手紙
彼のことを思っていた。
彼は優しかった。
彼は私の事を好きだと言った。
私の髪の香りが好きで、私の柔らかな部分が好きで、私の顔も名前も声も全部好きだと言ってくれたのに。
抱き締めてくれた長い腕も、襟足の長い髪も、首筋のほくろや眼鏡を外したときの切れ長の目も、乾いた唇も、椅子に深く沈んで音楽を聴いている姿 も、私の手作り弁当をわざと美味しそうに食べてくれた一生懸命さも、雨の日にサプライズで車で迎えに来てくれた優しさも、大好きだったのに。
なのに、なぜ彼は私に突然背を向けたのだろう。
「俺よりもずっと良い男はいるよ」
彼の捨て台詞が木の葉と共に風に攫われていった。
乾いた冬の冷たい北風にさらされて、私の心は壊れた。
結婚を夢見た乙女心は、粉々に砕かれてそこら中に散らばっている。
私はその瓦礫の上で膝を抱えて泣くしかなかったのだ。
手に届くものを掴んで、ガラスを割った。
その欠片を拾って、私は自分のうでに尖ったガラスを突き立てた。
赤い血が迸った。
私は自分自身の体を傷付けたのだ。
突然、景色が変わった。
白いベッドの上で寝ているからだに戻ったのだ。
私は辺りを見渡した。春風が舞い込む窓際には赤いガーベラの一輪挿しが置かれていた。
変な夢を見ていた。
動かそうとした左腕に激痛が走った。
見ると、手首から腕の付け根まで白い包帯に包まれている。
消毒液の匂いが血の匂いに勝っていた。ただ、指を動かそうとすると鋭い痛みが襲ってきた。
ベッド脇のチェストの上に手紙が置いてあるのを見つけ、私は右手でそれを掴まえた。
手紙を広げると、そこにはひどく汚い文字が並んでいた。
***
まさか、ヒロがこんなことをするなんて思わなかった。初めて聞いたときは、とてもショックで信じられなかった。会いに行くわけにはいかないから、手紙を書くことにした。
オレがなぜ突然ヒロに別れを告げたのかは、自分でもうまく説明できない。一緒にいる時はいつも楽しくて幸せだった。でも、なにかが引っかかって いた。それがなにかはよくわからないけど、オレはヒロとこの先も一緒にやっていく自信が持てなかった。きらいなところがあるなら言い訳にできるけど、きら いになったわけじゃない。悪いのはたぶんオレの方で、ヒロには落ち度はない。オレが自分のことを許せなくて、今の自分ではきっと誰のことも幸せにできない と気付いたから、一人になってやるべきことをやろうと決めたんだ。ヒロと過ごした時間は宝物だと思ってる。ヒロのことを考えると自分の人生に付き合わせて 苦労させることが目に見えていた。オレは人と付き合えるような資格なんてないつまらない男だ。
オレはしばらく一人で生きていく。でも、ヒロはたぶん誰かそばにいないとダメになりそうな気がする。オレはヒロを支えてあげられない。だから、ちゃんとした良い男と出会うように、祈ってるから。これまでずっとありがとう、ヒロ。どうか幸せになってください。
晟一
***
私は号泣した。
包帯交換する看護師さんが、優しい声で慰めの言葉をかけてくれた。
でも、そんなことが癒しになるというのなら、私は恵みの雨を全身で浴びたい気分だった。
一人で生きていく覚悟なんて、私にはない。
でも晟一は一人で生きていく覚悟をして、私を捨てたのだ。
いや、ちがう。
私を捨てたのではなく、自分を孤独に追いやることで何かを得ようと覚悟しただけだ。
私は最初から彼の荷物にさえも入っていなかったんだ。
私は勘違いしていた。
大好きな人といつかめでたく一緒になれると信じていた。
好きなだけじゃダメだと彼は厳しい現実を突きつけている。
晟一はつまらない男なんかじゃない。
つならないのは私。
私がお子様だから、晟一に突き放されたんだ。
今の自分ではきっと、誰にも相手にされない。
そう思った。