第53話 白い霧を消す薬
白雲村へ入った瞬間、何人もの咳が聞こえてきた。
「ゴホッ、ゴホッ……」
道を歩く者はほとんどいない。
家々の窓は閉ざされ、扉の隙間には布が詰められていた。
それでも、湿った土と腐った草を混ぜたような臭いが、村中に漂っている。
「ひどい……」
ピーチが口元を布で覆った。
俺たちを案内してくれた女性が、一軒の大きな家を指さす。
「あそこが村長の家です」
「村長も病気なのか?」
「はい。三日前から起き上がれなくなりました」
女性の兄をクローバーが支えながら、俺たちは村長の家へ向かった。
◇
村長は奥の部屋で寝ていた。
顔は赤く、呼吸も苦しそうだ。
「ゴホッ……すまない。こんな姿で……」
「無理に話さなくていい」
俺が止めると、村長のそばにいた若い女性が頭を下げた。
「私は村長の娘のリネアです。手紙を出したのも私です」
「あの手紙のおかげで、ここへ来られた」
「本当に来てくださったのですね」
リネアは目元を押さえる。
「もう、誰にも助けてもらえないのかと思っていました」
「詳しい話を聞かせてくれ」
リネアによれば、異変が始まったのは十日ほど前。
最初は、雲綿草の一部が黒ずんだだけだった。
村人たちは雨が続いたせいだと考え、傷んだ株を刈り取った。
だが、翌日には別の場所へ黒ずみが広がった。
さらに夜になると、畑から白い煙のようなものが流れ始めた。
「その頃から、咳をする人が増えたのか?」
「はい。最初は畑で働く人だけでした。でも、今は村中に……」
リネア自身も、話の途中で何度か咳き込んでいる。
ピーチが村長のそばへ膝をついた。
「診てもよろしいでしょうか」
「お願いします」
ピーチは村長の額へ手を当て、目や喉の状態を確認する。
次に小さな布を取り出し、村長が吐いた息を受け止めた。
布には、わずかに白い粉が付着している。
「やはり……」
「山狼に付いていたものと同じか?」
「はい」
ピーチは採取していた胞子の小瓶と見比べる。
「同じものです」
リネアの顔が青ざめた。
「では、父の病気が皆にうつっているのですか?」
「いいえ」
ピーチはすぐに否定した。
「人から人へ広がる病気ではありません」
「では、どうして村中の人が?」
「空気中に漂う胞子を、皆さんが吸い続けているんです」
ピーチは窓へ近づいた。
隙間へ詰められた布にも、白い粉が付着している。
「外から入ってきています。窓を閉めても、完全には防げません」
「そんな……」
「患者だけを治療しても、空気をきれいにしなければ、また胞子を吸ってしまいます」
村長が苦しそうに咳き込んだ。
「まずは、症状を抑えます」
ピーチは薬箱から薬草と小瓶を取り出した。
小さな器の中で材料を混ぜ、解毒薬を作る。
村長へ飲ませると、しばらくして荒かった呼吸が少しずつ落ち着いていった。
「咳が……」
リネアが父親の手を握る。
「治ったのですか?」
「症状を弱めただけです」
ピーチは残った材料を確認する。
「同じ薬を村人全員へ作るのは難しいです」
「材料が足りないのか?」
「はい。それに、一人ずつ飲ませていては間に合いません」
俺たちは村長の家を出た。
◇
村の中央には、大きな井戸と広場があった。
ピーチは井戸の水、地面へ落ちた胞子、雲綿草の葉を順番に調べていく。
俺たちも手分けして村の様子を確認した。
クローバーは家畜小屋へ向かう。
ラベンダーは畑の周囲を見回る。
ローズは風の流れを調べ始めた。
しばらくして、クローバーが弱った鳥を両手で包みながら戻ってきた。
「この子も胞子を吸っています」
鳥は目を閉じ、苦しそうに小さな胸を上下させている。
