12. 水火無情
――8月δ日、土曜日の日中。
中国の上海で〝海霧〟という名の白い悪魔が猛威を振るっていた頃、日本の首都でも「Acu-SHE」による緊張感が高まっていた。
例えば――
『……こちらは江戸川区です。現在、江戸川流域で危険な病原の発生が確認されています。住民のみなさんは不要不急の外出を避け、川付近に近づかないようお願いします……』
江戸川区や葛飾区では、前日γ日からこのようなアナウンスが継続的に出されていた。
江戸川流域の汚染は、前日に発生した渡見瀬川及び渡見瀬遊水地の汚染の結果である。
――ただし、この渡見瀬の汚染による煽りを受けたのは、江戸川流域だけではない。
†
「――総理、千葉県の鈴木知事からお電話です」
汐崎総理は、官邸の総理執務室でその電話を受けた。
「汐崎です」
電話に出るや否や、汐崎の耳に鈴木知事の切々とした訴えが飛び込んで来る。
『総理、千葉はもう駄目です! 昨日の渡見瀬川の汚染で止めを刺されました! 県南に避難を進めていますが、そちらでも次々に汚染が発覚しています……』
――そう。
渡見瀬川は利根川最大の支川であり、渡見瀬遊水地を出たところで利根川の本流に合流している。
ただでさえ千葉県の利根川流域は、4日前に発生した印波沼のアウトブレイクで大打撃を受けていた。
渡見瀬川の汚染は、千葉県の利根川流域を含む北部一帯を完全な死の床に変えた。
汐崎は、思わず天を仰いだ。
「……知事、誠に残念ですが――」
『――どうにもなりませんか?』
鈴木知事は汐崎の言葉を遮り、藁にも縋るような声で訊ねた。
――無理だ。
汐崎は喉元まで出かかった言葉を既のところで呑み込んだ。
東京や埼玉に、千葉の人口を受け入れる余裕などない。ましてや、茨城からの避難民受け入れによってその嵩が増しているのだ。
房総半島に孤立した数百万の人々の運命は――
『そ、そうだ! 例の「抑制剤」を多めに回してもらうとか……』
汐崎はそれを聞き、一拍ほど瞑目する。
――「抑制剤」を運んだところで、何の意味もない……
真実を知る汐崎は、それを痛いほどよく理解していた。
鈴木は知らない。昨日発表された「Acu-SHE抑制剤」は、ただ人々の暴動を抑えるためだけの「偽薬」に過ぎないということを。
その効果はたった数日患者の命を長らえさせ、その後廃人に変えるだけである。
――そもそも、千葉県を通る物流はもう崩壊している。
仮に特効薬があったとして、それを行き渡らせる手段もなかった。
目を開けた汐崎は、臍を噛むような思いで言葉を発する。
「――力及ばず、本当に申し訳ない……」
汐崎と鈴木の間に、しばらく沈黙が流れた。
……ややあって、受話器の向こうから鈴木の嗚咽が漏れ聴こえてきた。
汐崎は、それを沈痛な面持ちで聞いていた。
受話器のスピーカーから、鈴木のしゃくり上げるような声が響く。
『……そ、総理。お、教えてください……。わ、私は県民に何と説明すればいいんですか……?』
「…………」
その問いに対して、汐崎には何も答えられなかった。
『……茨城から避難してきた人たちに、何て言えばいいんだ……。頼むから、誰か教えてくれよ゛お゛ぉぉぉっ』
汐崎にはただ、鈴木の嘆きを黙って受け止めることしかできなかった。
――茨城県からの避難民を含む800万の人々の運命が、この日に確定した……。
†††
翌日――8月ε日、日曜の朝。
群馬県、綾戸ダム。
利根川の上流に位置する古いダムだ。
昭和初期の名残を感じさせるこのダムの内側で今、静かな異変が起こっていた。
「――そんな……」
午前9時頃のことだ。
群馬県衛生環境研究所の主任研究員である清水は、ノートPCの画面を見て顔面を蒼白にしていた。
PC内には、AQUAチーム――災害対策本部の科学対策機関――がここ数日で開発した、あるソフトウェアがインストールされている。
それは液体サンプルを光学顕微鏡で撮影したカメラ映像を解析し、「GRIM」粒子の増殖を識別するパターン認識ソフトだ。
