後日譚 side アレクセイ
王宮は、今日も静かだった。
政務の合間にふと目を閉じれば、あの声が耳元で囁く。
「それが、殿下の答えなのですね」
彼女と交わした最後の言葉。
絹のように滑らかで、凛とした声。怒りも涙もなかった。ただ静かに、己の死を受け入れるような――それでいて、突き放すような口調だった。
エレオノーラ。
王妃となるはずだった令嬢。
誇り高く、気高く、誰よりも美しく――完璧だった。
……だからこそ、あのとき、彼女の存在が重かった。その完璧さは、まるで自分の未熟さを照らし出す鏡のようで、息苦しささえ感じていた。
マリーの甘やかな笑顔に、安らぎを覚えたのも事実だった。
わかりやすく好意を向けてくれる彼女は、エレオノーラと違って己を責め立てることなどなかったから。
だが、その安らぎは、エレオノーラの死とともに腐り始めた。
彼女がいなくなったあと、王宮の秩序は音もなく崩れ始めた。政務は滞り、会議は空転し、貴族たちは勝手に動き始めた。
気づけば、自分の手の届かぬ場所で、何かがどす黒く蠢いていた。
「エレオノーラが、すべて調整していたのか……」
そう気づいたときには、もう遅かった。
彼女の死によって浮かび上がる、彼女の存在の大きさ。
政務、礼節、貴族との調整、外交儀礼――すべてを完璧にこなしていた。
何一つとして、自分は彼女に感謝を伝えられなかった。
なのに、自分は、彼女を処刑したのだ。
「殿下、エレオノーラ様が毒を……」
嘘だった。
証拠も曖昧で、侍女の証言も偽りだった。
なのに、自分は信じることすらせず、全てを「正しい判断」として彼女に死を与えた。
「自らの手で、婚約者を殺した国王か……」
皮肉にも、即位はあまりに静かだった。民は彼女を惜しんだが、自分を責める声はなかった。
それがまた、恐ろしく思えた。
政敵は粛清した。
マリーを唆した貴族も、証言を偽った侍女も、すべて――消した。
マリーも、処刑した。あの涙も、震える声も、彼の耳には届かなかった。
それでも癒えることはなかった。
王太子――いや、今や王となったアレクセイの周囲からは、光が消えていった。
王妃の椅子は、いまだ空席のまま。
どれほど側近が婚姻を進言しようとも、彼は一度として耳を傾けなかった。
――その椅子は、エレオノーラのためだけにある。
誰にも触れさせず、誰にも近づけず、まるで聖域のように保たれた席。
彼女の死から何年が経とうとも、そこに別の誰かが座ることは許されなかった。
アレクセイは、毎夜ひとりきりで執務室の奥の部屋に籠もる。
そこには、等身大に描かれたエレオノーラの肖像画があった。
全てが明るみになった翌日から、城中の画家を総動員して描かせた。十数枚の習作の果てに完成したその絵は、まるでそこに彼女が立っているかのように精緻で、魂が宿っているようにすら見えた。
彼は、その前に椅子を据え、杯を傾ける。
「……今日も、国の連中はざわついていたよ。君がいた頃より、皆よく吠える。君の前では、皆猫のように大人しかったのにね」
そう呟き、微笑む。
視線は肖像画の瞳から離れない。
「エレオノーラ。君は、僕にとって、重すぎた。
君の完璧さが、君の聡明さが……僕を臆病にした。
だから……僕は、間違えた。致命的な選択を...」
杯の酒が揺れ、零れ落ちる。
けれど彼は気に留めない。ひざまずき、肖像画を抱きしめる。
「すべてを捧げれば、赦してくれるか?
この国を、君が夢見たとおりに保っている。
あのときの嘘を暴き、あの愚か者どもも、すべて粛清した。
なのに、君は……ここにはいない」
肖像の微笑みは変わらない。
だが、彼にはそれが時折、優しさに見え、あるいは哀れみに見え、時に冷たく見えた。
夜が更けるほどに、アレクセイの声は次第に震え、酒の匂いとともに狂気を孕んでいく。
「ねえ、返事をしてくれ。君がいないと、僕は……」
彼の横には、もはや誰も立たない。
彼が手に取る女性は誰もいない。
けれど彼は、それでよかった。
この痛みを、この喪失を、この孤独を、誰にも癒させない。
自分が犯した罪なのだから。
毎夜、肖像画に語りかけ、頬を寄せ、時に謝罪し、時に愛を囁く。
朝になると、その部屋の扉は固く閉ざされている。
誰も入ってはならぬ、“王の私室”。
中に何があるか、噂する者はいても、それを口にする者はいなかった。
なぜなら誰もが知っていたのだ。
――そこには、亡き婚約者の幽霊が住んでいる、と。
アレクセイは、それを否定しなかった。
むしろ望んでいた。幻でもいい、気配だけでもいい。
この胸に残る悔恨を、彼女とともに抱き続けたいと願ったのだ。
そして今夜もまた。
絵の中の彼女が微笑む。
彼は跪き、そっとその手を取ろうとして――何も掴めず現実を見る。
「……おやすみ、エレオノーラ。
来世があるなら、君が僕を処刑してくれ」
その声が、夜の帳に吸い込まれていった。
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