01
孤児院の幼い子どもたちに、美しい聖女は言った。
「決して忘れないで。あなたたちのお父さまも、お母さまも、本当は心からあなたたちを愛していたのよ。どうしても離れなければならない、悲しい事情があっただけ」
王都――グラン・セラムの大聖堂。ステンドグラスから降り注ぐ陽光は、まるで神の祝福を可視化したかのように、あたりを白く輝かせていた。シャルロット・ヴァレンティーヌ侯爵令嬢は、まるで絵画の中の女神のようにほほえんでいた。
シャルロット様の言葉に、子どもたちの目がすがるように揺れる。
「ほんとう……?」
「ぼく、嫌われたわけじゃないの?」
彼らの様子を見ていたわたし――ニーナ・リエルは、思わずぐっと唇を引き結んでいた。
この国では、聖女の力に目覚めた娘は、王都の大聖堂で手厚く保護される。
十二歳でわたしが覚醒すると、両親には、国から多額の報奨金が渡された。二人は、転がり込んだ大金に目を輝かせていた。両親はあっさりとわたしを引き渡し、以降連絡はない。
今日は、集められた聖女たちが、その慈愛を示すための公式行事。聖女はこの国にとって特別な存在。筆頭聖女に選ばれると、平民であっても王族に嫁ぐこともできる。
子どもたちにパンを配るわたしたちの周りには、多くの騎士や貴族、そしてそれを眺める観衆の目が集まっている。
シャルロット様は、陽光を受けて輝く濃い蜂蜜色の髪と、曇りのない空色の瞳をしていて、その美しさに皆はうっとりしている。聖女であり、かつ侯爵家の令嬢である彼女は、第一王子であるルカ・デュ・ヴェルノワ殿下の妃に、もっとも近い存在だと言われている。
(本当は心から愛していたなんて、どうしてそんな無責任なことが言えるの?)
わたしは、手に持っていた配給用のバスケットを握りしめる。
そんな風には、とても思えない過去がわたしにはある。
王都に近い小さな村で生まれ育ったわたし。生家は決して裕福ではなかった。にもかかわらず、両親は見栄っ張りで贅沢好き。いつも外側だけが取り繕われていて、実際には着るものにも食べるものにも困っていた。それが削られるのは、家族の中でわたしだけ。
それでも、飢えるほどじゃなかったから、かなりマシだった――前世で「親ガチャ」に派手に失敗したわたしにとっては。
♰ ♰ ♰
前世――かつて日本と呼ばれた国で、わたしにとって親の記憶とは、空腹と搾取でしかない。
存在自体が無視され、満足な食事も与えられなかった。いつも空腹で、ついに気を失って倒れた時、異変に気付いた学校の通報で保護された。
親から離れてやっと生活が安定し、施設から通った学校で必死に勉強した。
高校を卒業するタイミングで、久しぶりに訪ねてきた親は、開口一番にこう言った。
「これからは働いて、給料を全部家に入れろ」
視界が泥に染まるような絶望に、わたしは身動きが取れずに立ち尽くした。
施設の人が必死に守ってくれなければ、わたしは一生、あの見えない鎖につながれていただろう。
用意してもらった遠方への切符と、就職先の住所。
「親子だから、そこに愛があるべきだなんて、そんな思いに囚われて苦しまなくていいからね。あなたはあなたを大切にして生きなさい」
わたしは親ではなく、まともな他人のおかげで生きることができた。
各駅停車の電車に揺られること数時間。車窓から見える景色が、見慣れた街並みから、みずみずしい緑と広い空へと変わっていく。それはまるで、わたしの心からよどみが洗い流されていくような時間だった。
見知らぬ土地の、小さな駅。
ホームに降り立つと、これまでに嗅いだことのない、草木の匂いが混じった柔らかな風が頬をなでた。
(――ああ、やっと。やっと、わたしはわたしの人生を始められる)
駅前の交差点。歩行者信号が青に変わる。
一歩、踏み出す。
(がんばろう。自分の力で)
そんな、当たり前で、けれどわたしにとっては奇跡のような明日に希望を抱いた、わずか数秒後だった。
鼓膜を突き破るような、大型トラックの急ブレーキの音。焼けるような衝撃と、浮遊感。
空を仰ぐようにして倒れたわたしの視界に、最後に映ったのは、どこまでも高く、残酷なまでに澄み渡った、自由の象徴のような青空だった。
――そんなことを思い出したのが、十二歳になって聖女の力に覚醒した時だ。
(……わたし、生まれ変わっている)
今世での両親は、前世よりは随分マシだったが、自分の享楽だけを追求し、わたしに興味がないところは共通していた。
そしてわたしの覚醒は、彼らを潤した。結局は、今世の聖女としての力も、搾取の対象でしかない。わたしは二度も親ガチャを外したことになる。
(……それでも、この力があったのだから、良かったと思うべきなのかな)
瞬きを一つ。わたしは、遠い日の記憶を大聖堂の床に振り落とすように、手元のバスケットを力強くつかみ直した。
わたしは十八歳となり、前世で命を落とした時と同じ年齢になっていた。
過去を振り返っている暇はない。今度こそ、わたしのための人生をつかみ取らなければならないのだから。
♰ ♰ ♰
子どもたちが去って、後片付けをしているとき、わたしはよせばいいのに、つい口を出してしまった。
