第一話 誓いの余韻と新しい風
王都の喧騒がまだ深い眠りの中にある、早朝。
街を包む朝もやを押し分けるようにして、エルネ・ミルフィは王都近郊に広がる『霧氷の森』の奥深くに足を踏み入れていた。
「ふふっ、やっぱり朝一番の空気は最高! 薬草たちもいい状態で芽吹いているわ」
使い込まれた薬草ポーチを腰に下げ、エルネは大きな瞳をキラキラと輝かせていた。
今日の目的は、ギルドから緊急で出された特別依頼だった。
夜明け直後の朝にしか採取できない超レア素材『朝露の氷晶茸』の獲得である。
霧の多い森にのみ生息し、深夜の温度が低い時に発芽。見た目はまるで氷の塊のようなキノコである。
この草は太陽の光を浴びると一瞬で溶けてゼリー状になってしまうため、日が登り切る前のこの時間帯しか採取のチャンスがないのだ。
「あ……あった! 見つけたわ!」
大きな大樹の根元、群青色の朝もやの中で仄かな青白い光を放つ、氷のように透き通った小さな草。
エルネが鑑定眼を集中させると、その草の周りに視覚化された最高品質を示す魔力の粒子が、まるで星の瞬きのようにふわふわと舞い上がった。
「うわぁ……すごい! 表面の結晶密度が完璧。これなら、最高の耐熱ポーションが作れるわ! 傷つけないように、根元の土ごと丁寧に……」
エルネは息をのんで膝をつき、愛用の採取ナイフを丁寧に土へと差し入れた。
職人そのものの真剣な眼差しで、指先に全神経を集中させる。
周囲を包む冷気も、指先の冷たさも、今の彼女の耳には届かない。素材と向き合うこのひとときこそが、
エルネにとって至高の幸福であった。
「よしっ……完璧! 傷つけずに採取完了!」
無事に魔法の保存瓶へと納め、エルネはほっと胸を撫で下ろした。満足感いっぱいの笑みを浮かべ、額の汗を袖で拭ったその時——。
ふわり。
冷たい森の空気の中に、突如として圧倒的に甘く、澄み渡った魔力の気配が広がった。
「えっ……? この魔力って……」
エルネが驚いて振り向いた瞬間、目の前の空間が青白い光とともにキラキラと凍りついた。
空中に浮かび上がったのは、純粋な氷の魔力で作られた繊細で美しき一羽の「蝶」であった。
蝶はひらひらと優雅にエルネの周囲を舞うと、彼女の鼻先でパッと弾け、氷の結晶となって弾けた。
そして次の瞬間、結晶が空中へ青い文字を描き出し、馴染み深い低く甘い声が脳内に直接響き渡ったのだ。
『——おはよう、私の愛しいエルネ』
「あ……アルディス様の音声伝達魔法……!?」
エルネは思わず周りを見回した。
当然ながら姿はない。
まるで耳元で囁かれているかのような臨場感に、エルネの顔は一瞬で耳まで真っ赤になった。
『朝起きたらすぐに君に会いに行ったのだが、会えなくてね。ギルドの受付で君が早朝から「霧氷の森」へ向かったと聞き、今すぐ森を捜索し、君のところまで行こうかと本気で考えたところだ』
「ちょっと待って!? なに考えてるんですかアルディス様ぁっ!?」
声は届かないと分かっていながらも、エルネは空中の文字に向かって叫ばずにはいられなかった。相変わらず愛が過激すぎる。
『……だが、君が嬉しそうに薬草採集の道具を準備して出かけて行ったと聞いてね。君の楽しみを奪うわけにはいかないと、どうにか理性を保ったよ。俺は自分を褒めてあげたいくらいだ』
文字がゆらゆらと揺れ、アルディスが申し訳なさそうに、けれど愛おしそうに眉をひそめている光景が目に見えるようだった。
『そろそろ目的の薬草は見つかったかい? 一人で危険な目に遭っていないだろうか。森の魔物が君に指一本でも触れようものなら、その森ごと永久凍土に変えてしまうところだが……君が怪我をしていないことだけを祈っている』
「大げさすぎます……! ただの薬草採取なのに……」
エルネは呆れつつも、胸の奥がじんわりと温かくなるのを止められなかった。
冷酷無比と恐れられる王国騎士団長が、自分一人の行動にここまで右往左往し、本気で心配してくれているのだ。
『指輪の魔力は感じているかい? 何かあれば、躊躇わずにその指輪へ魔力を通すといい。一秒で君のもとへ駆けつける。……ああ、早く君に会いたい。君の淹れてくれたハーブティーが飲みたい。君をこの腕の中に抱きしめたい』
文字の輝きが、熱を帯びるように少しずつ強くなっていく。
『仕事が終わり次第、私の執務室に来て欲しいんだ。大事な話がある。この前渡した転移のネックレスを使ってくれ』
言葉が途切れると同時に、空中の氷の文字はさらさらと光の粉となって消えていった。
エルネはつい先日渡された、白銀の氷の結晶のようなネックレスを握った。
