194.第一王女は約束を果たす
群がる男たちともあらかた踊り終わって、そろそろ退出をしようとしたフェリスの前に立ち塞がったのは、濃い蜂蜜色の髪をした、挑戦的な目つきの男だった。
先ほどの給仕姿とは違い、白地に金の刺繍の入った上着に糊の効いたシャツ。少し髪が濡れているのは、慌てて湯でも使ったのだろう。あの時匂った薔薇の香りはきれいさっぱり消えている。やはり移香だったのだろうか。
「フェリス王女殿下、お約束通り踊っていただけますね?」
周りの男たちがひそひそと囁くのを横目に、フェリスはにっこりと微笑むと手を差し伸べた。
「今日は不調でおいでにならないと伺っていましたわ? レイノルズ様」
「ええ、ですが薔薇を眺めて調子が良くなりましたので、お約束を果たしていただきに参りました」
そう告げるとレイノルズはフェリスの手を引いてフロアに出た。周囲がざわつくのが分かる。
「ところでわたくし、お約束はしておりませんわよ」
「給仕とは踊らない、と仰ったではありませんか」
だからこの姿なのだ、と言外に言うレイノルズに、フェリスは眉根を寄せる。確かにレイノルズの言う通り、ある意味正解なのだが、すんなりそれを認めるのもシャクだった。
「辺境というのは噂話がよほどお好きなようですわね」
「噂話?」
レイノルズの言葉にフェリスはさらに眉根を寄せて睨みつけた。
「わざわざ給仕の真似事までして会いにいらしたくせに、知らないとは言わせませんわよ」
「何のことだ? 給仕の格好で紛れ込んでおけば、何かあっても対処できるからやってるだけだ」
「あら、間諜の真似事もなさるのね」
「しがない三男坊だからな。そのくらいはやるさ。それに正直、パーティーは苦手なんだよ。女に追い回されて疲れるだけだ」
レイノルズはぞんざいな口調で吐き捨てる。
よく見れば整った顔立ちだし不摂生をしているような体格でもない。三男とはいえ伯爵家の血筋となれば、それもやむを得ないだろう。女にはだらしないと聞いていたが、そうでもないらしい。
それに、会った時に彼は驚いていた。
噂話を聞いて、バルコニーにいたのをフェリスと知って仕掛けたのだとしたら、あんな間の抜けたことを聞くはずがない。
「その割に薔薇の移香はさせていらっしゃいましたけど?」
「庭の薔薇園を通り抜けたからだろ」
確かに、昼間案内された薔薇園は見事だった。薔薇の香りも言われてみれば納得がいく。
視線を下げるととフェリスはため息をついた。
「……これっきりですわよ」
フェリスの手を握るレイノルズの手に力が入る。視線を上げれば、彼はあからさまに驚いた顔をしていた。
「いいのか?」
「強引に手を引いておいて、いまさらでしょう。それと勘違いなさらないで。あくまでもヘインズ家の体面のためですから」
王族と、してもいない約束をしたと公言したのだ。レイノルズのみならずヘインズ家自体が誹りを受けることになる。
ヘインズ家の立派な当主と跡継ぎの足を引っ張るのは、フェリスとしても積極的にやりたいわけではない。
すると、レイノルズは表情を曇らせた。
「そこまで考えていなかったな……ご高配、感謝する」
「……二度目はありませんわよ」
そもそも、今日は次の領地へと出立前の宴だ。ここにもう一度来ることがなければ、レイノルズと踊ることは二度とないだろう。
ヘインズ家は伯爵位を持つ西の辺境ではあれど、隣国との関係は比較的良好で、辺境伯としての地位にはない。
三男に登城の義務はない上、この年齢まで地元にいてフラフラしているのだ、フェリスが今後どこに降嫁しようとも、彼と再び顔を合わせる機会すらないだろう。
「では、もし次に会うことがあれば、また踊ってくれないか」
踊りながら懇願のささやきをするレイノルズに、フェリスはほんの少しだけ眉根を寄せる。
「王族はみだりに口約束などしないわ。それに、ここに来るのもこれっきりでしょうし」
「なら、俺が行く」
フェリスは至近距離の青い瞳を見上げる。
拒絶しているのになぜか嬉しそうにするこの男は、どこまで本気なのだろう。
「王都に来たところで簡単に会えるものではありませんわよ」
「それは……なんとかする」
なんとかって、何をどうなんとかするのだろう。しかもそんな不安そうな顔で視線を彷徨わせるとは。こちらの方が不安を覚えてしまう。
確かレオ兄様よりは年上と聞いた気がするのだけれど、まるでセレ兄様を見ているようだ。
思わずクスリと笑うと、レイノルズは惚けた顔をしてステップを間違えた。
「レイノルズ様?」
「あ、すまない……」
そのあと、レイノルズ様はダンスが終わるまでどこかふわふわしていて何度もステップを間違えた。
「ラストダンスは踊らない約束でしたよね、姫様」
「仕方ないでしょ、主宰家の息子だったんだもの、断るわけにいかなかったの。それに、あれがラストダンスだったなんて、気がつくわけないでしょう?」
「どうするんですかこの騒ぎ」
あきれ返るオリアーナの言葉に、フェリスは頭を抱えた。
次の視察地へと揺られる馬車の向かいの席にはレイノルズの釣書と肖像画だけでなく、あの夜会に出席していたほぼ全ての家からの寿ぎの手紙と贈り物が山と置いてある。
「知らないわよっ! ラストダンスに選んだ女性と婚約なんて風習があるなんて、わたくしが知るわけないでしょっ!」
「だから言いましたのに」
あの時、一緒に踊っている者たちが少ないなとは思ったし、フロアに出た時の周囲のざわめきが気になっていたけれど、そういう理由なら納得が行く。行くのだが……。
「わたくし、まだ十四歳なのよっ! ダンスを一回踊ったぐらいで婚約なんかしないわよっ!」
「ええ、陛下からもヘインズ家には正式に断りを入れていただきましょう。……返品の手配は致しますから、お詫びの手紙は姫様みずからの手で綴ってくださいましね」
「えええ……」
オリアーナがさっさと手紙と品を仕分けしていく。
フェリスははぁ、と深いため息をついて一番近くの封書を取り上げた。封緘にはヘインズ家の紋が入っている。
出立前に見送りに来たレイノルズの顔を思い出す。
『なんか周りがごめん。……でも、必ず会いに行くから』
あれで本当に婚約したつもりだったのか、断られたことを知った彼はずいぶんしょげた顔をしていた。
約束などしていない。そう言うつもりだったのに。
『……王族は交わした約束は違えませんの』
どうしてかそんなことを口走っていた。
そう告げた時のレイノルズの顔は魂がどこかに消し飛んでしまったみたいに呆けていて、出立まで締まらない顔のままだった。
正直なところ、ふらふらしていた三男坊が今から頑張ったところで、この辺境から王都までは遠い。観光目的だとて簡単に来られるものではないだろう。王宮の夜会にしても、当主と長男で事足りる。彼が割り込める隙間はないに等しい。
……もし本当に王都に来たら、ね。
フェリスはそう心の中でつぶやきつつ、封緘をそっとなでた。