第18話「......」
突然、背後でドアが開く音がした。
レイヴンは慌てて魔法を解除し、振り返る。
そこに立っていたのは、赤茶けた髪を無造作に伸ばした男性——ガイウス・ヘンドリックだった。
「やはり、ここにいたか」
気だるげな声に、いつもとは少し違う鋭さが混じっている。
彼は大きく欠伸をしながら、ゆっくりと訓練場へ足を踏み入れた。
「ふぁ~、こんな夜中に巡回するのは面倒だな。でも、使用許可のない魔法練習は見逃せない規則でね」
レイヴンは無言のまま、軽く頭を下げた。
訓練場の使用自体に問題はなかったが、初日に正式な許可を取っていなかったことは事実だ。
ガイウスは彼の周りをゆっくりと歩きながら、床に残る魔法の痕跡を観察した。
「ほう、なかなかバランスの取れた元素魔法だな。火、土、水、風……すべてを練習していたようだが」
彼は床の小さな焦げ跡を指で触り、思案するように瞳を細める。
「だが、詠唱が聞こえなかったな」
その言葉に、レイヴンは僅かに目を見開いた。
彼の練習を、どれだけの時間観察していたのだろう。
「ふむ……無詠唱で魔法を発動させるか。これは興味深い」
ガイウスは思案するように眉を寄せた。
「クロイツァー家の非元素魔法の特性かもしれないな。あるいは……魔力の回路が特殊な構造をしているのか」
彼は指を組みながら、次々と推論を口にした。
「もしくは、魔法詠唱をある種の魔術式として内在化させているか」
「クロイツァー家の魔法は研究者の間でも謎が多い。非元素魔法という分類自体が特殊だが、無詠唱となると、さらに興味深い現象だ」
レイヴンは無言のまま、ガイウスを観察していた。彼の言葉からは敵意は感じられない。純粋な学術的好奇心のようだ。
「なぁ、一つ聞いていいか?」
ガイウスは唐突に質問を投げかけた。
「なぜ喋らない?」
レイヴンは一瞬だけ表情を変え、軽く肩をすくめた。
「……喋れないのか?それとも喋らないだけか?」
問いかけに対し、レイヴンは再び肩をすくめただけだった。
「まあいい。答えたくないなら無理強いはしない」
ガイウスは面倒そうに手を振ると、立ち上がった。
「話を戻そう。こういう練習なら、訓練場より実験室の方が向いているぞ。特に非元素魔法に関しては」
彼はポケットから小さな紙切れを取り出し、それに何かを書き始めた。
「これは実験室の使用許可書だ。明日の授業後に事務室に提出すれば、正式に使えるようになる」
紙切れを差し出す彼の目は、どこか鋭く光っていた。
「その代わりに、時々君の魔法を見せてくれないか?純粋な学術的興味からだ」
レイヴンは少し考えた後、静かに頷き、許可書を受け取った。
「それと、学院内には様々な目があることを忘れるな。特に君のような……変わった生徒にはな」
ガイウスの言葉には警告の色が混じっていた。
「もう遅いから、今日はこの辺にしておこう。寮に戻って休め」
そう言って、彼は大きく欠伸をしながら出口へと向かった。
そして振り返ることなく付け加えた。
「明日から本格的な授業が始まる。楽しみにしているぞ、クロイツァー」
扉が閉まり、再び静寂が訓練場に戻った。
レイヴンはしばらく手の中の許可書を見つめていた。
ガイウス先生には何か目的があるのか、それとも単に魔法に興味があるだけなのか。
(とにかく、実験室が使えるのはありがたい)
彼は静かに訓練場を後にし、寮へと向かった。
明日からの学院生活で、さらに力を磨かなければならない。
家族を救うために——。
*
月明かりに照らされた校舎の間を静かに進みながら、レイヴンは先ほどのガイウス先生との会話を反芻していた。
実験室の使用許可を得られたのは予想外の収穫だった。だが、それ以上に気になったのは、彼の魔法に対する鋭い観察眼だ。
(無詠唱……か)
