旅立
車窓を流れる風景を眺めていた。
ここがどこかも知らない。どこへ向かっているのかもわからない。
ただ、流されてみようと思ったから、思いつきで買った切符を手に着のみ着のまま旅立った。
空っぽになった心には隙間風が吹いている。
心の窓も扉も固く閉ざしているはずなのに、どこから吹き込む風なのかわからない。
なんだかとても寒い。
この両目に映る景色もぼやけて霞んでいた。
青い空も海も色あせた絵葉書の写真みたいに見える。
海岸線にはちらほらと犬を散歩させる人がいたり、季節外れのサーファーが台風一過の荒波に向かって波と戯れているのが見える。
海はあらゆる命の源だ、というけれど。
あらゆる命が還る場所ということでもあるだろうか。
ふと、くだらない考えを振り払うように首を横に振ってみた。
たかが恋を失ったぐらいで自殺だなんて、とかつて他人事だと嘲笑った自分を思い出した。
死にたいほど苦しい気分をなめていた。
私は今、猛烈に「失恋による自殺願望者達の気持ち」が痛いほど理解できる。
これは経験した者にしかわからない辛さだ。
心が渇いて、飢えて、恋人の存在を欲しているのに、それが未来永劫叶わないのだから。
私達二人の未来はもうどこにもない。
あるのは虚空を見詰めながら失恋のダメージに堪えている臆病者だけだ。
抱え込んだ膝に顔を乗せて泣いている。
哀れな自分がいる。
この世界は鮮やかなはずなのに、今の私には墨絵にしか見えない。
食べる気力も出ず、読書する気力もない。
泣く力さえ底を突いたようだ。
家族には何も話してないのに、察しているのか誰も失恋について触れさえしなかった。それは優しさなのか、腫物に触ってはいけないという危機感なのかはさておき。
私は誰かにこの胸の内に渦巻くものをただ聞いて欲しいと願っていたのに。
それが言えず、居たたまれなくなってふらふらと家を出てきたのだ。
行く当てなんてない。
一人で考える時間なんていらない。
ただ、流されてみたかった。
揺れるローカル線の車両が二台しかない電車には、私以外の人は片手で数えるほどしか乗っていなかった。
その中で、場違いと思われる出で立ちの紳士がいた。
私は最初、田舎の結婚式にでも行く人なのだろうと勝手に思ったが、その紳士は手ぶらで、しかもまだ寒い季節だというのにコートも着ていない。
イギリス風のかしこまった灰色のスーツに白い布の手袋をしていて、靴は先がとんがった皮ひもの立派な靴だ。
靴を見ればその人がどの程度の人かわかる、と言った父の言葉が脳裏に浮かんだ。
この人は金持ちなのだろうか。
紳士は私の視線を感じたのか、こちらに顔を向けた。
私は目を反らしたが、一瞬だけ確かに視線が絡み合った。
マズイと思った瞬間、もう手遅れだった。
「あの」
と、紳士が声をかけてきた。
私は返事をせずに、視線だけ紳士に向けた。