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それから、彼は少しずつ変わっていった。
私ではなく、よく、あの子の隣に立っていた。
公爵令嬢として舞踏会の主役を務めるはずの夜。
殿下の視線は、私をすり抜け、彼女へと向けられていた。
「男爵家のマリー嬢は、明るくて可愛らしいですね」
「あの子のように、素直に感情を表に出せる方も、貴族には珍しい」
私は笑って頷いた。
何も感じていないふりをして。
――でも、知っていた。
あの子の笑顔の裏にある計算も、泣き落としの手管も。
けれどそれを告げれば、「嫉妬しているのか」と言われるだろうことも、わかっていた。
「マリー嬢はとても繊細な方なのです」
「貴女の物言いは、彼女には少し……キツいのではありませんか?」
殿下はいつしか、私の言葉に眉をひそめるようになった。
それは、公の席でのやり取りだった。言葉選びに誤りはなかったと、自負している。
むしろ私のほうが、マリーの礼節のなさを糾す立場だったはずなのに。
「……申し訳ございません、殿下」
そう告げるしかなかった。
弁解は、わたくしの矜持にそぐわなかったから。
だけど心の奥で、冷たいひびがひとつ、確かに走った。
それは、春の祝宴の夜だった。
宮廷主催の小宴。王太子妃候補である私と、貴族令嬢たちを招いた和やかな場――のはずだった。
華やかに飾られた舞踏室。銀の食器に並ぶ精緻な料理。
けれど、マリーがグラスを取り落としたとき、空気は一変した。
「っ……く、るしい……!」
白い肌が蒼く染まり、マリーは胸を押さえて膝から崩れ落ちた。
一瞬、誰もが何が起きたのかわからず固まって――そして、ざわめきが走った。
「毒……?」
「まさか、毒が盛られていたのでは――」
その言葉が出た瞬間、皆の視線が私に集まった。
まるで、それが当然のように。
「マリー嬢を、医務官の元へ――!」
王太子殿下の叫び声とともに、数人の従者が彼女の身体を抱え上げた。
その声が震えていたのは、怒りか、恐怖か、それとも――愛情だったのか。
誰よりも冷静を装う殿下の姿が、そのときはやけに人間味を帯びて見えた。
その瞬間すら、私は蚊帳の外だった。
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さほど強い毒ではなかったのだろう。すぐに医師団が駆けつけ、数日の昏睡の末、命を取り留めたという。
その間、王太子殿下は彼女の寝台の傍らを離れなかった。
――と、臣下たちは噂した。
実際のところ、私がその場に立ち入れるはずもなく、真偽など知る由もない。
けれど、マリーが回復した翌日、殿下がその手を優しく取り、静かに微笑んだと聞いたとき、私はなぜか、胸の奥が鈍く疼いた。
「……殿下はとてもお優しい方ね」
侍女がそう口にしたとき、私は微笑むこともできなかった。
――あの微笑みは、私が一度も向けられたことのないものだった。
それでも、私は彼のそばにいて、共に未来を築くはずだったのに。
⸻
「これは、王太子妃の座を脅かされた嫉妬ではないかしら」
「先日も、マリー嬢に厳しく当たっていたと聞いているわ」
貴族令嬢たちの囁きが、壁に染みつくように拡がっていく。
あれほど築いてきた人間関係も、気づけば脆く崩れていた。
目が合えば逸らされ、口を開けば「ご機嫌よう」とだけ返される。
私は何もしていない。堂々としていなければならない。そう思ってはいるものの、悪意のある言葉は、私の心を容赦なく疲弊させていった。