つまりこのソフトを用いることで、サンプルに含まれる「GRIM」を検出することができる。
そのソフトが今、「陽性」の赤い警告を表示していた。
†
――ほんのわずかな、気の緩みがあった。
この日、早朝からのシフトだった清水は、出掛けに子供が高熱を出したために自宅を出るのが遅れてしまった。
そのため、本来なら3時間前に実施すべき定時観測をスキップしてしまった。
(……今までずっと陰性だったんだ。1回ぐらい飛ばしても問題ないだろう)
清水は、自分で自分にそう言い聞かせた。
しかし間の悪いことに、その間に綾戸ダムの下流を担当していた水道局の職員から報告が上げられていた。
彼らが持たされている「GRIM」の簡易検出キットで、浄水場に取り込まれた水サンプルから陽性の反応が出たという。
――それが、午前7時半頃のことだった。
それから清水は慌てて監視所に急行し、綾戸ダムで採取した最新の水サンプルの検査を実施した。
カメラ映像の録画と解析には最短で1時間かかる。
――きっかり1時間後、清水のPCでも陽性が検出された……というわけだ。
「……す、すぐに連絡しなくちゃ……」
清水は震える手で携帯電話を操作し、衛生環境研究所の危機管理係に電話を掛けた。
――清水は気づいていた。
自分が定時観測を怠らなければ、もう少し早くこの危機に手を打てたかもしれないことを……。
††
――同時刻。
永田町にある首相官邸の地下、内閣危機管理センターはにわかに騒がしさを増していた。
「群馬県渋川市でアウトブレイクの兆候有り! 『Acu-SHE』と見られる死者の数が急増しています!」
「利根川上流の複数のポイントで『GRIM』検出の報告が上がっています!」
総理執務室でそれらの急報を聞いた汐崎総理は、いよいよ来るべき時が来たと悟った。
「利根大堰の取水ゲートを封鎖しろ! 首都圏への流入を今すぐ止めるんだ!」
「は、はい!」
汐崎は秘書官に指示を出した後、千石都知事に電話を掛ける。
――既に東京都の水事情は、一昨日の渡見瀬遊水地の汚染によって黄信号になっていた。
渡見瀬遊水地の下流に位置する江戸川・旧江戸川全域が汚染域になったのだ。金町浄水場を始めとする江戸川の取水口は、一昨日の時点で全面停止されていた。
東京の水源は、その8割を利根川と荒川に依存している。
利根川の支流である江戸川が汚染されたことで、その水脈は既に片肺を削がれた状態だった。
そこで東京都水道局は、西側の荒川を源とする水道網をフル稼働させることでこの危機を凌ごうとしていた。
しかし――
(――荒川に汚染水が流れたら、東京は詰みだ)
汐崎は、ここ数日で何度も見た首都圏の水路網に再び目を走らせる。
利根大堰には、東京や埼玉へ水を送るための武蔵水路や見沼代用水といった巨大な用水路が直結している。
この内の武蔵水路は、利根川の水を荒川へと運ぶ導水路の役割を果たしているのだ。
――もし利根川上流の汚染に気づくのがあと2時間早ければ、この日の結果は違っていたかもしれない……。
短いコール音の後、汐崎の掛けた電話は都庁に繋がった。
『――千石です』
「千石知事、今から言うことを落ち着いてよく聞いてください――」
電話の向こうで、千石がごくりと喉を鳴らした。
††
武蔵水路を流れる水から「GRIM」が検出されたのは、それから約2時間後の11時頃のことだった。
汐崎総理は、直ちに秋ヶ瀬取水堰からの取水停止を指示。東京の中心地に汚染水が流れるのを水際で阻止した。
――しかし、荒川の下流から汚染を取り除くことは物理的に不可能である。
また、既に用水路内に入り込んでしまった汚染水によって、埼玉県は広範囲に渡って汚染され尽くすことになる。
……そして、荒川からの取水を停止したことで、都内に住む1,400万の人々が渇水に苦しむことが決定した。
東京は、コンクリートで出来た灰色の砂漠と成り果てた。
――国家非常事態宣言の発令まで、あと2日。




