四体のスライムが近づいてくる。


ゆっくり。


しかし確実に。


人生は無理やり立ち上がった。


「これは……」


「アルニカじゃない」


声が震える。


すぐに息を整える。


そして一歩踏み出す。


スライムの身体が再び膨らむ。


(来る)


いつもなら。


ここから先は分かっていた。


どこへ避けるか。


いつ動くか。


どの角度なら安全か。


全部。


全部理解していたはずなのに――


今回は。


思考が遅れた。


呼吸が乱れている。


足が重い。


「……くそ」


ヒュンッ!


一発目。


避ける。


二発目。


遅い。


人生の目が見開かれる。


「あ――」


次の瞬間。


バキィィッ!!


世界が止まったように感じた。


次の瞬間。


バキィィッ!!


何かが砕けるような音がした。


世界が止まった。


何かが宙を舞う。


赤い。


温かい。


だが――


それが何なのか。


人生の脳は、すぐには理解できなかった。


「……?」


視線がゆっくりと左肩へ向く。


そこにあるはずのもの。


ずっと存在していたもの。


自分の身体の一部。


――左腕。


「……あ」


声にならない声が漏れる。


ない。


そこにあるはずの腕が。


ない。


次の瞬間。


遅れて。


ようやく。


痛みが届いた。


「……っ」


熱い。


焼けるような感覚。


身体の奥から直接、何かを引き裂かれているような痛み。


血が溢れる。


止まらない。


「……あ」


人生の口が震える。


脳が拒否していた。


理解したくなかった。


これはゲームじゃない。


演出じゃない。


リセットできない。


やり直せない。


――現実だ。


「ア……」


息が詰まる。


そして。


「AAAAAAAAAAAAAA!!」


叫び声が草原へ響き渡った。


人生は膝をつく。


残った右手で、必死に肩を押さえる。


だが。


指の隙間から血が流れ続ける。


熱い。


痛い。


怖い。


今まで経験したことのない感覚だった。


画面越しでは何度も見た。


キャラクターが傷つく場面。


死亡演出。


ゲームオーバー。


けれど――


それを自分の身体で感じたことなど、一度もなかった。


呼吸が乱れる。


視界が揺れる。


そして。


「……」


前を見る。


四体のスライム。


まだいる。


ゆっくりと。


確実に。


こちらへ近づいてくる。


ぷるん。


ぷるん。


ぷるん。


その音が。


もう可愛らしい効果音には聞こえなかった。


死を告げる足音だった。


「……はぁ」


「はぁ……」


息を吸う。


だが、うまく入らない。


頭が回らない。


今までなら。


ここで最適解を探していた。


敵の行動。


地形。


残りHP。


勝率。


全部計算できた。


でも。


今は違う。


頭の中にあるのは――


ただ一つ。


逃げろ。


「……くそ」


人生は立ち上がる。


ふらつく身体。


重い足。


それでも。


走る。


草を踏み。


木々の間を抜ける。


もう考えない。


攻略もしない。


分析もしない。


ただ生きるために。


走る。


「なんで……」


声が震える。


「なんで……こうなるんだよ……」


後ろから聞こえる。


ぷるん。


ぷるん。


ぷるん。


近い。


まだ追ってくる。


どれだけ走っても。


音が消えない。


呼吸が苦しい。


視界がぼやける。


足がもつれる。


それでも。


「生きる……」


小さく呟く。


「俺は……」


「生きる……!」


右手を伸ばす。


何かを掴もうとする。


草。


土。


木。


何でもいい。


身体を支えるものを探す。


しかし――


指先は。


何も掴めなかった。


「……え?」


足が止まる。


目の前。


そこには。


もう道がなかった。


草原も。


木々も。


何もない。


ただ。


暗闇。


深く。


底が見えない。


「……」


人生の身体が固まる。


崖。


逃げ道は。


終わっていた。


その時。


後ろから音がする。


ぷるん。


ぷるん。


ぷるん。


ゆっくり振り返る。


四体のスライムが立っていた。


数メートル先。


逃げる場所はない。


助けもない。


仲間も。


NPCも。


誰もいない。


いるのは――


自分だけ。


「……」


人生は歯を食いしばる。


違う。


こんな場所。


ゲームでは見たことがない。


こんな展開。


攻略情報には存在しない。


「……っ」


反射的に叫ぶ。


「SCAN!!」


何も起こらない。


「MENU!!」


沈黙。


「STATUS OPEN!!」


返事はない。


あるのは。


ただ。


スライムが跳ねる音だけ。


ぷるん。


ぷるん。


ぷるん。


人生の顔から血の気が引く。


その時。


一体のスライムが身体を縮めた。


その動き。


知っている。


何千回も見た。


攻撃の予兆。


だが――


もう遅い。


「待っ――」


ヒュンッ。


青い弾丸が飛ぶ。


狙いは。


足元。


ドォン!!