「先程のようなことは、できれば、言わないであげた方がいいと思います」
わたしの言葉に、シャルロット様を守る侯爵家の護衛騎士たちがピクリと眉を動かした。けれど、誰も手出しはできない。聖衣をまとうわたしたちは神の所有物。ここでは貴族も平民もなく、等しく聖女として扱われ、王族と言葉を交わすことさえ許されている。
シャルロット様が、困惑したように空色の瞳を揺らす。
「どういう意味かしら、ニーナさん」
少し離れたところにいたルカ殿下と護衛騎士たちも、こちらに視線を向けたのが分かった。
わたしのまっすぐな黒髪、緑色の瞳――あまり好きになれない、美しくあることに執着していた母譲りの容姿は、華やかで愛らしいシャルロット様とは対照的に、キツい印象があることだろう。
「この世には、どうしようもない親だっています。子どもを愛さない親、金のために子どもを売る親。それは、信じても祈っても変わらない事実です」
前世と今世、二つの記憶が胸を締め付ける。
「親子だからといって、愛があるとは限りません。本当は愛されているはずだという、実体のない夢を見せるのは残酷だと思います。かなわない希望にしがみつくことは、つらいことです。それは呪いのように、彼らを苦しめます」
大聖堂の空気が、一瞬で凍りついた。
「呪いだなんて! なんてひどいことを言うの……」
シャルロット様が震える声で訴える。
ルカ殿下が、困ったように眉を下げてわたしを見ている。王家の象徴であるまぶしい金髪と、誰もを魅了する琥珀色の瞳をしたルカ殿下。聖女にあるまじき、と思っているのかもしれない。
けれど、わたしにはどうでもよかった。
(筆頭聖女になりたいなんて、思ってるわけじゃないし)
適当な隙を見て、わたしはここから逃げ出そうと心に誓っていた。幸い、聖女としての力はある。この力があれば、生きていくことは可能だろう。
「苦しい思いに囚われずに、自分で生きていく力を得てほしいと思いましたので――いえ、余計なことを言いました。申し訳ありません」
わたしはぺこりと頭を下げると、その場から逃げだすために、きびすを返した。
言ってしまった。でも、後悔はしていない。
凍りついた空気を背中で感じながら、わたしは早歩きに近い速度でその場を離れた。一刻も早く、自分を縛るこの建物から外へ出たかった。
扉の付近まできた際、彫刻のような美貌をした男性と目があった。月光を凝固させたような銀髪に、澄んだアメジストの瞳――ルカ殿下と並んで、王国中の令嬢の視線を集める、公爵家の令息オリヴィエ・デュ・ノア様だ。わたしでも知っている、「公爵家の至宝」と名高い人。わたしより少し年上、ルカ殿下と同じ二十歳だと聞いたことがある。
彼は、周囲の誰もがわたしに眉をひそめる中で、ただ一人、射抜くような視線をわたしに固定していた。
(……何? やけに、見てる――)
一瞬そう思ったけれど、すぐに視線を切って、わたしはそのまま大聖堂の扉に手をかけた。
その時、扉の向こうから、一人の少女が泣きながら姿を現した。少女の足にはできたばかりの大きな傷がある。それ以外にも、あちこちに古い擦り傷や、トゲが刺さったような小さな傷が絶えなかった。
「まあ、かわいそうに。痛むでしょう? 見せてちょうだい」
しくしくと泣きながら大聖堂の中を歩く少女に、シャルロット様があわてて駆け寄る。少女の目の前にくると、シャルロット様は躊躇なくその真っ白な手で傷に触れた。空色の瞳に、真摯な同情の光が宿っている。
『ヒール』
シャルロット様の手から、淡い光が漏れて、少女の傷を癒やす。少女は泣き止み、嬉しそうに笑った。
「ありがと」
少女が外に戻ろうと駆けていく――が、わたしの足元で派手に転んでしまった。せっかくシャルロット様が癒やしたはずの少女の足に、また血がにじんでしまった。
「大丈夫?」
わたしは少女を立ち上がらせる。瞬間、少女は火がついたように泣き出した。わたしは膝をついて視線を合わせると、手を差し出す。
『ヒール』
大聖堂のステンドグラスから差し込む陽光さえもかすむような、圧倒的な白銀の光があふれ出した。光に包まれ、少女の傷は、まるで最初からなかったかのように、跡形もなく、消え失せていた。
少女はぴたりと泣き止んで、不思議そうに自分の体を見つめている。
「ぴかぴか……」
少女のつぶやきに、わたしははっとした。周囲の視線が再び、わたしに集まったのが分かった。
シャルロット様が顔色を変えて近づいてくる。少女の足をまじまじと見ると、呆然とつぶやいた。
「古い傷まで、完璧に消えているわ。はじめから、なかったみたいに……」
ルカ殿下の琥珀色の瞳が大きく見開かれ、わたしを凝視している。近くに立っていたオリヴィエ様も、驚愕の表情でわたしを見つめていた。
わたしはそのどちらも無視して、少女の頭を優しくなでる。
「慌てて走っては、駄目よ」
それだけ言って、わたしは誰の制止も聞かない速度で、大聖堂の重い扉を押し開けた。
息苦しい建物の中から抜け出して、仰ぎ見た王都の空は、どこまでも高く、美しく広がっていた。
わたしはいっぱいに息を吸い込んで、誓う。
(今度こそ、わたしの人生を生きるんだから)




