表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/23

19

「ただいま……」


 玄関のドアが閉まると同時に、家の中に静寂が戻った。

 蓮は靴を脱ぎ、無言のまま私の隣に並ぶ。


 心臓が落ち着かない。

 振り返ると、彼は笑っていた。けれど、その笑みはどこか、壊れそうに危うかった。


「リビング、行こうか」

 声は低く、笑っているはずなのに目だけが笑っていなかった。


 蓮はカバンをソファの脇に置き、コートを脱ぐと、そのまま私の向かいに腰を下ろした。

 沈黙が、空気を張り詰めさせる。


 私の指が、膝の上で落ち着きなく揺れた。


「……さっきのこと、怒ってる?」


 喉の奥から搾り出すように問いかけると、蓮は少しだけ目を伏せた。


「怒ってる……のかな。わからない」


 そして、ゆっくりと私の目を見て、続けた。


「でも、怖かったんだ」


「怖かった?」


「君が、誰かに奪われるかもしれないって思った。俺以外の誰かに、笑って、触れられて……優しくされるかもしれないって考えたら、頭の中が真っ白になった」


 その目は、静かに狂気を孕んでいた。



「蓮……」



「ごめんね。独占欲とか、束縛とか、そういう次元じゃないんだ。君のすべてが、俺の中に刻まれてしまってる。あの朝、目を覚ました君を見て、もう終わりだった」


 私の心臓が跳ねる。


「……瀬奈が倒れて、目覚めた朝のこと?」


「うん。あのときの君は、全然違って見えた。まるで——別人みたいに、強くて、誇り高くて、美しかった」


 息が詰まった。


「だから——ずっと、考えてた。君は、本当に瀬奈なのかって」


 蓮の声が、急に低くなる。


「君は、誰?」


 時間が止まったように、世界が静まる。


 私は、なにも答えられなかった。

 答えればすべてが壊れる。

 でも、何も言わなければ……蓮は、気づいたまま、何もかもを受け入れてしまう気がして怖かった。


 沈黙の中で、蓮がゆっくりと立ち上がった。

 私の前に膝をつき、手を伸ばし、指先で頬に触れる。


「……いいんだ。君が誰でも。以前の瀬奈でも、君でも。俺は——もう、どちらでもかまわない」


 その言葉は、優しさの皮を被った執着だった。


「君を失うくらいなら、たとえ名前も記憶も違っていたとしても、俺のそばにいればそれでいい」


「蓮……」


「もう誰にも渡さない。もう誰にも、近づけさせない。——どんな手を使ってでも」


 瞳の奥に潜む、底知れない影。


 怖い。

 でも、嬉しかった。

 その愛がどんなに歪んでいても、私の存在を肯定してくれるたった一人の人だから。



 ――「蓮……わたくしは、本当は」


 部屋の空気が、音もなく揺れた気がした。


 蓮の言葉が、まだ鼓膜に焼きついている。

「君が誰でもいい。もう誰にも君を渡さない」


 それは、優しさという名の檻。

 でも、あまりにも心地よくて、胸の奥が切なく軋んだ。


 自分は、瀬奈ではない。

 彼の知っていた“幼馴染”ではない。

 けれど、あの日目を覚ました瞬間から、彼は自分を愛してくれていた。


 その事実が、何よりも嬉しかった。


 だが同時に、自分は——



「蓮……」



 名前を呼んだ声が、かすかに震えていた。

 けれど、視線は真っすぐ彼を捉えていた。


「……わたくしは、本当は」


 言葉にした瞬間、喉の奥が詰まりそうになる。

 だが逃げない。逃げたくない。

 今だけは、何も偽らず、自分を曝け出したかった。


「“瀬奈”ではないの。わたくしの名は……エレオノーラ。別の世界で生きていた、貴族の娘でした」


 蓮の瞳が一瞬だけ揺れた。だが、言葉は挟まない。

 静かに、ただ聞いてくれている。

 その温度が、恐ろしいほど優しかった。


「気がついたらこの身体にいて……周囲は皆、“瀬奈”と呼んだ。記憶も言葉も、すべてが違う世界だった」


 自分の声が震えているのが分かる。

 でも、どうしても伝えたかった。

 たとえ信じてもらえなくても、蔑まれても、それでも——。


「あなたのことを“知らなかった”。最初は本当に……怖くて、戸惑ってばかりだったの」


 吐息のような声で、彼の目を見つめる。


「でも……あなたが毎日訪れてくれて、優しくしてくれて。

 その時間が、わたくしにとって“日常”になっていって……」


 唇を噛んだ。


「気づいたの。わたくし……あなたが好きだって」


 一瞬、世界が止まった気がした。


 心臓の鼓動だけが、うるさく響く。


「“瀬奈”としてではなく、わたくし“エレオノーラ”として、あなたに好かれたかった。

 あなたの隣にいてもいいって……そう思えるようになったの」


 そう言い終えたとき、もう何もかもを失っても悔いはないと思った。


 すべてを打ち明けた。

 真実を話した。

 偽りの自分を脱ぎ捨てた。


 ——あとは、彼がどう答えるかだけだった。


 蓮は、静かに立ち上がり、彼女の前まで歩み寄ってくる。

 その瞳に浮かぶものは、驚きでも困惑でもない。

 ただ、深く、燃えるような執着と情愛。


 彼の手が、そっとエレオノーラの頬に触れた。


「……やっぱり、君はあの時の君だった」


「え……?」


 蓮は微笑んだ。


「倒れて目覚めた瞬間、君の目がまったく違って見えた。強くて、凛としていて……俺は、その瞬間の君に恋をしたんだ」


 胸が軋むように締めつけられる。


「たとえ、君が“瀬奈”じゃなくてもいい。……ずっと、そう思ってた」


「蓮……」


「エレオノーラ。俺は君がいい。君じゃなきゃ、意味がない」


 そう言って、彼は彼女の額にそっと口づけた。

 まるで大切な宝物を扱うように、優しく、慎重に。


「だから、もう怖がらないで。……君は、ここにいていいんだよ」


 ——その言葉に、涙が堪えきれなかった。


 蓮の胸に顔を埋めると、ぽろぽろと涙が頬を伝って落ちていった。


 初めて、“エレオノーラ”として受け入れられた気がした。


 それは、救いだった。


 そして同時に、永遠を願ってしまいそうな、甘く危うい幸福だった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