地面が爆発する。


足場が消える。


身体が浮いた。


「……え?」


一瞬。


何も感じなかった。


風。


音。


光。


全部が遠い。


身体が後ろへ投げ出される。


「……」


空が見える。


青い空。


さっきまで当たり前だった空。


それが。


少しずつ遠ざかっていく。


「う、そ……」


次の瞬間。


「うわああああああああ!!」


叫び声が。


谷へ吸い込まれていく。


KRASH!!


背中が岩壁へ叩きつけられる。


「っ……!!」


息が止まる。


だが。


終わらない。


KRASH!!


また。


別の岩へ。


KRASH!!


さらに。


もう一度。


何度も。


何度も。


身体が落ちていく。


痛みが。


一つずつ。


意識を削っていく。


血が岩壁へ散る。


視界が暗くなる。


音が遠い。


風の音だけが残る。


「……」


「なんで……」


かすかな声が漏れる。


「……こんな……」


その瞬間。


初めて。


人生は理解した。


これは。


ゲームじゃない。


敗北しても。


リトライできる世界じゃない。


ランキングも。


記録も。


攻略知識も。


何の意味もない。


ここでは――


死ぬ。


本当に。


死ぬ。


「……怖い」


初めて。


口に出た。


負けることじゃない。


順位を落とすことじゃない。


記録を失うことじゃない。


ただ。


死ぬことが。


怖かった。


身体はさらに落ちる。


深く。


深く。


どこまでも。


そして――


闇が訪れた。


音はない。


痛みもない。


何もない。


ただ。


完全な暗闇だけが。


人生を包み込んだ。


どれほどの時間が経ったのか。


人生には、もう分からなかった。


時間という概念すら。


意味を失い始めていた。


ただ。


落ちている。


それだけだった。


風が身体を撫でる。


いや。


もはや、感じているのかすら分からない。


痛みも。


寒さも。


恐怖も。


少しずつ遠ざかっていく。


まるで、自分という存在が。


この世界から切り離されていくようだった。


「……」


声は出ない。


口を動かしているのかも分からない。


視界は暗い。


だが、完全な闇ではなかった。


時々。


岩壁が見える。


遠く。


遠く。


流れていく。


けれど、それを見る意味もなかった。


ただ落ちる。


ただ落ち続ける。


(……あ)


ふと。


人生は思った。


(俺……)


(本当に死ぬのか)


不思議だった。


あれほど恐れていたはずなのに。


今はもう。


恐怖すら薄れている。


脳が現実を理解することを諦めたのか。


それとも。


身体が限界を超えたのか。


分からない。


ただ。


静かだった。


あまりにも静かだった。


「……」


昔。


ゲームをしていた時。


何度もキャラクターを死なせた。


失敗したらリセット。


気に入らなければやり直す。


最速記録を更新するために。


何千回も。


何万回も。


同じ場所で死んだ。


そのたびに思っていた。


次はもっと早く。


次はもっと上手く。


次は絶対に成功する。


でも。


今は違う。


ここには。


リセットボタンがない。


メニュー画面もない。


セーブデータもない。


「……」


人生の指先がわずかに動く。


何かを掴もうとした。


意味なんてない。


分かっている。


もう何も掴めない。


それでも。


身体は勝手に動こうとした。


生きたい。


ただ。


それだけだった。


「……俺」


かすかな声。


誰にも届かない。


「……まだ」


言葉が途切れる。


まだ何なのか。


自分でも分からなかった。


まだやりたいことがあったのか。


まだ見たい景色があったのか。


それとも。


ただ死にたくないだけなのか。


答えは出ない。


落ちる。


落ちる。


落ちる。


そして。


いつしか。


痛みが消えた。


「あ……」


そのことに気づく。


痛くない。


さっきまで全身を襲っていた痛みが。


もうない。


代わりに。


何も感じない。


身体の感覚が薄れていく。


手も。


足も。


自分の存在すら。


遠くなる。


(……寒い)


そう思った。


けれど。


本当に寒いのか。


それすら分からない。


(……眠い)


違う。


眠いというより。


意識が沈んでいく。


深い海の底へ。


ゆっくり。


ゆっくり。


沈んでいくようだった。


「……」


もう。


目を開けているのか。


閉じているのか。


分からない。


音も遠い。


風の音も。


自分の呼吸も。


何もかも。


薄れていく。


(……ああ)


人生は思った。


(これが……)


(死ぬってことか)


不思議と。


最後に浮かんだのは。


ゲームのことではなかった。


ランキングでも。


記録でも。


世界一の称号でもない。


ただ。


小さな疑問だった。


(……俺)


(この世界で……)


(何をすればよかったんだろうな)


答えは出なかった。


当然だった。


もう。


考える力すら残っていなかった。


意識が。


一つずつ。


消えていく。


視界。


音。


感覚。


存在。


最後に残ったものは――


自分がここにいたという。


かすかな記憶だけだった。


そして。


それすらも。


静かに。


闇へ溶けていった。


――――


何もない。


音もない。


光もない。


時間すら存在しない。


そこには。


ただ。


完全な静寂だけがあった。


人生はもう。


何も感じていなかった。


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