『あれは転移の魔法を刻んである。前にも話したが、いつでも私に会えるように、騎士団の詰め所の前に転移する。すぐにでもきてくれていいから。待っているよ、エルネ』
あとに残されたのは、森の冷気と、顔を真っ赤にして佇むエルネ一人だけだった。
「も、もう……っ! アルディス様ったら、朝から何言ってるのよ……!」
エルネは両手で真っ赤になった頬を押さえ、その場にしゃがみ込んだ。
左手薬指に嵌められた指輪が、朝日に反射して愛おしそうに藍色の光を返してくる。
「ほんと……重たくて、甘くて、困っちゃう……」
口では文句を言いながらも、エルネの口元はゆるみっぱなしだった。
アルディスからの愛を感じるたびに、胸が締め付けられる。早く採取を終わらせて、彼のもとへ帰りたくなってしまう自分にも気づいていた。
「よしっ、残りもパパッと採集して、アルディス様のところに行かなきゃ。大事な話があるって言ってたし……」
エルネは気合を入れ直し、立ち上がった。
朝の光が森を照らす中、エルネはカゴを抱え、大好きな素材と愛しい人の待つ未来へ向かって、元気に歩き出すのだった。
◇◇◇
王都を一望できる王立騎士団長の執務室。
朝の柔らかな光が差し込む窓辺で、エルネは自分の左手薬指を何度も見つめては、顔を真っ赤にしていた。
騎士団の詰め所に転移したエルネは、騎士団長の婚約者殿と呼ばれ、その度に顔を赤くしていた。
執務室まで案内されても、まだ「婚約者殿」という言葉が耳に残っていた。
細やかな銀の薔薇の彫刻に包まれた、深く透き通る藍色の魔石。
『魔導の至宝』と称えられる騎士団長アルディスが、その圧倒的な魔力を注ぎ込んで自ら作らせた、世界にたった一つだけの婚約指輪である。
「……ふふ、やっぱり夢じゃないんだ」
ぽつりと呟いたエルネの肩を、後ろから温かい大きな腕がそっと包み込んだ。
「夢なものか。君はもう、俺から逃げることはできないよ……エルネ」
耳元に吹きかけられた温かい吐息と、低く甘い声。
振り返る間もなく、アルディスはエルネの首筋にそっと顔を埋め、愛おしそうにその身体を抱きしめた。
「あ、アルディス様……! 朝からそんなに強く抱きつかれたら、服がシワになってしまいます……っ」
「いいじゃないか。誰も見ていない。……それに、君があまりにも愛らしい顔で指輪を見つめているものだから、つい」
「もう、すぐそういうことを……!」
真っ赤になって照れるエルネを見て、アルディスは青色の瞳を細め、心底幸せそうに口元を緩めた。
かつて『アビス・スパイダー』を倒し、自分を濡れ衣から救い出してくれた最強の騎士。
冷酷無比と恐れられた男の素顔は、エルネにだけ向けられるあまりにも過保護で重すぎる溺愛だった。
「……本当なら、このまま君を抱きかかえて、誰の目も届かない森の奥へ連れ去ってしまいたいところなのだがね」
「ダメです! アルディス様には騎士団長としてのお仕事がありますし、私にもギルドからの依頼が……」
「わかっているよ。ただの願望だ。……だが、今日だけは覚悟を決めてもらわなければならないな。君に伝えなきゃいけないことがあって呼び出したんだ……」
アルディスがそう言って意味深に微笑んだ瞬間、執務室の重厚な扉がノックもなしに盛大に開け放たれた。
「ハッハッハ! 仲が良くて何よりだ、アルディス! エルネ殿!」
豪快な笑い声とともに姿を現したのは、この国の最高権力者、国王オズワルドであった。
「へ、陛下……!?」
突然の国王の親臨に、エルネは弾かれたように飛び起き、深々と頭を下げた。
アルディスは一切慌てる様子もなく、エルネを自らの背後に隠すように一歩前へ出ると、冷ややかな視線を国王へ向けた。
「陛下。いくら国王とはいえ、ノックなしで入室されるのは感心しません。エルネが驚いて怪我でもしたらどうされるつもりですか」
「おいおい、抱き合っていたくらいで怪我などせんわ! 相変わらずエルネ殿のことになると余裕がない男だな」
オズワルドは楽しそうに髭を撫でると、一転して真剣な面持ちで二人を見つめた。
「さて、単刀直入に言おう。アルディス、そしてエルネ殿。二人の婚約を祝し……来月、王宮のグランドホールにて『国営婚約発表パーティー』を盛大に催すことに決定した!」
「こ、国営……婚約発表パーティー!?」
エルネは素狂ったような大声を出しかけ、即座に口を押さえた。
国営のパーティーといえば、他国の王族や国内の最高級貴族が一堂に会する、最高峰の祝宴である。
エルネはその準備や素材採取の依頼を受けたことはあるものの、身分の問題で立ち入りを許されたことはない。
「へ、陛下! 私のようなただの平民の薬草収集家が、そのような華やかな場に立つなんて滅相もありません! アルディス様のお相手として、私では身分が違いすぎます……!」
