プロローグ
塔は、生まれた時からずっとそこにあった。
教科書には「戦争が終わったその日に、まるで取引を持ちかけるように地面を突き破って現れた」と書かれていたと思う。けれど圭一にとってその一文は、毎朝の通学路の先にそびえる灰色の影と同じくらい、なんの意味も持たない景色の一部でしかなかった。
見上げれば、いつもそこにある。見飽きるくらい見ている。それだけのことだった。
ニュースは時々、その名前を持ち出して「我が国の礎」だと讃える。塔の奥から持ち帰られた何かのおかげで、焼け野原だったこの国が今では世界の頂点に立っているらしい――とは、誰かから聞いた気がする。
けれどそれが自分の暮らしとどう繋がっているのか、実感が湧いたことは一度もなかった。
繋がっていないはずだった。
少なくとも、あの夜――居間の畳に、妹が崩れるようにして倒れ込んだあの夜までは。
救急車の中で握った妹の手は、驚くほど熱かった。発熱しているくせに指先だけが氷みたいに冷たくて、その温度差がどうしようもなく圭一の胸を締め上げた。
医者の説明は、半分も頭に入らなかった。心臓のなにか、弁のなにか。生まれつき脆い場所があって、それが今になって悲鳴を上げ始めたということらしい。手術をすれば助かる。けれど保険適用外の特殊な処置で、提示された金額は、圭一が今まで生きてきた中で一度も目にしたことのない桁数をしていた。
「……うちには、そんな額は」
そこまで言って、声が続かなかった。妹の手を握ったまま、圭一は自分の手のひらがどれほど頼りないものかを、初めて思い知った。
退院の許可が出ないまま入院を続ける妹を見舞った帰り道、圭一は塔の影の下を通った。見上げるたび目を逸らしていたその灰色の壁が、今夜だけは違う意味を持って見えた。
あれは、いくら稼いでも届かないはずの金額を、一晩で運んでくる人間がいる場所だ。同時に、挑んだ十人のうち八人が、二度と地上に戻らない場所でもある。低い階でも油断は禁物だと、ニュースもよく言っていた。それでも今の圭一には、もう他に選べる道がなかった。
帰り道の路地で、雨に濡れた段ボールの下から鳴き声がした。痩せた野良猫が一匹、震えながらこちらを見上げている。圭一はコンビニの袋からパンの欠片を取り出して、その前にそっと置いた。猫が食べ始めるのを見届けてから、また歩き出す。誰の得にもならないことだと分かっていても、見過ごせない性分だけは、こんな時でも変わらないらしい。
塔の入り口には、いつも長い列ができている。借金を抱えた者、人生をやり直したい者、そして圭一のように、誰かのために大金が必要になった者。受付の職員は、淡々と注意事項を読み上げる。帰還率は二割。低層だからといって安全とは限らない。生命保険には加入できない。
それでも列は途切れない。圭一もまた、その列の最後尾に並んだ。
手続きを終え、巨大な門の前に立つと、内側から吹いてくる風には、湿った石と、もっと得体の知れない何かの匂いが混じっていた。
これから先に何が待っているのか、誰も保証してくれない。ただ確かなのは、ここで足を止めれば、妹を救う方法はもう残されていないということだけだった。
門の奥は、思っていたよりずっと暗い。
圭一は一度だけ深く息を吸って、その暗がりへ足を踏み出した。




