19
「ただいま……」
玄関のドアが閉まると同時に、家の中に静寂が戻った。
蓮は靴を脱ぎ、無言のまま私の隣に並ぶ。
心臓が落ち着かない。
振り返ると、彼は笑っていた。けれど、その笑みはどこか、壊れそうに危うかった。
「リビング、行こうか」
声は低く、笑っているはずなのに目だけが笑っていなかった。
蓮はカバンをソファの脇に置き、コートを脱ぐと、そのまま私の向かいに腰を下ろした。
沈黙が、空気を張り詰めさせる。
私の指が、膝の上で落ち着きなく揺れた。
「……さっきのこと、怒ってる?」
喉の奥から搾り出すように問いかけると、蓮は少しだけ目を伏せた。
「怒ってる……のかな。わからない」
そして、ゆっくりと私の目を見て、続けた。
「でも、怖かったんだ」
「怖かった?」
「君が、誰かに奪われるかもしれないって思った。俺以外の誰かに、笑って、触れられて……優しくされるかもしれないって考えたら、頭の中が真っ白になった」
その目は、静かに狂気を孕んでいた。
「蓮……」
「ごめんね。独占欲とか、束縛とか、そういう次元じゃないんだ。君のすべてが、俺の中に刻まれてしまってる。あの朝、目を覚ました君を見て、もう終わりだった」
私の心臓が跳ねる。
「……瀬奈が倒れて、目覚めた朝のこと?」
「うん。あのときの君は、全然違って見えた。まるで——別人みたいに、強くて、誇り高くて、美しかった」
息が詰まった。
「だから——ずっと、考えてた。君は、本当に瀬奈なのかって」
蓮の声が、急に低くなる。
「君は、誰?」
時間が止まったように、世界が静まる。
私は、なにも答えられなかった。
答えればすべてが壊れる。
でも、何も言わなければ……蓮は、気づいたまま、何もかもを受け入れてしまう気がして怖かった。
沈黙の中で、蓮がゆっくりと立ち上がった。
私の前に膝をつき、手を伸ばし、指先で頬に触れる。
「……いいんだ。君が誰でも。以前の瀬奈でも、君でも。俺は——もう、どちらでもかまわない」
その言葉は、優しさの皮を被った執着だった。
「君を失うくらいなら、たとえ名前も記憶も違っていたとしても、俺のそばにいればそれでいい」
「蓮……」
「もう誰にも渡さない。もう誰にも、近づけさせない。——どんな手を使ってでも」
瞳の奥に潜む、底知れない影。
怖い。
でも、嬉しかった。
その愛がどんなに歪んでいても、私の存在を肯定してくれるたった一人の人だから。
――「蓮……わたくしは、本当は」
部屋の空気が、音もなく揺れた気がした。
蓮の言葉が、まだ鼓膜に焼きついている。
「君が誰でもいい。もう誰にも君を渡さない」
それは、優しさという名の檻。
でも、あまりにも心地よくて、胸の奥が切なく軋んだ。
自分は、瀬奈ではない。
彼の知っていた“幼馴染”ではない。
けれど、あの日目を覚ました瞬間から、彼は自分を愛してくれていた。
その事実が、何よりも嬉しかった。
だが同時に、自分は——
「蓮……」
名前を呼んだ声が、かすかに震えていた。
けれど、視線は真っすぐ彼を捉えていた。
「……わたくしは、本当は」
言葉にした瞬間、喉の奥が詰まりそうになる。
だが逃げない。逃げたくない。
今だけは、何も偽らず、自分を曝け出したかった。
「“瀬奈”ではないの。わたくしの名は……エレオノーラ。別の世界で生きていた、貴族の娘でした」
蓮の瞳が一瞬だけ揺れた。だが、言葉は挟まない。
静かに、ただ聞いてくれている。
その温度が、恐ろしいほど優しかった。
「気がついたらこの身体にいて……周囲は皆、“瀬奈”と呼んだ。記憶も言葉も、すべてが違う世界だった」
自分の声が震えているのが分かる。
でも、どうしても伝えたかった。
たとえ信じてもらえなくても、蔑まれても、それでも——。
「あなたのことを“知らなかった”。最初は本当に……怖くて、戸惑ってばかりだったの」
吐息のような声で、彼の目を見つめる。
「でも……あなたが毎日訪れてくれて、優しくしてくれて。
その時間が、わたくしにとって“日常”になっていって……」
唇を噛んだ。
「気づいたの。わたくし……あなたが好きだって」
一瞬、世界が止まった気がした。
心臓の鼓動だけが、うるさく響く。
「“瀬奈”としてではなく、わたくし“エレオノーラ”として、あなたに好かれたかった。
あなたの隣にいてもいいって……そう思えるようになったの」
そう言い終えたとき、もう何もかもを失っても悔いはないと思った。
すべてを打ち明けた。
真実を話した。
偽りの自分を脱ぎ捨てた。
——あとは、彼がどう答えるかだけだった。
蓮は、静かに立ち上がり、彼女の前まで歩み寄ってくる。
その瞳に浮かぶものは、驚きでも困惑でもない。
ただ、深く、燃えるような執着と情愛。
彼の手が、そっとエレオノーラの頬に触れた。
「……やっぱり、君はあの時の君だった」
「え……?」
蓮は微笑んだ。
「倒れて目覚めた瞬間、君の目がまったく違って見えた。強くて、凛としていて……俺は、その瞬間の君に恋をしたんだ」
胸が軋むように締めつけられる。
「たとえ、君が“瀬奈”じゃなくてもいい。……ずっと、そう思ってた」
「蓮……」
「エレオノーラ。俺は君がいい。君じゃなきゃ、意味がない」
そう言って、彼は彼女の額にそっと口づけた。
まるで大切な宝物を扱うように、優しく、慎重に。
「だから、もう怖がらないで。……君は、ここにいていいんだよ」
——その言葉に、涙が堪えきれなかった。
蓮の胸に顔を埋めると、ぽろぽろと涙が頬を伝って落ちていった。
初めて、“エレオノーラ”として受け入れられた気がした。
それは、救いだった。
そして同時に、永遠を願ってしまいそうな、甘く危うい幸福だった。