「人だけではありません。家畜も、小さな動物も弱っています」
ピーチが鳥のくちばしへ薬を一滴垂らす。
すぐには飛べないが、呼吸は少し落ち着いた。
「このままでは、村人を治しても、村で暮らせません」
俺は周囲を見回した。
空気中には、肉眼でも分かるほど白い粉が漂っている。
「村全体の胞子を消す方法はないのか?」
ピーチは山狼から採取した胞子を、小さな皿へ落とした。
そこへ先ほどの解毒薬を一滴垂らす。
白い胞子が薬へ触れた瞬間、しぼむように形を失った。
「薬は効いている」
「はい。ですが、この量を村中へ撒くのは不可能です」
「水で薄めたら?」
ラベンダーが尋ねる。
「薄めすぎると効果がなくなります」
ピーチはしばらく皿を見つめる。
やがて、何かを思いついたように顔を上げた。
「広く撒くのではなく、細かくすれば……」
「細かく?」
「薬を霧にするんです」
ピーチはローズを見る。
「少量の薬を空気中へ広げられれば、漂っている胞子へ直接触れさせられます」
「霧にした薬を、わたしの風で村全体へ運ぶのですね」
ローズがすぐに意図を理解する。
「できるか?」
「風の流れを細かく操る必要がありますが、試してみます」
「なら、薬は私が作ります」
ピーチは薬箱を開いた。
「村に使える薬草が残っていないか、探してください」
◇
村人たちへ声をかけると、動ける者たちが薬草を持ち寄ってくれた。
乾燥させた青葉草。
炎症を抑える白根草。
井戸水を清めるために使う水透花。
「これだけあれば、何とかなります」
ピーチは広場へ大きな鍋を用意した。
「ピク、水をお願いできますか?」
「任せて!」
ピクと妖精たちが小さな桶を使い、井戸から水を運ぶ。
「木の棒!」
「持ってきたよ!」
「空き瓶は?」
「こっちにいっぱいある!」
妖精たちは村中から使えそうな道具を集めてきた。
ピーチは薬草を刻み、鍋へ入れる。
火加減を調整しながら、何度も液体の状態を確かめた。
やがて鍋の中身が、薄い青色へ変わる。
「完成か?」
「まだです」
ピーチは山狼から採取した胞子を少量だけ取り出した。
薬を一滴かける。
胞子は動きを止めたが、完全には消えなかった。
「濃度が足りません」
ピーチは新しい薬草を加える。
二度目。
今度は薬へ触れた胞子が、黒く変色して崩れた。
「成功です」
「やった!」
ピクが両手を上げる。
だが、鍋の中にある薬は決して多くない。
「これで村全体へ届くのか?」
「普通に撒けば、広場だけでなくなります」
ピーチは小瓶へ薬を移し始めた。
「ローズさん」
「はい」
「薬をできるだけ細かな霧にしてください」
「分かりました」
「ただし、村の外へ流してはいけません。畑と家の中まで届くようにしてください」
ローズは目を閉じ、風の流れを読む。
山から吹き下ろす風。
家々の隙間を通る風。
畑へ向かって流れる風。
「少し時間をください」
ローズは広場の中央へ立った。
ピーチが薬の入った小瓶を渡す。
「一滴も無駄にはしません」
ローズが杖を掲げた。
「皆さん、家の中へ入ってください!」
村人たちが扉を閉める。
俺たちもローズから少し離れた。
「始めます」
小瓶から青い薬液が浮かび上がる。
ローズが杖をゆっくりと回すと、薬液がいくつもの小さな粒へ分かれた。
さらに細かく。
さらに小さく。
やがて薬は、淡い青色の霧となってローズの周囲へ広がった。
「《風域操作》」
村の中を吹いていた風が、一斉に向きを変える。
青い霧が地面すれすれを進み、道を覆う。
家々の窓や扉の隙間から入り込み、空気中の白い胞子へ触れていく。
白い粉が、次々と地面へ落ち始めた。
「畑にも送ります!」
ローズが杖を振る。
