第4話 消えた荷車と三日月の印 ③
「ネドさん」
フィオが声をかけた。
ギルド奥の木の机。ネドは向こう側に座った。逃げ道は塞いでいない。巡回役もまだ呼んでいない。
机の上に、順に並べていく。北街道の簡単な地図。最初の証言の記録。車軸の破片は、破断面をネドの方へ向けて。二重床の留め金は、刻印が見える面を上に。革紐は金具を上にして、毛が残っている方を見えるように。荷札は開いたまま、端を押さえて。
乾物商は少し離れて立っている。三人が正面へ座った。
「確認したいことがあります」
フィオが地図を指した。
「盗賊の足跡はありませんでした。争った跡も。荷物もほとんど盗られていません」
ボルが車軸の破片に手を添える。
「外から壊されたんじゃない。重さで折れてる」
ネドの目が破断面で止まった。言葉が止まって、視線だけがルカの方へ動く。
「乾物商さんの荷だけなら、いつもは折れない」
ルカが留め金を指した。
「荷台に二重床があった。床そのものと、中身が増えてた」
ネドの指が少し動いた。
「中に毛と、爪痕」
フィオが革紐へ視線を移す。
「森で、同じ毛色の小さな獣を見つけました。これを脚につけたまま」
三日月。
「獣の声だけは、本当だったんですね」
ネドが目を落とした。地図から破片へ、留め金へ、革紐へ。順番に見て、それから膝の上の帽子へ落ちた。
「何を運んでたんですか」
沈黙だった。今までの一瞬とは違う。長い。
「ネド?」
乾物商の声は、責めるというより分からないという声だった。
ネドは膝の上で両手を組んだ。指が震えている。
「……断れば」
一度、息を吸う。
「この街道の荷は、もう回さないって言われた」
誰に、とルカは聞きたくなった。今度も待つ。
「最初は断った。変な荷だって分かったから。荷主の名前も教えない。開けるなって言う。二重床まで使えって」
「それで?」
「ひと月分の稼ぎを、先に置かれた」
乾物商は何も言わない。
「……受け取った」
「中身は?」
「知らない」
「本当に?」
フィオの声は強くない。ただ、逃がさない。
「何かは知ってた?」
「普通の荷じゃないとは思ってた」
「生き物だとは?」
「声を聞くまでは」
ネドが唇を噛む。
「気づいてからも、開けなかった」
「襲われたって話は?」
「……嘘だ」
乾物商の表情が固まった。
「横転した時、二重床の中で何かが暴れた。荷車獣も驚いて……俺は飛び降りた」
膝の傷も、肘も、泥も、全部本物だった。原因だけが違った。
「盗賊は?」
「いない」
ルカは小さく息を吐いた。だから足跡がなかった。
怪我は本当。逃げたことも本当。獣の声も本当。本当の中へ、盗賊だけを入れた。だから最初は見抜きづらかった。
ネドが初めて顔を上げた。
「運んだのは、俺だ」
大きな声ではない。開き直りでもない。許してほしいとも言わない。
「断れなかった、だけじゃない。金も取った。嘘もついた」
一度だけ乾物商を見る。
「俺がやった分は、俺だ」
そこだけは迷わなかった。
「報告します」
フィオが立ち上がった。受付へ行けば巡回役が呼ばれる。
「待った」
「何」
「この人だけ連れてかれるのか?」
フィオの眉が少し寄った。
「逃がしたら、また運ばされるかもしれない」
「でも、脅されたのも本当だろ」
「それで全部なかったことにはできない。お金も受け取った」
「それも分かってる」
ルカが言葉に詰まる。自分でも、何を言いたいのかまだ上手くまとまっていない。
「じゃあ、どうするの」
「……だから」
机の上の三日月を見る。
「頼んだ奴は? この人を脅した奴。金払った奴。獣を捕まえた奴」
「ネドさんは知らない」
「なら、この人だけ連れてって終わったら、そいつら残るだろ」
「それはそう。でも、ネドさんが運んだことと、その人たちがいることは別」
フィオは少しだけ強く言った。
「事情があったからって、ネドさんがやったことまで消したら駄目」
「脅されたなら、全部この人のせいじゃない」