レイヴンにとっては、頭の中で詠唱しているだけなのだが、外から見れば確かに無詠唱に映るのだろう。それを見抜かれたことに、若干の不安を覚える。
寮の建物が見えてきた。
貴族寮の優美な建築は、夜の闇の中でも厳かな威厳を放っている。
寮の入り口を通り、静かに階段を上る。
廊下を歩いていると、ふと自室の前で物音がした。
ドアを開けると、そこにはガルハートが大の字になってベッドに横たわっていた。
まだ眠ってはいないようで、レイヴンが入ってくると顔を上げた。
「おう、戻ってきたか!」
ガルハートは元気に起き上がり、ベッドに座った。
「図書館で勉強してたんだよな?どうだった?」
レイヴンは軽く首を振る。
「図書館じゃない?じゃあどこにいたんだよ」
レイヴンは窓際に歩み寄ると、遠くに見える訓練場を指差した。
「ああ、訓練場か!やるじゃないか、初日から練習とは」
ガルハートは感心したように頷く。
「俺も明日から訓練始めるぜ。特に剣術は毎日欠かせないからな!」
彼は大剣をぽんと叩き、満足げに微笑んだ。
レイヴンは制服を脱ぎ、着替えながら、ガイウスとの会話について考えていた。
「実験室の使用許可書」——それは確かにありがたいが、見返りに魔法を見せるという約束は、果たして安全なものなのだろうか。
ガルハートは隣のベッドからレイヴンの表情を観察していたようだ。
「なんか考え事か?」
レイヴンは少し驚いて顔を上げた。
そして、軽く頷く。
「初日からいろいろあったからな。それにしても……」
ガルハートはベッドから立ち上がり、レイヴンの方へ歩み寄った。
「魔法の授業、気になるよな。お前、結構すごい魔法使えるみたいだし」
彼は窓の方を見やりながら続ける。
「俺は剣一筋だけど、魔法の才能もあるやつは尊敬するぜ。貴族の中には、ただ魔力があるだけで中身のない奴も多いからな」
レイヴンはそんなガルハートの率直さに、内心で苦笑した。
貴族でありながら、彼は貴族社会の在り方について、かなり自由な考え方を持っているようだ。
「でもま、そんなことより明日の授業を乗り切らないとな!」
ガルハートが大きく伸びをする。
「そういや、お前ってスケジュール表はどうするんだ?」
レイヴンは少し考え、机の上の筆記用具を取り出した。
そして、スケジュール表に印をつけていく。
特に重要だと思われる授業には星印を、注意が必要な場所には三角印を。
「なるほど、そうやって管理してるのか」
ガルハートがのぞき込んできた。
「『魔法理論』と『実践魔術』に星印か。やっぱり魔法が得意なんだな」
レイヴンは頷く。
「俺は『剣術基礎』と『戦術学』だな。特に明日の『剣術基礎』は楽しみで仕方ないぜ!」
ガルハートの目が輝いた。
「強い相手と戦えることを期待してるんだ」
そんな彼の無邪気な戦闘欲に、レイヴンは少し肩をすくめた。
ガルハートの熱意は、胸に響くものがある。
ただ、レイヴンにとっての最優先事項は、家族を救うための力を身につけることだ。
レイヴンはベッドに腰掛け、ふと天井を見上げる。
初日は予想以上の展開が続いた。
ガルハートというルームメイト、ヴィルヘルムとの敵対関係、そしてガイウス先生との奇妙な出会い。
(明日からはもっと複雑になるだろうな)
彼は静かに目を閉じた。
「ともかく、明日に備えて寝ようぜ!」
ガルハートが元気よく言い、ベッドに横になった。
「おやすみ、レイヴン!明日も頑張ろうぜ!」
レイヴンは小さく頷き、ランプの灯りを消した。
部屋は闇に包まれ、ガルハートの寝息がすぐに聞こえ始める。
レイヴンも横になったが、すぐには眠れなかった。
(……家族のために、できることを一つずつやっていくしかない)
そんなことを考えながら、彼はゆっくりと目を閉じた。
そして、初日の学院生活は、静かに幕を閉じていった。