青い霧の一部が大きく持ち上がり、雲綿草の畑へ流れていく。
黒ずんだ葉。
地面へ積もった胞子。
白い煙のように漂っていたもの。
それらへ青い霧が触れるたび、胞子が力を失って落ちていった。
「すごい……」
クローバーが空を見上げる。
さっきまで白く濁っていた村の空気が、少しずつ澄んでいく。
家の中から聞こえていた咳も、徐々に少なくなった。
窓を開けたリネアが、大きく息を吸う。
「臭いがしない……」
別の家からも、村人たちが顔を出した。
「息が楽になった」
「目が痛くないぞ」
「空気がきれいになっている!」
ピーチは喜ぶ村人たちを見ながらも、薬の効果を慎重に確認していた。
「今なら、治療薬も効きやすくなります」
「村人全員分を作れそうか?」
「症状が軽い人なら、休めば回復します。重い人へ薬を優先すれば、足りると思います」
その瞬間、《スキル図鑑》が淡く光った。
【《散布薬調合》が登録されました】
【《風域操作》が登録されました】
【現在の登録率:七十七%】
「二つ増えた!」
ピクが図鑑を覗き込む。
「ピーチとローズの技能だな」
ピーチは鍋を片づけながら、照れたように笑った。
「私は薬を作っただけです」
「村全体を救う薬を作ったんだ。それだけじゃない」
「ローズさんがいなければ、広げられませんでした」
「わたしも、ピーチの薬がなければ何もできませんでした」
二人は顔を見合わせ、小さく笑った。
◇
村の空気がきれいになったあと、俺たちは雲綿草の畑へ向かった。
黒ずんだ部分は残っているが、白い胞子の多くは地面へ落ちている。
「これで終わったのか?」
ラベンダーが尋ねる。
ローズは答えず、山の方角を見つめた。
「どうした?」
「風が変です」
ローズが杖を握る。
「村の中の胞子は消えました。ですが……」
森の奥から、再び白い煙が流れてきた。
先ほどより量は少ない。
だが、確実にこちらへ向かっている。
「新しい胞子です」
ピーチが険しい顔になる。
「畑に残っていたものではありません」
「発生源が別にあるのか」
「はい。村へ流れ込んでいるだけです」
その時、畑の端から小さな鳴き声が聞こえた。
「キュウ……」
クローバーが駆け寄る。
草の間に、白い毛を持つ小さな山鼠が倒れていた。
背中には、山狼と同じ白い塊が付着している。
「この子は森から逃げてきたようです」
クローバーが散布薬を少しだけ塗る。
白い塊は崩れたが、山鼠は怯えたまま森の方を見ている。
「何かを怖がっています」
リネアが俺たちの後ろから声をかけた。
「夜になると、あの森から鳴き声が聞こえるんです」
「鳴き声?」
「地面が揺れるほど大きな音です。畑を見に行った人は、巨大な影を見たと言っていました」
森の奥から、低い音が響いた。
グオオオオオ……。
空気が震える。
山鼠がクローバーの腕の中で身を縮めた。
「今の声です」
リネアの顔から血の気が引く。
俺は剣の柄へ手を置いた。
「村の胞子は消せた」
ピーチが残った散布薬を小瓶へ入れ、俺へ差し出す。
「持っていってください」
「残りは?」
「その一本だけです」
小瓶の中には、数回使える程度の薬しか残っていない。
「胞子に囲まれた時だけ使ってください」
「分かった」
俺は小瓶を腰の袋へ入れた。
ローズが森から流れる風を読む。
「胞子は、あの鳴き声がした方角から来ています」
ラベンダーが短剣を抜く。
「原因がいるなら、見つけないとね」
クローバーは助けた山鼠を村人へ預けた。
「森の動物たちも苦しんでいます」
「ああ」
村の空気は守った。
だが、原因はまだ森の中に残っている。
「行こう」
俺たちは白い胞子が流れてくる森へ足を踏み入れた。