「でも、お金を受け取って運んだのも本当」
「分かってる。だから、それで終わりにするのも違うって言ってんだよ」
二人とも止まった。
ボルはずっと留め金を見ていた。最初の依頼の罠。今回の二重床。風袋獣の拘束具。同じ印。でも、その前にいる誰かはまだ見えない。
「……罰を受けるのと」
二人がボルを見た。
「……これを追うのは、別」
フィオが少しだけ目を見開いた。
「ネドさんが運んだことは、報告する。でも、捕まえた人も、頼んだ人も、まだいる」
「それだ」
ルカがすぐ頷いた。
フィオは数秒黙って、それから少し息を吐いた。
「……うん。報告する。ネドさんのことも、三日月の印の件も、一緒に」
「それでいい」
ネドは三人を順番に見ていた。助けてくれとも、見逃してくれとも言わない。自分の責任がどう扱われるのか、その先まで追うのか。黙って聞いていた。
来たのは、ギルドの巡回役を務める女性だった。
空色の髪を後ろで低くまとめている。青灰色の短い制服の上着に、灰褐色のズボン。腰には記録袋と鍵束。手に記録帳を持っていて、武器は下げたままだった。手錠も縄も出さない。
「ネドさん」
「……はい」
「続きの確認をします」
巡回役は急かさなかった。ネドが自分で立つのを待っている。
ネドは膝を庇いながら立った。誰も引っ張らない。
乾物商と一瞬、目が合いそうになった。乾物商が口を開きかけて、やめた。ネドも謝らない。赦しも罵倒もない。ただ、昨日まであった仕事の関係が、もう同じ形では残っていないことだけが分かる。
歩き出す直前、ネドがルカを見た。
「……荷車獣は?」
「無事」
「……そうか」
「歩いて戻った」
ネドは少しだけ頷いた。
「よかった」
それだけだった。巡回役と並んで歩いていく。巡回役は半歩前にも後ろにも出ず、ネドの歩く速さに合わせていた。ネドは振り返らなかった。
ボルは机の上の留め金を手のひらに載せて、しばらく見ていた。
勝った感じはしない。悪人を捕まえたとも思えない。誰かが金を払った。誰かが獣を捕まえた。誰かが荷を渡した。ネドは運んだ。嘘もついた。そこには確かに責任がある。
でも、その前がある。さらにその前も。
夜、人の減った冒険者ギルドで、昼間は別々の場所にあったものが一つの机へ集められていた。
北街道の地図。下から裂けた車軸の破片。二重床の留め金。風袋獣の脚についていた革紐。ネドの証言記録。最初の依頼で回収した捕獲罠。
それから、板に挟んで乾かしていた荷札。
ランタンの明かりが机の上を黄色く照らしている。昼にはどれも別々のものだった。今は同じ事件の一部に見える。
「これ、もう開けますか」
受付係が荷札へ手を伸ばした。フィオが頷く。
板を外して、貼りついていた紙を端からゆっくり剥がす。破れなかった。
泥と折れと欠けた角。それでも文字は読めた。
搬入元 西方中継市 ラグナ
「ラグナ?」
その下には荷種の欄があって、何も書かれていない。さらに下。
管理番号 No.0173
右下に、青灰色の検印が捺してある。
三日月だった。
ルカの顔から、少しだけ表情が消えた。
「……また」
フィオも黙ったまま見ている。最初の罠。二重床の留め金。風袋獣の拘束具。そして荷札。四つとも、よく似た三日月だった。
荷札の左側、依頼主の欄だけが、紙ごとなくなっていた。
「……ここ」
「消えてる」
「自然に破れた?」
ボルが紙の端へ触れた。他の傷みと比べて、首を振る。
「ここだけだ」
裂け方が、他の傷みとは違って見えた。
搬入元はある。管理番号もある。三日月もある。受取人の名前も、乾物商の印も、ネドの名前もない。依頼主だけが、ない。
分かったことが増えた。そのぶん、分からないことも増えた。
「依頼、終わったんだよな」
「荷車の依頼はね」
「じゃあこれは?」
誰も答えなかった。
誰が、何のために、獣を捕まえて、隠して、運ばせているのか。そこまではまだ見えない。
ランタンの下で、古い荷札の依頼主欄だけが、紙ごとなくなっていた。