青ざめて手を振るエルネに対し、オズワルドは首を横に振った。
「何を言うか。そなたは古代遺物の正体を一瞬で見抜き、さらには避暑地での大災厄を防いだ功労者だ。その『超絶鑑定眼』はすでに国家の至宝に匹敵する。平民だの貴族だのというちっぽけな枠組みなど、そなたの才能の前には意味をなさん」
「ですが……」
オズワルドはニヤリと笑った。
「それにだな。アルディスが『エルネ以外の女性と結婚させようとするなら騎士団長を辞任して出奔する』と脅してきてな。国としては、何としてもそなたを正式に王家の親族として繋ぎ止めておきたいのだよ」
「アルディス様ぁっ!?」
エルネが驚愕の視線を向けると、アルディスは優然とした笑みを浮かべ、さも当然といった様子で頷いた。
「当然の権利主張だ。エルネのいない生活など何の意味もないからね。……だからエルネ、心配いらない。パーティーの準備はすべて俺と王室で進める。君はただ、世界で一番美しいドレスを着て、俺の隣で笑っていてくれればいい」
「あ、アルディス様……」
あまりのスケールの大きさと一途すぎる愛の重さに、エルネは眩暈を覚えながらも、その温かな申し出に胸を熱くするのだった。
「まずはエルネをギルドの雑用係から、王家ご用達の素材採集家兼鑑定士として発表する」
「え!」
エルネは驚きアルディスを見た。
アルディスはぴくりとも動かず、エルネを優しく見つめ返した。
「今日呼び出した要件はそれなんだ。これから忙しくなるよ」
◇◇◇
王都の中心部に聳え立つ、重厚な石造りの建築物『王立薬学高等学院』。
ここは国中の高貴な学者や鑑定士が集い、薬品や鉱石の研究・管理を一手に引き受ける、権威の象徴とも言える機関であった。
その最高責任者である院長室で、一人の老人が激怒のあまり机を力任せに叩き叩いていた。
王都の誰もが二人の婚約を祝福しているわけではなかった。
「ええい、破滅だ! 狂気の沙汰だ!!」
王立薬学・鉱物学専門の学者、そして学院長、マルクス・マロンシュ子爵。
白い髭を蓄え、豪華な刺繍が施された学者の長袍を纏った男。
顔を真っ赤にして苛立ちを撒き散らしていた。
「あのような泥臭いギルド出身の平民女が、騎士団長様の婚約者だと!? しかも、あの女の気まぐれな鑑定能力を、陛下が『国家至宝級』と持ち上げただと!? ふざけるな! 我々が何十年もかけて積み上げてきた学術の権威を、踏みにじる気か!」
マルクスにとって、薬草や鉱石の知識とは、高貴な血筋と莫大な資産を持つ選ばれた者だけが修めるべき「高尚な学問」であった。
泥に塗れて採取をするだけの草むしり女が、王宮でちやほやされるなど到底許せることではなかったのだ。
「落ち着いてくださいませ、お父様」
絹の擦れ合う優雅な音とともに、部屋の奥から一人の令嬢が歩み出た。
マルクスの娘であり、王立薬学院で『第一調合法術師』の肩書を持つユリア・マロンシュである。
縦ロールに巻かれた金髪を揺らし、華美な蒼い高級ドレスを纏ったユリアは、扇子で口元を隠しながら勝ち誇ったような笑みを浮かべていた。
「叫んだところで、決定は覆りませんわ。……ですが、あの無知な平民女が王宮の夜会で恥を晒し、自ら身を引くように仕向けることなら、いくらでもできますわ」
「ユリア……お前に何か策があるのか?」
マルクスが尋ねると、ユリアは冷ややかな青い瞳を妖しく光らせた。
「あの女は、自分の『鑑定眼』だけが取り柄のようですけれど……我が薬学院が保有する『本物の権威』と『禁忌の秘薬』の前では、ただの素人に過ぎません。……アルディス様も、きっとあのような貧相な女には飽き飽きしていらっしゃるはず。わたくしが、本当のパートナーというものを教えて差し上げますわ」
ユリアは以前から、類稀なる美貌と最強の力を誇るアルディスに強い執着を抱いていたのだ。
誰のものにもならない孤高の麗人。
そのままだったのならよかった。
しかし彼は怪しい平民女と婚約した。
エルネに彼を奪われたという事実は、彼女の高慢なプライドをズタズタに引き裂いていた。
「お父様、薬学院のデータベースと地下保管庫の鍵を借りてよろしいですわね? あの女に『現実』というものを突きつけて差し上げますの」
「ふむ……好きにするがいい、ユリア。あの女の鼻を明かし、我が薬学院の正当性を示してみせよ!」
マルクスが邪悪な笑みを漏らすと、ユリアは深々と一礼し、優雅に部屋を後にした。
廊下を歩きながら、ユリアは手にした扇子を強く握りしめ、歪んだ笑みを浮かべるのだった。
「ふふふ……待っていらっしゃい、エルネ。あの泥臭い平民女に、私たちの権威を見せつけてやるわ」




