第1話 路地に降ろされた夜
【ゴブリン】
ゴブリンとは、西洋に伝わる神話やおとぎ話に登場する小柄な異形の存在である。多くは人里近くに潜み、群れで行動しながら弱い者や油断した者を狙うと語られる。狡猾で手癖が悪く、金品や食料を奪うことに躊躇がなく、繁殖力も高いため、一度住み着くと数を増やしていくと恐れられてきた。また、人の言葉を理解するとも、独自の鳴き声で仲間と連携するとも言われ、その姿をはっきり見た者は少ない。伝承では洞窟や廃墟、地下などに巣を作るとされるが、現代でもその痕跡だけは各地に残るという。
東南アジアの夜は、思っていたよりも早く深くなる。
ネオンが消えたあとの街は、観光パンフレットに載っていたものとは別の顔をしていた。
「そろそろ戻るか」
居酒屋のような店を出たあと、俺たちは通りでタクシーを拾った。
男三人の気楽な旅行。多少のトラブルも旅の醍醐味だと笑っていた。
行き先はホテルの名前を見せればすぐ伝わった。
運転手は無口だったが、頷いて車を出す。
最初は順調だった。
見覚えのある通りを抜け、徐々に灯りが減っていく。
「なんか暗くないか?」
後部座席の友人が言う。
確かに、観光客が歩くような場所ではなくなっていた。
だが、海外ではよくあることだろうと、その時は深く考えなかった。
やがてタクシーは細い路地に入り、そのまま奥へと進む。
そして、急に止まった。
「ここだ」
短くそう言われる。
「いや、違うだろ。ホテルまだだよな?」
笑いながら言い返すと、運転手はゆっくりとこちらを振り向いた。
その手には、小さな刃物が握られていた。
言葉はなかった。
ただ、降りろという視線だけがあった。
一瞬、冗談かと思った。
だが、刃先がわずかに動いたのを見て、全員黙った。
「……降りよう」
誰かが小さく言った。
ドアを開け、三人とも外へ出る。
その瞬間、車はすぐに走り去った。
エンジン音が遠ざかり、路地に静けさが戻る。
「……最悪だな」
吐き捨てるように言いながら、スマホを取り出そうとしたその時だった。
背後で、何かが動いた。
「おい!」
振り返ると、友人の一人のバッグが消えていた。
その先に、小さな影が走る。
子供だ。
裸足で、信じられない速さで路地の奥へと消えていく。
「待て!」
反射的に追いかける。
路地を抜けると、廃れた建物が見えた。
窓は割れ、壁は崩れ、長く使われていないのは一目で分かる。
あの中に入った。
「取り返すぞ」
そう言って、三人で中へ踏み込む。
空気が重い。
湿った臭いと、古い埃の匂いが混ざっている。
足音が響く。
いや――違う。
自分たちのものではない音が混じっている。
軽い。小さい。複数。
「……いるな」
誰かが呟く。
奥の方で、何かが動いた。
懐中電灯を向けると、一瞬だけ姿が見えた。
子供だ。
一人ではない。
壁際、階段、奥の部屋。
あちこちに、気配がある。
数が多い。
「おい、やめとこう」
一人が言う。
だがその時、別の影が動いた。
横から、腕を掴まれる。
振り払おうとしたが、その間にポケットが軽くなる。
「財布が――!」
声を上げた瞬間、周囲が一斉に動いた。
音もなく、近づいてくる。
囲まれていた。
「くそっ!」
腕を振り回すが、空を切る。
誰も正面にいない。
背後。横。足元。
触れたと思った瞬間には、もう離れている。
手際が良すぎる。
ただの子供の動きじゃない。
「やめろ!」
叫んでも、返事はない。
笑い声すらない。
静かだ。
異様なほどに。
ただ、淡々と奪われていく。
腕時計。スマホ。財布。
バッグの中身も、すべて。
気づけば、三人とも何も持っていなかった。
息が荒くなる。
だが、それで終わりではなかった。
一人がよろけて、床に倒れた。
その瞬間、影が一斉に集まる。
何をしているのかは見えない。
ただ、押さえつけるような動きと、低い呼吸音だけが伝わる。
「やめろ!」
駆け寄ろうとしたが、足を引かれた。
転ぶ。
視界が歪む。
その間にも、影は増えていく。
どこから来ているのか分からない。
ただ、建物全体が、何かで満ちているようだった。
目が合った。
子供の顔。
汚れている。痩せている。
だが、その目には何もない。
怒りも、恐怖も、ためらいも。
ただ、作業のように動いている。
その冷たさに、背筋が凍った。
――ここは、人が入る場所じゃない
そう思ったときには、もう遅かった。
数日後。
あの路地の近くに、一台のタクシーが止まっていた。
運転席には、あの男がいる。
しばらくすると、建物の奥から子供が現れる。
数人。
無言のまま、近づく。
一人が、ポケットから何かを取り出した。
腕時計。スマートフォン。財布。
それを運転手に渡す。
運転手は中身を確認し、小さく頷く。
代わりに、後部座席から袋を取り出した。
パンや缶詰、水。
子供に差し出す。
子供は何も言わず、それを受け取る。
やり取りは、それだけだった。
タクシーは再び走り出す。
子供たちは、また建物の中へ戻っていく。
次に来る誰かを、待つために。
本作をここまで読んでいただき、ありがとうございます。
物語の背景にあるのは、海外でしばしば見られるストリートチルドレンの存在です。
彼らは「お金」を持つことはあっても、「使う」という感覚を十分に教わる機会がありません。
誰かに渡されるものでも、誰かと交換するものでもなく、ただ“手に入れるもの”として扱われることが多いからです。
観光地などで見かける子どもたちの中には、親や大人に指示されてお金を集める術を知っている者もいます。
しかし、親も家も持たない子どもたちは違います。
彼らにとってお金は価値のある紙でありながら、その価値をどう扱えばいいのか分からない曖昧な存在です。
実際に、品物を手に取り、代わりにお金を置いて走り去る――そんな行動が見られることもあります。
それは「盗み」であると同時に、彼らなりの「交換」でもあるのです。
この物語で、金目のものと食べ物が交換される描写を入れたのは、そうした現実の歪んだ価値観を表現するためでした。
正しさでも善悪でもなく、ただ生きるために身についた行動としての選択です。
物語はフィクションですが、その根底には確かに存在する現実があります。
ほんの少しでも、その片鱗が伝わっていれば幸いです。




